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俺は人間だ!!  作者: 野狐


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理不尽な神様

 夕暮れ時の交差点に、人だかりができていた。下校中の学生がほとんどで、歩行者用信号機の脇に横たわる『それ』を遠巻きにしながら、そのうち何人かはスマートフォンのカメラをためらいもなく向けていた。血の付いた車のドアにしがみつく老人が、震える声で周囲に向かって訴えた。

「ブレーキをずっと踏んでたのに車がいきなり……信号で止まってた間に足は踏み替えてないのに……!」

 老人の嘘偽り無いその言葉を信じる者は誰もいなかった。

 この出来事はメディアによってあっという間に日本中へと広まり、滝本倫太郎という名の高校生は「高齢者の暴走事故による新たな犠牲者」として全国から同情を集めることとなった。しかし、滝本倫太郎の物語はここで終わらない。これはただの幕間に過ぎず、この先に待ち受ける苦難を、彼はまだ何も知らなかった。


 夢の中で交通事故に遭ったことのある人間なら、きっと誰でも知っているだろう。衝撃の瞬間に全身が強張り、弾かれるように目が覚めるあの感覚を。まさにそれと同じだった。身体がびくりと硬直し、俯せになっていたテーブルから勢いよく顔を上げた。しかし目の前に広がっていたのは、倫太郎の知る現実ではなかった。

 鼻を突く濃い酒の匂い。耳障りな怒鳴り声と笑い声が混ざり合う喧騒。石造りの壁に燭台の火が揺れる、中世の宿場町から抜け出してきたような古風な酒場。そして正面の席に、腕を組んでこちらを眺めるスキンヘッドの西洋人男性が座っていた。四十代前半といったところか。両手の指にはゴテゴテとした銀や金の指輪がずらりと並び、人を食ったような薄い笑みを口元に浮かべている。目が合った瞬間、倫太郎は思わず息を呑んだ。

「おはよう、リンタロウ。ゆっくり眠れたかな?」

 状況を飲み込める余裕など、どこにもなかった。自分の常識からあまりにもかけ離れた光景を前に、脳が正常な処理を放棄しているようだった。

「分かるよ、君が混乱してるのは。さっきまで通学路を歩いてたのに、気づけばこんな酒場にいるんだ。誰だって同じ顔をする。そういう時に一番効くのは何だと思う? 強い酒さ。マリィさん、リブスキー産のワインを二杯」

 カウンターの奥で立ち働いていたふくよかな三十代女性が、柔らかな声で返事をした。

「彼女、美人だろう」

 男は倫太郎に目配せをした。倫太郎はもう一度女を見る。倫太郎の好みからは外れていたが、とりあえず小さく「まあ、はい」と頷いた。

「ここは俺のお気に入りの店でね。うるさい客も、薄汚れた内装も、特別美味くも不味くもない料理も、あの女将も、何もかもが俺の好みだ。リンタロウなら分かってくれると思うんだが、どうかな」

 女将が大きな腰をゆらりと揺らしながら、ワインのジョッキを二つ運んできた。

「では、乾杯」

 飲む気など微塵もなかった。しかし、目の前の男から滲み出る得体の知れない圧に、本能が逆らうことを禁じていた。倫太郎は渋々ジョッキを持ち上げ、ワインを口に含んだ。初めて口にする酒に喉は拒否反応を示し、危うく吐き出しそうになったが、意地で飲み下した。

「さて、落ち着いたかな。では本題に入ろう」

 男はジョッキをテーブルに置き、指輪だらけの手を胸の前で組んだ。

「君は不運にも、交通事故で死んだ」

「……はい?」

 唐突すぎて、間の抜けた返事しか出てこなかった。

「申し訳ない、私のミスだ。本来なら君は死ぬべきではなかった。君はーー」

「あー」

「……何か?」

 とんでもなく馬鹿馬鹿しい予感がして、変な笑いがこみ上げてきた。

「まさかとは思いますけど、神様とか名乗るつもりじゃないですよね?」

「ご明察。私はフェリックス・ドルビニー。こう見えて神だ」

「じゃあ次も当てますよ。私のミスで死なせてしまったから、お詫びに特別な力を与えて異世界に転生させてあげよう、って続くんでしょう?」

 フェリックスは声を上げて笑い、ワインを一口煽った。

「鋭いね。まったくその通りだよ。リンタロウなら喜んでくれると思ってた。君はそういう物語が好きなんだろう? 異世界に転生した主人公がチートな能力で無双する話とか。ちゃんとリサーチ済みだよ」

 倫太郎は顔を顰めた。

「馬鹿にしてます? 確かにそういうアニメは好んで見てますよ。最近よくある追放モノよりは、そっちの方が俺好みです。でも、俺は現実逃避がしたくてそれを見てるんじゃ無い。自分がファンタジー世界に行くなんてまっぴらごめんですよ」

 フェリックスは少しだけ意外そうな顔をし、それからまた笑った。

「なるほど、それは失礼した。ではこう考えてみてくれ。君は世界の主役にさえなれる。強大な力を手に入れ、広い世界を自由に生きる。力にものを言わせれば、君こそが法律となる。そういう可能性が目の前にあると言ったら?」

 倫太郎の懐疑的な目がフェリックスを睨む。

「あなたが神様だとして」

 倫太郎は言った。

「俺はあなたを信用していない。知り合ってまだ五分も経っていないのに、どう信じろと?」

 フェリックスはしばらく倫太郎を眺め、それから椅子の背にゆったりともたれかかった。

「正直だな。気に入った」

「気に入られても困ります。俺は帰りますよ。こんな馬鹿みたいなドッキリ企画に付き合う気はありません。どうせテレビか何かでしょ? 取れ高なくて残念でしたね」

 倫太郎は立ち上がり、出口を探して歩き始めた。その瞬間だった。

 瞬きひとつ分の間もなかった。歩き出したはずの倫太郎は、気づけばフェリックスの向かいの椅子に座っていた。

 倫太郎は混乱した。今起きたことの意味を理解しようとして、しかし理解が追いつかない。

「話は最後まで聞け、クソガキ」

 ちょうどそのタイミングで、女将が腰をゆらりと揺らしながらワインのジョッキを二つ運んできた。テーブルの上の飲みかけのジョッキはどこにも無い。数分前と全く同じ光景。まるで時間が巻き戻ったかのように。

「俺とお前の立場の違いを、まだ分かっていないらしい。最近の若い奴は怒鳴ると萎縮するばかりで何も頭に入らないそうだからな。優しい俺は怒鳴らないでいてやろう」

「ふざけるな、これは一体な――」

 倫太郎の声を遮るように、フェリックスが指を鳴らした。その瞬間、世界から音が消え、酒場のありとあらゆるものが静止した。倫太郎自身も、「あ」の形に開いた口のまま固まり、指一本動かせない。意識だけははっきりとしていた。だからこそ、自分が今どれほ異常な状況に置かれているかを、嫌というほど実感せざるを得なかった。

 フェリックスは席から立ち上がり、隣のテーブルに移動する。視界の端で、フェリックスがテーブルの上の何かを拾い上げるのが見えた。カチャリと金属音が鳴る。そして、それが視界に入る。肉料理の脂でぬらりと光る、銀色のナイフだった。それを倫太郎の目の前にゆっくりと差し出し、そのまま左耳に当てる。そして反対側の耳元で、静かに囁いた。

「俺は優しいから怒鳴らない」

 ナイフが引かれた瞬間、この世のものとは思えない激痛が走った。それなのに表情ひとつ変えられない。声ひとつ上げられない。汗の一滴もかけない。ゆっくりと、丁寧に、フェリックスはナイフを動かし続けた。気が狂いそうな痛みの中で、倫太郎はただ意識だけを保ち続けた。やがて左耳が完全に削ぎ落とされたところで、フェリックスは血まみれのナイフの面を倫太郎の額にそっと押し当て、低く言った。

「理解できたか? 俺とお前の、立場の違いというものを」

 また指が鳴った瞬間、倫太郎は絶叫した。反射的に左耳を押さえ、椅子から転げ落ちて床をのたうち回る。しかし、痛みはなかった。削ぎ落とされたはずの耳は、何事もなかったかのように元通りそこにある。周囲の誰一人として、倫太郎が叫んだことにすら気づいていない。

 床に寝転がったまま、倫太郎は血だらけのナイフを持つフェリックスを見上げた。恐怖で全身が震えている。それをフェリックスは静かに見下ろしていた。

「さて、リンタロウ。改めて聞こう。力を得て、新天地で生きてみたいか?」

 選択肢などなかった。倫太郎は震える唇を噛みしめ、頷いた。

「素晴らしい! 君にとって良い人生となるよう、心から祈ってるよ。また機会があれば会おう、リンタロウ」

 フェリックスは手を二度叩いた。その瞬間、倫太郎は深い闇の中へと引きずり込まれた。

 目が覚めた時、視界には積もった枯葉しか映っていなかった。身体が重く、平衡感覚が狂ったまま、天地の区別もろくについていない。気持ちが悪くて動けずにいると、一分ほどで少しだけ楽になってきた。重い瞼を開き、上体を起こして周囲を見渡すと、そこは真っ直ぐで背の高い木が並ぶ森の中だった。木の隙間から見える空はオレンジ色に染まっている。木と木の間隔はそこそこ広く、地面も比較的平らで、視界もある程度は確保されている。しかし今の倫太郎に、そんな冷静な観察をしている余裕はなかった。

 気がついたら見知らぬ森の中にいる。それだけでも十分すぎるほど恐ろしいのに、倫太郎はもっと根本的な違和感に気づいてしまった。頭の形がおかしい。手で触れて確かめようとして、手のひらが視界に入った瞬間、全身が石になったように固まった。

 目に映った手は、人間のものではなかった。記憶の中の自分の手の倍はある大きさで、灰色の毛に覆われ、手のひらには黒い肉球がある。これは自分の手ではない、そう思いたかったが、動かそうとすれば確かに動く。倫太郎は恐る恐る視線を足元へと向けた。灰色の毛に覆われた脚は記憶よりもはるかに太く、獣の後ろ脚と同じ形に変形していた。顔に触れると、髪の毛はなく柔らかい毛が顔全体を覆っていて、鼻と口は前に突き出し、唇は大きく横に裂けている。腰の少し下からは尻尾が伸びており、触れると自分のものだとはっきり分かる感覚が返ってきた。身体の大きさが変わりすぎたせいか、裂けた衣服の残骸が体に絡みついている。

 倫太郎は今、ウェアウルフのようなモンスターへと姿を変えてしまった。

 呆然としたままゆっくりと仰向けに倒れ、葉の隙間から空を見上げた。「夢だ」と口に出してみた。声は低く、野性的な響きがあった。

「目が覚めたらいつも通りの朝のはずだ。うるさい目覚ましが鳴って、二度寝して、母ちゃんに起こされて、弟と一緒に朝飯を食べる。そんな朝がくるはずなんだ」

 しかし、いくら待っても森は森のままで、空はゆっくりと暗くなっていくだけだった。

 日が沈むにつれて、感覚が研ぎ澄まされていくのが分かった。ピンと立った両耳が周囲の音を集め始める。コオロギの声、遠くで鳴く鳥、風に揺れる葉擦れの音。どれも以前なら意識すらしなかったはずの音が、くっきりと聞こえてくる。

 埒が明かない、と倫太郎は思った。このまま寝転がっていても何も変わらない。考えなければならないのは、これからどうするかだ。まず人のいる場所を探すべきだろう。そう思いかけて、すぐに却下した。この姿を人前に晒せばどうなるか、考えるまでもない。では、一人で生き延びられるか。金を稼いだことすらない自分が、誰の助けも借りずに生きていけるとは思えない。どこへ向かっても手詰まりだった。

 胃がキリキリと締め付けられてゆく。目には涙が浮かび始める。

 倫太郎は家族のことを思った。いつになっても帰らない倫太郎を、今頃どれほど心配しているだろう。それを想像した瞬間、胸の奥が痛くなった。絶対に元の姿で帰らなければならない。そのためにはまず、あの男に頼るしかなかった。

 倫太郎は両手と膝を地面につき、空を見上げて声を張り上げた。

「フェリックス! お願いです、俺を元の姿に戻してください! 元の世界に帰してください!!」

 声は森の中に広がり、そして消えた。返事はない。

「なんで……何か答えてくれよ……」

 やはり返事はなかった。倫太郎は込み上げてくるものを全て吐き出すように、力の限り叫んだ。叫びというより咆哮だった。拡声器を使ったかのような声が森全体の枝を揺らし、後に深い静寂が落ちた。

 倫太郎は項垂れたまま震えていた。そんな時だった。大きな耳がピクりと動き、かすかな足音を捉えた。

 一瞬で意識が現実へと引き戻された。音の方向は、二十メートルほど先の太い木の陰だ。人のひそひそ話が聞こえる。向こうはこちらに気づいている。倫太郎は慎重に考えた。この姿を見て驚いているだろうが、話し合えばきっと分かり合える。そう信じることにして、片膝を地面につけたまま両手を上げ、声を出した。

「驚かないで。俺は危害を加えるつもりはありません。話を聞いてください」

 声が届いた瞬間、ひそひそ話が止まった。しばらく待つ。なかなか出てこない。そう思った瞬間だった。二人の男が木陰から飛び出し、矢をつがえた弓を構えていた。

「は!?」

 倫太郎は無意識に両腕で顔を覆った。その直後、二本の矢が左前腕に突き刺さった。

「ぐっ! いてえっ……!! くそっ、何すんだ!!」

「×××××××××!」

「×××!!」

 全く聞いたこともない言葉だった。考えてみれば当然のことだった。ここはどう見ても日本ではない。日本語が通じるはずがなかった。

 二人は距離を保ちながら、もう一度矢をつがえた。この落ち着き、そして最初から急所を狙った射撃。たまたま居合わせた一般人などではない。モンスターを殺すことを仕事にしているハンターだと、直感で分かった。

 逃げなければと思った。二人が矢を放つのと同時に、倫太郎は膝立ちの姿勢から地面を蹴ろうとした。しかし獣のように変形した足は人間と勝手が違った。姿勢を変えた瞬間に足がもつれ、顔から地面に激突した。その直後に、一本の矢が脇腹に突き刺さった。

 痛みが脳を突き抜け、顔が青ざめる。内臓への怪我は致命傷になりえる。しかし、絶望している暇などない。

「くそったれ!! 死んでたまるか!! 動け俺の足!!」

 自分に喝を入れ、歯を食いしばって地面を蹴った。想像を遥かに超える急加速だった。次の瞬間には、ずっと向こうにあった木の幹に右肩をぶつけて地面を転がっていた。自分の脚力を完全に見誤っていた。一体どんな瞬発力をしているのか。これはもう人間の常識を超えている。制御なんて到底できない。しかしそんなことを考えている暇もなく、倫太郎は走るしかなかった。

 矢が耳元で風を切っても走った。そんな中、バチンという音と共に、緑色の光が視界をフラッシュのように照らした瞬間、何もなかったはずの場所に人が立っていた。木製の杖を持った茶色いローブの人物、一目で魔法使いだと確信した。ここは本当に、ファンタジーの世界だと実感せざるを得なかった。

「××××××……××××」

 再び走り出す俺の背後から女の声が聞こえた。何を言っているのか分からない。

 倫太郎は体をぶつけないよう速度を落としながら走り続けた。杖から青白い閃光が放たれる。それは胴体をかすめ、木の幹を深く抉った。もしあれが直撃したらと想像したくもない。矢の方がずっとマシだ。そう思った矢先、肩甲骨に矢が突き刺さった。それは人生で一度たりとも感じた事ない激痛だった。

「ぎゃああああっ!!」

 叫びながら地面を転がる。さっきの矢とは比べものにならない痛みだった。注射器で溶岩を流し込まれるような灼熱が、筋肉と骨を内側から焼いている。肉が焼ける匂いが鼻をつく。魔法をかけた矢なのだろか。もう何がなんだか分からない。それでも地を這うように逃げ続ける。

 しかし、虫の息の倫太郎の逃走はそう長く続かなかった。足元に着弾した緑色の閃光と共に、地面からツタが伸び、足首に絡みついた。ツタを千切ろうともがくが、引き剥がすそばからより太く、より複雑に巻き付いてきて、あっという間に全身の自由を奪われた。

「××!……××××!」

「×× ××××××××?」

 息を切らした弓使いと、杖を握る魔法使いが何かを話し合っている。倫太郎は全力でツタを引き千切り、拘束を解いた。しかしその直後、緑色の光が視界を塗りつぶし、意識が揺らいだ。途切れる寸前の意識の中、フェリックスの高笑いが聞こえたような気がした。

 作品を読んで頂きありがとうございます。拙い文章ではありましたが、読者の皆様に少しでも楽しんでいただけたらという思いで、長い間練った作品をやっと形にさせていただきました。

 この作品は毎日投稿していく予定です。20〜30話で完結するかなという計算で書かせてもらってます。

 いい意味で皆さんの予想を裏切れる作品にしていけたらなと考えていますので、感想や評価をいただければ、毎日投稿のモチベーションに繋がるので、どうか宜しくお願いします。

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