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夢現の圏士  作者: くろよ よのすけ
3章:赤蝕雷銅
21/21

赤雷の圏士


 それは、いつのことだったろうか。

 覚えていなくてすぐに忘れる夢の一幕。

 夢の中でしか回顧することのない、いつかの彼女の姿――。


『ねぇロスト、やりたいこととかぁ…やってみたいこととかないんです?』

『…………ないよ』


 おれ自身、その頃のことはあまり覚えていないのだけど。

そう、アイツが……たまには外でお弁当でも食べようと言い出して、木漏れ日の下にシートを広げて。ただただのんびりと時間が流れて行った。

 日が傾きかける頃まで、ずっと一人で楽しそうに喋っていたけど、おれがつまらなさそうに返事してるように見えたんだろうか。

 ふと、やりたいことなんてものを聞いてきて。おれは本当に何もなかったからそう答えた。


『ううむ、それは困りましたねぇ。ただでさえ無愛想なのにやりたいこともないとなるとワタシはとっても心配です。と、言うわけで――』

すると、わざとらしく眉間に指をあてて考え込む仕草を取ったかと思ったら、手をポンと叩いてニヤリと笑って見せた。

『……?』

 何を言い出すつもりだろうか。

 おれには何も分からなくてアイツの目を見つめるばかり。

『一つ、護らなきゃいけないものを決めましょう』

『まもらなきゃいけないもの?』

『ええ、そうです。今みたいにボーっとしてたら、いざって時にどうしていいか分からなくなっちゃうかもしれないでしょう? だあら一つ、大切なことを決めておけば、迷った時にもヘッチャラってわけですよぉ』


 へにゃへにゃと笑うアイツは馬鹿みたいに楽しそうで、でもほんの少しだけ、いつもと違うように見えた。


『だから…、ロスト。たった一つでいいんです。何もかもを一人でどうにかしようなんてそうは出来ませんし、そんなことしてたら頑固者のお馬鹿さんになっちゃいますからね』

『…………ん』

 そんなことを言いながら、今度はぎゅっと抱きしめられた。まるで顔を見られたくないかのように。

『だから、たった一つだけ。貴方が護るべきものを一つ、決めてしまいましょう』

『……ひとつ、じゃあ――』

 

 その時のおれの返事が何だったのかなんて考えるのも意味はないけど、アイツにとっては半分想像通りで、もう半分はその逆だ。

 抱きしめられていた身体をそっと離すと、今度は熱を測るみたいに額を合わせてきた。


『ふふ…っ、ホント、嫌でも似ちゃうんですね。頑固者のお馬鹿さん』

『それ…誰のこと言ってる?』

『誰でしょうねー? えへへ、それじゃあ今日は帰りましょう。日も落ちてきて、冷えてきちゃいました。……ロストは楽しかったですか?』

『……たぶん』

『それなら良かった。また、二人で来ましょうねっ』

 

 その時のアイツはいつもと変わらず楽しそうで、でも夕焼けのせいだったのかな。

 楽しそうにしてる分だけ、どこか悲し気にも見えたのは――。



  □ □ □



「ぐ…ぅ……っ、…ジャイロ…か……?」

「ロスト、よかった目が覚めたんだね」


 全身を襲う痛みで目を覚ますと、そこにはジャイロの横顔があった。助けに来てくれたのはどうやらコイツだったらしい。

 重い瞼を開けると、流れる景色と風からして走るジャイロに背負われた状態で運ばれてるみたいで、揺れるたびにカインに殴られた箇所が悲鳴を上げている。


「……アイツ、どこ行った」

「あの男なら今は――、アイリスさんが相手をしている」

「――なに…っ? 止まれ…ジャイロ、降ろしてくれ……っ」

「その身体で行ったところで足手まといになるだけだ。それに、彼女には奥の手があるみたいだった……。アイツの強さは正面から戦ったロストが一番分かってるだろう。ボクたちはアイリスさんに賭けるしかないんだ」

「そんなもん、…関係あるか……っ、いいから降ろせ…。一人でも行く――」

「背負われたまま動けない君がなにをどれだけ口にしてもボクは応じるつもりはないよ。……アイリスさんは大切な仲間だ、でも相手次第ではどうしようもないことだってある!」

「いい…から降ろせ、ジャイロ…」

「……ダメだ。助かる君まで死なせるわけにはいかない」

「ええ、残念ですが。アイリスはもう助からない」

「…貴方は?」


 思い詰めたような険しい表情を浮かべながら、立っていたのはキロクゼだった。キリエたちの姿はなくて、一人で待っていたのか。

 けど、そんなことはいい。それよりもキロクゼは何が起こるかを知っている。そうでなきゃ家族同様のアイリスをコイツが見捨てるなど想像できなかった。


「キロクゼ……どういう、ことだ」

「アイリスが具象契約を発動しました。僕達もここにとどまっていては命の危険がある。いや、もはや手遅れかもしれない」

「それはどういう、ことだ…っ」

「……時間がないので手短に。アイリスが灯日へ派遣されることとなった時、一つの条件が加えられました。それが具象契約の使用禁止、理由は一度発動した場合に周囲一帯を不毛の地へと変貌させ、さらに発動自体が止まらなければ被害が無限に広がりかねないからと判断されたからです」

「そんな、無限だなんて。いくら神々の力の具象とはいえ、限りはあるはず――」

「その通り、ですがそれがどういった意味を持つかは貴方がたならお分かりでしょう。『原型』の真価、代償契約とは即ち使用者である圏士の魂を燃料としているに等しい。いいえ、生贄とでもいう方が正確なのかもしれない……」


 代償契約は、発動によって使用者本人にとって何より大切なものをどうしようもない力で奪い去っていく。

 それでもなお、命を掛けて戦い続け。最後には何が残るというのか。

 もしもアイリスが、すでに代償を支払ったうえで、何も持ち得ない状況となれば最後に残るのは想像に難くない。あまりに強大な異能に釣り合う代償が得られないのであれば――。


「契約時の代償の喪失による転換…、つまりは払えないのならば命そのものを……ということか」

「ええ、そしてアイリスは命懸けで僕達を逃がそうとしている。そのためならば結果自分が命を落としても構わない。…そういう子なのですよ、彼女は」

「…………」

「そして具象契約の被害が間もなくここまで来ると?」

「時間がありません。彼女の能力は――。クソ…もうここまで」

 

 キロクゼが腕を払うと、小さな黒い点が地面に落ちる。

 それはまだピクピクと動いていたようだったが、その後に踏みつけられて完全につぶれてしまった。見間違いじゃなければアレは……蝿だ。

 夕闇色が地上に融け込み始め、夜が流れ込みだすかのように段々と空が黒く覆われ、日の光は遮られていく。

 違う、そうではない。これは夕焼けが夜へ移り変わるせいじゃない。

 

「この音、……これが全部、アイリスさんの能力によって生み出されたっていうのか?」

「急いで! ヤツらは近くにある生命であれば草木でも生物でも食い尽くします! 血の一滴でも残れば幸運だと思って!」


 微かに耳に届く低い振動のような音は虫の羽音であり、数十匹程度ではこれほどの音には到達しない。

そしてまばらに聞こえていたはずのその音は、倍々の速度で巨大な暴音へと変貌を遂げ、アイリスたちがいる方角に見える空は日の光も星の輝きも何もかも、ある一線を境界に遮断されたかのように黒く塗りつぶされていた。


「…………」


 ならば、考えるまでも無く。

 あれらの闇、その総てが蝿の群体、何をも喰らい尽くす生命に対する災害であり災厄そのものなのだ。


「走るよロスト、痛むだろうけど我慢し――」

「いや、…悪いな。我慢するの無理そうだから、やっぱ降りるよ」

「――っ、ロスト!」


 背負い直そうとしたジャイロの背を力一杯蹴り出してやる。アイツはおれを離すと、バランスを崩してたたらを踏んでいたが、キロクゼの近くで態勢を整える。


「そんな…っ、そんな身体で何ができるんだ。満足に歩くことも出来ないだろ!?」

「ちょっと寝たら治ったよ…。多分」

「馬鹿なこと言わないでくれ! ここでキミまで死んだらキリエも悲しませることになるんだぞ」

「……あー、そうかも…な。そん、時は…なんとか…うまいこと言っといてくれ」

「――――」

「はは…、悪いな色男。キロクゼ……、アイリスは、あの中心か?」

「……そのはずです。この虫たちは彼女から生み出されていますから」

「ん…分かった、何とか止めてくる…」

「待っ――」

 

 もう一度止めようと声を上げたジャイロだったが、背後からの攻撃に気を失っていた。その犯人は目を閉じ、険しかった表情へ苦悶を追加したような、失望と後悔に満ちた顔になっている。


「お前、そういうこと…やるんだな」

「彼は任せてください。決して死なせはさせない。必ず護り通します」

「…全員を助けたいって?」

「それは貴方も、同じでしょう。だから、アイリスを…お願いします……っ。彼女を、助けてあげてほしい」


 ああまでしっかりと頭を下げられると、なんだかやりにくい。

 なんとなく飄々としてる印象を持っていたけど、そんなヤツが全員助けたいなんて馬鹿なことを口にはしないか。


「ああ、…言われるまでも無い。……なぁ」

「……なんでしょうか」

「戻ったらさ、一緒に飯でもどうだ? アンタとは…それなりに仲良くやれそうだ」

「断る理由はありませんね。その時は――」

「ああ、アイリスも一緒だ」

「……、では」

「ああ」


 ジャイロを連れて走り去るキロクゼの背から目を離し、振り返った先はうごめく黒い闇の中心。時折、一際強くざわめくのはカインが中で暴れているんだろうか。

 アイリスの能力を止めてもアイツとの再戦が残っている。命がいくつあっても足りそうにないけど――。


「行かないわけには…いかねえか。…っ」


 治ってもない身体では駆け出すのもままならずに脇腹がひどく痛むが、それでも倒れていられない、止まってなどいられるはずがない。


「――待ってろ、アイリス」


 ここで足を止めるような人間が、他者を救うと口にするなど烏滸がましいにもほどがあるだろう。

 おれが護るべき一つのものを決めた時の、彼女の顔だけはよく覚えている。

 黄昏に包まれた中で楽し気で悲しそうに、でも嬉しそうに笑っていた”アリス“の姿を。


「全部護れば、……皆が助かるだろうが。なら、おれはそうなりたい…っ」

 その彼女が背を押してくれた夢を、大切な仲間を前にして自ら捨てるだなんて――。

「出来るわけが、無いだろうが……ッ!」


 一歩、また一歩と。その度に気を失いそうな痛みを抱えながらそれでも、圏士が止まることは無い。彼の背を押すものは記憶の中にある何にも代えがたい美しき思い出なのだから。

 


 □ □ □



 視界を覆う黒い嵐も、耳を潰しかねない狂音も、耐えられない理由はない。自身の使命を果たすためならば精神的な苦痛は耐えきって見せると。

 だが、肉体的な苦痛の前に彼女は地面にうずくまっていた。


「ふ……ふ――っ」


 呼吸が上手くできない。

 吸って吐くという行為へ拒絶反応が出てしまっているかのように、肺がいうことを聞いてくれていない。


「――っ…ぅぅ……」


 歯を食いしばりながら顔を上げた先では、血塗れになった右腕が地面に投げ出され、そこから壮絶な痛みが止むことなく尽きぬ波のごとく打寄せ続ける。

 そして、その傷はカインとの戦闘によって受けたものではなく、自らの内側から”食い破られた“もの。


「この虫ども、確かに厄介だ。熟達の戦士であろうとも数に押され、増殖速度の前に喰い尽くされる。その上――」


 波打つ黒い影がざわめく、その先ではカインが無限に等しい蝿を前に拳を振るい、アイリスの命を奪う瞬間を虎視眈々と狙っている。

 燃え盛るような激情は抑えられてはいるが、殺意は一切揺らぐことなくアイリスを捕らえて逃さない。

蝿もまたアイリスを護ろうとしているのか、ただ餌が欲しいだけなのか。意志を持った旋風のように襲い掛かっては放たれた拳の衝撃に巻き込まれては塵となって消えていく。

 それでも蝿の勢いは減ることなく、むしろ増殖速度は留まることなく上がり続けていた。


「こんな隠し玉を持っていたとはな。教戒め、厄介なものを抱えていたものだ、従わぬ者らを虫の餌にでもしようというのか? フハハ…! 面白い、ならば正面から打ち砕き撃滅するのみだ。そのためにも小娘、貴様はここで……死骸を晒してもらうぞ!!」


 この異能が『原型』を介して発動している以上、発動者であるアイリスを殺してしまえば蝿の群勢も消滅するだろう。

 だが、何もかもを拳で撃ち砕き、神威を消滅させる異能を持つ男を以てして、なぜ行動が制限されているのか。


「貴様に付けられた傷、あれが“印”であり同調だったというわけか。おかげでおちおちと近づけんなあ!」


 アイリスに付けられた傷痕、それ自体は大したものではない。力を込めれば血は止まり傷も塞がる程度、軽傷とすらいえない傷未満。

 しかし、今まさにカインの周囲を埋め尽くす蝿の群れはその傷痕から生みだされている。より具体的に言うのならば――。


「傷口に卵を産み付けたようなものか。生まれては産み、更なる増殖のために宿主を喰らい尽くそうとする」


 一匹一匹は小さくとも、契約によって生み出された存在に変わりはない。

 微弱な神威を宿した蝿たちは人の肉を食いちぎるなど訳なくこなし、骨さえ抵抗なく噛み砕ける。――その小さな怪物たちが自らの身体から止まることなく生まれてくるのだ。

 カインの様な強靭な肉体と塵威が無ければ瞬く間に腕は喰い尽くされ、ものの数分で命を落としているのは間違いない。

 能力を止めるためにはアイリスの殺害が必須だが。この蝿はアイリスへ近づけば近づくほどに生まれる速度が跳ね上がる。

 時間経過による速度上昇の比を超え、まさに別次元に至っている。


(……察しが、いい…、初めて見るはずの能力に対して、ここまで……理解するなんて)


 この蝿たちはどこから生まれてきたのか。カインの腕の傷だろうか、神威によって無から生み出されたのか、いいやそうではない。

 投げ出され、内側を晒しながら鮮血に染まるアイリスの腕。その最も深い傷の位置はカインに付けられた傷とほぼ同じだった。

 ……これは贄だ。他者へと付けた“印”と同調して自らに刻まれる供物の証。


「く…ァァ……ッ…」


 アイリスの具象契約『墜主魔群、万象喰らう蝿の(ベルゼブブ・ダスト)』は、発動と共に自らの『原型』によって傷つけた相手と同じ位置に傷が生み出され、そこから一匹目の蝿が生み落とされる。

 宿主であるアイリスの肉体を喰らい生みつけられた卵から蝿は増加、“印”である傷をつけた標的の傷口からも蝿が発生し、最終的には周囲の命を巻き込みながら対象を殲滅する。

 そしてその間、能力の発動を行ったアイリスには止まることのない苦痛が与えられ、蝿たちは自らの消滅を逃れるためにアイリスの命を護ろうとする。

 それが更に宿主を苦しめることなど、彼らには関係のない話なのだから。



  □ □ □



(闇雲に近づけば腕の一本は持っていかれるな)


 肉体からは圧倒的な圧力、塵威を放ちながらも、冷静な思考はこのままアイリスへ攻撃を仕掛けた場合に起きる自身への被害を叩きだす。

 全身全霊を以ての一撃であろうと、それ以上に蝿の増殖が上回る。拳が無くなろうとも攻撃の余波でアイリスを殺し切る確信はあった。

 しかしそれだけだ。腕を失う事に変わりなく、それで得られる成果はこの能力を扱いきれないままにもがき苦しんでいる小娘のみ。


 それではつまらない。

 まさか奴らに対して苦戦させられるなど、想像だにしていなかった事態だ。

 雷環の器であるロスト・ヘリオールならばと期待していたが結果はあのザマだ。光るものはあったが、所詮は代替やはり本物ではないということか。

 あの場で立ち上がることができないのであれば、所詮はその程度の器だったということ。あの詐欺師の口車に乗ってやったというのにこれでは、不完全燃焼にもほどがある。


(そしてあの小娘、どう始末をつけたものか)


 塵威による攻防一体の肉体であろうとも、物理的なダメージを完全に防ぐことは出来ない。痛みは耐えれば済む話だが、このまま距離を取り続けていようとも肉体を喰い尽くされることは間違いない。

近づけばその分、蝿は活発化し増殖速度も跳ね上がる。この俺の肉体であっても例外ではなく、小娘が自然死することを待つつもりなど毛頭ない。

 確実に、この拳でとどめを刺す。

 ならばどうするか。

 この身には飛び道具など存在せず、塵威は肉体を離れることはしない。これはあくまで俺自身の力だからだ。何者にも邪魔されず、邪魔する者を黙らせるための、俺だけの力だ。


「小娘、死への覚悟を抱いたことはあるか」


 やるべきことは決まった。第一、考える必要などなかったのかもしれない。


「……この命…は、日々を生きる人たちに捧げたもの…っ、それはこの力を得た時から…! 変わりはしない……!」


 蝿の群れで小娘自身の姿を目にすることは出来ない。だが、耐えがたき苦しみの中で己を見失うことはせず、眼前の敵から目を離すこともしない。

 そうだ、その意志だ。

 勝てないから戦わないなど笑止千万。

 どのような逆境であろうとも命を燃やし、灰塵と化すまで止まることなく死ぬまで戦うと決めた意志を持つ者こそが戦う相手にふさわしい。

 俺の拳を、塵威を、死への手向けとしてその身に刻め。

 

「抗う姿を見せた貴様を前にして、全霊で挑まないという失態をおかしそうになった俺を許せ。覚悟がある、か……ハ、ハハハハッッ! ならばよし、悔いはあるまい! 敵が誰であろうとも関係はない、持ち得る総てを以て勝利する。己が身を犠牲にする覚悟は買おう! だが、しかし、俺の前ではどのような神の御業であろうと、この拳で撃ち砕くのみだアァァ!!」

「――っ…。ベルゼブブ!! ―――ッぅぅぅ…!!?」

 

 ざわめきは黒い嵐から変貌し、津波となって俺を呑み込もうと波打つ。限界を超えての能力発動、自分自身の肉体をさらなる供物として蝿どもを強化したのだろう。

 だが、それがなんだという――。


「シィァアア!!」


 藍く鎮めた意識は刹那に赫く染め上げられる。

燃え上がる闘志は漏れ出した呼気を灼熱の炎風と変貌させる。

塵威の放出とともに大きく飛び退いた先の大地は着地とともに大きく罅割れ、右腕の内に身を潜めた蝿や卵さえも異物として除去しきった。


「これが、俺から貴様に送る全霊だ。心して受け取るがいい……!!」


 姿勢を低く左拳を地面へと突き出した姿は、捕食者が獲物へと襲い掛かる寸前。


「貴様に近づくだけで死が加速するというのなら、俺は更に速く待ち構える死さえも振り切ろう! 嵐も波濤も何もかも! 俺の前ではそよ風にすら劣るのだと! 迫る死の姿とともにィ……ッ、知るがいいッ!!」


 音と衝撃を置き去りに、黒き嵐へと身を奔らせる。

 周囲の景色などどうでもいい。今この瞬間、必要な情報は貴様の位置のみ。だが、ああ分かるぞ小娘、貴様の魂の拍動が手に取る様に把握できるぞ。

 眼前全てを覆い尽くす蝿の大群のその先、痛みを堪え苦しみ汚泥、その渦中に在るというのに。いいや、その中にあるからこそどこまでも気高く、高潔な意志のままに脅威へと挑んでいるのか。


「ああ――」


 思わず息が漏れた。殺すのが惜しいと思わず感じてしまうほど、その気高き意志は現実に広がる黒とは真逆の美しさを帯びている。


「――しかし、この身はとうに放たれた。止まる理由は微塵も無し!!」


 右腕の傷痕に巣食う蝿どもは駆除したが、近づいただけで再誕し増殖する。疼きは痛みへと変貌し、眼にもとまらぬ速さで腕を覆い始めた。

 この速度でさえ間に合わないというのか。いいぞ、実に面白い。

上腕が削られる感覚が襲い、肉が削ぎ落ちるかのようだ。あと数歩先にいる小娘にすらたどり着けないのではないかという狂った暴食性。


「ククク…ッ」


それがどうした、間に合わないというのならより速く足を前に出せばいい。所詮は虫、俺の握り固めた拳の前には何もかもが塵と化す。

その前には何を差し出そうが障害の一つにもなりはせんのだ――!!


「これで終いだ、小娘ェ!!」


 狂風は幾重にも重なった黒き暴風を踏破し、勝利の証を今こそ打ち立てんと最後の障壁を眼前に叫びを上げる。


「―――」


 だが、最後の障壁は突破する前に霧散した。

 俺の攻撃によるものではなく、小娘の死が引き金になったものでもない。苦しみに耐えかねて死を受け入れたのかと失望がよぎったが、そうではない。

 小娘は涙で頬を濡らしながら、静かな寝息を立てて眠りについていたのだから。


「よぉ……」


 僅かに残された夕日が差し込み、蝿どもが塵となって夜へと消え去っていく中で、一際輝くのは“赤き雷”。


「――ッ」


 瞬間、狙いを切り替えた大地を叩き割る力を込めた拳は、一切の予断なくためらいもなく確固たる手応えを残した。

立ち塞がる圏士ごと大地を砕き、衝撃が天を衝く。余波のみで凡百の戦士を残さず消し去る力を持った自慢の拳は――、“赤雷が迸る黒刀”に受け止められていた。


「敗者が立ち上がったか?」


 声には思わず喜びが混じりこむ、万全の状態であったはずだった先刻でも、光る部分を見せていようが満足には遠かった。

 だが今、目の前に立っている血塗れの、吹けば飛ぶような枯れ木を思わせるほどにボロボロだというのに。


「……、もう一回いいか…?」

「ハハハ……、無論ッ」


 その身は俺の拳を受け止め、肉体のどこも吹き飛んでいない。あまつさえ死に体だというのに、俺の拳を押し返そうとさえしてきているのだ。

 これほど、心躍ることがあるか?


「叩っ斬る…っ」


 剥き出した歯の隙間から血を流しながら、怒りとともに刃を振るう。

 切れの増した一撃を境に、互いに距離を取り再度構え直すと、あることに気が付いた。


「――ほう」


 蝿の暴食によって右腕を赤く染める血とは別に、新たな切り傷ができていたのだ。これもまた、先刻の戦いでは具象契約を以てしても実現しなかった勝利への足掛かり。

 これで一つ、奴には俺に勝利するという可能性が生まれたのだ。与えられただけの力ではなく自らの道を征き、勝ち目の無かった相手であれ命の獲り合いになる土壌が整いつつある。いいや、駆けあがってきている。


「ならば俺もまた貴様の姿勢に向き合おう。俺を斬るだと? ククク、できるものならやってみろ」


 整いつつあるのではなくすでに整っているのだと、俺自身の認識をより高い領域へと引き上げなければ死を招く。

 

「――命と意志を掛けて挑んで来い」


 さあ貴様自身の力を見せてみろ、雷環の器、若き圏士。これより先、俺に失望させることは何があろうと許さん。

『穢れ』も圏士も、まだ見ぬ世界の誰もかもを討ち果たし勝利する。

絶対最強は俺なのだと、灰塵だけが残った世界で一人、高らかに謳う。


「何もかもを救うというのなら打倒して見せろ。俺が全霊を掛けてさえ勝利できない絶対的な強者であると証明して見せろ。それこそが俺にとっての救済だからな。だが、ああそうだ意味はないな、何故ならば……勝つのは、俺だからなぁ!!」


 天上天下一切無双、俺の前に立つ何物をも打ち砕き、神羅万象まるごと総ての頂点に立つ。

 その結末に立ち塞がる者もまた唯一絶対の例外無く、俺の拳を以て討ち果たすのだ。



  □ □ □



「これが…アイリスの――」


 身体の痛みを忘れそうになるくらい、新たな痛みが上書きし続けてくる。

 そんな中でようやくたどり着いた黒い嵐の外縁部、羽音のみで空気を震わせ、これこそが一つの巨大な生命体に見えてくる。

 蝿の大群によって生み出された黒い嵐は地上の一切を喰い尽くそうと氾がり続け、このままじゃ取り返しのつかない事態になる。

 

「……邪魔するな」


 奴らにとってはおれも一つの食い物にしか過ぎないんだろう。

 近づいただけで瞬く間に群がられ、体に止まった端から本来あるはずのない牙を突き立ててくる。


「っ、……略式」 


 その度、体に雷撃を流して落としていくが、嵐を形成するほどの量を前にしては意味がない。この嵐の中心で戦っているアイリスを助け出さない限りいつまでもこのままだ。

 幸いなのかどうなのか、群がっては来るが一瞬で喰い尽くされることは無い。

 それはアイリスがおれを敵と認識していないからなのか、嵐の向こう側からでも伝わってくる衝撃波の主であるカインを危険な存在と認識しているからなのかは分からない。

 けど、おれにとっては都合がよかった。

 雷撃を纏いながら嵐の中に足を踏み入れると、前の見えない闇の中を感覚だけを頼りに進んでいく。


「アイリス――っ」


 口元を抑えながら名を呼ぶが、世界を埋め尽くす羽音の前には意味はない。だがそれでも名を呼ぶことを止めはしない。例えアイツが、おれがやってくることを拒んでいても、それでも此処に来ない理由にはならない。


「助けに来たぞ!」


 けれど、どれほど声を上げてもアイリスからの返事はない。方向感覚も消え去った暴音の中では平衡感覚でさえ破壊されてしまう。

 足を動かしているのに前に進んでいるのかすら分からなくなって、膝をつきそうになったその時――。


「――い――ん……」

「…っ、アイリス…、アイリスそこにいるのか!?」


 微かにだが少女の声が耳に届いた。

 この醜悪な、彼女に似つかわしくない悪夢の世界の中だからこそ、本来目立つことのない清廉さが一際輝いて映る。

 わずかな手掛かりを頼りにたどり着いた中心、台風の目。そこには闇の中でさえ目に映える白い外套を纏ったアイリスが倒れていた。


「アイリス! …これは……」


 駆け寄って最初に目についたのは、右腕の傷の内側から蝿が留まることなく這い出して来るおぞましい光景。その度にアイリスは身体を震わせ痛みに苦しんでいる。もはや意識があるのかどうかすら分からないほどに。


「目を覚ましてくれ…」


 上半身を抱き起し、無事な方の手を握りながら声を掛ける。光の無い瞳は虚ろにどこかを見つめながら、乾いた唇を僅かに動かし続けていた。


「…どうした、なにか…言ってるのか……?」

「………に、…い………ん」


 ゆっくりと口元に耳を近づけるが、消え入るような声は蝿の羽音に掻き消されてしまってハッキリと意味を聞き取ることができない。


「アイリス、聞こえるか…? おれだ、…返事をしてくれ……アイリス…っ」


 無事な方の左手を力強く握り、おれの存在を伝えようと声を掛け続ける。嵐の向こうではカインの攻撃によって蝿たちがざわめき、より多くの蝿が向かっているように見えた。


「……ぁ…、ろ……すと…」

「アイリスっ、そうだ助けにきた…、早く具象契約を解け、これ以上はお前が耐えきれない」

「……わたし…、産まれなかった方がよかった……?」

「アイリス? どうしたんだ急にそんなこと――」


 満足に舌が回っていない状態のアイリスは、不思議なことを聞いてきた。普段は口にすることのない自問自答が、心身ともに弱ったせいで出てきてしまったのか。

 これがアイリスにとっての本音なのかどうなのかはおれには分からない。だけど、彼女がそんなことを思っていたなら、おれは正面から認めるわけにはいかない。

 握った手の力を少し緩めると、傷つけてしまわない様に繋ぎ直す。


「いいや、そんなことないよアイリス。今だって皆のために頑張ってるじゃないか。そんなことができる人間が、産まれてこなかった方がよかったなんてあるわけない。…嫌なことを言ってくるヤツがいたのか?」

「…ろすと、………わたし、は…こんなに……みにくい、の…、みんながこわがって……」

 大粒の涙がこぼれ、痛みに顔をゆがめる。

キロクゼの言った通りならこの具象契約は確かに危険なものだ。おれが中に入って生きていられるのもカインという規格外に手を焼いているからこそ。

「……そっか」

 思い返せば、初めて会った時からアイリスは自分を卑下することが多かった。それがこの力のせいだったのだということが、苦しむ彼女の姿を前にしてようやく分かった。

「う…ぅ…っ、痛…いの。わたしもこわ――、っ……」

「大丈夫だアイリス。だいじょうぶ」

 冷たくなった身体を抱き寄せて、背中をさすりながら落ち着かせる。

「アイリスは真面目で、皆のことを一番に考えてくれてるから自分から言えなかったんだよな。ずっと我慢しててさ、そんな自覚も無かったのかもしれないけど…。でもおれは、アイリスがいてくれてよかった。もしもそんなこと言ってくるヤツがいたらぶん殴ってやる」

「……、むかし、おなじこと……いって、くれ……て………」

「うん? そんなこと言ったかな…。でも安心してくれアイリス。皆のところに帰ろう、一緒に。お前を傷つけるようなヤツはおれが倒してやるから。今は力を抜いて、ゆっくり眠るんだ。次に目が覚めた時には、怖いことはどっか行ってるさ」


『ほら寝てろ、怖い夢なんて――――が、吹っ飛ばしてやるからさ――』

「―――――うん」

「いい子だな。…なんて言ってたら子ども扱い過ぎるかな」


 繋いだ手の力もゆっくりと抜けていく。右腕からも蝿はもう現れないことを確認して、傷つけないように寝かせ、上着を頭の下に敷いておく。


「さて、と…だ」


 静かに寝息を立て始めたアイリスの頬を伝う涙を拭うと、向こう側で咆哮を上げる男へ向かって『原型』を抜き放つと、傍に立つのは『代行者』。


「アイリスがアイツに傷をつけた。ヴァジュラでも傷一つつかなかったのにだ」

『はい、そのようです』

「塵威は神威を否定する」

『彼の戦士を打倒するには代償契約によって生み出された能力では意味をなさないかと』

「そうか、ああでも――」

『……我が主』

「……ん?」

『私は、どのような時でも貴方のお傍に。どの様な窮地でも、力を求めるというのならこの身を神の雷に捧げましょう』


 彼女は三歩引いた位置で目を伏せながら進言する。


『どうか、怒りを抑えつけないでください。……かつて、私を振るったお方は常に怒りの中で生きていました。ソレは戦士にとって何よりも重要な原動力です』

「はは…アイリスには伝わらない様に頑張ってたんだけど……やっぱりアンタには分かるんだな」

『……代行者の身分で過ぎたことを口にしました。我が主、決して諦めることなきよう。決して、貴方の心を否定しないよう。私から貴方に願うことはそれだけです』

「うん…ありがとう。あーじゃあ契約の方は任せるよ。だからそのさ……」

『では失礼いたします、我が主。どうか、ご武運を』

 

 気を使って姿を消す『代行者』。彼女の気遣いにはいつも助けられていると、その度に思わされる。


「ふぅー」


 ああそうだよな、バレないわけないよな。アンタが宿ってる『原型』を握る力が馬鹿みたいに入ってたんだから。鞘なんて割れて刃の部分が見えちまってるし、心配性のアンタが気づけないわけがなかった。

 アイリスの前では何とか抑え込んでたけど、いい加減にもう無理だ。痛みなんかどっか行っちまったのかってくらい体が熱く燃えている。


「どいつもこいつも、勝手しやがって。人の命を何だと思ってやがる……ッ」


 それはエウリナを死地に向かわせたサガであり、理由も意味不明に襲い掛かって来たカインもそうだ。

何故、ただ自分の意思を認めてほしいだけの少女が、気まぐれな嘘のせいで分不相応な脅威の前に放り出されなければならないのか。

 何故、誰も彼もを救うことのできる力をその身に宿しながら自分の野望のためにしか使えないのか。


「なんで、人を助けるために戦ったアイリスが涙を流さなきゃならないッ!!」


 報われるべきだろう、称えられてもいいだろう。

 だというのに、苦しんで悲しんでいる彼女を救うことのできないおれ自身が、あまりにも不甲斐なく情けない。――許せるわけがないだろうそんなこと。


「代償契約…ッ」


 この身を突き破らんと迸る赤い雷、触れた端から地面も蝿共も爆散する様は、神威そのものに宿る破壊力が感情に呼応するかのようだ。

 何もかもを触れた端から破壊するカインの拳と同等の神威はしかし、塵威の前では意味をなさない。

 止まるわけにはいかない

 彼女は、怒りを抑える必要はないといったけど、それじゃあ勝てないのはわかってる。ただ怒り任せに神威を放とうがカインの前では意味をなさないのだから。

 更なる力を、拳より速く、正面から打ち破ることのできる全身全霊でなければ勝機は無い。

だが足りない。……そして、足りないのなら持ってくるしかないだろう…!


(具象契約、ヴァジュラじゃダメだ。神威の刃ではヤツに傷をつけることは出来なかった)


 必要な物は純粋な破壊力、この手で、この刃で物理的に斬り捨てるしか道はない。

 ゆえに――、神話の力の具象でも再現でもない。

 だからこの力には名など無い。

やってることは肉体強化でしかなく、略式契約の延長線上に他ならない。

ただ一つ、異なる点があるのなら。


「代償を此処に…!」


 代償を支払っての契約だということ。

 具象契約ほどの力は得られない。代償を支払うに値するほどではない強化なのかもしれない。だが、今この瞬間に護るべきもののために、我が身可愛さで戦うことも出来ないような人間に、おれはなるつもりはない!!


 怒りは抑えることはせず、しかし込めるのはこの身と刃の内へ。

 アイリスの気絶と共に霧散しているものの、最後に残った蝿の障壁を切り拓くように軽く黒刀を片手で振り下ろす。

 拓かれた夜闇と共に迫る赤き髪の偉丈夫の拳を正面から受け止める。


「よぉ……」


 受け止めた腕ごと吹き飛ばされたかと思ったが、我ながらなんとかしぶとく生きている。

「――ッ」


目の前で僅かに見開いた目はヤツにとっても信じられない現実ということか。

 だが、その驚きもすぐさま歓喜に上書きされる。まだやれるはずだと、その先を見せてみろと言外に語っているのだから。


「敗者が立ち上がったか?」

「……」


 返事をしようと口を開こうとして、体の何処かが悲鳴を上げた。閉じているはずの口から血の塊がこぼれだす。

 知ったことか、そんな情報は後でいい。今はただ怒りを焚べ続けろ、どちらかが死に至るその瞬間までこの身は戦い続けることが出来なければ勝機の一つを勝ち取ることさえ出来ないから。

 ――ああだから、やろう。


「もう一回いいか…?」

「ハハハ…ッ、無論だ」


 どこまでも楽しそうに笑う男を前に、湧きあがるのは喜びなんかじゃなく怒りだけ。どこまでも理不尽な力を振るうだけのお前を、許せるわけが無いだろうが。


「叩っ斬る…っ」

「――ほう」


 感じる神威の奔流とは真逆に、静寂が支配する中で対峙する。

 カインは怒りを真正面から受け止めながら腕を大きく広げ、かかって来いと己が存在を主張する。


「ならば俺もまた、より高みへと至ろう。俺を斬るだと? ククク、できるものならやってみろ。――命を掛けて挑んで来い。……勝つのは俺だがなぁ!!」

「……ッ」

「クク――」

「ハアア!!」

「フンッ!!」


 再度始まった正面からの衝突は刃と拳が打ち合い拮抗する中で、一撃喰らえば終わるカインの剛腕による猛攻を防ぎながら、隙を狙って刃を振るう。

 だがそれでも、獣の如き豪快さの中には過去より積み上げられてきた、武術の型のような確かな人の業が織り込まれている。


「なんだどうした! 力を示しに来たのだろう! ただ数度の打ち合いで動きが鈍くなってきているぞォ!!」

「ッヅ――ゥ…! ァアアアア!!」


 ひと際力のこもった正拳に吹き飛ばされる。

着地した先には既にカインが待ち構え、一呼吸置くことすらなく攻防は速度を増し続けながら交差する。


(まだ…遅い――!)


 肉体へ掛ける神威がまだ足りない。刃を振るう速度があまりに遅い。もっとだ、稲光の速度でさえ圧倒には遠いこの男を斬るにはどこまで行ってもまだ足りない。


「ッぅ…ッ、ガ――あああ!」

「そうだそれでいい! 次は更に強くいくぞ!!」


 戦いに対して真剣なカインだが実質のところはまだ全力とは違う。深い断崖に等しい実力差の前では、頭でどう認識していても油断や侮りは生まれる。

その上、誰をも一撃で殺し切ってしまうヤツにとって二度目の挑戦者自体が類稀な存在。

なら、おれにできるのはその隙を、決定的な刹那を見極めて仕留めること。

 だからまだだ、まだ足りない。カインの速度に追いすがるのがやっとな今では刹那をつかみ取るなど出来はしない。


「フッ…!!」

「ハア!!」


 足を止める間もなく地上を駆けながら、留まることなく強さを増し続ける猛攻を寸でのところで捌き続ける。鍔迫り合いが発生し目の前には歯を剥き出しに笑うカインの姿。


「具象契約では無駄だと判断し、基礎能力の底上げに徹したか。ハハッ、貴様のソレは悪くない! 俺の拳に傷をつける奴は久方ぶりだからなあ!」

「…ざけたこと言ってねえで――ッ、とっとと斬られろ!」

「ハハハ、中々に心躍る。これまで戦ってきたことのある圏士はどいつもこいつも具象契約のためにしか代償を支払う事が出来ない臆病者だった。目の前の障害一つ取り除くために命を掛けられない奴らばかりかと思っていたが!!」

「グ…グぅ……っ!!」


 どれだけ肉体を強化しようが、やはり純粋な力勝負では押し切られる。

 身体が動くうちに致命傷を与えて逆転しなければ、時間が掛かるほどにおれの勝機は万に一つ、億に一つと加速度的に遠くなっていく。

 

「その『原型』も、内側は空洞だな! 斬り合いのために神威へと変換したか!? ハハハハ面白い、神話の再現ではなく、ただ肉体的な強化のために己が最も度し難い自我を犠牲にするとはな!」

「おま―えには……ッ、かんけえ――ねエ!!」


 物理的な攻撃でしか傷を与えられないカインに対しておれの具象契約は無意味だ。ヴァジュラ以外の応用も出来ないおれじゃ、肉体そのものを強化して戦うことしか手は思いつかなかった。

 略式による強化じゃ全然足りない。天の上に立つ、次元が違う相手に背伸びではどうやっても届かない。代償を消費したことによる具象契約時に匹敵する膂力を以て、黒刀として『原型』を振るうことでカインに追いすがってはいるが、どこまで行ってもジリ貧だ。


「そぅらどうしたァ!」

「――ハ…ァ!! アアアアア!!」


湧きあがる怒りはいまだとめどなく、だが痛みを無視できなくなってきている。

 腕を振るう度、折れた骨が身体の深く、より深くへと突き刺さっていく感覚、激痛だけで死んでしまいそうだ。

 カインの拳を防ぐ度、受け流し切れない衝撃波が全身を襲う。

 喉を潰しながら叫び声をあげて、その痛みで自分がまだ立って居られているのだと数拍置いて認識する。闇に堕ちてしまいそうな意識の中、どうやって目で追えていないはずの攻防を繰り広げているのか思考するには、おれの頭はあまりに愚鈍すぎる。


(これ以上は…無理だな――)


 ただ、その中で一つ、思考力を護りきらねばならない。

 一瞬にも満たない僅かな時間でいい、人の認識できる世界を細断した刹那が欲しい。

 せめて一撃、おれの放つことのできる限界を更に超えた領域での斬撃で首を落すことができれば――。


「貴様はどうして戻って来た! 小娘を救い、俺に勝つためだろう。何を……ッ、機を狙ってなどいるつもりだ! 目前の敵を仕留めるためならば――! その後のことなど考えている余裕は――ないッ!!!!」

「――――っあ」

「俺の前で、隙を見せるなど! 甘すぎるなぁあああ!!」

「――っっぐ…ァ……っ」


 突き上げられた死角からの拳は紛うことなくおれの胸の中心を捕らえ、天変地異をこの身に受けたような衝撃の前に――。


「ハ――…、ッ、まだ…だ…!」


 死の間際、勘のみで攻撃を受けた箇所に神威を集めて防御を行った。もちろん塵威の前では不完全にもほどがある防御だが、機能はしてくれた。

 痛すぎてそれ以外の感覚が消えた。骨はどうか知らないが、耳元では鼓動が爆発しているような大きさで不規則に鳴り響いている。何とか心臓はまだ潰れてはいないらしい。

 態勢を立て直して、カイン…を――ッ。


「残念だったな小僧、だがコレで決着だ!!」


 ヤツが追撃をしてこないわけはない。

 既に渾身の一撃を放つ態勢をとったカインの前では黒刀を構え直す暇さえない。神威による防御も、次は更なる威力で対応してくる。

 純粋に、どこまでも高い波濤の如き力そのものとなって死ぬ瞬間まで止まることなく。目の前の敵を破壊するためだけに走り続けている。

 なら、おれもまた止まるわけにはいかない。手足を、この身を突き動かす怒りを止めてしまったら、その時こそ本当に終わってしまう。


「シーーィッ!!」


呼吸なのか叫びなのか自分でも分からない音を発しながらカインの拳を力任せに受け流す。拳と刃は交差し、互いに背を向けたまま最後の一撃を放つため拳を握り直す。


「ハハハッ!!」

「づ…ッ…ァァ!」


 振り返った先、血と雷に彩られた視界の中心ではやはりあの男だけが、鮮烈にそして苛烈にその身を躍動させている。


「この一撃で終わらせる――」


 これ以上はこの身体が持たない。希望的観測すら入り込む余地のない確固たる感覚、死神と呼ばれるソレが背後からおれの身体を掴んできている。

 引き返そうにも限界なんて既に超えてしまっているのだから、これ以上無理しようが大して変わらない。そんなもの、どうでもいいんだ。


(アイリス、待ってろ)


 コイツは、この男だけは絶対に始末する。おれのために命を掛けたお前を死なせたりはしない。苦しみに涙を流したお前を、そのままになんかさせたりしない……ッ。


「さぁこれでエェ!! 終いだああああ!!」

「ハアアアアーー!!」


 加速は同時、零距離で振るわれる刃と拳がぶつかり合って火花を散らす。伝わってくる衝撃で意識と両腕が吹き飛んだ感覚に襲われたが、どちらもまだ辛うじて繋がっている。


「この短時間で、死を眼前によくここまで上り詰めた! だがまだ足りん、俺の拳を以て貴様ら総てを破壊するのみだ!!」

「ぬかせッ、お前がどれだけ強かろうが……、アイツらはおれが護り切る!!」

「ハハハ…ッ、どうやら俺と貴様は似ているようだな。破壊も守護も、望む結果が逆なだけだ。己の望みのために力を振るうことに変わりはない!」

「違う…、ただ力任せに暴れる、災害みたいなお前と一緒にするな。おれの力は――、皆のために振るうものだ!! ――代償契約…ッ!!」

「更なる重ね掛けか――ッ!」

 

 代償を用いることでの肉体強化、神威の出力上昇。

 どうせ中身も分からない代償なら、怯えている暇なんてない。今はただカインを倒すことだけを考えろ。そんなもの、欲しけりゃいくらでもくれてやる。

 軋みを上げ、悲鳴となって全身を襲っていた痛みも許容量をはるかに超えた神威の総量に耐えきれず、内側から血が沸騰し爆ぜようとしている。赤雷が蒸発した血と混ざりあい、赤褐色染みた色となって全身を迸る。

 黒刀を振るった後、きっと立ち上がることさえ出来ない。けどそれまでの刹那、この身が刃を振るうことさえ出来ればいい。

 カインの首を、その拳ごと両断できれば後のことはどうでもいいのだと心が叫んでいる。

 例えこの身が朽ち果てようが――ッ。


「勝つのは…ァ! おれだぁああああ!!」


 火花を散らし、拮抗状態だった刃と拳の均衡が打ち破られる。

 代償契約の重ねがけによる更なる出力の上乗せは、おれ自身の肉体と知りもしない代償を糧に、赤き雷を迸らせながらかつてない膂力を生み出している。


「――ハっ」

「ぐ…おぉおおおおお!!」


 これまで、掠り傷しか与えることができなかった鋼の拳に間違いなく刃が入り込む。どれほど頑強な肉体であろうとも切欠一つありさえすれば、腕ごと両断して見せる。


「ハハハ! 面白い、俺の腕を落とすか! だが、これには間に合うのか!?」


 当然、拳は一つのみではない。

 控えていた左腕が轟風を引き連れ唸る。拳の周囲は空間をねじ切るかのようにブレ、この距離で音さえ置き去りにする速度。

 そしてカインの口にする通り、おれが腕を斬り落とすよりも早く、この狂腕は俺の身体を貫くだろう。

「ォォォおおおおオ……ッ!!」


 ならばまだだ、まだ足りない。

 この男よりも速く、強くなければ勝負の舞台にさえ立てないのだから。


『これ――以上は―――っ』


 いつも落ち着いている、“彼女”の焦りに満ちた声が聞こえた。


(悪い――)


 それ以上時間は掛けていられない。もう間に合わない、考えている暇なんてない。為すべきことを、この身を賭けて。


「…代償を…ここに……ッ」


 血に濡れ震える喉は真面に機能していない。だが覚悟は宣誓となって、この場へと確かに神の御業が降りる。それが、何を犠牲にしているかさえ分かっていない相手であろうとも、代償を生贄として圧倒的な力を与えるのだ。


「ヅゥッッ!!」


 全身を余すことなく駆け抜ける激痛を堪えながら、食いしばった歯はいくつか砕けた気がする。


「カァィィンンン――!!」

「ク――ッ」


 技術などでどうにかなる次元はとうに過ぎ、鬩ぎ合っていた刃を振り降ろした衝撃で無理矢理押し返す。純然たる力勝負をたった一度だけでも勝利を収めたこの瞬間、これが最初で最後のチャンスだ。

 顔を上げ、振り下ろした切っ先が地面へ触れた瞬間に赤雷が炸裂し、地へと落ちることで終わるはずだった一撃は腕が吹き飛びかねない衝撃と共に天へと向かい跳ね上がる。

 もはや自分では制御できない雷速を以てカインの首へと奔る切っ先。

赤き残光が天を衝き、迫りくるカインの左腕よりもより速く到達する。おれの放つことのできる最大最速の雷撃。

 押さえることさえできない速度で奔る刃は血と赤雷が流星の尾となって、寸分の狂いも無くカインの首を両断せんと全身全霊を掛けた一撃。

 勝利へと至る刹那を掴み取るために持ちうる力を注ぎ込んだ最後の――。


「これ――で――ェェ……ッ!! どうだあぁアアアア!!」

「悪くないッ、だが――貴様に俺は超えられん!! 第一に己ではなく、他者のために戦うと口にする貴様程度の意思で…俺に勝てるはずが無いだろう!!」


 それでもなお対応してくるカインの拳、人の枠を超えた怪物。

 再び衝突する刃と拳はしかし、先ほどのような拮抗状態に陥ることはせず――。


「――がァ…ッ」

「…ぐ――っ」


 超常的な力の衝突によって発生した爆発によって、おれの意識は今度こそ吹き飛ばされた。


 

 □ □ □



「最後はあっけないものだったが、それでも意地は見せたか」


 土煙がもうもうと立ち込める中、男の首筋には切っ先が添えられている。だが、そこからは一筋の血が流れるのみで、両断するには至っていなかった。 

 最後の衝突、正面からのぶつかり合いは刹那、すれ違い辿るべき軌跡を見失いながらも、互いに互いの命を奪わんと己が一撃を繰り出した。

 圏士の放った一撃は妨害さえなければ怪物の首を両断していただろうが、結果はそうはならなかった。

 怪物の拳は圏士の胸の上から心臓を撃ち砕いた感触を得ていた。

そしてその拳は――。


「意味などないことは、受けた貴様が一番分かっていただろうにな」


 あの速度の中、防御など考えていられなかっただろう刹那の中であったというのに、圏士は怪物の拳を“受け止めていた”。

 無意識だったのだろう。黒刀を握っていなかった方の手で受け止めたところで、拳の威力を前にすれば意味のないことは理解していたはずなのだから。


「やはり、貴様は剣の道を選ぶべきではなかったな」


 零距離戦闘における反応速度、無意識化での最適の行動。手を下した彼だからこそ見えたものがあった。


「だが、それも終わったか。結局あの男は現れ――ほう?」


 勝利した戦いを振り返り愛でる趣味は無い。突き出したままの腕を戻そうとしたその時、違和感が男を襲った。


「――まったく…、アレだけのことをしておいて負けるなどと誰が思う」


 その声は間違いなく、カインがこれまで戦っていた圏士の声だ。

 だが違う。

 同じ人物であるのならば何故、怪物の拳を受け止めたまま引き戻すことができないのか。

力を込めて引き離そうとしているというのに何故、怪物は拳を中心にその場から動くことができなくなっているのか。

 そして今、怪物の目の前にいる青年はこれまで戦っていた人物と同一の存在なのか。

 答えは一つであり、その場に立っている圏士であった人物はまさしく、怪物が待ち望んでいた男だった。


「――ハ、ハハ…、そうか。貴様か…、随分と遅い登場じゃあないか。“雷環”…!」

「おかしな名で呼ぶな。それに俺も出てきたくて出てきたわけじゃあない。コイツがお前を倒せていれば見物で済ませることができた」


 血塗れでありながら先ほどまで死の寸前であった青年とは異なり、単なる疲労で辟易としたようにしか見えない。


「惜しかったがな。まだ地力が足りん上に指導者に恵まれなかったらしい」

「ん、ああコレか」


 すると、受け止めていた拳に今更気が付いたのか興味も無さげにさっさと離してしまう。これまで戦っていたこと自体理解しているはずだというのに、追撃が来るという認識が無いのか。相手として認識していないのか。


「俺はカインという。貴様と戦えると聞いて足を延ばしたが。手合わせを願えるか?」

「殺し合いの間違いだろう。お断りだ、俺はもう降りているんでな。それにお前、『極骸キョクガイ』の人間だろう。こんなところまで来ずとも北の地にさえいれば相手にも困るまい」

「その相手を、悉く打ち滅ぼしたのが誰だったか忘れたとでもいうつもりか? 貴様だ、アイレン・ランテカルア。おかげで俺は雑魚どもを相手に己を磨くことしか出来なかった」

「そういえばそうだったか。退屈も極まればどこまでも足を延ばせるものだからな。さて――」

「……どこへ行く」

「行ったろう、俺はもう降りている。この先の結果はどうあれ、コイツに死なれるのは本意ではないんでな。灯日に帰して、もう一度眠りにでもつくさ」

「眠りにつく、か? 貴様が一度目覚めた以上、いや目覚めさせられた以上はそうもいかんことは分かっているだろう」

「破壊しか出来ん俺を呼び起こしたところで結果は見えている。それでもなお突き進むというのなら、そのような連中は滅ぶだけだ」


 カインヘと背を向けて歩き出すアイレンはそのまま真っ直ぐに灯日の方向へと足を向けて歩き出す。


「ハハ、なあ雷環よ。今、俺が拳を振るえば勝利するのはどちらかな」

「十中八九お前だ。――その髪飾りを全て外せばの話だが」


 一瞥した視線の先にはカインの髪を束ねる金で出来た三つの髪飾り。だが、三つあったはずのソレは今や二つとなっていた。


「貴様を相手にでもしない限り一つとして外す必要はないと思っていたがな。小娘と小僧に敬意を表した」

「外付けの拘束具など無駄なことをせずに自分で調整すれば済む話だろう」

「ククク、そう言ってくれるな。一度始まると自分でも闘争心が抑えられん。こうでもしなければ相手の強さに関係なく全力を振るってしまう」


 この髪飾りは古来よりカインの生まれた北の地に伝わる異能の拘束具だった。本来外すつもりも無ければ相手もいなかったはずだったが、そのうちの一つはアイリスの献身とロスト最後の一撃を前にして解き放たれていた。


「そうか、塵威というのも難儀らしい。…はぁ、それで、やるのか?」


 非常に面倒くさいが仕方ないとばかりの足取りで再度カインへ向き直るアイレンだったが、当のカインは拳を握ることもしなかった。


「いいや、今日のところはよしておこう。詐欺師に謀られたかと思ったが、期せずして面白いものも見ることができた。それに、万全でもない貴様と戦ったところで興醒めにしかならん」

 

 今度は逆にカインが背を向けて歩き出す。

 威風堂々と肩で風を切る姿からは一切のダメージを感じさせず、あのまま戦闘を継続できたところでロストが勝てると考えるものは一人としていないだろう。


「俺と戦うために此処へ来たと言ったな」

「ああ」

「ならば次に、俺の前に立つ機会があれば相手をしてやってもいい。条件は付けさせてもらうが」

「聞こう」

「コイツを倒してみろ。完膚なきまでに、命を完全に奪うまで。それが出来たら俺も出てこざるを得んしな」

「まるで俺が小僧に負けるとでも言いたげな条件だ」

「ああ、そう言っている。むしろその程度を為すことができないのならアイツがコイツを残した意味はない。曲がりなりにも圏士を名乗るならば、相手が誰であろうと絶対勝利を為してもらわなければ価値はない」

「ククク…、そうか。聞いていた話よりかは面白い男のようだな雷環。ならばその時を楽しみにしておこうか。どちらが相手であったとしてもな――、さらばだ」

「ああ」



  □ □ □


 短い挨拶を交わすとカインはそのまま立ち去って行く。

 その背を見送ることも無くアイレンもまた灯日へと向かおうとした時、一つ思い出す。


「そうか、もう一人いるんだったな」


 完全に一人で帰ろうとしていた矢先、顔を向けた先には右腕を血に濡らした一人の少女が倒れていた。


「まったく、厄介な契約相手に目をつけられたものだ」


一応連れて帰っておかねば後が面倒になりそうだと考えながら少女の元へと近づくと、赤黒く濡れ、具象契約により内側から破れた手袋の隙間から覗く腕に意識が向けられた。


「……馬鹿らしいことを考え付く。お前もそう思わないか?」


 声を掛けたのは少女ではなく、背後の存在。


「――くだらねえ」


その声は荒っぽく、不快さを寄り集めたような男の声。だが声だけだ。姿は無く、声が届くほど近くにいるというのにそもそも気配の一つさえ感じ取れない。


「前回もそうだったが、目を覚ますたびに懐かしい顔に会う。久しぶりだな、エイガ・ルアック」

「馴れ馴れしいんだよ、お友達とでもいうつもりか? 馬鹿抜かせバケモン。テメエみてえなのが人間と仲良くやってけるわけねえだろうが。人の腕を斬り飛ばしておいて仲良くできると本気で思ってんのか?」

「ん、腕? ……ああそうか、そういうこともあったのかもしれんな。ふっ」

「何笑ってやがる気色の悪い、相変わらず頭に問題あるらしいな。……第一、テメエの方が問題だ。くたばったのに何を目覚めてやがる。おかげでこんなところまで足を延ばす羽目になった」

「その言葉は今の圏士に言っておけ。ああそれと、そう思うならコイツを鍛えろ。放任しておきながら文句を口にすることほど簡単なことは無い」

「チッ…、あのガキ。自分に任せろと言っておきながらコレか」

「俺からすればどうでもいいことだ。あとはそっちで処理すればいい」

「テメエが起きてるだけで迷惑千万なんだよカス。……ここで始末できねえのが心の底から憎たらしい。必要ならロストの方を殺せばいいと思っちゃいたが、もうそれも出来なさそうだ」

「聞いていただろうが、俺はもう表舞台からは降りているからな。本当に必要だと思ったのなら…まあ、その辺りは任せる。コイツがコイツである内は俺から動くことはない。……さて、お前が来たのなら俺も自分の足で灯日まで歩く必要もなさそうだ。お望み通り一度消えるとしよう」

「さっさと消えろ、それでもって二度と出てくるな」

「ああその意見には同意せざるを得んな。だが、少し気が変わった」

「なに?」

 

 アイレンは傍に倒れたままのアイリスへと目を向けている。具体的には怪我が覗く右腕だ。見たところ『具象』を使ったらしいが、そうだな。コイツからすれば一目で理解できても不思議じゃなかった。なにせ真の意味で“本物”を知っている数少ない一人だ。


「大した事でもないがな。あまりにくだらないことを続けるというのなら、また再開するだけだ」

「一応聞いておいてやる。何を始めるって?」

「貴様らが大げさに“雷環戦争”と呼んでいることだよ。一言で言うなら皆滅だ。ふ…っ、そう殺気立つな。今後のことはコイツと今の圏士次第だろう。特にお前の弟と、義妹だな」

「……」

「エイガ、あの日から今まで生きてきたお前から見て、この世界はどうだ」

「なんだそんなこと、一切の変わりなくクソだ。どうしようもないくらいにな」

「そうか。お前がそういうのなら、俺ももう少し様子を見よう」

「どういうことだよ」

「ではな、コイツのことは任せる。カインには勝てるようにしておけ」

「チッ、勝手なことばかり抜かすなカス、……二度と顔見せるな」

 

 二人の会話はそこまでだ。

 あとに残されたのは倒れたままのアイリスと、姿の見えない隻腕の男。そして、力なく横たわるロストという名の圏士だった。

 その顔は死人であるかのように白く、今すぐ治療を行わなければ死は免れないことが医者でなくとも一目で分かる。外見だけでなく内側もどれほど原型をとどめているものか。


「どいつもこいつも、面倒ごとを他人に押し付けやがる。カインに勝てるようにしろだと? ……なんであのクソ野郎にまでそんなことを言われなきゃならねえんだ。ったく…腹が立つ」


 誰に憚るでもなく愚痴を声高に発しながら、今まで誰もいなかったはずの空間から一人の男が現れた。いや、誰もいなかったのではなく、彼の能力によってその場にいながら誰からも認識できない様にしていただけのことだ。


「テメエ一人なら放っておいても良かったが、マトラがいる以上はそうもいかねえ。感謝するこったな」


 今のエイガ・ルアックは所属が討滅局ではなく教戒にあたる。立場上複雑な立ち位置にいるアイリスを放っておくのはリスクが大きい。

 それに、彼にとって他者の死を特別望んでいるわけではない。非常に面倒で、手を煩わせられることに腹も立つが、それでも仕事を仕事として割り切ることに問題は無いのだ。


「……見れば見るほど苛ついて来るな」


 倒れているロストの顔はあの男とよく似ている。

実質同一人物なのだから当然だが、今すぐ蹴り飛ばしたくなる気持ちを抑えながら外套の半分を肩にかける。

 その内側から覗くものは彼の持つ『原型』、そして反対側の腰に革紐で結びつけられた手のひらに収まるほどの白い毛玉。

 彼はそれを片手で器用に取り外すと、革紐の部分を握りながら三人の中心にあたる位置へ腕を伸ばす。


「クソ、使う度にあの女の顔を思い出すのが欠点だな」


 何が楽しいのか彼には理解できなかったが、いつもヘラヘラと無駄に元気だったことを覚えている。元観測室主任、ナキ・ブルーマン。

 そして、この白い毛玉は彼女の忘れ形見だ。

厳密に言うならばただの毛玉ではなく、式神ウサギの尾を加工したもの。ならばその効果は考えるまでも無い。


「座標、討滅局。跳べ――」


 夜闇の中、眩いばかりの閃光が辺りを照らし、その光が消えた時にはその場にいたはずの三人は物理的に姿を消していた。



『本編について』

・アイリス、具象契約

傷口から大量の蠅が対象を食い尽くすまで無限に湧き続けるという凶悪そのもの。

通常であればほとんど抵抗もできないものの、カインの場合は塵威による神威無効化が作用しているため耐えられている。


『定期連絡』

・高評価、いいねなどいただければ、皆様には特に見返りはありませんが自分が喜びます。

・更新日の後にそのことを伝える呟きをしているので、思い出す用にツイッターフォローいただけると幸いです。(https://x.com/kuroyonosuke)

・細かい設定や反省点等々は完結後にでもおまけでまとめようとでも思っているので、質問をいただければまとめて回答します。よければどうぞお願いします。

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