2/亜由美/スサマジカルパレード
この国の役人は馬鹿だ。ラクドなんてなくても人は死ぬ。あんなものは、功績を残したい政治家の「私は仕事をしましたよ」というアピールに他ならない。そんなことよりやることは山のようにあるだろうに、本当に、馬鹿の極みだ。
私は、病室に入るなり顔をしかめた。応接セットまでしつらえた豪華な個室にはけれど、見舞いの花もなく不気味な死の気配が漂っていて、長居するのを妨げようと躍起になって役目を果たしていたからだ。それは薬品の匂いだったのかもしれないし、そこに横たわり死神に片手を掴まれた老婆から発せられる特有の匂いだったのかもしれない。
いずれにせよ、部屋の主は死にかけていた。けれど辛うじて生きていた。病名は聞いた気がするが覚えていない。私には重要なことじゃないから記憶から消去されたのだろう。
私は、脅迫と同じ意味を持つ土下座を人前でされた挙句、拉致同然に連れてこられた。いい大人が、齢二十一歳の女の前で地べたに這いつくばる気持ちとは、いったいどんなものだろう。ごく一部のご褒美になってしまう人たちを除けば、大概の人には屈辱であるはずだ。
けれど私を連れてきた土下座男は病室には入ってこない。親族だとかいう連中もだ。皆、私の動向を伺っている。
馬鹿馬鹿しい。私がここへ嫌々ながらも訪れたのは、脅迫に屈してではない。一言文句を言ってやりたかったのだ、この老婆に。
ラクド行きを希望しているのに、無理やり延命させられているこの哀れな女に。
「亜由美ちゃんさぁ、なんでそんな地味なカッコばっかしてるの? もったいないよ~」
バイトを終えて帰ろうとしたところで、運悪くヘラ男に捕まった。名前は聞いた気がしたが覚えていない。バイト仲間とはいえさして重要なことでもない。よって私は彼のことを心の中で、ヘラ男と呼んでいる。いつも不愉快にヘラヘラしているからだ。
「その黒縁メガネもさ~、やめた方がいいって~、絶対」
「気に入ってるんで」
「でもさ~、ほら、髪ももっと伸ばしてさ~、女の子なんだからベリーショートはね? 似合うけどさ~」
ヘラ男も終わったところだったようで、駅に向かう私の後を付いてきた。うざい。こいつが私と合うようにシフトを入れていることを知ったのはついこの間のことだ。我ながら鈍いと言わざるを得ない。しかし駅に着くまでの弾避けには丁度良いので、邪険にすることもためらわれた。
弾とはストーカーのことだ。下手をすると「俺以外の男と歩くなんて許せない」と突撃してくることも無きにしも非ずだが、もしそうなったら遠慮なく壁にさせてもらうつもりでいた。
最近は弾を見ることもない。警察に絞られたせいだろう。しかし弾はどこに沸くかわからないから安心はできない。うぬぼれではなく経験論である。
「あーあ、それにしても店長も人使い荒いよなー。疲れてない? どっかでお茶してこうよ」
「いえ、明日提出のレポートがあるので」
嘘だった。だがヘラ男は疑うと言うことを知らないように残念そうなゼスチャーをしただけだった。年上だったはずだが、まるで無垢な子供だ。もちろん褒めてはいない。
「あれって絶対あいつが辞めたせいだぜ~、なんつったっけ、あいつ」
「藤堂くん」
「そう、そいつ」
珍しく私が名前を憶えていたのにはわけがある。小学校の時分、同じクラスだったという以上に実は彼のことは印象深く残っている。実際は会話もまともに交わしたことはなかったのだが。
その小学校には四年の秋まで通っていた。にも関わらず、私には友達がいなかった。男子とも女子とも、混じって遊ぶことができなかった。そのため私は自然と、図書館に通い本を読む静かな生活を好むようになった。
私が借りる本の貸出カードにはいつも、藤堂くんの名が記されていた。私の後ではなく、前に借りている。私は彼を追うように本を借りているのだった。実は話してみれば趣味が合うのではと気づいたときには、私の転校が決まっていた。
その彼と偶然、バイト先が同じになった。今度は私の方が先んじていて、彼は新人として入ってきたのだが、先日辞めてしまった。しかも初日に少し話をしただけで、ヘラ男や店長に邪魔されて碌に話す時間は取れなかった。悔しい限りだ。
全国チェーンのハンバーガーショップである。時給に見合わぬ厳しさで有名なだけあって、彼への風当たりは強かった。私と話していたせいもあるのだろう。率先して彼を助けようとしたがそれもまた癇に障ったらしく、店長にいじめのような量の仕事を押し付けられていた。
「あれって絶対クビだよな~、店長、ちょっと異様なくらいあいつのこと目の敵にしてたし」
確かにそういう意味ではこのヘラ男の方がマシとすら言えた。彼はまだ外聞を守るのだが、店長に至っては客がいてもお構いなしに怒鳴るのだ。ちょっと大人としてどうかと思う。
「クビではないと思います。何か、もう必要な分はたまったって言ってましたので」
「え、あいつと話したの?」
「ほんの少し。お疲れ様でした」
駅に着いたので会話は強制終了。私だってできるなら辞めてしまいたい。しかし生活がかかっているのでそうもいかないのだ。こんなバイトでもジリ貧の生活を支える糧にはなるし、何せ非正規のアルバイトですら正規に劣らず競争率は激しく、常に奪い合い状態なのだ。
これは客観的意見で決して主観は含まれていないのだが、私はすさまじいほどの美貌の持ち主らしい。幼い頃から変態に付け狙われたり、男子にちやほやされたり逆に女子に総スカンを食らったり、長じてからはストーカーに悩まされたり、ラブレターならまだしも変なものを送りつけられたり、彼氏を盗ったと誤解した女子に刃物を振りかざされ追われたりと、確かに尋常ならざる事態であることは否めない。しかし私自身は自分の顔を好きではないし、まして自信など持っていないし、できれば地味に暮らしたいと願っている平凡な女にすぎない。
これは身びいきになるかもしれないが、確かに母は美しい人だった。その上箱入りのお嬢様で世間知らずだったため、ホストにころりと騙された挙句孕まされて捨てられた。生まれのが、私だ。聞けばそのホストも、顔だけは良かったらしい。
母は最期まで、そのホストが迎えに来てくれるのだと信じていた。信じたまま、死んだ。
妊娠した私を堕胎しないと言い張った母は、実家から勘当を申し付けられた。慣れない労働に身をやつした母が死した後は孤児院で過ごした。今は奨学金を得て国立の大学に通う苦学生という身分である。
もし母が実家に身を寄せていれば、きっと死ぬことはなかっただろう。私は母の実家を恨んだ。
その実家の主が、目の前で死にかけている老婆に他ならない。
彼女は母の母。つまり私の祖母である。
私に与えられた役目は、ラクド行きを望む祖母への同意を示さないことだった。財産が国に取り上げられてしまうのを阻止するために、親族たちがこぞって本人の意思を無視してまでもその命を繋ぎとめている。反吐が出るような情景だ。
しかし不思議と、珍しいとも感じない。きっとどこにでもある光景なのだろう。金の亡者はラクドのなかった百年前ですらいただろうし、これからも滅亡することはない。たとえ日本という国が消え去ったとしても。
病床に縛り付けられた祖母は、病と老いに虐げられていても美しい人だった。母に、よく似ている。もっともそれが憎しみを消す要因になるとは思えなかったが。
正直なところ、あの金の亡者どもを悔しがらせるためだけに、ラクド行きを同意してやろうかとも思っていた。それが可能な血縁者は私だけだ。だけどそれでは私の憎しみは行き場を失ってしまう。
ぐちゃぐちゃしたそんな考えが吹き飛んだのは、祖母が目を開けた時だった。
「亜由美?」
彼女は、私を呼んだ。その声もとても母に似ていて、悔しいくらいに似ていて、私は頬をぶたれたように立ち尽くした。こみあげてくるのが怒りなのかそうでない何かなのかも分からないままに、体が勝手に震えてくる。
「なんで知ってるの?」
「知ってるわ。孫のことだもの」
その一言は私の感情を怒りへと振れさせた。相手が余命いくばくもない病人だということも忘れて、ここが病室だということも忘れて、突き上げる感情のままに声を荒げた。
「知ってるですって? 勘当したのはあなたでしょう? それなのに見守ってたとかいうわけ? 母が大変な思いをして働いて、疲れ果てて死んだって言うのに、手を差し伸べようともしなかったわよね。死ぬところを見てて満足? 私の言うことを聞かないからこうなるのよって、悦に浸ってたわけ? あなたの、娘なのに」
私を慈しんでくれた優しい母。その思い出は決して多くはないけれど、もしその母に捨てられたらと思うと、今この年齢であったとしても、どうしてどうして悪いところがあるなら直すから嫌わないでと泣き縋ってしまうかもしれない。実際は私が十の時に母は逝ってしまったのだが、それでも捨てられたとは思わなかった。
「確かに母はつまんない男に引っかかって、捨てられたのに最後まで信じてたわ。それは馬鹿の極みだわよ。でもあなたに捨てられて、傷ついてないとでも思った?」
きっと母は、絶望の淵に追いやられていただろう。私が生まれたことで辛うじてこの世界に命をとどめていたのかもしれない。けれど私を孕んだせいで母が苦界に身を投じたと思うと、私は私を許せなくなる。目の前の祖母よりもずっと。
「ごめんね。許してくれとは言わないわ……」
絞り出すような声に惹かれて、私はいつの間にか俯けていた顔をあげた。皺が刻まれていてもなお、その美しさは損なわれていない。
「あなたがあの子を大事に思っていたように、私もあの子が大事だったわ。だから、裏切られたように感じてしまったのね。でもだからといって、一時的な感情ですべきことではなかったわ……」
「謝る相手が違うわ」
「そうね」
少しもおかしくないのに祖母は微笑んで、じっと天井を見上げた。まるでその向こうに、先に逝った母がいるかのように。
「でも、きっと無理だわ。私はあの子と同じところには行けない。ひどい罪を犯してしまったんだもの……」
「じゃあラクドなんか、行かなければいいじゃない」
激情は収まっていたが、まだ吐き出したりない思いが私の中で渦巻いていた。私はそれを形にする術を探りながらも探し出せず、不機嫌な声で病室を埋め尽くす。
「罪だと思うなら、逃げないでよ。死んで楽になろうだなんて、許さないんだから」
死にかけた病人相手にひどいことを言っている自覚はあった。けれど私の口は止まらずに、その一方で迫力のかけらもなく戦慄いていた。みっともないし、説得力もない。けれど祖母は安心したように笑みを深くした。
「そうね。あなたがそう言うなら、もう少し生きてみようかしら」
守銭奴どもの味方をしたわけではなかった。かといって、祖母の敵に回ったつもりもない。私はただ子供みたいに、感情のまま突っ走っただけだ。
それでも祖母は私に笑いかけた。罪を噛みしめた苦さが見え隠れしてはいても、幸せそうな笑みだった。
まるで、そう言ってくれる人を待ち望んでいたかのように。
祖母はそれから数日後に、亡くなった。
私がラクド行きを同意するまでもなく、本当の楽土へと旅立った。
喪主は表向き孫の私ということだったが、葬儀のほとんどはあの土下座男が仕切っていた。ずっとぼんやりとしていたし何をすればいいかもわからないのだから、助かってはいた。どうせ人助けという体を装うのなら、透けて見える下心も隠しておいてほしいものだが。
母の従兄弟に当たるという五十がらみのその中年男性があっちへへこへここっちへへこへこしている間、私は放心したように椅子に座り込んでいた。葬儀には大勢の親族が押しかけていたが、私に話しかけようという猛者はいなかった。
あまりに早く、あまりにあっけない。そのため、自分の中で整理しきれていないさまざまな感情が整理もつかない状態で入り乱れていた。
私はあの人を、許していない。けれどたった一人の肉親で、これからゆっくり蟠った感情をほぐしていこうと思っていた矢先のことだった。
あの人は私を亜由美と呼んでくれたのに、私は呼んでいない。あなた、なんて他人行儀な言い方をして。まるで故意に傷つけようという意図でもあったかのよう。
「おばあちゃん……」
慣れないそれがようやく口に乗せられたのは、火葬が始まってからだった。天へと立ち上っていく煙を眺めていると、母と同じところへ行けたのではないかという気がしてきた。
親族たちは、火葬が終わるのを待って談笑している。私はその中にはいられず外に出てきた。誰も追ってこなかったし、止めもしなかった。
「おばあちゃん」
私は馬鹿だ。どうして彼女が生きている間に、言えなかったのだろう。ずっと感じの悪いつんけんした態度を示されて、許さないなんて言われて、それで幸せに生を全うできたはずもない。
大事な人を失った悲しみは、同じに味わったはずなのに。
そしてこの後悔も、きっと同じだ。
私の頬を涙が一筋、滑り落ちた。
親族の一人が祖母のことを、ケチなばあさんだったと笑っていた。私は影でそれを聞きながら、決心を固める。
弁護士が呼ばれ、遺言書の公開が行われることになった。場所は祖母の邸宅で、今は例の土下座男が家族で住んでいる。私も同席した。祖母の遺品を整理するのを率先して進み出たため、そこにいたのだ。土下座の顔色からするに、もしかしたら呼ばれなかった可能性もあったのかもしれない。
まあ彼としては、一時的に拉致したにすぎぬ私にはとっとと退場してほしかっただろう。
遺言には、孫の私にすべてを相続するという内容が書かれていた。他の親族へのおこぼれは一つとしてない。ざわつく親族の中にはヒステリー状態に陥って、勘当した娘の子に相続権はないはずだと喚く者もいた。私は黙ってそれを見ていた。
そして気づいた。全員何らかの形で血がつながっているはずなのに、祖母に似ている人がいない。つまり彼女の美しさを誰も受け継いでいないのだ。確かに直系は私だけだが、それにしたってひどい。それとも金が絡むと誰しもこんな風に醜くなってしまうのか。
実は親族と偽って紛れ込んだ全然関係ない人たちなんじゃないかという思いまでもがよぎる。
「ねえ、あなた。まだ若いでしょう。こんな大金は運用しきれないわよね」
「そうそう。僕らに任せてくれないか。悪いようにはしないから」
両手をこすり合わせながら猫なで声で迫ってくる親族もいた。中には金より祖母の遺品の方が大事だろう、大事な思い出が詰まっているんだからと言い出す者までいる。なるほど、そんなに私に宣言してほしいなら仕方ないと、私は席を立って弁護士に告げた。
「遺産は、遺言通り相続します。手続きをお願いします」
「わかりました」
断末魔の悲鳴が聞こえた。怒号が飛び交い、私への罵詈雑言があふれ出す。さっきまでおべっかを言っていた口でよくも言えたものだと呆れるしかない。いい大人が髪を振り乱して取り乱す様は見ていると、痛快というよりは悲しくなる。
「すべて相続するなどありえない、遺留分があるはずだ!」
「それはございますが、遺言書通りに亜由美さんが第一相続人ということになりますので」
「本当に血縁関係にあるのかも怪しいだろう!」
ここでは金に目が眩んで、誰も私の容姿に注視しない。それはそれで新鮮ではあったけど、同時にこちらまで目を覆うような泥沼を用意してくれているとは思わなかった。こんなところに祖母の思い出を置いておくわけにはいかない。もちろん移動するのは、物の方ではなく。
「じゃあこの家は私のものということなので、一週間以内に退去をお願いします。私、一人が好きなので」
何かまだぎゃあぎゃあ言っているが、どんなに彼らが横暴な手段に出ようと、また媚びへつらおうとも、私は彼らに一片の慈悲も与えるつもりはなかった。祖母を祖母ではなく金の入ったつづらぐらいにしか思っていない人たちには、決して。
まだ日は浅いが、私の中には確固たる祖母の存在がある。それは血となって体中を巡り、私という一人の人間を形作る。いつか煙となって、怖いくらいに真っ青な空の中に消えていく日まで、連綿と受け継がれていくのだ。
相続でもめた後、バイトのシフトが入っていた。行くのをやめようかとよほど思ったが、結局出ることにする。
「亜由美ちゃん、暗いよ~、なんかあった?」
「何も」
ぶしつけに聞いてくる店長やヘラ男をあしらって、業務をこなす。体を動かすのは嫌いではないが、何か私の中で変化しているのを感じずにはいられない。
私の居場所はここではない、そんな気がするのだ。そんなことこれまで思ったこともなかったのに、急にどうしたのだろう。確かに楽しくはないけれど、必要なことだ。遺産を手に入れたからとて、それはまだ私の手の届かないところにあるから、ないも同然、だから働かなくてはならないのに。
するとその帰り、男が私を訪ねてくる。正しくはヘラ男と一緒に店を出たところで声をかけられたのだけど。
「亜由美……」
「うわ、なんだこいつ」
新手のストーカーかと思い、私は顔をしかめるヘラ男をすかさず盾にするも、見覚えがある気がしてじろじろと男を見つめる。がりがりに痩せた汚らしい中年だ。不精髭もヤニだらけの歯も着古してぼろぼろになっている服も不潔そうな全体像も、何もかもが嫌だと言う以外の言葉を持てないと言うのに。
「亜由美、亜由美だろう? 俺だよ……」
「誰だよこいつ、知り合い?」
「覚えてないのか? まあ、無理はないな」
私の中に不愉快な想像が湧き上る。男はそれを見越したように、ヘラ男以上の不愉快さを全力で滲ませながらヘラヘラと頷いた。
「お前の、お父さんだよ。わかるだろう?」
「……うえ、マジで?」
否定してやりたかったが、どうにもそれはできなさそうだ。何も証拠はないし、言葉だけのそれを信じる義理すらないのだが、私の中に蠢きめぐる血が肯定しているのだ。
母を捨てた男。元ホストの、なんとまあ汚いことか。これのどこに引っかかる要素があったのかと、母を問い詰めてやりたい。それほどに、目の前の男には美男の気配など欠片もなかった。
「何か用ですか」
「いや、お前がよう、金持ちになるって風のうわさで聞いてな」
ヘラ男が説明を求める目を向けてきたが無視する。私は汚らしい父親を睨むので忙しいのだ。
「そんな予定はありません」
「いや、知ってるぜ。お前、美里の母親の財産を継ぐんだろう。もう継いだのか? ん?」
それは間違いなく、私の母の名だ。いったいどこで聞きつけてきたのだろう。私ができたと知るや否や逃げ出したくせに、今になってハイエナのように寄ってくるなんて。
「なあ、その相続権ってなあ、父親の俺に方にあるんじゃねえのか?」
ヘラ男の前でこれ以上、こんな話を続けたくなかった。この男が何を欲しているのか、言わなくても分かる。馬鹿でも分かる。きっとヘラ男だって気づいているだろう。
私は鞄から、もらったばかりの封筒を取り出すと、それを父親に差し出した。
「あ、亜由美ちゃん、それって」
気づいたヘラ男が焦るが、知ったことではない。父親は怪訝そうな顔をしつつもそれを受け取ると、すかさず中身を確かめる。即座に喜色に歪むが、踵を返すでもなく立ちはだかったままだ。
「おいおい、これはどういうことだ? こんなはした金で俺を追い返そうってのか?」
「それは私が汗水たらして働いて稼いだ、ひと月分のお給料です。たった今、出たばかりの」
「あ?」
私はヘラ男の壁を、自分の意思で横へ除けた。そして目の前の男を睨む。全力で、全身全霊をかけて、睨む。祖母と、母から受け継いだ血を全身に巡らせて、高潔な鎧をまといながら、睨む。
「あなたには、祖母のものを相続する権利はありません。もし争う気があるのなら、今渡したお金で弁護士でも雇って、正々堂々、裁判所で会いましょう。ですが」
弁護士を雇うのに封筒の中身だけで足りるわけがないし、この男にそんな気概があるはずもないのは百も承知だった。だが私は、突っぱねる。この男から受け継いでいる汚らしい遺伝子を、なくなるわけはないと知りながらも、亡き者にすべく。
「あなたを家族とはみなしません。今後一切、私の前に現れないで。もし現れたら警察を呼びます。例外は、あなたが適齢に達した時」
「……適齢? 何言ってやがる」
「同意書にサインをしてあげますから、その時にはどうぞ、屋敷まで来てください。歓迎します」
自分でも驚くほど優雅に微笑んで、私はヘラ男も父親も置いてきぼりにして、その場を悠々と立ち去った。もとより家族でもなんでもない。戸籍の父親の欄は空欄になっているし、血は繋がっているとはいえそんな間柄の人間同士で同意を得られるとも思えない。
だが、言っておきたかったのだ。繋ぎとめるためではなく、断ち切るために。
勢いでラクドを推奨したけれど、私はそれを好きにはなれない、嫌いなままだ。あんな無駄なもの、なくしてしまうべきだ。そんなものがなくても人は死ぬ。祖母のように、母のように。
けれどそれで不幸だったかどうかは、結局その人の判断にゆだねられるのだ。私は二人のように、不幸せであってもラクドとは無縁に生きていきたい。ただそれだけを、願う。