1/藤堂/途中の人と、終わりの人と。
つまらない人生を送ってきました、と日下部さんは笑った。そうはならないでほしいという俺への戒めが込められているようで、彼の顔をまともに見ることができずに俺は視線を膝へと落とした。
「明日、誕生日なんですよ。ようやく……ようやく六十です」
視界の端で日下部さんが嬉しそうに、ポケットの上を撫でるのが見えた。いとおしそうに、いたわるように。そこには先刻見せてもらった申請書が入っている。別れた妻が思いのほか簡単に同意をくれたので拍子抜けしたのだというのも、聞いたばかりだ。
それどころか俺が彼と出会ったのも、今日が初めてだ。ひどく人見知りをする俺に日下部さんは、人好きのする温和な笑顔を向けた。
「ラクドへ行くのが、楽しみです」
そんな彼に俺は、何も答えることができない。
日下部さんが言うそれは、仏教が教える極楽浄土のことではない。政府が作った安楽死施設の名称である。
Rescue-And-Conduct-Dutiful-Old。通称ラクド。今年二十一になった俺が生まれた時には既に稼働していたという。当初こそ世間の反発も強く、推し進めた首相は内閣総辞職に追い込まれたと聞くが、四半世紀も経ってしまえばもうそれは、あって当然のものとして受け入れられている。否、受け入れる以外ない。どれほどプロ市民が徒党を組んで人権を訴えようとも、それを必要としている一定数がいる限りは。
時は西暦2111年。百年前には、百年後には日本という国は消えているのでは、とまことしやかに滅亡を囁かれていたものの、未だ先進国として地球上に君臨している。ただしその人口は、百年前とは比べ物にならないほど激減しているが。
百年前、地球の人口は七十億人を超えたという。しかしその内訳はといえば、ほとんど途上国に偏っていて、先進国では出生率の伸び悩みに頭を抱えていた。さらに高齢化もあって、老老介護による殺人が後を絶たないばかりか介護施設や介護士の絶対数も足りず、先細り消滅の未来しか見えない中で、一大プロジェクトが持ち上がった。
それがラクドである。
男は六十以上、女は五十以上。成人3親等以内の家族の同意が必要だが、条件によっては同意なしでも可能であり、また先天性の障害を抱える場合のみ年齢の壁は取り払われる。薬物による安楽死であるが、本人の財産は国のものとなり、基本は税金だが実質それが施設の運用費として賄われる。負の財産を抱える場合は貸付側の同意が必要だ。保険などは適用外。
人権侵害だの憲法違反だのの声が上がる一方で、施設への利用申請が殺到した。あまりにその数が多すぎて、当時は一つだけ建設するつもりだったものを急遽各地方都市へ建設を要請するほどだった。施設への迎えが無料ということもあって、北端や南端から人を首都へ運ぶコストを考えると、各地に分散させたのは長い目で見ても十分に元が取れているだろう。
とはいえ、高齢者の割合こそ今では六十から上が横ばいになっているものの、出生率は依然低く1.1と0.9の間をうろうろするばかりで、死にたがる老人が減っていく分だけ人口は右肩下がりとなるしかない。
老人が減った分空いた椅子が多そうなものだが、単純労働のほとんどが機械化され頭脳労働しか残っていないため就業の椅子も早い者勝ちで、失業率も百年前からほとんど変わっていなかった。そしてここにも、あぶれた者が一人。
俺のことだ。
「俺もラクドに行きたい」
「信心していれば、行けますよ」
俺は思わず日下部さんを睨んだ。どうしてこの局面で楽土のことだと思うのだろう。敬虔な仏教徒でもなければ神も仏も信じていない、ありふれた若者の一人だというのに。
けれどこちらを見て微笑む日下部さんを見て、俺は誤解に気づく。彼は、俺にそんな風に生を軽く扱ってほしくないのだ。ありふれた若者だからこそこの世界に執着してほしいのだと。
だが俺は、日下部さんが思うような未来ある若者ではないのだ。
「平日の昼間に、やっとの思いで公園のベンチに座ってる男だよ、俺は。糞つまんない童貞引きこもりニート」
「意外ですね。そんな風には見えませんでした」
そんな風に、わざとらしくなく驚きを見せる日下部さんは、清潔感漂う穏やかな老紳士という言葉が誰よりも似合う男性だった。優しさを体現させたような雰囲気を持つこの彼がどうして、ラクド行きを望むのだろう。最も縁遠そうなのに。
一方俺は、ぼさぼさに伸びた髪に生気もなく半分閉じた目、覇気が一切感じられない風体に着古した服は大学生以下の気の使わなさで、ラフにもほどがあった。外に出るに当たり一応ひげは剃ったものの、他者へのいたわりなど発揮できないであろうことは一目瞭然で、目を大きく開けられないのは太陽が眩しすぎるからだった。
殺処分が最もふさわしいのに、親は出て行けとも言わずに毎日ご飯を拵えてくれる。申し訳なさに殺傷能力があればいいのにと願えども、俺が何を思っても毎日はどうということもない風に過ぎていく。
「藤堂さんは、働きたくないのですか?」
「働きたいよ。でも……外に出るの、まだ怖くて」
恥ずかしながら、俺にはいじめを受けていた過去がある。そのせいで、不登校からの高校中退に至り、中卒という不名誉な最終学歴は履歴書に記す度に心が折れた。それでもなんとか試みた就職活動も、大卒ですら激戦となる獲得率の中では書類選考すら通らないという始末だった。
通るわけがない。企業が欲しているのは一定水準以上の頭脳だ。そこから篩にかけられた落伍者らが群がる単純労働ともなれば、さらに激戦だった。
俺は社会復帰を諦め、部屋に閉じこもった。夢も希望もなく、本当ならそのまま壁の一部となるべく膝を抱えたまま微動だにしないつもりだったのだが。
「今日はたまたま……天気が良かったから」
「ええ。本当にいいお天気です」
日下部さんの優しい頷きに、なぜか泣きそうになって俺は上を見上げた。途端に視界が真っ青に塗りつぶされる。初夏の空。少しだけ蒸し暑いけど、木陰に入れば大したことはないのだと思わされる。
しょわしょわと控えめに、木の幹に張り付いて蝉が鳴いている。百年前はもっとうるさいくらいだったらしいが、環境の変化でどんどん数が減って、あともう少し減るとめでたく絶滅危惧種に指定されそうな程度しかいないという。
漠然と、このままではいけないという思いを抱えていた。けれどどうすることもできずに悶々とパソコンのモニタを睨む毎日。そんな俺に気まぐれを与えたのは、日参している掲示板で「【速報】空がすさまじくきれい」というものすごくどうでもいいタイトルのスレッドを見つけたためだった。
マジかよ、と笑いながらいつも引いたままのカーテンを開けた先にあった吸い込まれそうなすさまじい青を、窓越しにでなく、窓からでもなく、地に降り立って見てみたくなった。それだけのことだ。
ただ外へ出るというそれだけの行為に、母親は泣き出さんばかりに喜んで俺を送り出した。空を見るという目的しか持たない俺の足は、近所の公園で止まってしまいそこから先へは進んでくれなかった。呆然としている俺に声をかけてきたのが、日下部さんだった。
「日下部さんは? 仕事」
「教師をしていましたが去年、早期退職しました」
「へえ」
そう言われると、教師というのはいかにもこの人にふさわしい職業に思えてくる。俺なんかにはもっとも縁遠い職種だし、その時まで見て見ぬふりを貫き通した教師全体を憎んですらいた。
だけど日下部さんがもし俺の通ってた学校にいたら、事態は変わっていたかもしれない。積極的にいじめに介入こそしないだろうけど、俺の話を黙って聞いてくれるような、いじめっ子とは逆の立ち位置にあるイメージを抱く。
もちろんそれはイメージにすぎないので、実際はどうなるかわからないけれど。
「なんで早期退職? 仕事、嫌だった?」
「いいえ。ただその前の年に、離婚しましてね」
実際はそれより前に出て行った奥さんから離婚届が郵送で届いたのだという。彼はそれに必要事項を記入捺印して、役所に提出した。出て行った奥さんはずっと嫁いだ娘夫婦のもとに身を寄せていたらしいが、連絡を取り合うこともなかったのだと、日下部さんは恥ずかしそうに語った。
結構重い話だと思うのだが、日下部さんの語り口が昨日の夕食はサバの味噌煮でしたと告白するような、軽くも感情の必要ないそれだったため、俺は束の間ぽかんと彼の顔を眺める羽目になった。
「それで、もうあくせく働かなくていいんだと思ったら、辞めていました。今はラクドへ行くことだけが支えです」
まるでラクドがなければ自死してしまいそうな言い方。否、ラクドへ行くこと自体、自殺と変わりない。
日下部さんは、死にたがっているのだ。その瞬間を心待ちにしている。
「なんで、そんなにラクドに行きたいの?」
「言ったでしょう? つまらない人生だったからですよ。羨んじゃあいけませんよ、藤堂さん。年齢に達したから即ラクドを望む人生なんて、ろくなものじゃあありませんから。それに、老人が一人減れば社会福祉の予算をその分他へ回せもしますしね。ラクド建設のおかげで爆発寸前だった国の借金が目減りしているのは事実です」
日下部さんがそんな壮絶な人生を送ってきたようには見えなくて、俺は思わず眉をひそめた。人は見かけによらないとは言うけれど、それにしたって壮絶という二文字からはとことんかけ離れている気がする。
それとも逆に、何もなさすぎてつまらないと結論付けているのだろうか。しかし彼は既に離婚という、ありふれてはいても普通でない経験を経ている。確かに面白くはないだろうけど。
「藤堂さんは、童貞でしたか。好きな人は?」
「……小学校の時にいたけど」
唐突な確認。俺はふてくされた物言いしかできない。だってそうだろう。それは恥ずべきことで、誇らしいことでは決してないからだ。
初恋のままひっそりと消えた俺の恋。相手は小学生にしてすさまじいほどの美貌の持ち主だった。学年の途中で転校していったっきり消息も聞いていないが、当時すら声一つかけなかったのだから、それでどうにかなるはずもない。
日下部さんは、そんな俺を見て笑った。あざ笑ったのではなく、柔らかな微笑を浮かべているのが不思議で俺は、首を傾けた。
「失礼。君を傷つけたのなら謝ります。けれどこれだけは言わせてください。それは君の大切なものだ。大事になさい」
「……童貞を?」
「一番いいのは好きな人と。けれど恥ずかしいからと焦って、その辺に捨てないように。僕みたいに後悔したくなければね」
相変わらずの穏やかな口調。けれどそのまま聞き流してしまうことはためらわれた。聞き返すことは当然、日下部さんの、後悔を含む過去を聞き出すことと同義になることは分かっていたけれど、俺はそのまま引き下がることはできなかった。
「どういうこと?」
「何、面白い話ではありませんよ。こんな僕でも、昔は若かったというだけのことです」
諌めるように言いつつも、俺の目の中の熱に気づいた日下部さんは諦めたように、やれやれと肩をすくめた。
「大学生の時分ですから、藤堂さんと同じ年の頃でしょうね。僕はまだ女性経験がなくて、なんとかその機会を得ようと頻繁に飲み会に参加していたんです。そこに参加していた女に、つまらないから抜け出そうと誘われ、これで童貞を捨てられるとおろかにも喜んでしまった。好きでもなんでもなく初対面、しかも好みからも大きく外れているのに、女であればなんでもいいなんて思っていました。それが間違いだったんです。彼女は妊娠しました。僕は責任を迫られ、彼女と結婚しました。それが別れた妻です。思えば怒ってばかりの女でした。僕が趣味で子供のころから集めていた列車の模型を捨てろと言いました。服装をちゃんとしろと言いました。恥ずかしくて一緒に歩けないと。僕は汚いからと、娘にはほとんど触らせてもらえませんでした。僕の意見は通らず、僕の好きなことは何一つ許されず、尻に敷かれていました。同い年でしたが、僕が妊娠させてしまったという負い目から、ずっと逃げることは叶いませんでした。気づかれていないと侮られていたようですが、妻には何人もの浮気相手がいたことは知っていました。同時に、ということではなくひっきりなし、ということでしょう、あれはそこまで器用な女ではありませんから。妻の遺伝子しか受け継いでいないような娘と二人で僕を、汚物扱いしました。そんな娘が嫁いで夫婦だけになってから、僕は初めて、娘が生まれて以来、一度として妻と性交に及んでいないことに気づきました。そして気づくと妻はいなくなっていました。いったいいつからいないのか、顔を合わせることも言葉を交わすこともないような、意図的なすれ違い生活をしていましたから判然としませんが、僕は人生の終焉を感じました。そして職を辞し、ラクド行きを申請したのです」
叶うならば、と日下部さんは伏せていた目を持ち上げた。それはなんてことはない動作に見えて、ひどく労力を伴っているように思えた。
「あの時の、誤った選択を正したい。結果、一生孤独で誰とも添わなかったとしても」
雲一つない真っ青な空を見上げた日下部さんは、眩しそうに視線をこちらに寄越した。少しだけ恥ずかしそうに、はにかんでいる。
「仮にそうなったとしても結局は、ラクド行きを望んだかもしれませんがね。詮無いことを言いました」
俺は何も言い返すことができずに、強引に日下部さんから目を引きはがした。確かに彼の語ったそれは面白いなどと茶化せる類ではない。しかしつまらないと切り捨てるにはあまりにも、残酷だ。
この人には、何もない。掴みとろうと伸ばした手すら邪険にされ、誰もが何をも彼に、与えてくれなかったからだ。年齢に達したからと喜んで生を捨てられるくらいに、踏みとどまらせる思い出すらも。
こんなに悲しいことがあるだろうか。
彼の人生を踏みつけにした彼の妻が許せない。もし目の前に件の人物が現れようものなら、問答無用で殴っていただろう。握りしめる俺の拳を日下部さんがちらりと一瞥して、首を横に振った。
「君が腹を立てることはありません。しいて言うなら、この僕に腹を立てるべきです」
「でも」
「いいえ」
穏やかではあるがきっぱりとした否定に、拳の中に込めた力が自然と抜ける。そうさせるだけの強さが、そこには宿っていた。
「僕がいけないんです。最初の段階で過ちを認め、中絶しろというべきでした。もちろん、費用も出してね。そして何を言われても動じないでいればよかった。けれど鋼の精神を持たないでいたために、僕の中には失敗と後悔しか残らなかったのです。それを持ちうることは存外簡単なのに」
強い意志を持てなかったのだと彼は言うが、俺にはそうは見えない。いくら負い目があるからとはいえ、何十年も自分を殺して萎縮し続けなければならない人生など、想像だけでも送るのは不可能だ。
するとそんな俺の内心を察したように、日下部さんは小さく笑った。
「藤堂さんは僕の第一印象を、どのように感じましたか」
「え? ……ええと、優しそうな」
「優しいとは、弱いということなのですよ」
日下部さんのその意見には賛同できず、俺は膝の上の拳を再び丸めた。先刻とは違いそこには感情の高ぶりによる力は、一切こもっていなかったけれど。
「弱いことは、いけないこと?」
「いいえ。それは受け止め方次第でしょうね」
「俺は弱いけど、優しくなんかないよ……」
思い出ならば、俺もない。日下部さんがそうして除外したように、虐げられ踏みつけにされた過去を思い出とは呼べまい。俺は、空っぽだ。何も持たないことが罪だというのなら、俺こそが真っ先に処分されるべきなのだ。
「藤堂さんは優しいですよ。見ず知らずの僕の話を聞いてくれたじゃないですか」
ありがとう、と日下部さんは頭を下げた。聞くぐらいなら、誰にでもできることだ。礼を言われる価値なんて、俺にはないのに。俺はまた泣きそうになって、唇をかみしめた。そして日下部さんのこの穏やかなる雰囲気の根源に気づいた。
弱さを知る人は、弱い側の心に寄り添えるのだ。だから優しくあれるし、強く出ることもできない。それは悲しみを伴ってしまうけれど、武器にして味方を増やすこともできる。俺が彼の隣から立ち去りがたくなっているのと同じに。
「さて、そろそろ行かなくては。長いことお引止めして申し訳ありません」
「俺は、別に……」
「では、お元気で。もうお会いすることもないでしょうが」
「待って」
立ち上がろうとする日下部さんを、俺は思わず引き止めた。俺の制止は遅く彼はもう立ち上がってしまったが、立ち去ろうとはせず俺を見返した。
「ねえ、あんたは幸せになるべきだよ。もう奥さんもいなくて、何に気兼ねすることなく余生を送れるんだろ。好きに生きればいい。ラクドなんて、行くことない」
「僕がかわいそうに思えますか?」
年かさの者を憐みの目で見ていたことを遠まわしに責められたのかと思って赤面するも、日下部さんの目はどこまでも優しく慈愛に満ちていた。その目には捨てられていく子供のような顔をした俺が映っていた。
「藤堂さん。君は馬鹿ですね」
「ば……ばかだよ。中卒だし」
「そういうことではありませんよ。分かっているでしょう?」
褒めようとしているのに叱られると勘違いしている生徒そっくりです、と日下部さんは笑った。俺は泣かないように奥歯を噛みしめるのに必死で、笑えなかった。
この人は、もう決めている。俺が何を言ったところで、ラクドへ行くのを止めることなどできない。俺が、若造の分際で馬鹿みたいに止めようとしたことを、逆に自分のせいだと責めるかのようなまなざしは、透明で静かな美しい湖面にも似ていた。
「恥ずかしながら、この年になっても自分のことしか考えていないことを思い知らされました。気づけたのは藤堂さん、君のおかげですよ」
「え……」
「僕は、君のような若者にこそ生きていてほしいんです。だからこそラクドへ行きますよ。絶対に、何があっても」
そう言って彼は、深々と頭を下げた。姿勢を戻した日下部さんは、いたずらっ子のような笑みを浮かべていた。
「まあ、これも僕の勝手ですね。君は僕を責めるでしょう。しかし好きに生きろと言ったのは藤堂さん、あなたですからね?」
軽く会釈をすると日下部さんは、振り返らずに公園を出て行った。と思ったら公園を出たところで再び会釈をする。すぐさま木立に隠れ、それきり彼の姿は拭い去ったかのように完全に見えなくなった。
彼を青く塗りつぶした絵筆がその辺に、探せば転がっていそうだったが俺は、身じろぎすらできずにただじっと時が過ぎるのを待っていた。まるでそうしていれば、日下部さんが再び戻ってくるのではないかと期待するように。




