第十一章 6話
しばらく飲まず食わずでいたために、体はうまく動かせず、畳の上に大の字の格好で寝そべった体勢で律花は天井を眺めていた。
日に日に、眩暈の回数が増えている。だが、それもあまり気にならなかった。この三日間、律花は寝そべったまままどろんでは目が覚め、考えてはまたまどろむ、というような生活をしていた。閉め切った部屋の中は空気が淀み、真っ暗で律花を押し潰そうとする。もし、それで押し潰されるのならばそれでも良いと思っていた。
―――私が犯した罪の重さを思えば。
曲直瀬に織田信長が死んでしまった事を聞いてから、ずっと考えていた。自分が起こしたことによって及ぼした効果を。考えれば考える程に、恐ろしかった。
歴史が変わってしまうと言う事は、どう言う事なのだろう?
細かい事や具体的なことは律花には良く分からない。ただ分かる事は、もしかしたら律花の生きてきた世界が、もう存在しないものになってしまったかもしれないという事だった。歴史は一つ一つの事柄を積み上げて出来ている。それの中で小さな出来事が多少変わった事で、歴史の大きな流れに対してはさして影響を及ぼさないだろう、と思っていた。だけど、もし、その大きな流れを覆すほどの干渉をしてしまった場合、その先の歴史はどう変わっていくのかは皆目見当が付かない。そこを起点に、大きく歴史が捻じ曲がってしまい、本来は存在しなかった人が存在するようになり、存在すべきだった人が存在しなくなるかもしれない。どこかの戦で死ぬ人が生きていたり、どこかの戦で生きるはずの人が死んでしまったり。生まれる筈の子供が生まれなかったり生まれない筈の子供が生まれたり。
そう言う事が重なって、自分の世界に存在した人の存在を、もし、自分がその手で消してしまっていたとしたら。それを考えると自分のしてしまった事の重大さに、押し潰されそうになる。父や母や、二人の兄や友人達や教師や。そう言った大切な人達がもし、存在しなくなってしまったとしたら?
そんな事を考えて、こうしてずっと部屋に篭っていた。
何をする気にもなれなかった。日の光を浴びるのも自分には許されないことだと思った。締め切った部屋だから、日が登るのも沈むのも分からない。時間の感覚はなくなってしまい、どれだけこうしていたのかも忘れてしまった。長いような気もするし、短いような気もする。
このまま、淀んだ暗い部屋の中で、衰弱して行くのなら、それでも良いと思った。
―――だって、私には耐えられない。
この罪は、律花には重すぎる。
―――夢だったら良いのに。
プールで溺れてからの事が全て夢で、今、律花は病院のベッドで眠っている。そうして、こちらで死んで初めて目が覚めるのだ。そこには、心配そうな家族と友人達の姿があるだろう。律花が目を覚ましたのを見て、きっとその人達は笑顔で喜んでくれるだろう。
―――ここにいる、自分も世界も、全て架空の、存在しないもの。
思い込むように、そう言い聞かせて律花は目を閉じた。ゆるやかなまどろみの波が律花を包み込む。こうして、現実と夢の区別は曖昧になっていく。 境界線は溶けて、今自分が起きているのか寝ているのか、これが夢なのか現実なのかが分からなくなっていく。
こうでもしていなければ、耐えられない。
押し寄せてきたまどろみの中で、ふいに耳になれた心地よく低い声が聞こえて来た。
「律、いるか?」
律花はぴくりと体を震わせた。
「律、何があったか話してみる気にはならないか?」
優しい口調。
その声に、現実に引き戻されそうになって、律花はのろのろとあまり力の入らない手を動かして耳を塞いだ。だが、声を完全に遮る程の力は込める事が出来ない。それに、戸口に背を向けながら、律花は無意識にその向こうの気配を探っていた。その人物は、しばらくそこへそうして立っていたが、やがて大きく溜息を付いたようだった。
「俺は、ずっとここにいる。話したくなったらばいつでも言え」
そんな声と共に、戸口がぎしりと軋んだ。八尋が背を持たせかけたのだろう。
―――いけない、いけない。
律花は慌ててそこから意識を引き剥がす。これは、夢なのだ。あれは存在しない人なのだ。ここはきっと、架空の……。
―――でも、ちゃんと声がする。
―――違う、違う。八尋なんて人は存在しないんだ。私は病院のベッドで。
―――じゃあ、戸口の向こうにいる人は誰。
―――人なんていない。ここに人はいない。私は、存在しない。
頭が混乱する。体中からもう出尽くしたとばかり思っていた汗が噴き出した。ぐらぐらと、目が回る。
―――じゃあ、私が今まで経験してきた事は何? 一緒にいたのは?
あの温かい手の、素っ気無いようで親しみのこもった声で「律」と呼ぶその声の持ち主は?
眩暈がする。混乱する。吐き気がする。
―――その人の存在を受け入れてしまえば、自分の罪も受け入れてしまう事に。
でも、だけど。……。
「八尋」
掠れたか細い声が、まるで助けを求めるようにその名を呼んだのは、八尋がそこに座り込んでから実に三刻程経った時だった。外は既に日が暮れ、周囲は闇に呑まれている。
「律?」
八尋は即座に戸口に持たせかけていた背を持ち上げ、それに向かい合って問う。
「律、どうした? 大丈夫か?」
「八尋、どうしよう」
今にも消えてしまいそうな微かな声に、八尋はひやりとする。
「律、ここを開けても良いか?」
八尋の問いかけに、律花が頷くのが気配で分かった。
八尋は何度か戸をがたがたと揺らしてみるが、それが無理だと分かると、少し離れて肩から戸に激突し、それの衝動で戸を外してしまおうとする。一度ではそれは出来なかったが、何度か挑戦するうちに、引き戸の交差する当りに隙間が開いた。そこに手を差し込んで慎重に戸を外す。
「律……」
呼びかけながら部屋に入って、八尋は眉を顰めた。
真っ暗な部屋で、始めは何がどこにあるのか良く分からなかった。ただ、部屋中を侵食する淀んだ空気が戸口から抜けていくのを感じた。
闇に目がなれて行くうちに、ようやく律花が寝そべっている事に気が付いた。八尋はその場に座り込んで律花の肩を抱き上げて絶句する。
―――軽い。
ここ数日、なにも口にしていなければ当然だろう。もうそろそろ暑い季節だ。水分も汗となって殆ど流してしまった事だろうと思う。かさかさに乾いた唇が目に痛い。
八尋は持ってきていた竹筒を律花の唇にあてがう。律花は少し抵抗したものの、強くそれを抗えるだけの力も持っていないようだった。大半は唇から零れ落ちてしまうが、それでも律花の喉が微かに動くのを見て安堵する。
ふいに、律花の手がよろよろと持ち上げられる。怪訝な顔で見ている八尋の顔にそれは到達し、何かを確かめるようにそっと触れた。
「やっぱり、八尋はいるんだね……」
その言葉の意味が掴めずに不審な顔をする八尋に律花は重ねて言う。
「私、どうしても八尋の存在だけは否定できなかったよ」
そう言うと共に、今の今まで乾いていた律花の瞳から、涙が涌き出て来た。八尋はしばし当惑してそれを見ていたが、やがて優しく、落ち着けるように律花の頭をそっと撫で続けた。
八尋の腕の中で、その体温を感じながら律花は目を閉じる。まなじりを流れる涙の感触が生々しい。自分は、このように涙を流す資格もない筈なのに、こうしてこの人の体温に触れてしまえば心のどこかが緩んでしまう。額から頭にかけて、ゆっくりと動く不器用な手がさらにそれを促す。急かすことなく、飽く事なく、律花が涙を止めるまで、ずっとそうしていてくれるつもりなのだろう。
やがて、ようやく落ち着いた頃、律花はぽつりと言った。
「八尋、私、未来を変えちゃったよ」
怪訝な顔をする八尋に構わず、律花は更に言葉を重ねる。
「曲直瀬先生に聞いたの。私が行ったせいで曲直瀬先生は篠田に来て、それで本当は助かる筈だったもう一人の人が亡くなったんだって。その人の名前は織田信長って言ったの」
八尋は黙って頷いた。その話は曲直瀬にも聞いたし、尾張に住むその男の名前は以前から聞き及ぶ事もあった。
「その人はね、本当はこの先日本の歴史上で欠かしてはならない筈の人だったんだよ」
律花は耐え切れないように声を震わせて、それでもそう言った。
「とっても有名な人で、たくさんの事をやった人。その人が居なかったら、私たちの歴史は狂っちゃう。……もしかしたら」
そこで、律花は言葉を切る。怯えたような色が律花の瞳を掠めた。まるで、その言葉を言ってしまえば全てがその通りになってしまう、とでも言うように。
律花は大きく息を吸い込んで信じられないくらいの力で八尋の手を握る。
「もしかしたら、私のいた場所は存在しなくなっちゃったかもしれない。家族や友達や、そういう人達はみんないないことになっちゃったかもしれない」
はっきりと声が震えている。見ていても分かるほどに顎ががくがくと定まらずに、時々歯のぶつかる音まで声に混じっている。それほどまでに律花にとってはそれが恐ろしい事なのだ。
それなのに。
八尋は一瞬自らに宿った衝動のような感情を嫌悪した。
その感情は律花に対する同情や哀れみや、そう言った物ではない。それは、激しい程の喜びだった。
律花の家族が存在しない、という事は律花をそちらに繋ぎとめる物がなくなった、という事だ。律花がとても大切に思っているもの。きっとそれを大切に思うあまりに、いつかは八尋たちを捨ててそちらに戻って行ってしまうであろうもの。その原因が消え去ったという事に、八尋は喜びを感じたのだ。それさえなければ、律花をここに留めて置くのも可能なのではないか、と。
この上なく苦しんでいる律花を目の前にして、そんな事を一瞬でも考えてしまった自らの浅ましさに八尋は憎悪に似た嫌悪を覚える。覚えるけれど、分かっていた。
―――きっとそれが自らの心の奥底で願っている事なのだ。
律花がずっとここにいれば良いと思う。律花が自分を捨てて帰ってしまうのが恐ろしい。
だが、それを押し込めて、律花が望むのだから、律花が帰る方法を探してやれる、と思っていた。それなのに、律花がその帰る場所を失ったかもしれないと言う。
八尋は律花に気がつかれないように静かに大きく息を吐いて気持ちを整える。そうして落ち着いた声で言った。
「律、自分を責めるな。お前があの時曲直瀬を呼びに行ったのは俺を助けるためだ。自分がした事で罪の意識を感じているのならばそれは違う。俺がいなければお前はこんなに苦しむ事はなかった。お前の責任じゃない、俺の責任だ。お前が気に病む問題ではない。憎むならば、恨むならば自分ではなく俺を恨め」
律花は大きく目を見開いて八尋を見た。八尋は努めて穏やかに聞こえるように続ける。
「俺が、あの時に律の手を煩わせずに死んでいれば良かったのだな……」
その言葉を聞いた時、体中を強い感情が駆け巡り、律花はさっと顔を青褪めさせた。
「駄目」
反射的にそう言う。自分にこんな力が残っていたのかと驚いた時には、既に八尋の首にしがみ付くようにしていた。
「駄目、死んじゃ駄目だよ」
―――ごめん。
律花は苦く、それでも強く思う。
―――ごめん、お父さん、ごめん、お母さん、ごめん、優兄、ごめん、圭兄。美佳、未央……。
思いつく限りの人を思い浮かべて、謝る。謝り続ける。その人の声が、顔が、頭の中でぐるぐると回る。
―――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
だけど。
「済まない、意地の悪い言い方をした」
耳に聞こえる落ち着いた声。律花を落ち着かせるように気遣わしげに、あやすように軽く背を叩く手の温もり。しがみ付いた体の体温。この全てもまた、律花にとっては現実なのだ。
この人が死んでしまうなんて事をとても考えられない。
―――もしも。
温かい八尋の腕の中、律花は自分の中にある感情に目を向ける。恐ろしくて、ずっと逸らしていたものなのに。
―――もしも、この結果を分かった上で、もう一度やりなおせるとしても。
元の時代の人達だって本当に大切なのだ。大切なのに。
―――それでも私はきっと、同じ事をするかもしれない。
穏やかな正午。栄が手に粥の盆を持って日の差し込む廊下を歩いている。
八尋が説得した事で、律花は一応平静を取り戻したようだった。以前のような元気は取り戻さないが、それでも締め切った部屋はきちんと喚起し、食事を持っていけば口を開くようになった。
八尋が律花を抱えて戻ってきた時は、おおわらわだった。律花は三日間なにも口にしていない事でかなり衰弱していたし、意識も朦朧としているようだった。医師を呼ぶと共に、台所へ行って、かなり柔らかく煮た、ほぼ水と言っても良い様な粥をつくるなど大慌てで対処したものだった。
その時に比べれば数日経った今では、始めの頃は胃が受け付けなくて戻してしまう事さえあった粥もどうにか食べられるまでに回復したし、気分の良い時は微笑みを見せることもあった。それが、栄には嬉しい。八尋に抱えられて来た律花を見た時はゾッとしたものだ。何がこの明るい娘をここまでしてしまったのか、と思うほど律花はやつれた顔をしていたから。
ふと、栄は前方に見える人物に気が付いて足を緩めた。その人物は、思いつめたような顔をして睨みつけるように律花の部屋の戸を見ている。それを見て、栄は呆れた顔をした。
「何やってんのさ、あんた。また、彰さんに怒られるよ」
その言葉に、相手は弾かれたように栄の方を向く。そうして栄の姿を認めると、安堵したような息を吐いた。
「驚かせるなよ」
不満そうにそう言う男は近頃八尋の臣となった弥一という男だ。今は目下彰の下でしごかれている事の方が仕事、というような感じになってしまっているが。
「あんた、彰さんに律に会わせてくれって掛け合ったんだって?」
鼻で笑うように栄が言うので弥一はむっとした顔をした。彰には当然、にべもなく断られたのだ。それを見て、栄は更に続ける。
「身の程を知れって。大体、あんた時柾様の臣だろう? 主人の女に懸想してどうするのさ?」
「身の程を知れ、はお互い様だろう?」
腹立たしそうに鼻を鳴らして、弥一は反論する。
「彰さんはお前なんて相手にしていないのに、お前、あの人の前では柄にもなく猫被ったりして」
弥一には、栄が憤慨するかと思ったのだが、驚いた事に栄は声を立てて笑った。
「あたしは確かにあの人が良い男だとは思ってるけどね、ちゃんと身の程をわきまえてるよ。あの人は、あたしなんかを相手にしないってちゃんと分かってる」
不可解な顔をする弥一に、栄は更に笑って見せた。
「ようやく、分かって来たのさ。無理に上玉の男を掴もうとしなくても、自分の満足の行く生き方は送れるかもしれないってね。あたしは、今の生活に結構満足しているんだ」
そう言って、栄は和やかな瞳を律花の部屋の戸口へと向けた。そうして、しみじみと言う。
「あの子が、生きていてくれて良かったねえ」
その言葉には同感だ。弥一が不貞腐れながらも頷くと、栄はふっと笑みを浮べる。
「そうだね、あんたがもうちょっと出世をしたなら、あたしはあんた程度で満足してあげても良いんだけどね」
「は?」
弥一が唖然とするのに、栄はからからと笑う。
「だって無理だよ。あんたじゃ到底時柾様にかないやしない。さっさと諦めた方が傷は浅いままだと思うけどね」
「うるさい」
癇癪を起こした様にむきになって反論する弥一に、栄は余裕の笑みを浮かべて、手をひらひらとふる。
「さ、行った行った。彰さんに断られたあんたがここに居たんじゃ、あたしは部屋に入れないよ。そうすると、どんどん律の食事が遅れるんだ」
言われても、尚も食って掛かろうとする弥一に、栄は呆れて言う。
「彰さんに言いつけても良いのかい?」
その言葉に、弥一は明らかにぎくりとした顔をし、それでようやく悔しそうにしながらもその場を去って行く。栄は少し苦笑した後、律花の部屋の戸を開けた。
戸を開けたところで、先客が居たのを見て慌てて盆を床に置いてその場に平伏した。
「失礼いたしました。まさか、いらっしゃるとは思ってもみなかったので……」
この時間帯は、普段ならまだ仕事をこなしている筈だ。そう思っていたからわざわざこの時間に来たのに。
律花の側に居て、かと言って話をする訳でもなしに側で書などを読んでいた八尋は目を上げて栄の姿を確認すると、書を卓の上に置いて立ち上がる。
「気にしなくて良い。仕事が早く終わったので来てみただけだ」
淡々とそう言いながら近づいて来て、栄が床に置いておいた粥の盆を取り上げる。
「丁度暇だったところだ。俺がやっておくから下がって良い」
それだけ言って栄の事には目もくれず、さっさと律花の元へと戻る。
栄はその姿を見送って内心で溜息を付いた。
―――ほらね、弥一なんかじゃとても太刀打ちできないわよ。
その年に似つかわしくない程に落ち着いていてそつのない立居振舞も、律花に対する執心ぶりも、だ。
栄は浮かべた苦笑を隠すように平伏すると、そのまま戸を閉めて退室した。
「もう、自分で食べれるよ」
八尋が粥を匙で掬って、それを律花に差し出そうとしたところでその意図に気付いて、律花は慌てて言った。
「もうそろそろ、体力は回復してるんだから」
律花の言葉に、八尋は「そうか」と頷き粥を差し出す。律花は礼を言って受け取った。
しばらく沈黙が続いた。
八尋は元々あまり話をする方ではないし、律花の方もまだ精神的なものからあまり口数は多くなっていなかった。八尋には、それが少し惜しい気がする。あれから、律花が以前の様に何の屈託もなく笑う顔を見る事ができなくなってしまった。
「律、考えてみたのだが」
やがてぽつりとそう八尋が言うので、律花は手を止めて八尋を見た。八尋は前を見据えたまま考え込むようにして話す。
「律は、自分が歴史を変えてしまったから家族はもういなくなってしまった、と思い込んでいるようだが、それだって可能性の一つに過ぎないのではないか?」
怪訝そうに眉を顰める律花に、八尋は続ける。
「確かに、尾張の信長殿は亡くなってしまったが、今までこの国が歩んできた歴史を思えば、いつかはこの国を統一する者が出てくる事は自明の事だ。歴史の流れというものは、規則がある。それは、大陸の史書を読んでも分かる事だ。だから、歴史にだって自分で辿るべき道に戻ろうとする力を持っているかもしれない。それだって、可能性の一つだ」
律花が不審気な顔をしているのをちらりと確認しながら、八尋は更に続けた。
「それだけではない、もし、歴史が変わったとしても、変わった要素をすり抜けて、お前の知り合いは無事でいられているのかもしれない」
なにより、と八尋は律花の頭をくしゃりと撫でる。
「ここに律が存在すると言う事は、お前を生んだ両親が存在する、という事だろう? 彼らは無事に存在しているという可能性は高い」
ここに律花がいるのはこれが朱子の体だからだ、と考えかけて律花はハッと思い返す。
―――そういえば、京から帰って来た後も、朱子さんは私の格好で存在していた。
そう考えると突然、一筋の光が見えたように思えた。
「そうか、そうなら、いいなあ」
律花は祈るように、しみじみと言う。
もし、自分が八尋の命も救えていて、大切な人達も無事であればとどんなに思ったことか。どちらも天秤にかけて選び取る事などできない大切な人達だからこそ。
律花がそうして張りつめていた気を緩めて微笑んだのを、八尋はしばし眺めていた。
「だが、律」
不意に発された八尋の声の中に、微かな緊張感のような物を感じて律花は怪訝な顔をする。八尋は吸い込まれそうな深い色の瞳で真っ直ぐに律花を見つめていた。律花は目が離せなくなって、そのまま見つめ返す。
「これだけは覚えておいて欲しい、もし、そうでなくとも、事実がお前の望む事ではなくとも、ちゃんと生きろ」
塞ぎこんでいた間の律花は食事を摂らないで、部屋に閉じこもって、まるでそのまま死んでいくのを待っている様だった。自分から積極的にではないにしろ、もしかしたら気持ちが死の方へと引き寄せられていたのではないかと、そう思う。思って、八尋はゾッとしたのだ。
八尋は真剣な瞳で続ける。
「もし、お前が死んでしまうような事があれば」
律花はその次の言葉を驚愕と共に聞いた。八尋が去った後も、その言葉はずっと律花の頭の中に反芻されていた。
「もし、お前が死んでしまうような事があれば、俺はきっと生きてはいられない」
それは律花が死のうなどと思わないように八尋なりの牽制なのかもしれない、いや、多分そうだろう。
―――だけど。
その瞳はあまりにも真剣だったので律花はどこか背筋がぞくりとしたのだった。




