第十二章 1話
「やあ、律。すっかり元気になったようだね」
にこやかな笑顔で言う彰に律花はきまり悪そうな笑みを浮かべた。その表情は、大分晴れやかになっている。体力の回復と共に、気持ちの方も持ち直したのだ。
不安な事、気に掛かる事はたくさんあるが、とりあえず後ろ向きになるのはやめよう、と思った。八尋が言っていた通り、家族の事に関してはどれも皆律花の推測の域を出ず、不確定なものなのだ。はっきりと真実が分かるまで早とちりして落ち込んでいるのは馬鹿らしい、と自分に言い聞かせて無理矢理にでも憂鬱な思いを吹き飛ばす。
今度、朱子が出て来たら絶対に問いただしてやろう、と、これが律花の出した当面の答えだった。
「はい。心配おかけしました。今日からお勤めに戻ります」
律花が言うと、彰はくつくつと意味ありげに笑う。
「臥せっている時には時柾様に手ずから看病された事もある律が、今更お勤めに戻れるかい?」
揶揄するような口調に、律花は軽く彰をねめつけた。
「大丈夫です。すぐにカンを取り戻します」
言うと、彰は笑って頷く。
「そう。じゃあ、とりあえず北見の所に行って稽古をしておいで」
そう言って送り出した彰の何かを含むような笑顔を癪に思いながらも、数刻後には律花は彰の言う事の正しさを実感しないわけには行かなかった。臥せている数日間で律花の体力は大分落ちてしまっていたらしく、稽古を終えた頃にはくたくたになっていた。それでも、もうすっかり精神の安定を取り戻した北見は、律花が病み上がりだからというので手加減をしてくれた、というのだから律花の体力の衰えようはとても激しいものなのだろう。
そんな風にへとへとになりながらも、律花はお勤めをするため八尋の所へと向かおうとする。その途中で、思わぬ人物に呼び止められて足を止める事となった。
「律、ちょっとこちらへ」
ずっとそこに居て律花が通りかかるのを待っていたらしいその人物は、律花の知らない女性に手を引かれた清丸だった。その様子は、どこか浮かない印象を受ける。
「清丸様。どうしたんですか?」
律花は怪訝そうにそちらへ向かう。
「それに三太は?」
ちょっと前までは、世話係だといって三太が清丸とずっと一緒に居たし、清丸もどこか三太を気に入っていた風があったのだが、見たところ三太の姿はない。
律花の言葉に清丸はついと視線を逸らして眉をしかめた。
「新しい世話係が見付かったので辞めてしまった」
その言葉に、律花は納得をした。三太は結局、自分の意思を曲げなかったのだ。清丸と一緒に居て情にほだされて篠田に留まりはしないかと、律花は少し期待していたのだが。
「それで、何のご用ですか?」
律花の問いかけに、清丸は表情を暗くした。
「お前に頼みがあるんだ。……事情を説明するから、とりあえず母上の所に来てくれ」
その言葉に、律花は首を傾げる。果たしてこの場合は、次にお勤めが控えている自分が行くのは良い事なのだろうか?
だが、目の前の清丸の視線はとても真剣なもので、ただならぬ印象を受ける。
―――お勤めの時間までは、まだ少しあるし。
それに癪な事ながら、彰は今日の律花を労働力の一つとして見ていないのではないかと思うのだ。だから、万が一律花が行かなくても支障はないのだろう。
「はい」
律花が頷くと、清丸は心もち安堵した顔をする。そして、世話係の女性を追う払うように自分の部屋に戻っているように命じ置いてから、律花を先導して歩き出した。
朝時の奥方の部屋に着くと、清丸は声を掛けただけで向こうから障子を開けられるのも待たずに勝手に開けて入って行き、律花にもそれに続くように促した。律花は戸惑いながらそれに続く。そうして、部屋に入ってすぐに驚愕した。
「どうしたんですか?」
挨拶よりも先にそう言ってしまったのも無理はない。奥方は布団に横になっており、布団をかけたままでも見える色々な場所に痛々しい包帯を巻いていた。
律花の言葉に、包帯の間から覗く奥方の瞳が苦笑した。
「大丈夫、見た目ほど酷いわけじゃないのよ。ただ、大事をとってこうしているだけ」
その言葉に重ねて、清丸が言った。
「あれの殆どは割れた陶器などの破片が当って切ったりしたものだ。実際は大した事はない。……もっとも、足の方は大きな火傷を負っているけどな」
その言葉に、律花は眉をしかめて問う。
「どうして?」
律花の痛ましげな視線を受けて、奥方はどこか憂いを含んだ、それでも柔らかい笑みを浮かべた。
「朝時様とお茶を、とお呼ばれしてお茶室へ行ったのよ。そうしたら、あの方は既に発作を起こしていらっしゃって」
穏やかなその言葉を遮るように清丸が横から勢い込んで言う。
「桂が仕組んだんだ。お父上が茶室で発作を起こしそうになったから、わざわざそこに母上を。その上で中の様子を外から窺っていて命に危機が及びそうになったらさも自分が助けてやった、という顔をして助け出して」
「まさか」
律花の口か零れ落ちた声は、空虚に渇いていた。まさかと自分で言っておきながら、桂ならばやりかねない、と考えていたのだ。
だが、奥方はじっと律花を見つめるばかりで否定をしなかった。
「わたくしがこの間桂に反抗したものだから、桂にとっては仕返しのつもりだったのでしょう。殿には、あとでわたくしが自分でけつまづいて転んだ、とでも言えば良いと、そう思っていたのだと思います。……だけど」
奥方は痛みに耐えるように眉根を寄せて目を伏せた。
「殿は意識がないと言いながらも、本当は夢を見ているような気持ちでうっすらと覚えているのです。以前、一度だけ聞いたことがあります。あの方は、いつも発作の時には決まって自分が女を斬る夢を見る、と言っていました。そんな夢を恐ろしくおぞましく思っているようで、あまり人には言えなかったそうですけど」
律花は震えが走るのを感じた。
そんな朝時が夢で自分の妻に乱暴を振るうのを見て、現実に妻が怪我をしていたらどう思うのだろう?
「あの方は弱いからそれをお認めになれませんけど、それでもいつもそれに恐ろしさを感じています」
奥方は冷静な声でそう言う。
「だから、お願いがあるのです。あの方を連れ戻して。今のあの方はとても不安定で恐ろしい」
その話の展開を掴めずに首を傾げる律花に、奥方は言った。
「朝時様が突然行方をくらませてしまったのです。いままでもこんな事は何度かあったけれど、今回はいつもにも増して不安だから……」
縋るような奥方の言葉と清丸の瞳。
律花はしばしそれを見比べるようにした後、安心させるように大きく頷いた。
奥方に言われた話と、朝時を探す事を話すと彰は少し嫌な顔をして愚痴のように「まったく、すぐに律はほだされるんだから」と言ったが、それ以上は文句も言わずに馬の用意をしてくれた。
清丸と奥方が何故律花を選んだかといえば、事情を知る数少ない人間だから、というのもあるが、ジンを期待しての事もあった。ジンの鋭い嗅覚で、朝時の行方を嗅ぎつけられないかと。だが、律花がそれを試してみても、少なくとも城内と城下に朝時の姿は発見できなかった。
しかし、律花はそれに落胆はしなかった。律花には一つ心当りがあったのだ。それを目当てに彰に馬を用意してもらった。
ジンを従え馬を走らせながら、木野からの帰りに朝時と立ち寄った集落を思い返す。朝時は確か、遠出をする時はいつもあそこへ泊まると言っていた。もしかしたら今回も……。
突然の律花の来訪に驚いたようにしながらも、それでもその家の主の妻は律花の事を覚えていて家に招きいれてくれた。律花は戸口でそれを辞退して朝時の事を尋ねる。
律花の問いかけに、女は少し迷った風に首を傾げた。その様子に、律花は女が知っている事を確信して畳み掛けるように言った。
「皆さんが心配しているんです。清丸様や奥方様も、とても」
女が尚も困った顔をする。
「別に、無事でいるって分かればそれで無理に連れ戻そうとしたりしませんから、それだけでも教えてくれませんか?」
律花がそう言い募ると、女はようやく首を縦に振った。
「そうねえ、本当は朝時様に口止めされていたのだけど。……来ましたよ。昨日の夜、ここへ」
―――やっぱり。
朝時は城が息苦しくなると遠出をする、と言っていた。そして、その遠出の時、使う家は毎回ここだと言っていたのだ。
「どんな様子でしたか?」
律花が聞くと、女は首を傾げる。
「お疲れなのか、少しやつれていらっしゃる様子だったけど」
「ここを発ったのはいつですか?」
律花は重ねて問いかける。
「朝ですよ。夜のうちに明け方にはもう出て行く、と仰って、私たちが起きだす前にはもう、出て行ってしまって……」
「どこへ行ったかは?」
その問いかけには、女は首を振った。
「聞いてません。てっきり、お城に帰られたとばかり思っていたわ」
―――どこに行ったんだろう。
馬で行ったのならば、ジンの鼻もあてにならない。
―――そういえば。
確か、以前朝時と木野から戻ってくる時に、朝時はよく木野まで足を運んでいたと言っていたように思う。
―――まさか。
木野は一応敵陣だ。そう気軽に何度も行くのは危ない。
―――だけど、もしかしたら。
三太が木野に帰ってしまったこともあるし、可能性があるのならば行って確認してみるに越した事はないだろう。
「あの、木野に行くにはここからどうやって行くのが一番良いんですか?」
律花が問いかけると女は不審気な顔をした。
「木野へ? 危なくはない?」
「大丈夫です。教えてください」
その言葉に、女はまだ少し当惑したような顔をしながらも、頷いて玄関先から家を出るとそのまま集落を突っ切って出て、そこで指を差した。
「ここを真っ直ぐに駆けるのが一番早いよ」
「ありがとうございます」
律花は礼を言うと、急いで駆け出して馬に乗る。そのまま、ジンを引き連れて馬を駆けさせた。
近道、と言っても距離は結構ある。律花がその場所に着いたのはもう、日が暮れてかけてからだった。
大雑把に木野、と言っても広い。その場所に行っても確実に朝時の居る場所へ辿り着けるとは限らなかったから、これは賭けの様なものだった。だが、木野に近づいた時に、運良くジンが風に乗ってくる朝時の匂いを嗅ぎ当てたようだった。一声吠えて律花について来い、とでも言うように先導して駆け出した。
ジンに導かれて着いた先は背後を山にして、目前には草原以外の何もない、野原のような場所だった。遠目に人影を見つけ、それが朝時だと確認できると、律花はジンと馬をその場に留めて一人で近づいて行った。
朝時はただ、そこに座っていた。律花が近づいて行く途中でその姿に気付いたようで、目の前に来たところで弱々しい笑みを浮べた。
「見付かってしまったか」
おどけたように言った口調には力がない。
「奥方様も清丸様も心配してました」
律花は立ち止まってそう答えた。朝時は表情を曇らせて俯く。
それから、おもむろにごろん、とその場に横になった。
「三太とは、ここで出会ったんだ」
大きな両の手のひらで目を隠すように覆って、朝時は言う。
「たくさん雪が降っていて綺麗だったから、こうして寝そべって空を見ていた」
律花は黙ってその姿を見つめる。今はもう、夏になっている。雪景色の面影はここにはどこにもなく、ただ、夕日に照らされた草が風にそよいでいた。
「沢山の事に私は疲れていて、だから立ち上がる気力もなくて、ただここに身を投げていた私を引っ張り起こしてくれたのが三太だったんだ」
そこまで言って、朝時はふいに言葉を切って口をつぐんだ。そうして、口が何かを探すように、迷うように、しばらく無言で閉じたり開いたりを繰り返していた。
律花が怪訝に思っていると、朝時はようやく覚悟を決めたように一つ喉を動かして言う。
「律、三太はきっと死ぬよ」
「え?」
意外な言葉に問い返した律花に、朝時は相変らず手のひらで目の上を覆ったままで言う。
「戦の途中で消えて、負けてしばらくして帰って来た男。しかも、安曇が裏から衝く、という情報を誰が漏らしたか位、木野にも見当はついていよう。そんな男を木野が生かしておくとは思えない」
律花は息を呑んだ。三太が木野に帰るのは危険ではないか、と漠然とは思っていたけれど、そこまで切羽詰っている事情だとは思わなかった。
朝時は続ける。
「三太はそれを承知で、止める我々の言葉を振り切って帰ったんだ。自分には木野に責任があるから、と」
朝時の手の下からまなじりを伝って、つ、と透明な液体が流れていく。律花は話を聞きながらも、呆然とそれを眺めていた。
朝時は搾り出すような声で言う。
「三太は、強い。自分のやった事をしっかりと自らで見つめて、責任を取ろうとしている。私は、それがとても羨ましい。三太には、憧れる……」
私には、自分の事に目を向けることさえ恐ろしくて出来ないのに。そんな呟きは、既に音としては出てこなかった。
律花は軽く目を伏せる。
―――朝時様は、きっと半分気付いている。
それでも、認めるのが恐くて目を背け続けているのだ。
「確かに、三太は強いかもしれないです」
律花はぽつりと落すように言ってから語気を強めた。
「でも、ひどいです。私や、朝時様や清丸様が三太には死なないで欲しいって分かってるのに、そうやって勝手に行っちゃうんだから。私たちの望みを聞いてくれないんだから……」
律花は朝時に視線を向ける。
「奥方様の怪我はそれほどひどくないそうです。早く朝時様に帰ってきてほしいって言ってました」
律花が言うと朝時は大きく息を吐く。
「稲にまで心配をかけて、本当に私は駄目な男だな……」
弱々しい声が、そう言った。




