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第十一章 3話

 律花は悩みながらも今のところはまだ、小姓としてのお勤めを続けている。ジンを側につけて歩きながら、膳を取りに行ったりお使いごとをしたりと細々とした用事をしているのだ。彰の流した噂のため、行く先々で今まで親しく言葉を交わしていた人々に特別な態度を取られるのには閉口したが、それ以外は別段、変わった事もなかった。

 北見はあの後、数日間頭を冷やすから稽古を休みにしてくれ、と言ってきた。そのため、自ら練習するにしても時間が空きすぎてしまい、それによって律花は多少の暇を持て余していたが、仕事以外で無意味に八尋の側にいると、彰が常に側で意味ありげに笑っていて癪なので、あまりそれもできない。そのため、大概は自室で読み書きの勉強をしたり、時々三太などと話をしたりして時間を潰していた。

 ―――そういえば。

 その日も自室で書き物の練習をしていたが、飽いて手を止めてつらつらと取りとめのない事を考えていたら、どういった思考の関連性か、不意に思い至った事があった。

 ―――あの夢、最近見ないな。

 最後に見たのはいつだったろう? 確か、朝熙と一緒に木野に行く前日に見たっきりではないだろうか? 三太と会っている時も、以前のような苦しさや気持ち悪さは殆ど感じない。

 ―――朱子さんに、何かあったのかな?

 もしかしたら、恨みが解けたのだろうか? それともこれは嵐の前の静けさで、何かを企んでいるのだとか?

 ―――そういえば、最後に見たのは声だけの夢だった。

 映像の付いていない、声だけの。

 ―――もしかして、朱子さんの力が弱っているとか。

 以前は頻繁に見ていた夢をあまり見なくなり、その夢も声だけのものに取って代わられる。

 なんの証拠もないけれど、妙にそれが真実味を帯びているような気がして、律花は考え込んだ。


 こつん、と律花の部屋の障子のすぐ外に、何か物音がしたのはしばらくしてからだ。それで目が覚めた律花は、自分が考え込みながらうたた寝をしてしまった事に気付いた。寝覚めの少しだるい体を起こして目をしばたかせる。部屋の中は真っ暗で、自分が思っていたよりも長い時間寝てしまった事を物語っていた。体に上掛けが掛けてある事から、彰か誰かが一度夕餉の為などに呼びに来て、そのまま起こさずに去っていった事が察せられた。

 律花は寝ぼけた頭を覚ますために大きく伸びをする。そうした時に、もう一度、障子の向こうで微かな音がした。それは、衣擦れの音だ。律花は怪訝な顔でそちらを見る。

 ―――何?

 外はもう暗く、しかも部屋にも外にも明りがついていないために陰も映らない。だが、確かに誰かがそこにいる気配を感じた。

 「誰ですか?」

 律花は警戒しながらも声をかける。手近にあった蜀台を引き寄せて握り締めながら。

 だが、相手の反応はない。

 「誰?」

 もう一度そう声を掛けて見た時、ふいにぼう、と障子の向こうに明りが一つ灯った。誰かが手に松明のような物を持って火をつけたのだ。

 ―――女の人。

 出来た影を見て、そう思う。

 しばらくお互いに動きはなかった。松明の炎の影だけが段々と大きくなりながらゆらゆらと揺れている。

 「律」

 しばらくの後、ようやく人影が声を出す。その声に、律花は息を呑んだ。

 ―――千鶴姫。

 相も変わらず柔らかな、鈴を転がすような愛らしい声。まるで以前と何も変わらない声色。律花と千鶴の間には何もなかったと言いたげな、親しみのこもった声。それが、今の律花にはどこか恐ろしかった。

 「お話があるの。ちょっと出ていらっしゃいな」

 千鶴がそう言う。律花はしばし息を詰めてその影を見守っていたが、それから大きく息をついて気持ちを落ち着かせるように努力する。

 「ごめんなさい。彰さんに不用意な外出は禁じられています」

 硬質な声で律花が返答すると、千鶴の影が小さく首を傾げた。

 「そう。困ったわね。どうしてもお話したい事なのに」

 そう言って、影は滑る様に動いて、手に掲げた橙色の松明の炎を揺らしながら一歩障子に近づいて来る。

 「じゃあ、こうならどうかしら? あなたが一緒に来てくれないと、わたくしはここに火をつけてしまうというのは」

 ―――え?

 一瞬、律花は耳を疑った。

 だが、当の千鶴はそれがまるで当たり前の様な口ぶりで続ける。

 「ね? そうしたら律は一緒に来ないわけにはいかないでしょう?」

 一瞬、たちの悪い冗談なのかと思った。笑い飛ばせばそれで済ませられるような。

 だが、千鶴の口調はそれはもう大真面目で、橙色の松明の火がそれを証明するように大きく揺れていて、それが律花の背筋を寒くさせる。

 「この屋敷にはたくさんの人がいるわ。屋敷は木で出来ているし、さぞ良く燃えるでしょうね。……ねえ、律、一緒に来てくれる?」

 重ねるように、柔らかな声色で千鶴は言う。

 ―――どうしよう。

 自室にこもっているから、という理由でジンは連れてこなかった。おそらく中庭にいるだろう。それに、律花が飛びついたり、一番近くの部屋まで行って助けを呼んで来るよりも早く、千鶴は激しく燃える松明を目の前の障子に突きつけることだろう。今日は快晴だった。突然の幸運な雨に見舞われる望みもないように思う。

 こうなったら、覚悟を決めなければ。

 ―――彰さんの馬鹿。

 お門違いかもしれないが、そう恨まずにはいられない。きっと千鶴がここまで思い切った行動を取ったのは、彰の流した無責任な噂のせいだ。だが、千鶴や志摩の事を考えながらも即座に断らなかった自分も悪い。

 ―――本当は、少し嬉しかったんだ。

 八尋にとって、やはり律花は臣だ。あまり臣と見られているとは思っていないが、それでも妹か何かだろう、という認識はある。それが当たり前だと思っているし、それで満足している。

 だけど、考えてしまったのだ。奥方という席に納まったらばどうだろう? と。少し浮かれた気分で、自分のその軽率な行動に、どれだけの人が傷つくかも分かってながら。

 「行きます」

 緊張で体が強張るのを感じながらも、律花はきっぱりと言う。逃れる道もないだろう。

 「ありがとう」

 千鶴が言ったと同時に、障子にほっそりとした白い指が掛かってそこから開かれる。一瞬、その指にちらりと赤い物を見て目を凝らしたが、すぐに障子は開き終わってしまい、よくは見えなかった。

 開いた障子の向こうには、いつもの通りにっこりと笑みを浮べる赤い着物の千鶴が立っていた。


 律花は中庭を通って無言で歩く千鶴の後に続く。足元に草が当ってちくちくと痛い。そんな事を頭の片隅で考えながらも常に前方を歩く千鶴に注意をしていて、襲ってこられたらいつでも反撃できるように身構えていた。今のうちに逃げてしまえば、とは思うのだが、ここはここで木などの多い中庭だ。手当たり次第に火をつけられればここも火の海になって惨状を招いてしまう。

 城を出るのなら守衛が見咎めて八尋に伝えてくれるのではないか、と思っていたのだが予想に反してそこから出ることはなかった。

 千鶴が向かったのは人の住む建物からは少し離れた場所。そこには、白い厚い壁の建物がぬっと建っていた。

 ―――蔵?

 そこは、朝熙が趣味で集めている舶来の品をしまっている筈の場所だ。頑丈に出来ていて、普段は決して他の者が開けられないようになっているのだが、確か昨日辺りから虫干しの準備をする、と言って中身を全部外へ運び出していた。だからだろう、施錠はされていないし見張りもいない。それどころか、扉が少し開いてさえあった。

 律花は首を傾げる。こんな所に何の用があるのだろう?

 思った時、千鶴が蔵の前で足を止めて口を開いた。

 「少し、お話をしたいと思って……律、そこをちゃんと開けてくれないかしら?」

 千鶴は言って、少し開いている蔵の扉を指す。重くて大きいそれは、確かに華奢で普段から部屋に篭っている千鶴には開けないだろう。

 「昼間は下男の方に開けておいて貰ったのだけど、一度閉めちゃうと厄介ね」

 千鶴はそう付け加えて催促するように律花を見た。

 律花は首を振る。

 「それはちょっとできないです」

 扉が開けられない、という意味ではない。頑張れば開けられない事もないだろう。だが、そうやって頑張っている間に何をされるか分かったものではない。

 「律に見せたい物があるのよ。ね、良いでしょう?」

 「明日になってから下男の人に頼んで開けて貰いましょう。その時に見せてもらいます」

 言った律花に千鶴は困ったように首を傾げる。

 「それで良いの? 本当に、明日で大丈夫?」

 「なにが……」

 言いかけた律花の言葉が途中で途切れた。一瞬、千鶴が勝ち誇ったように瞳を細める。

 律花は体を硬くする。それは、蔵の中から何かが聞こえてきたからだ。何か、獣の鳴き声のようなもの。それが、蔵の厚い扉の隙間からはっきりと伝えられる。

 「ジン」

 律花は思わず蔵の扉に駆け寄って声を上げた。

 律花の声が聞こえたのだろう。鳴き声が律花を呼ぶように続く。だが心なしかそれは普段よりも勢いがないように思えた。

 律花は振り返って千鶴を睨みつけて言う。

 「何かをしたんですか?」

 「どうかしら?」

 千鶴は唇に薄く微笑みを浮かべて、無邪気ささえ感じられる様子で首を傾げた。

 律花はハッと思い出して千鶴の手に視線を向けた。それに気が付いて、千鶴は律花の前に手を差し出してみせる。

 「これは、わたくしの血よ。血なんて初めて流したから驚いてしまったけれど」

 指に付いた赤いものは確かに血だ。よく見れば、赤い着物のあちらこちらにそれは付着している。着物の柄と同色だから気が付かなかったが。

 「あの獣、暴れるんですもの。そうして、わたくしの腕に噛み付いたのよ。でも、あの人に協力して貰ったら、なんとか押さえつける事ができたの。二人がかりで、大変だったわ」

 ―――あの人?

 千鶴は先程からずっと一人だったから、今回の事は全部一人でやったのかと思っていた。いつも側に居る侍女が全てをやってしまうのに、珍しいものだ、と思ったから印象に残っていた。だが、誰か協力者がいるのだろうか?

 律花が口を挟もうとしたのを遮って、千鶴は楽しそうに更に続ける。

 「そうして縄で縛って、ここ、ここのあたりを小刀で刺したの。そうやって血が流れればいつかは消耗して死んで行くんですって」

 千鶴は言いながら自分の腹を指す。律花は顔から血の気が引くのを感じた。

 慌てて蔵の重い扉を引っ張る。誰か助けを呼んできたほうが早い、とは考えもつかなかった。ただ、一刻も早くジンを助け出さなければ、と思った。千鶴はそれを手出しするでもなく見ているだけだ。

 重い扉の取っ手の所をきつく握って、精一杯体重を掛けて引く。そうすると、ずるずると引きずられるように扉が開く。じれったくなるくらいの遅さでも、確かに少しずつ開いている。

 ようやく自分一人が入れるくらいの隙間を開けて、律花は蔵の中へと飛び込んだ。これは罠だろう、などという事は考え付きもしないまま、夢中になって。

 蔵の中ではジンがぐったりと床に体を横たえていた。確かに千鶴の言ったとおり、ジンは血を流していて、ジンの下は微かに湿っていた。

 律花は慌てて自分の着物の袖を思い切り引きちぎると、出血している場所を確認して、布を当て、その上から締め付けるようにして結ぶ。結び終わってジンを両手で抱え上げ、いつの間にやら大きくなっていたその重さによろめきながらも蔵を出ようと振り返った。だが、振り返ったのと、蔵の扉が閉まるのは同時だった。

 ―――しまった。

 律花はそこでようやく、これが見え透いた罠だった事に思い至った。とりあえずそこにジンを寝かせてから慌てて扉を押すが、びくともしない。

 「千鶴姫、開けてください」

 無駄だと思っていながら言ってみるが、扉の向こうは無言だった。

 ―――朝までジンが持ちこたえてくれば。

 朝になれば下男など数々の人が蔵の側を行き来するだろう。それで叫べば誰かが気付いてくれるかもしれない。もしくは、彰などが発見してくれるだろう。だが、それまでジンが持ちこたえられるかが不安だった。

 「千鶴姫、どうしてこんな事するんですか?」

 律花は扉すれすれまで近づいてそう声を掛ける。これにも、返答がないと諦めてはいたが、どうにかして千鶴を説得しなければ、とも思っていたからだ。

 だが、意外にもこれには返答が返って来た。厚い扉越しなので、耳を澄ませて集中してようやく聞こえる程の声だが。

 「そんなの、律は分かっているでしょう? だから、ここに来るまでもずっと警戒していたのでしょう?」

 律花が黙り込むと、今度は逆に千鶴が話しかけてくる。声に、感情は感じられなかった。

 「ねえ、わたくしも律に聞きたいことがあるの。律は、どうやって殿に取り入ったの?」

 「別に、取り入ってなんか……」

 律花が言うと、千鶴は更に続けた。

 「あら、ならばどうして殿が律を側に寄せ付けたの? どういう知り合い? 別に、血縁の者でもないんでしょう? どうして、あの人の側に行けたの?」

 段々と、口調が激しくなって行く。何となく、千鶴が扉すれすれまで近づいて話しているような印象さえ受けた。

 「あの方は、他人を絶対に寄せ付けようとしないわ。始めから、相手を拒絶してかかって、知ろうともしてくださらない。普通、有り得ないわ……」

 ここで一瞬、千鶴は大きく息を吸って呼吸を整える。何とか自らを制そうと思っているのが窺えた。それから、また続ける。

 「有り得ないわ。初夜の時でさえ、同じ部屋で二人きりでいたのに、部屋の隅で刀を抱えて座り込んで動こうとなさらないのよ? わたくしが何を言っても聞こえない風で、始めからわたくしの事など見ようともしてくださらなかった」

 八尋が警戒をしたのは多分千鶴が父親の決めた相手だったからだ。父親が自分を殺そうと何かを送り込んできた、と考えていたのではないのだろうか。そのような事を、彰に一度、ちらりと聞いた事がある。それに、千鶴が輿入れした時期が丁度夕が安曇に行ってしまってから間もなかったせいもあるかもしれない。

 だが、千鶴の様子は律花がそのような事を冷静に説明できる雰囲気ではなかった。ただ、自分の思いを扉の向こうの律花にぶつけているだけ、という印象を受ける。それで、何も言葉を挟めなかった。千鶴は更に続ける。

 「志摩ならば分かるわ。あの人は、お父上のお陰で殿には信用があるもの。でも、あなたは分からないわ。どこが殿のお気に召されたの? どうして、あなただけ特別なの?」

 どうして、わたくしじゃないの?

 苦しそうに搾り出されたその声が痛々しい。がたん、と扉を通して軽い衝撃が来た。千鶴がその細い腕で扉を殴ったのだという事が感じられた。

 そういえば、と律花は思い立つ。千鶴はあの細い白い綺麗な手をジンに噛ませてまで、そんな思いをしてまで律花をこんな目に遭わせたい、と思ったのだ。その激情の深さに驚く。いつも人々にかしずかれている人がここまでしようと思いつめた物はなんだったのだろう? 本当に、八尋に対する思慕の念だけだろうか?

 「あなた、どうせ何のしがらみもないのでしょう? だったら、交代して。殿を頂戴。他の誰でも養ってもらえるならば良いのでしょう?」

 千鶴のそんな言葉に律花は目をむく。まさか、そんな事を言われようとは思ってもみなかった。だが、千鶴の言葉は続く。

 「わたくしは、実家を背負っているのよ。殿を手に入れなくてはならないの。ねえ、律には分かる? 父親に金を無心される気持ちが。お前をここまで育てたのは篠田に嫁がせて金を得るためだって、手紙の度にあれが欲しいこれが欲しい、早く殿を骨抜きにしろって、親に延々愚痴を書かれる気持ちが分かる? ねえ、侍女には殿にないがしろにされる情けない姫だって目で見られて、父親に報告されて、影で笑われて……私が何をしたって言うの? なにもしていないじゃない。何かをする前に、もう、終わってしまっていたじゃない。ねえ、ねえ、分かる?」

 千鶴の声が引きつるようになって、乾いた笑い声が響く。

 「律、そういえばあなたもわたくしを嫌いだったわね? ねえ、なんであんな事したの? 八千代の事の仕返しかしら?」

 「あんな事?」

 怪訝そうに律花は問い直す。

 「そうよ。あの事のお陰でわたくしが朝熙様にまで目の仇にされるようになって、それでますますこの城に居づらくなったわ」

 ―――朝熙様?

 律花の頭に思い浮かんだのは、千鶴の茶会に招かれた時の事だ。朝熙が乗り込んできて、千鶴が罵られた。

 「だってあれは千鶴姫が仕組んだんじゃ……」

 律花の反論に、千鶴の言葉が重なる。

 「仕組んだ? わたくしは何もしていないわ。だってわたくし、あなたの事、妬ましくて悔しいけど、それでも好きだったもの。時柾様の事があって、あなたは時柾様ととても親しいから、恐ろしくなって、それにやっぱり妬ましくて八千代を使って追い出す事を考えたけど、この城でわたくしに優しくしてくれたのは律だけだから、やっぱり殺して欲しくはなくて、あなたが戻ってきた時も、久々に会ったのが嬉しくて、だから仲直りをしようと思ってお茶会にお招きしたのよ」

 千鶴の声は、真剣なものに聞こえる。とても偽りを言っているようには思えない。だが、勿論律花だってあんな事を仕組む筈などない。……ならば一体誰が?

 律花はそれ以前に千鶴が八千代と呼んでいる女、多分律花を殺そうとした女の事だと思うが、その女に千鶴に気を付けるように、と忠告を受けた。だから、千鶴がやったものだと疑いもしなかったが。

 考え込む律花の耳に更に声が聞こえる。

 「律があんな事をしなければ、私だってあの人の話に乗ってこんな事をしようなんて気になれもしなかったわ。殿への輿入れも、悔しくないって言ったら嘘になるけど、それでも受け入れる事ができたかもしれない。なのに、ねえ、なんであんな事をしたの?」

 千鶴の声は悲痛なものだった。

 「私は」

 そんな事はしていません、と言おうとした律花は不意にぐらりと眩暈を感じた。そういえば、先程から話に千鶴の夢中になっていたから気が付かなかったが、いつの間にかずきずきと頭が痛んで吐き気もする。

 ―――何?

 急激に襲ってきた倦怠感にその場にへたり込む。そのままぐるりと蔵の中を見渡した律花は、がらんとした蔵の中に、隅の方に隠れるように不自然に置いてあるものを見つけてた。ずるずると気だるい足を引きずりながら行ってみると、覆い隠すように厚い屏風が置いてあり、その奥に火鉢、火鉢の中には燻るように赤黒くなった炭があった。ジンの容態や千鶴との話に気をとられていて気が付かなかった。律花は段々と朦朧としてくる頭で考える。蔵の中は密閉されている。律花の元いた時代でも、たしか、こういう事故が時々あったような気がする。冬などに、密閉した部屋でストーブなんかをつけっぱなしにしていると起こる、とニュースなどで見た覚えがある。

 ――― 一酸化炭素中毒。

 気付けば手足が震えて上手く動かせなくなっていた。それでもなんとか律花はジンの元まで戻る。

 ―――大丈夫。まだ、生きている。

 それを確かめてホッとするも、おちおちとしていられない状況だった。

 律花は急いで、扉へと戻る。

 「千鶴姫、私を殺すつもりだった、ですか?」

 上手く言葉が回らない。頭が朦朧とする。

 「殺す? ……私はただ、律と話をしようと思って、それにちょっと意地悪してやろうと思って、それに律が私を憎んでいるといけないからここに閉じ込めてから話すと良いって言われて」

 ―――ならば、まだ助かる見込みはあるかも。

 「じゃあ、出してください。憎んでいませんから。私、このままここにいたら……死にます」

 「え?」

 驚く千鶴の声が聞こえる。律花は更に続けた。

 「中に、炭が……」

 呂律が回らなくなり、律花は力任せにどんどんと扉を叩く。

 「出して」

 それに尋常ではない物を感じたのだろう。しばしの迷うような沈黙の後、千鶴が向こうから扉を引いているのが分かった。

 「開かないわ。律、どうしたら良い?」

 「閉めた、時は……?」

 律花の問いに千鶴は言う。

 「その時まではあの人が居たの。隠れて、付いてきてくれていたの。でも、もう去ってしまったわ。ねえ、律、どうしよう?」

 ―――やばい。

 意識を保っているのが精一杯で、もう、言葉は出なくなっていた。朦朧とした頭の中、千鶴が何かを必死に叫んでいる声が聞こえる。

 それを聞きながら、そのまま、律花の意識は遠のいて行った。


 目が覚めた時、自分がどこにいるのか分からなかった。

 霞んだ目が元に戻って、すっかり見慣れてしまった木目の天井を見て、ようやく自分の部屋にいるのだと分かった。軽く身動きをすると、額に乗せられていた濡らした布が落ちる。それによって傍らにいた人物は律花が目を覚ました事に気が付いたようだった。

 「ようやく目が覚めた。……大丈夫かい?」

 その人物に、律花は目を見開く。

 「栄?」

 出した声は掠れていた。栄は律花の額に布を当てなおしながら笑んで肯定した。

 「どうして? ……ジンは?」

 急速に記憶が戻ってきて、慌ててそう尋ねると、栄は微笑んで頷く。

 「大丈夫。命に別所は無いって。あんたよりよっぽど元気だから、もう目を覚まして餌を食べてたよ。……ちなみに、あんたが助かったのは私のお陰。千鶴様の様子が変だったら見張っとけって言われていたから、ふらふらと出て行った千鶴様を追ってずっと後をつけてたんだ」

 会話までは聞こえなかったから、千鶴が急に慌てて扉を引き始めたときは何をやっているのかと思ったが、ただならぬ雰囲気に驚いて飛び出して行って正解だった。

 栄の言葉に律花はとりあえず安堵して、それから言う。

 「千鶴姫は?」

 「部屋で謹慎してる。随分と、落ち込んでいた様子だった。……どうも、あのお姫様、少し錯乱しているって医師が言ってたよ。話している事が要領を得なかったり、いきなり笑ったかと思ったら泣き出したりするんだって」

 その言葉に、律花は目を伏せる。

 ―――きっと蔵の前で話していた時はすでにそうだったんだろう。

 それから、なるたけ平静を装って言った。

 「栄、あの日の事を教えて」

 ―――あの日、着物を持ってきたのは栄だ。

 この件には、栄が一枚噛んでいるに違いない。そして、その背後にいる人物は多分……。

 律花の耳に、栄が大きく息をついたのが聞こえた。


 「律、俺に用があるって?」

 そう言って気軽な様子で入ってきた男に対峙するために、律花は起き上がってその場に正座をした。それを見て彰が怪訝そうな顔をする。

 「どうしたの? 律。神妙な顔しちゃって。それに、具合は大丈夫なのかい?」

 そんな事を言いながら無造作にその場に腰を下ろす。

 「大丈夫です。それよりも、彰さんに聞きたい事があるんです」

 律花の硬い声に不思議そうな顔をしながらも、彰は相変らずにこやかに頷く。

 「何でもどうぞ?」

 その言葉に、律花はまどろっこしい事をせずに核心を付く事にした。

 「どうして、千鶴姫をはめるような真似をしたんですか?」

 律花は注視して見ていたが、彰の表情はまるで動かない。柔和な、そのままの顔で律花に言う。

 「すごいな、律。よく気付いたね」

 「栄に聞きました」

 律花の言葉に、彰はなるほど、と笑った。その笑い方もとても自然で、律花は逆にそれが恐くなる。

 栄に聞いた話は簡単だった。律花と分かれた日から、栄は千鶴に仕えていた。それは彰の命令で、いざと言う時千鶴を陥れる事が出来るように、との事だ。

 「彰さんはあんたが時柾様の正妻になれば良いって言ってた。そのためには、今の正妻は邪魔だから、って。それに、千鶴様だってあんたを陥れようとした事があったらしいじゃないか」

 おあいこだろう? と栄は言った。

 「私、別に正妻になりたいとか言ってないです。なんで、千鶴姫をあんなにめちゃくちゃにしてまで……」

 彰のやった事が原因の全てではないけれど、千鶴を追い詰めたものの一因ではあるはずだ。

 彰は少し考える風でいたが、それから言う。

 「うーんとね、律。これは君がなりたいとかなりたくないとか言う問題じゃないんだ。俺が君を正妻にしたかった。そういう問題だよ。もっと言うのならば、千鶴姫は時柾様の正妻に相応しいと思えなかった。代わりにもっと良い人がいればすぐにでもその人に取り代えたかった。そして、律が現れた……」

 「相応しくない、って」

 律花が顔を険しくすると、彰は平然と言う。

 「律はすぐほだされるよね。言っておくけど、千鶴姫があくどい事をしていたのは事実だよ。それで志摩様はかなり消耗するほど嫌がらせをされたし、時柾様に近づく女は千鶴姫の目が恐いって言うのは下女の間にまで噂になっていた程だ。ある意味、千鶴姫も自業自得の訳だよ」

 それに、と彰は続ける。

 「千鶴姫の実家って何かとうるさいんだよね。名のある公家のお家で義任様がその名を欲しくて千鶴姫を時柾様に貰ったていう名目で、まあ本当の所を言っちゃえば時柾様に後ろ盾のある大きな家の妻を貰わないように、と名だけの妻をあてがったっていうのが真相なんだけど、その時は結構沢山お金を渡したらしいんだ。それですっかり味を占めちゃって、いまだに篠田から何とかして金を搾り取れないか考えている」

 それには、心当たりがあった。千鶴が蔵の前で言っていた。

 「ともかく、そんなんよりは家柄なんて無くても時柾様をちゃんと支えてくれそうな人の方が正妻に相応しい、と思ったわけだよ。

 「でも……」

 律花が反論しようとすると、彰は笑顔でそれを押し留める。

 「言っただろう? これは俺がやりたくてやった事だよ。それに俺はただ、千鶴姫が他の人にしていたような嫌がらせを千鶴姫にも味わわせてあげただけだよ。あの事のせいで直接千鶴姫が離縁されるわけじゃない。されるとしたら、今回千鶴姫が起こした事のせいだ」

 律花ははっとして彰の顔を睨む。

 「そういう話も出ているんですか?」

 律花の視線などなんとでもないとでも言うように涼しい顔で受け止めて、彰は頷く。

 「まだ出てないけどね。なにせ次期奥方候補を殺そうとしたわけだから……」

 その言葉に、律花は唇を噛む。

 ああそれから、と彰は続けた。

 「千鶴姫をあんなことにそそのかした人間は、多分罪は問われないからね。……栄が見ていたらしいけど、桂だそうだよ」

 その言葉に、律花は辛そうに眉を顰めて俯いた。

 ―――それならば、今回千鶴姫が私にした事は、私のせいだ。

 桂が律花を殺すために、千鶴を利用したのならば、千鶴は巻き込まれただけなのだ。

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