第十一章 2話
朝時の奥方の部屋のすぐ側まで来て、中から話し声がしたために先客が居る事に気が付いた。三太はそれに気が付いて困った顔をすると小声で言う。
「拙いなあ。何しろ急な話でお伺いを立てる暇がなか……」
その言葉を、話の途中で清丸が険しい顔で手を上げて制して、ぴしゃりと言った。
「静かにして、気配を悟らせるな」
三太が怪訝な顔をしたが、律花はその理由に気が付いていた。
―――話の相手は桂さんだ。
桂は忍なのだから気配などに敏感な筈なのに、律花たちが来た事には気付きもしないようだった。それだけ、奥方との話に夢中になっている証拠だろう。
聞こえてくる奥方の声は、以前律花と会った時に聞いた柔らかい声ではなく厳しい、問い詰めるような声だった。
「だから、わたくしはあなたがやりすぎではないかと言っているのです。最近のあなたの行動は異常です。あんなやり方をしていては、いつか朝時様に害をもたらすでしょう」
その声に被って感情を押し込めた冷たい声がする。
「あなた様には関係のない事です。朝時様の正妻であられても政に口を出されるのは感心いたしません」
「政、などと。あなたがやっている事はそんな言葉で片付けられるものではありません。政ならばもっと公正明大にやられては如何ですか? あなたは、あまりにも謀が多すぎる」
必死の奥方の言葉にも、桂が耳を貸す素振りを見せなかった。
「桂、あなたが朝時様のためを思っているのは知っています。だから、わたくしはこれまで何も口出しを致しませんでした。だけど、わたくしはどうしても、あなたのやり方が正しいとは思えないのです。もっと、より良い方法がきっとあるはず……」
部屋の外でその会話を聞きながら、律花は桂が苛立っているのを感じていた。口を噤んで感情を押し殺しているが、胸の中はきっと今にも煮えくり返っている筈だ。
確かに、奥方の言う事は正論かもしれない。だが、奥方は桂が懸想をしている朝時が一番に愛している人。桂が元から奥方に良くない感情を持っているのは容易に想像が付く。奥方の方も、それを分かっていたから今まで桂のやり方を良く思わないながらも口出しはしなかったのだ。だが、それでも耐えられなくて反論したくなるような事情が奥方にはあったのだろうか?
律花が疑問に思っていると丁度その時、律花の耳に気になる言葉が飛び込んできた。
「時柾様の事だって、あなたの企みですね? 義巳殿と手を組んで、時柾様を安曇へと追い出そうと。……あなた、何を考えているの?」
その言葉に、律花は驚いて目を見開いた。
―――八尋が安曇に連れ去られたのは、桂さんが裏で糸を引いていたの?
考えてみれば、そもそも八尋が義巳にそそのかされる原因となったのは義巳の軍にいたからで、何故そうなってしまったかと言えば桂が嫌がらせに八尋に軍を持たせなかったからだ。深くは考えず、ただの嫌がらせだと思い込んでいたが、桂と義巳が繋がっていたのだとしたら……?
奥方はさらに言い募る。
「わたくしがそんな事を気が付かないほどの暗愚だとお思いだったかしら? 身分の低い、何の後ろ盾もない娘だったから? だけど、わたくしだってそれだからこそ必死になって城内の様子に耳をそばだてているわ。侍女の噂話を聞いたり、下男に金を握らせたり、方法はいくらでもあります」
桂はおそらく驚いたのだろう。桂だけではない、律花も、その隣にいる清丸も同じく驚いた顔をしていた。
奥方は続ける。
「時柾様がいなくなれば、この篠田の戦力が落ちると言う事をお忘れでない? あの方の噂をお聞きになった事があって? 大変な武勇の方だそうじゃない。それを、朝時様の地位が脅かされるかもしれないなどと怯えて追い出そうと考えてしまうなんて……」
奥方は桂に詰め寄る。
「これ以上はもう、篠田をかき混ぜる様な事をするのは止めてください。きっとあなたのように疑心暗鬼にならなくても、篠田はやっていけるわ。朝時様の病のことも、きっと他に何か良い手が……」
桂が突然立ち上がると、震える低い声で搾り出すように言う。
「そろそろ、時間が経ちすぎてしまったので失礼を」
何かを押し殺すような、堪えるような声。それと同時に、桂はすたすたと歩き出す。
―――拙い。
律花も三太も清丸も、その場で慌てたのだけども隠れる場所も時間もなく、すぐに開いた障子を挟んで見事に桂と対面してしまう事となった。
その顔を見て、律花は背筋に震えが走るのを感じる。
蒼白の顔、噛み締めた唇。瞳の中に揺れ動くのは何かとてつもなく良くない感じのする、荒れ狂うような激情だった。
桂は律花たちの姿を認めると、一瞬はっとして、それから射る様な視線で睨みつける。
「何をしているのです? こんな所で」
怒りを押し殺した声は、決して律花たちだけに向けられた感情ではないだろう。
律花は体の奥のほうからがくがくと這い上がってくる震えを抑えようと必死だった。恐ろしくて、返答もできない。
その時、三太がからりとした口調で横から口を出した。
「すみません。お邪魔するつもりはなかったんですけど、朝時様が発作になりそうな予感がするからこちらへ行けっておっしゃったので」
「朝時様が?」
桂の顔がはっと正気に戻る。それから、律花たちの事など忘れ去ってしまったかのように廊下を駆け出した。律花たちはそれを呆然と見送る。
「律さん、桂には気をつけなさい」
気が着くと、部屋から出てきた奥方が側に立っていて、そう律花に言った。
「え?」
律花が怪訝そうにすると、重ねて言う。
「今の話を聞いていたのでしょう? 桂は間違っています。きっとどこかで、歪んでしまったのね。……ねえ、あの人がこれ以上罪を犯さないように、時柾様をよくお守りしてね。それからあなた自身も気をつけて。桂はまだ、あなたを殺そうとしているわ」
律花が驚くと、奥方は続ける。
「とある下男に金を握らせて桂の様子を見張ってもらったの。そうしたら、桂はあなたの膳に何か入れていたと言うのよ。気になったのでそれをすり替えて持ってこさせたら……」
奥方は静かに腕を上げ、部屋から見える中庭を指差した。中庭では、小鳥が一羽地面に討ち臥して転がっていた。
「即死だったようだわ」
律花は仰天して奥方と庭を交互に見る。奥方は唇を固く結んで、ただ死んだ小鳥を凝視していた。その握り締められた手が細かく震えているのが目に留まり、そこで初めてこの奥方が青褪めているのに気が付いた。
部屋に戻って起った事を彰に説明すると、彰はしばらく黙ってそれを聞いていた後、大仰に溜息をついた。
「桂と義巳様がつながってるんじゃないか、って事は気付いていたけど、まさか稲様がそれに気が付いているとは思わなかったな」
「稲様?」
律花が聞き返すと、彰は頷く。
「朝時様の奥方だよ。元はそこまで身分は高くなかった筈だ。篠田の家臣に仕える郎党の娘さんかなんかで、利発だからってその家臣の城で働いていて、その城に朝時様が何度か出入りしているうちに気に入ってしまわれて、そのまま娶られた、って話で当時けっこう噂になったからね。今まで大人しかったから気にも留めていなかったけど、結構やるもんだね」
くつくつと笑う彰を見て、律花は呆れの混じった溜息を付く。
「それはいいですけど、桂さんに仕返しをされないか不安です」
あの時の桂の目。思い出すだけでもゾッとする。
彰は軽く首を捻って言う。
「確かに桂は気性が激しい女だけど。うーん、でも、大丈夫なんじゃないかな? 流石に稲様に手を出したら自分がただじゃ済まないって分かっているだろうし。嫉妬に狂った女でも、そのくらいの冷静さを欠く女じゃないよ」
それよりも、と彰は律花を見る。
「自分の心配をした方が良さそうじゃないかな? 桂は律の命を狙おうとしたんでしょう?」
「でも、私は一応ジンをつけて歩いているので」
律花が言うと、彰は「甘い」と言って律花のほうへ身を乗り出すようにする。
「たとえジンを連れていたって食事に毒を盛られちゃしょうがないでしょう? もっとも、俺達だって食べる前にそれなりに確認はしているからそんな方法ではやられないと思うけど……だけど、万が一って事もある」
そこで、と彰はさらに律花のほうへ身を乗り出して間合いを詰めてきた。
「律、思い切って形だけでも時柾様にお輿入れをしてみる気はないかい?」
「はい?」
意味が分からずに不審そうに眉を顰める律花に、彰はなんでもない事のように笑って言う。
「結局さ、小姓って言うのはいざと言う時に主人の楯となるものでしょう? だから、そうやって死んじゃっても本望だろう、って扱いになっちゃうんだよね。特に、君の場合は後ろ盾となる家もないわけで、桂としても誰に遠慮する事もないわけだ。でも、もしも時柾様の奥方だって事になったならば話は別だよ? それなりに警備を厳重にできるし、それに、何といってもそういう正式な身分を持ってみんなにお披露目してしまえば、もう軽々しく殺す事なんて出来なくなるから桂を牽制できる」
「でも、八尋には既に奥方が二人もいますよ?」
律花の言葉に彰は笑う。
「大丈夫だよ。もう一人くらい増えたって。……それとももしかして、律は正室じゃなきゃ嫌だとか思ってる?」
「そういう問題じゃなくて」
なんだかそれは千鶴や志摩に悪い気がする。律花のその考えを読んだかのように、彰は言った。
「律、君は一生誰かを傷つけずに生きていこうなんて思っているんじゃないよね? そんな事、できっこないんだよ? そんな馬鹿げた事で自分の望みを叶えないなんて、間違っている」
―――なんだか話が逸れているような気がする。
このまま上手く彰に丸め込まれて、話に乗せられそうな、そんな予感。
律花は慌てて彰を制して言う。
「少し、考えさせてください」
それを聞くと彰は、少し残念そうにしながらも苦笑して頷いた。
律花が八尋に輿入れをするのかもしれない、と言う噂が篠田の城内に瞬く間に広まったのは、彰がわざとそれを広めたからだ。当の律花はそれのあまりの凄まじさに当惑するしかなかった。
八尋は案外平然とした顔をしていて「言わせたい者には言わせておけば良い」と言って相手にしていないようだったが、律花にとってみればかなり頭を悩ます問題だった。そうやって周囲に賑やかにされて、どんどんと逃げ道を失っていくような気がする。
もっとも、それこそが彰の作戦そのものかもしれない所が忌々しかった。
―――まったく、彰さんは何を考えているのかさっぱりわからない。
律花は内心で憤慨する。こうして噂を立てられて掻き乱されては冷静な判断を下せなくなりそうで恐ろしい。どうしてそっとしておいてくれないのだろう。
八尋は、彰から改めてその話を聞かされても「律の好きにすれば良い」と自分は全く関係ないとでも言いそうな雰囲気だった。
「どうせ妻という名になっても形だけだ。律はまた、以前の様に大人しくはしていないだろうし、そうしたら結局小姓のような真似をするに決まっているしな。自分の判断で良いと思った方に決めれば良いだろう」
そう、にべもなく言われてしまえばどうしようもない。
―――それにしても。
たとえ、形だけとはいえお嫁に行く行かないをこんなに簡単に決めてしまっても良いものか、と律花は悩むところだ。一応、年頃の娘としては少し首を捻ってしまう。もっとも、律花はいつか元の時代に戻る、という事を考えてか、八尋が『形だけ』と強調してくれたために律花の心が多少は軽くなっていたのだが。
それでも律花はどうするか決めかねていて、頭を悩ませていた。
噂によって気が気ではないのは律花だけではなかった。足軽としていた時に友人となった者達からその事を耳にした弥一は、胸の中をざわめかせながらその足でお勤め先へと向かう所だった。
弥一は願いどおり八尋の臣となった。だが、同じ時柾の小姓である律花とは殆ど顔を合わせる事がなかった。始めは、主人である八尋の差し金かとも思ったが、それはすぐに違う事が分かった。弥一の仕事の采配をしているのは、彰と言うあの男だ。その男が、律花の勤め時間と弥一が八尋の側にいる時間をかみ合わないように、上手く取り計らっているのだ。証拠に、彰はいつも弥一を前にすると意地の悪い笑みを浮かべて観察するように眺めているのだ。
―――くそお。
八尋自身は、さして弥一に興味がない様で、側にいてもまるでいないも同然のよう扱いを受けている。それもまた、気に食わない。自分は、律花の事でこんなにもこの男を敵視しているのに、相手の眼中にさえ入っていない、というのは屈辱でしかなかった。そもそも、八尋と言う男は基本的に落ち着いていて、律花に対する考えも余裕があるような気がして、以前聞いた彰の言葉のせいもあるのだろうが、弥一はいつもどこか負けたような気分になる。
―――いや、実際、明確に負けているのだけど。
弥一は自らの手をしばしじっと見つめた。その手は、安曇の城の橋の上で律花に振り解かれた。律花は弥一の事など振り返りもせずに八尋の元へと駆けたのだ。
その時の事を思い出して、弥一はぐっと唇を噛み締める。
自分は、沖房の陰に隠れて必死に刀を振り回すばかりで、八尋と沖房が敵をなぎ倒すのに助けられるばかりだった。その上、橋の上で律花の手を引いた時、確かにこう思ったのだ。これで、あの男が死んでしまってくれれば、と。
―――畜生。
後から考えると、なんと浅ましい事だと思う。浅ましくて、小さくて。
―――強くなりてえな。
あの男に負けないくらい、律花を競い合える程に強くなりたい。
そんな事を思いながらも、実際のところ、弥一は八尋の臣でしかなく、その男の前ではいつも頭を下げていなければならない。それが、とても屈辱的だった。
北見の所へ稽古へ行く途中に、律花は彰に遭遇した。
「やあ、律。考えはまとまったかい?」
朗らかに言う彰に、律花はうんざりとした視線を向ける。
「楽しそうですね、彰さん」
恨めしげに律花が言うと、彰は笑顔で頷いた。
「そうだね。楽しくないと言えば嘘になるかな」
全く悪びれる様子がないのに、律花は呆れて大きく息を吐いた。
「なんでこんな事になっちゃったんだか……」
律花の文句交じりの呟きに彰は平然と答える。
「桂が君を狙ったせいでしょ?」
自分がした事などまるで関係ない、と言いたげなその声に律花は彰をねめつける。
すると、彰は素早くその矛先を変えるように話題を変えた。
「でもねえ、桂も本当にどうしようもないな。……というより、ここの兄弟は本当に因果なものだと思うよ。桂も変に疑っていないで、さっさと各々に城の一つでもあてがってそちらを治めさせれば良いんだよね」
案の定その話題につられて律花が不思議そうな顔をするのを見て、彰は微笑んで続ける。
「律、思わない? 良い年をした兄弟が同じ城に住んでる、なんて絶対変だよね?」
「変なんですか?」
律花が問い返すと彰は頷く。
「変だとは言い切れないけど、普通は、兄弟がある程度の年齢に行ったらそれぞれに城をあてがうか、他の領主に仕えさせるかして当主の他は城を出ていってしまうんじゃないかな? 篠田だって兄弟にあてがう程の土地が余ってないわけではないのだし、それでいてみんなでここに住んでいるのは不自然に感じるよね」
「そうなんですか」
納得する律花に、彰は続けて説明をする。
「まあ、大方桂の考えは下手に城を持たして謀反でもされたら困る、って所だろうけど。前当主の義任様と同じようにね。桂は疑心暗鬼になりすぎだな。あれは、本人達を見ていないで、その人達の環境を見ているんだ」
「環境? 八尋が殺されそうになっていた事ですか?」
律花が問うと、彰は首を傾げる。
「うーん、それもあるけど、お三方ともみんな、母上が違うからね。色々と揉め事もあった様だし。その揉め事を見ていたから、頭の中に朝時様と朝熙様と時柾様とは敵対関係、という構図が染み込んでしまっているんだろう。頭の固い、難儀な事だよ」
言われて律花は初めて思い至った。そういえば、この城には三人とも母親が住んでいない。父親は以前八尋が殺していたとしても、母親の方はどうなのだろう? 八尋の母親は病死だったと聞いたが、他の二人は? 夫が死ぬと共に出家して尼になってしまったのだろうか? 志摩の母親はそうだった、と律花は聞いた事がある。武家の奥方にはそういった事をする事が多いのだそうだ。
そんな事を考えながら彰と話しているうちに、北見の待つ道場へと着いてしまった。彰が「頑張ってね」と手を振って行ってしまうのを見送ってから、律花は道場に入る。
道場にはいつもの通り、北見が既に来ていて、道場の真ん中で目を伏せて正座をしていた。律花が入って行くと、気配を感じたのか、すっと無駄のない動きで立ち上がる。律花は手早く準備を整えて北見の前へ対峙した。
ふと、向かい会った時に何とも言えない戦慄を肌に感じた。
どこか圧倒されるような威圧感が迫ってくるものがあるのはいつもと同じ。だが、その威圧感の中にいつもは感じられない、何かちりちりとした冷たい物が流れているような、そんな気がする。
―――何だか、恐い。
思った瞬間、北見の鋭い木刀がこちらへ向かってきた。一切無駄のない動きで真っ直ぐに律花の方へを狙いを定める。律花は慌てて手に持っていた木刀を構え、それを受け止めた。びりびりと手に痺れが走る。それを歯を食いしばってやり過ごしている間に、新たに木刀が迫ってくる。
―――何、今日の。
いつもなら、律花の程度に合わせて北見は力を加減してくれている筈なのだが、それが全く感じられない。律花はただもう、防御に徹して攻撃をやり過ごすしかなかった。
しばらくそうして、何度も肝を冷やすような激しい打ち合いをしていたが、とうとう律花にも限界が来た。手が痺れてどうしようもなく、木刀を取り落とす。
普段ならば、そこでお終いの筈だった。北見はそれで自分も攻撃の手を止めて律花の直すべき所などを的確に述べていくのだ。それなのに。
次の瞬間には、律花は腹部に激痛を感じて目の前が真っ白になった。同時に、呼吸が出来ないほどの苦しさに見舞われ、床に倒れ込んで、そのまま意識を失った。
目が覚めた時には、道場の床に寝かされていて額に濡らした布が置かれていた。横には正座をした北見が神妙な顔をして座っている。
「北見さん?」
掠れた声で問いかけると、律花の意識が戻った事に気付いて、北見は珍しくも慌てた様子で律花の顔を覗き込むようにした。
「気分はどうだ? 吐き気などは?」
「大丈夫です」
律花は言って体を起す。打たれた腹が鈍く痛む。きっと袴の下にはくっきりと痣が出来ているだとう、とぼんやりと考えた。
ふいに、隣から神妙な声で「済まない」と言われた。律花は驚いて北見を見る。北見は律花に向けて頭を深く下げていた。
「ど、どうしたんですか? 北見さん。あの、顔を上げてください」
慌てて律花が言うと、北見は顔を上げる。その顔には後悔の色が深かった。
「我を失って加減を間違えてしまった。申し訳ないことをした。耐えられると思っていたのだが。……こんな事になるならば、しばらくは稽古を休ませてもらうべきだった」
その言葉に、律花は首を傾げる。
「どう言う事ですか?」
北見はしばし逡巡したようだが、やがて息を吐いて言う。
「私情を持ち込んで感情をぶつけてしまった、と言う事だ」
「私情って?」
律花が重ねて尋ねると、北見は眉を顰めた。だが、今、状況的に優勢なのは律花のほうだ。それをちゃんと分かっているため、律花は発言を撤回しなかった。
北見は諦めたように溜息を付く。
「そなたを憎らしく思う事だ」
その言葉に、律花は少なからず衝撃を受ける。
―――なんで? 私、北見さんに嫌われるような事、した?
律花の顔色が変わるのを見て、北見は説明する。
「そなた自身に問題があるわけではない。ただ、少し嬉しくない噂を聞いて、それで動揺していただけだ。最近色々あったから、それで不安定になっていたのかもしれない」
色々あった、というのは沖房の事だろう。沖房は八尋に許されて牢から出て、今は隠棲すると言って山に庵を建てて、時々刀を教わりに来た者などにその手ほどきをしたり、小さな畑を庭に作ってそれで生活を始めたと言う事だった。北見は沖房が牢から出た時も、それからも一度も沖房に会いに行こうとはしていないらしい。頑なに、父親を拒んでいるのだ。その事で、情緒不安定になっているというのは頷けない話ではない。
ただ、律花の気に掛かったのはもう一つの事だ。
「噂って、もしかして……」
律花が言い淀むと、北見は頷いて先を続けた。
「そなたと時柾様の件だ」
その言葉に、律花は複雑な顔をした。
「北見さんは、反対なんですか?」
律花が問いかけると、北見は言う。
「以前言ったはずだ。私にとってそなたは邪魔な存在だ、と」
確かに、それは聞いた事がある。意味はよく分からなかったが。
「私は、志摩様に恩がある。だから、できるだけ志摩様に安らかにいて欲しいと思っている。だがそれを、そなたは脅かそうとしている」
それには、律花は反論する。
「でも、仮に私が輿入れした所で、別に志摩様が奥方じゃなくなるってわけでもないんですよ?」
だが、北見は渋い顔で首を振った。
「それでも、変わる事はたくさんある」
「あの」
相も変わらず自分に全く目もくれない八尋に向かって弥一は思い切って声を掛けてみた。八尋は怪訝な顔をして弥一を見る。鋭い瞳に一瞬、怯みそうになるがそれをねじ伏せ弥一は言った。
「律様との噂って本当なんですか?」
その言葉に、八尋は不審そうに眉を顰める。それからにべもなく言った。
「お前には関係のない事だと思うが?」
今まで色々と溜まっていたものもある。だから、その言葉に、言い草に、弥一はついカッとなった。
次の瞬間には、相手が身分の高い者だという事も忘れて宣言していた。
「俺は、律に惚れている。律に惚れてここまで来た。あんたなんかには負けたくないんです」
言ってしまってから急に恐ろしくなるのは自分の器の小ささ故だろうか。それでも、逃げ出したくなるのを堪えて弥一はその場に踏み止まって八尋を睨みつけるように見据える。
八尋はしばし、品定めをするように物珍しげな色を含めて弥一を眺めてから、口を開く。
「大きな口を叩くのならばそれに見合う程度の実力をつけてからにして欲しいな」
弥一の顔がカッと赤くなるのを特になにも感慨のない瞳で見ながら、それでも八尋は続ける。
「律が輿入れするかは律次第だ。本人に任せてある。……だが、多分しないだろうな」
その言葉に、弥一は怪訝に思って八尋を見る。無表情の八尋の顔からは何も読み取る事ができなかったが。
「どちらにしろ、俺もお前も、きっと律を手に入れることが出来ない。律は、俺達とは住む場所が違う」
「え?」
意味が分からない、と言った顔で不審そうにする弥一に八尋は更に続ける。
「あちらには律が絶対に切り捨てられない大切なものがある。律は、いつか必ずここから去ってしまうだろう」
―――そして、自分は律が望むならばその方法を探す労力を惜しまない。
八尋は内心でそう続けた。
律花が自分に今まで尽くしてくれた数々を思えば、律花の望みを叶えてやるなどと言うのは当然過ぎる事だ。
傍らでまだ納得が出来ないというように渋い顔をしている弥一をその場に残して、八尋はそのまま歩き出した。




