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第十章 5話

 「どうしてこんな堂々と脱出するの?」

 走りながらでも、とりあえず気になる事から聞いていこう、と律花は口を開いた。こそこそとしたりする必要はなかった。八尋は警備や人の目も気にせず、ただ真っ直ぐに駆けていたからだ。

 「どうせ篠田につくのならば篠田に有利な事でもしておいてやろう、と言う事だ。安曇は今、篠田との戦の準備をしている。二、三日もすれば篠田に攻めてくるだろう。それを延ばすために、安曇の城を少し壊しておいてやる事にした」

 八尋が言った直後に、律花たちの進行方向とは反対の方面から何かの爆発するような音が聞こえた。律花が驚いて振り返ろうとするのを制して、八尋は涼しい顔で言う。

 「彰だ。気をとられている暇はない」

 言いながら、飛び出してきた兵を刀で薙ぎ払った。この刀は、彰が届けてくれた物だ。

 夕を気絶させた後、脱出しようと離れを出た八尋の目の前にはにっこりと笑った彰が立って自分に刀を差し出していた。

 「ご自分で決意されたようで、嬉しい限りです」

 ずっと盗み聞きをしていたな、と言うと彰は悪びれずに「ご主人様の事が心配で心配でたまらなかったので」と言った。八尋は黙って刀を受け取ると、半分は彰に倒されてしまっている警備の者を切り払って離れを抜け出してきたのだ。律花の閉じ込められていた部屋は、彰が確認済みだった。

 「他の人達はどうやって脱出するの?」

 律花が続けて尋ねる。

 「彰が言うには、前もって言ってあるので門の付近で合流してくれ、と言う事だ」

 連れがいる、と彰に聞いた時は連れにするような者がいるのか、と意外に思ったのだが、彰は笑って誰かとまでは言わなかった。ただ、律花が見ればわかるから、と。

 どおん、とまた、先程とは違う場所で爆発音がした。

 「……派手にやってるね」

 律花が呆れたように言う。

 「派手にやった方が、兵が皆そちらに引き付けられてこちらが手薄になる。それを狙っているのだろう」

 だからと言って数の差は明らかだ。ここはまだ女達の多い棟だから静かだが、そのうちに八尋たちも兵に囲まれてしまうだろう。だから、一刻も早く門を出て、城から抜け出さなければならない。

 彰が前もって最短の道を教えてくれたのでそれに沿ってなるたけ急いで駆ける。

 律花は、しばらくは新しい質問をしないで黙りこくって走っていたが、やがて、決意したようにやや緊張した声で口を開いた。

 「お姉さんの事は、いいの?」

 八尋はしばし沈黙する。だが、その後、静かな声で「ああ」と言った。


 瞬く間に騒がしくなった城内を、夕はふらふらと歩き続けた。目の前を慌しく武装した兵達が駆けて行く。城の中ではあちこちから砂煙や炎が上がっていた。

 逃げ惑う人々に流されながら歩いていると、不意にぐいと腕を引かれてよろめいた。視線を移した先に懐かしい顔を見つけて、夕はそこでやっと少し我に返る。

 「沖房。あなたも来ていたのね」

 その言葉に、目の前の男は複雑そうな顔で頷いた。それから気遣わしげに言う。

 「夕姫、下手に歩き回ってはかえって危険です。どこか一つ所に留まってじっとしていてください」

 その言葉に、夕は一瞬驚いたような顔をしてから、ふふ、と笑った。

 「相変らず心配性ね、沖房は。懐かしいわね。八尋と三人で時々一緒に……」

 夕はそこで唐突に言葉をとぎって、それから思い直したように言う。

 「どうしよう、沖房。八尋が行っちゃったわ」

 その声は打って変わって不安そうなか細い声だった。不安定なその様子に、沖房は当惑して顔を曇らせる。

 夕はそんな沖房の様子になどまるで気付かずに、言葉を続けた。

 「きっと八尋は私に幻滅したわ。もう二度と会いに来てくれない。私はきっと、やっぱり八尋がいなければどこでも一人ぼっちに変わりはないのに。八尋だけが、大切だったのに」

 眉根に深い皺を作って、苦しむような顔で夕は自分に言い聞かせるように言う。

 「姫……」

 「どうしよう。そんな事も忘れていて、八尋を身勝手に使おうとしたなんて。私は何て事を」

 沖房はしばし迷うようにしていたが、やがて不器用に大きな手を夕の頭に乗せた。時々、それも当主の目を盗んで後ろめたい心で、幼い頃にしていたようにその頭を撫でる。

 「大丈夫ですよ。姫がそのように思っていればいつかは分かってくださいます。だから、今は安全な所にお隠れください。私が、姫が謝っておられたことを時柾様にお伝えしておきますから。さ、早く」

 その言葉に、夕は激しく首を振る。

 「駄目よ。八尋は一度憎んだ者は絶対に許さないわ」

 「大丈夫です」

 沖房は言い聞かせるようにきっぱりと強く言った。

 「きっと、大丈夫です。時柾様は以前よりも、大分柔らかくなられました」

 揺れる瞳を覗き込んで噛んで含めるように言うと、夕ははっとした顔をした後、寂しげな、泣きそうな顔の笑みを浮べた。

 「それはきっと、あの子のお陰ね?」

 その言葉に、沖房はどうする事も出来ずに、戸惑ったままただ頷いた。夕は言う。

 「始めにあの子と八尋が離れで話しているのを隠れて聞いて、驚いたわ。あの八尋が、私以外に自分の名を呼ばせていたのよ。八尋って。それを聞いた時、これは拙いって思ったの。だから、あの子を捕らえたのよ。もしかしたら、ただの嫉妬だったのかも」

 沖房が返答に困っているのを見て、夕は大きく息を吐いて言う。

 「ありがとう沖房。聞いてもらえたら大分すっきりしたわ。もう行って。私は大丈夫だから」

 それは、反論を許さないようなきっぱりした言葉だった。


 律花は歯を硬く食いしばって駆けていた。城門に近づくにつれ、周囲を囲む兵の数は増えて行き、砂埃の中、今はもう見渡す限り周囲には兵が居る。それを、八尋がすぐ側で斬り倒している。

 間近で人が殺されている。これは恐怖以外の何者でもなかった。本当はそんなのは止めてくれと言いたかったが、そんな事を言っていられない場合だと言う事は身にしみて分かっている。八尋がここで手を止めれば、何本もの刀が律花に向かってきて、律花は一瞬にして屍となる事だろう。

 体に、誰のものとも知れない返り血が掛かる。いくつもの悲鳴が聞こえる。そういう物を受け入れなければならないのは心底恐怖だった。

 不意に、目の前を塞いでいた人垣が割れた。律花が突然の変化に驚いて見ると、沖房と弥一が敵を斬り倒しながらこちらへと進んできた。

 隣で八尋が沖房の姿を認めて驚愕するのが分かったが、律花はあえてあたりまえのように駆けて行って合流した。八尋は渋い顔で律花を睨んだが、ここでそうしている暇はないと考え直したのか、無言で敵を切り捨て、律花に倣った。

 沖房の腕も、流石に北見の父親というだけあって鮮やかなものだった。八尋に引けを取らない形で道を空けて行く。

 「もう少しだ」

 沖房が言うので見れば、律花たちは堀に掛かる橋を渡ろうとしていた。ここを渡ってしまえば、城下に逃げ込める。そうすれば、なんとか人ごみに紛れて逃げられるだろう。

 その時、律花の背後に兵の一人が追いついて刀を振り上げた。八尋が咄嗟に背後を振り向いてそれを斬って捨てた。だが、足を止めたのが最後、八尋は途端に律花たちと引き離され、集団に囲まれてしまう。

 「八尋」

 律花が気付いて声を上げる。振り向くと、辛うじて数人の兵の間から八尋の姿が見えるだけになっていた。

 「行け」

 鋭い八尋の声が聞こえる。だが、八尋がああなってしまっては意味がない。律花は駆けて戻ろうとする。

 その時、ぐい、と力強く手を引かれた。驚いて振り返ると同時に、弥一が真剣な面持ちで律花の手を引っ張るようにして駆け出した。

 「今行けば生きては戻れないぞ。走れ」

 「だって八尋が……」

 「いいから」

 怒鳴るような、真剣な声だった。律花は一瞬、気圧されそうになる。

 だが、その時名残惜しげに八尋の方を振り返った律花の目に映ったのは、こちらに背を向ける八尋に斬りかかろうとする男の振り上げた刀だった。

 気付いた時には、律花は弥一の手を振り払っていた。以前八尋に手を振り払われた時の自分の気持ちなど、思い出す余裕もなかった。自分がどんなに傷ついたか、自分に好意を寄せているといった弥一をどんなに傷つけるか、といった事は一切頭から吹き飛んでいた。弥一に目もくれず、律花は全速力で八尋の元へ駆ける。駆けながら、手探りで懐を漁っていた。懐に入れてある冷たく硬く鋭いものを確認する。

 迷いはなかった。あったのはただ、八尋を守らなければという事だけ。

 頭の中に様々な物が駆けた気がする。戦の中で感じた恐怖。兎を殺した時の気持ち。八尋が人を殺すのを止めた気持ち。雷。人が死ぬ事。人を傷つける事。悲しみ、恐怖、辛さ。

 ただ、それは通り過ぎるだけで律花の気持ちには止まらなかった。律花の視線の先にあるものは、ただ八尋だけだ。

 手元に鈍い衝撃が伝う。切っ先が刺さった太い腕が、それでも刀を放さないのを見て、律花は手にさらに力を込めてそれを押し付ける。刃が皮膚に食い込む鈍い感触に、歯を食いしばって、目を見開いて耐えていた。

 やがて、男が手を押さえて屈みこんだ向こうに、八尋の驚いた顔が見えた。

 「律……」

 八尋は信じられない、といった顔で律花を見ていたが、次の瞬間には向かってくる別の男を斬り捨てて、男を飛び越えて来て律花の手を取った。

 堀に掛かる橋の上はもう、人がひしめき合っていてとても渡る事が出来なくなっていた。八尋はそれを諦めて城の方へと引き返す。どこか他の道を探すしかないだろう。

 引っ張るように握り続けた律花の手は、ずっと小刻みに震えていた。

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