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第十章 4話

 「八尋は、どうしてますか?」

 律花が尋ねると、膳を律花の前に置いていた夕は微かに微笑んで返事をした。

 「相変らず。……でも、あの子、ちょっと変わったわ」

 律花は怪訝そうな顔をする。それに応える様に、夕は少し寂しそうな色を浮かべて続けた。

 「時々、とても遠い目をするの。私でさえ、何を考えているのか分からなくなるような。こちらがとても不安になるような。昔は、あんな目をする事はなかったのに」

 夕は律花の元へ来るたびに昔の八尋との思い出を沢山話す。そこに出てくる八尋は、おおよそ律花の知っている八尋とは違っていて、普通に笑って普通に冗談を言う、年相応の優しい少年だった。自分の知らない八尋をこの人はなんて沢山知っているのだろう、と律花は胸が疼くのを感じたが、それでも、その話を全て聞いてしまった。

 夕が残念そうな口調でこのような言葉を口にするのは、律花にとっては心外だった。それはまるで、八尋が知らない人になってしまったとでも言うような、どこか不満そうな色を含んだ口調だったからだ。

 確かに、話に聞く限り夕の知っている八尋と律花の知っている八尋はまるで違うように思える。だが、それでもこの人にそんな事を言う資格はない、と思った。あそこまで、八尋に想われているのに。だが、夕はそれも知らないのだろうか。

 少し、腹が立たない訳ではなかった。それでも、つい夕を慰める言葉が口をついて出てしまったのは、先日蘭子の母親に聞いたことを思い出したからだ。

 「それでも、八尋は今でもあなたの事を一番に考えています」

 もし、夕が八尋が変わってしまった事で不安を感じているならば、そんな心配は必要ない、とそう言いたかった。言った直後に、それがいわゆる『敵に塩を送る』事だと思い出して少し後悔したが。それでも、口は止まらない。

 「八尋はあなたの事を考えて、止める人の手を振り払ってあなたの所に行きました。あなたの事をとっても大切に思ってます」

 ―――私なんか、どうでも良くなるくらいに。

 言い募る律花を黙って見つめて、夕は静かに目を伏せる。

 「そう。……ありがとう」

 障子越しに差し込む夕日が夕の顔に当たって、白い顔に深い陰影を着けている。律花の真っ直ぐな瞳から身を隠すように夕は顔を俯けて、それから言った。

 「私も、あなたの様ならば良かったのに」

 何を贅沢な事を、と思ったが、そのしみじみとした口調に律花は何も言えなくなる。夕は八尋に良く似た、どことなく影のある顔で律花を悲しく見つめると、続ける。

 「どうして、こんな風になってしまったのかしら」 


 「八尋、聞いているの?」

 耳に心地よい声に八尋はふと我に返る。目の前で自分に良く似た姉が少し眉を顰めて拗ねた顔をしていた。

 「八尋は最近、とみに上の空ね。何か思いを馳せる事があるのかしら?」

 そう言う夕に八尋は無理矢理、苦笑して見せる。

 「いえ、そうでもないのですが」

 「気になる事があるのね?」

 重ねて言われて、八尋は言葉をなくした。夕は少しねめつけるような顔をして言う。

 「私がどれだけあなたと一緒にいたと思っているの? あなたの感じている事くらいはお見通しだわ」

 八尋は何て言ってよいのか見当がつかなかった。夕は急に真剣な顔になって八尋を見つめている。八尋は当惑して目の前の女の瞳を見つめ返す。

 ―――いつから、この人を疑うようになってしまったのだろう。

 今の今まで、蘭子の母親や彰が言っていた言葉が頭の中で渦を巻いていたのだ。

 昔は姉の言葉ならば絶対、と信じ斬っていたのに。今回ここに来てから、時々ふと姉の事が分からなくなる。姉が、今まで見ていた姉とはどこか違うのではないだろうか、と思ってしまう。特に、律花と話してから、それは日に日に頻繁になって行っていた所だったのだ。そこに来て、あの二人の言葉。

 ふいに、夕は目を逸らすと、急に心細くなったとでも言うように、確かめるように言う。

 「八尋は、これからずっと一緒にここにいてくれるのよね?」

 それはどこか縋るような色を含んでいた。まるで、今にも八尋が置いて行ってしまうのではないかと不安がっているような、そんな印象。それが、さらに八尋の違和感を掻き立てる。昔は、こんな言い方は絶対にされなかった。

 大丈夫だ、と言おうとして八尋はふと、ほんの微かにだが、香の薫りを感じた。それが、以前、それもごく最近に嗅いだ事のある薫りだと思い、思い出そうと記憶を手繰る。それがいつだったか思い出したとき、八尋は目の前が真っ暗になったような、そんな気持ちを味わった。

 その香を嗅いだのは、律花が去った時だ。律花が珍しく香などをつけている、と印象に残ったので覚えていたのだ。

 『律は、夕姫に囚われているようで』

 彰の言葉が思い出される。

 ―――もう、目を閉じておくには無理がある。

 ずっと見ないようにしていたのに。必死に自分の中の疑念を打ち消していたのに。

 八尋は絶望的な気分で硬く目を閉じた後、目の前に座る姉を見る。その視線に、夕が少したじろくのが分かった。

 八尋は少し夕から目を逸らした後、覚悟を決めて口を開く。今まで避けていた質問。きっとこの言葉を口に出してしまったら、決定的に何かが変わってしまう、と本能的に逃げていた質問。だけど、もう、これ以上は先延ばしに出来ないだろう。

 「何かを隠しているのは姉上の方ではないですか?」

 発した声は呟くような声だったが、確かに夕には届いた筈だ。

 夕の瞳がゆらりと揺れた。八尋は静かに続ける。

 「姉上は、何のために俺をここに呼んだのですか? 俺にはとても、俺の側にいたいからという姉上の理由は信じられない」

 昔は、それだけで充分だった。それが、当たり前だと思っていた。

 だけど、今はそうじゃない。ふとした拍子に見える夕の仕草や表情が、そうではないと言っていた。

 夕はしばし迷うように瞳を動かした。瞳には、数々の葛藤が現れては消えていく。

 八尋は今度は逆に、じっと夕を見つめた。どんな変化も、ちいさな偽りも見逃さないように、と。

 やがて夕は観念したかのように大きく息を吐くと口を開いた。

 「どうして、あなたは私を疑うようになってしまったのかしら。……昔から鋭いあなたを欺ける自信は、私にはないわ」

 心底残念そうにそう言う声は、微かに震えていた。

 「正直に言います。八尋が安曇に来れば、私の地位は確固たるものになるわ。私には子供はいないけれど、優れた臣が私の力で安曇についたとなれば、殿は私を見直してくれる。そうしたら、ますます殿は私を寵愛なされ、私はこの安曇でそれなりの地位も築けるわ。それは、あなたにとっても悪い話ではない筈よ。私はあなたの後ろ盾となれるから、あなたもここで良い場所に居られる事となるわ」

 ねえ、と夕は縋るように言う。

 「八尋も私と手を組んで安曇で平穏に暮らしたいでしょう?」

 八尋の瞳が凍りついたように見開かれた。

 夕はそれを見ると、慌てて顔を背けるようにして言い訳をするように続けた。

 「あなたと離れて安曇に着いてから、生きていくのは大変だったわ。周囲に味方なんて誰も居なくて、辛い事も沢山あったし孤独だった。……だけど、今は私は殿にそれなりに気に入られていて、寵妃の一人になっているのよ」

 「俺を、道具にしようとしたのですか?」

 呆然とこぼれ落ちた八尋の言葉に、夕は少し逡巡するようにしてからやがて小さく頷く。

 「そう、なるのかしらね。あなたとここで暮らせたら、って思ったのも事実なのだけど」

 それから、迷いを吹っ切るように、逆に強い口調になる。

 「だけど、あなたも悪いんだわ。あなたは居なかったんだもの。私が一番辛い時に、助けを必要としている時に、あなたはずっと私の側に居てくれなかった」

 どんなに、胸の中で八尋に助けを求めただろう。どんなに、辛かっただろう。だけど、八尋は現れなかった。遠い篠田にいて、夕の苦労や悲しみや痛みなど知る由もなく。だから、夕はずっと一人でここで生きていかなければならなかった。誰も信じられずに、誰にも親しくできずに、ただ息を殺して歯を食いしばって、一人で生きていかなければならなかった。

 八尋がふらりとその場を立ち上がった。それを見て夕は続ける。

 「こんな所をあなたに知られてしまったのはとても残念な事だけど、でも、いまさら後には退けないの。私に協力して頂戴。あなたがここから逃げ出すことはまかりならないわ。……私の手元にはあなたのお気に入りの女の子がいる。あなた一人ならばどうとでも逃げ出せるかもしれないけれど、人質にあの子を捕られてしまってはどうしようもないでしょう? 八尋、残念だけど命令するわ。安曇につくと言いなさい」

 言ってようやく八尋の顔へと視線を戻した夕はそれを後悔する事となる。八尋の瞳はまるで何も映さない空洞のような深い闇を讃えて、ただ夕を凝視していた。

 「どうして姉上は俺を欺くようになってしまったんでしょう?」

 感情のない、そんな声が虚しく響いた。


 「律、律?」

 障子の向こうから呼ぶ、聞き覚えのある声に律花は驚いて顔を上げた。

 「彰さん?」

 反射的に返事をすると、障子の向こうで人影が笑った気がした。

 「そう。律は無事?」

 「無事ですけど、ここから出ちゃいけないんです」

 律花が困った口調で言うと、笑い含みの彰の返答。

 「どうして?」

 「八尋が人質にとられてるんです」

 律花のその言葉に、彰が堪えきれずに噴き出すのが分かった。律花は憤然とするが、文句を言うよりも先に聞こえた声に驚愕とする。

 「彰、律をからかっていないで早くしろ」

 聞き慣れた静かな声。律花は思わず駆けて行って障子を開ける。開けた先に見慣れた八尋の姿を認めて目を大きく見開いた。

 「八尋。どうしたの?」

 結局、安曇につくことにしたのだろうか?

 その言葉に答えたのは八尋ではなく彰だった。

 「時柾様は篠田へ帰るって。良かったね、律」

 はるばる安曇まで来た甲斐があったね、と続ける彰を呆然と見て、それから八尋を見る。

 夕の話を聞く限り、二人の親しさを聞く限り、いつかは八尋は絶対に夕の願いを叶えてしまうだろう、と覚悟していたのに、どうした事だろう。それに、警備のたくさんのあの離れからどうやってここまで来たのだろう。

 律花の視線を受けて八尋は口を開く。

 「心配掛けて済まなかったな。急な事で悪いが、今から脱出をするから用意をしてくれ」

 「ゆっくりしていられないよ。警備の兵が目を覚ますのも時間の問題だしね。時柾様と話をして、どうせ逃げ出すのなら、派手にやろうって事になったんだ。……と言う訳で、俺は敵を分散させるために別の門から逃げるんだ。無事に外で会えるのを楽しみにしているよ」

 言い残すだけそういい残して、彰は次の瞬間にはもう、その場から駆け出していた。唖然とした律花に八尋が言う。

 「色々と解せないのは分かるが急いでくれ。逃げながら、説明をする」

 その言葉に、律花は頷いて急いで身支度をする。髪を一つに束ね、着物をなるべく軽くしてからたすきを掛けて袖を邪魔にならないようにして、部屋から駆け出した。


 夕が目を覚ますと、離れの中には自分しかいなく、体には八尋の物と思われる衣が掛けられていた。夕はしばしそれを物思いにふけるように眺めていたが、やがてゆっくりと起き上がり、離れを出る。起き上がるときに、鳩尾に受けた鈍い打撃の後が少し痛んだ。

 離れを出ると、折り重なるように警備の者達が倒れていた。失神している者もあれば、刀傷の者もある事を見て取って、夕は大きく溜息をついた。

 こうして、誤魔化せない被害を残して行った所を見ると、もう戻って来る気は無いのだろう。

 八尋は、去ってしまった。

 夕はしばし見るともなくそれを見ていたが、やがて自嘲気味の吐息を漏らした。

 ―――これで、この城の中で置かれた自分の立場は悪くなってしまう。

 去ってしまった八尋を想うではなく、咄嗟にそんな事を考えてしまった自らが厭わしくてしょうがない。本当に、いつから自分はこうなってしまったのだろう。昔のように、一心に八尋を想えなくなったのはいつの頃からだったろう?

 頭の中をよぎったものがある。それは、八尋に会いに来たと城に忍んできた少女だ。彼女の真っ直ぐな瞳を心底羨ましく思う。自分もあのような瞳のままでいたかった。純粋なままで、八尋だけを信じていたかった。

 『姉上、大丈夫ですから』

 不意に、八尋の言葉が思い浮かんだ。先ほどまで耳にしていたのよりも幼いその声。夕の中で大切な思い出になっているその声。幼い八尋はいつもそう言って小さな手で自分の涙を拭ってくれた。自分たちはそうやって、お互いの傷を癒しあうように生きてきた。失ってしまったのは、そういうものだ。

 どうして、信じられなかったのだろう?

 ―――変わってしまったのは、私なのだ。

 八尋の手もなく、側に居てくれる人も誰もいないこの城に来てから、生きていくのに必死だった。それまで敵国のような関係であった篠田から来た夕に対する周囲の目は冷たかったし、それまで八尋としか接する事のなかった夕にとって人との付き合い方など分からなかった。そんな中で生活をしていくうちに、ようやく当主に気に入られて、それから少しずつこの城の中での自分の居場所を確保する事が出来たのだ。だけど、その居場所は夕一人のものではなくて、それが常に不安だった。他の女には子供がいる者もいるのに、夕はなかなか身篭らなかった事もある。だから、少しでもこの居場所を守り続けようと思って、だけどそれを正直に八尋に話してしまえば、絶対に軽蔑され、拒絶されてしまうと思って、あんな手段を取ったのだ。八尋は、たとえ落胆したとしても自分を拒絶するような事はきっとしないに違いなかったのに。信じられなくて欺いたのは自分だ。八尋が安曇に来てからも、いつ八尋が心を翻してしまうかとびくびくしていた。会わない間に、八尋は変わってしまったのではないか、自分の事を裏切ったならばどうしよう?

 変わってしまったのは八尋ではない、自分の方なのに。

 自分でも薄々、気が付いていた。自分がどんなに汚れてしまったか。ただ、それを認めたくなくて、目を背けて八尋が変わったと思い込もうとしていた。八尋が変わってしまったから、こんなにも不安になるのだと。それこそが、今まで真摯に自分のために尽くしてくれた八尋に対する最大の裏切りだ。

 夕は手に握った八尋の衣を見る。

 『八尋は今でもあなたの事を一番に考えています』

 少女の言葉を思い出す。その言葉を言った時の少女のまっすぐな目。あの瞳に見つめられていると、自分の中の汚い部分を見透かされてしまうのではないかと恐ろしくなった事がある。あまりにも真っ直ぐすぎて。自分とは違いすぎて。

 ふらふらと夕は歩き出した。頬に伝う涙を拭いもせずに。

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