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第十章 3話

 夕は侍女から膳を受け取って、それを手ずから持って歩いていた。向かう先は、八尋の部屋ではない。

 重い着物の裾を引きずりながら歩く廊下は、短い距離でも長く感じられる。その上、普段はこのように重い物など持つ事もないから、尚更だ。だが、だからと言って侍女にそれを任せるわけにも行かなかった。今から行く先は、あまり他人に見られたくない。

 ふと目を上げると、廊下の向こう側から人がやってくるのが見えた。その姿を確認するにあたって、夕は僅かながら眉をしかめた。

 しずしずと歩いている割には、どこか刺々しい雰囲気を纏ったその姿。侍女を数人引き連れて、まるで自分の天下だとでも言うように偉そうな顔をしている。

 相手は夕の姿に気が付くと、あからさまに不快そうに眉をしかめる。そうして、意地の悪い瞳をして顎をつんと上げた。

 夕は膳をその場に置くと、廊下の端に体を避けて、軽く会釈してその人が目の前を通り過ぎるのを待った。

 きらびやかな着物の裾を引きずって、女が目の前を通り過ぎ、その後に侍女が続く。最後尾にいた侍女が通り過ぎる時に、夕の横に置いた膳を蹴り飛ばして行った。ばしゃりと、汁物が夕の着物にかかる。通り過ぎる女は、まるでそれを気にしないようにそのまま通り過ぎて、角を曲がって行ってしまった。直後、角の向こうから、女達の高らかな笑い声が聞こえる。

 夕はしばらくそこに立ちすくんでいたが、やがて溜息をついてその場にしゃがみこむと、膳を拾い始めた。こぼしてしまった以上、また新しい膳を貰って来なければならないだろう。

 着物についたものを払いながら、夕は唇を噛み締める。

 こういう事は初めてではなかった。もうずいぶん長い間、こんな風に嫌がらせをされている。だけど、だからといって慣れるものでもない。

 夕は女が去った角を見据える。正妻だからという理由で、全てを思いのままにしようとしている、夕が当主に気に入られているのを面白くなく思っていて、事あるごとに嫌がらせをしてくるその女の去った後を。

 ―――だけど、あの方は分かってはいらっしゃらない。

 その正妻の地位だっていかに不安定なものかを。

 夕の母親だって元は正妻だったのだ。


 整えられた趣味のよい調度品、退屈をしないようにと持ち込まれた書や刺繍が部屋の中に散らばっている。そんな部屋で、律花は不機嫌極まりない顔で座っていた。この部屋に連れて来られてから、律花はすこぶる機嫌が悪い。

 ふいに、障子の向こうから声がかかって、それからがらりと開いた障子に目をやって、入ってきた人物を律花は睨みつけた。

 始めは、何て美しい人なのだろう、と目を奪われたものだった。漆黒の髪に白い肌をしていて、触れれば折れてしまいそうな果敢無さを感じさせる人だ、と。それに、この人の顔立ちは律花の良く知った人物にとても似ていて、それ故に親しみさえ感じていた。だが。

 「ご機嫌はどうかしら?」

 透き通った声は絹を撫でるように耳に心地よい。だけど、その口から出される言葉の内容が心地よいばかりのものではない事を律花はもう、知っている。

 「悪いです」

 律花がぞんざいに答えると相手は少し悲しそうに苦笑した。それだけで、律花は少し恨めしく思う。何も知らない者が見たら、その様子はどう見ても傷つけたのが律花で傷つけられたのがこの女性、と思ってしまうのではないか。実際のところまったく逆で、加害者がこの女で律花は被害者なのにも関わらず。

 女は手に持った膳を律花の前に置くと、微笑んで言う。

 「何か不自由はないかしら?」

 「ここから出られない事以外には特にないです」

 数日前、律花は八尋のいる離れの窓から中庭に脱出した。その帰りに彰の姿を探している途中に、見知らぬ男に捕まってしまったのだ。警備の者とは違う。警備の者は北見の香のせいで無気力に座り込んでいるのを律花がちゃんと目撃していたし、なにしろ恰好が全然違った。きっと下男か何かだろう。そう考えた時、律花は鳩尾に衝撃を感じて気を失い、目が覚めるとこの部屋にいた。

 ここがどこだかはよく分からなかったが、おそらく城の中だろうと予測する事は出来た。綺麗な部屋で、調度品も高級そうな物が目に付いたからだ。

ここで目が覚めてから、律花は目の前にいる女と会ったのだ。名乗られるまでもなく、すぐに誰だかは分かった。顔立ちが、八尋にそっくりだったから。

 夕、と名乗ったその女は、今は八尋を刺激するような事を言う律花に来てもらっては少々困る事などを説明して、この部屋に留まっていて欲しいと言った。この部屋は律花が集落などで閉じ込められた物置とはわけが違う。簡単に逃げられる。そう考えた律花の考えを読んだかのように夕は釘を刺した。

 「申し訳ないですけど、もしあなたがここを逃げ出したなら、八尋に迷惑がかかるわ。あなたの存在が殿に知られて、八尋は殿に疑われてしまう」

 これが、律花をいまだここに縛り付けている鎖だった。もし、自分が逃げれば八尋の命を危険に晒すかもしれない、と思うと心配をかけているであろう彰達には申し訳ないが無闇に動けない。

 それにしても、と律花は目の前で優雅に腰掛ける人物を見て思う。

 ―――とんでもない人だ。

 一見して儚げで、こんな事をするような人に見えない。それが、とても恐ろしいと思う。

 数日間ここで生活をしているうちに、大体の所は分かった。今律花が居る場所は夕の侍女の部屋を空けたものである事、律花を捕らえた下男らしき男はその後すぐに解雇して今はもう、この城の中にいない事。夕は律花の存在を本当に近しい者達以外には隠し通している事。

 いつになったらここを出ても良いのか、と律花は聞いた事がある。その時、夕は八尋が正式に安曇の臣となる事が決まったら、と言った。

 それを聞いて、律花は顔を曇らせた。夕が来るたびに、もしここで自分が解き放たれたのならば、八尋はとうとう安曇の臣になってしまったのだろう、と不安に似た複雑な気持ちになる。

 そんな風になりながらも、律花はどうする事もできないのだった。


 ―――戦が近いな。

 八尋は離れにいても感じる城内に流れる空気の違いを敏感に感じ取って、そんな事を考えた。どことなく城内全体に異様な空気が流れている。人の気持ちがそぞろになっていて、そんな中で独特の緊張感が漲っている。きっと、篠田に向けての出兵が近いのだろう。

 そう考えて、律花の言葉が蘇る。律花は安曇が戦をするから嫌いと言った事を思い出した。ここ数日、律花がこの離れを訪れてから、ふとした折に律花の言葉を思い出す。そして、それが日に日に重くなっていくように感じていた。戦が近づくにつれ、夕は益々足繁く八尋の元に通うようになり、まるで八尋が約束を違えるのではないかと見張っているような印象さえ受ける。それが、更に八尋の胸の中に疼く不透明な何かを刺激するように感じた。

 ふと誰かが離れに近づいてくるのを感じて耳を澄ます。人の足音と、話し声が聞こえてくる。

 ―――姉上では、ないな。

 律花でもない。声の質から言って、もっと年が上の女のようだった。

 八尋は不審に思いながら扉を注視して、その者が辿り着くのを待つ。ここに来るまで存在を隠すような真似はしていない事から、どうやら八尋に対して危害を加える目的の者ではないだろう。

 戸口に人が立った気配。しばらく見張りと何かを言い合っていたが、やがて女の方が勝ったと見えて、一声かけられて戸口が開いた。

 そこに立っていたのは、見覚えのない中年の女。背後に一人侍女らしき者を引き連れている。良い着物を着ている事からして、身分の高い女なのだろうという事が窺えた。

 八尋の不審気な顔も気にせずに、八尋の事をじろじろと遠慮なしに眺めながら女はずかずかと部屋に上がりこんでくる。そうして、どことなく偉そうな雰囲気を纏わせながら、どかりと腰を下ろした。

 「お前が夕の弟?」

 確信を込めて尋ねた言葉は高飛車な口調。気位の高い女なのか、尊大な態度で八尋に対峙する。

 「そうですが。そちらはどなたですか?」

 八尋が問い返すと、女は少し鼻を鳴らして言う。

 「蘭子の母、と言えば分かるかしら?」

 ―――という事は、この城の正妻。

 なるほど、言われて見れば気の強そうな所など、蘭子によく似ている気がした。

 「それで、その様な方が何用ですか?」

 八尋が問いかけると、女は肩をそびやかすようにして八尋をねめつけるようにする。

 「忠告をしに来たの」

 「忠告?」

 八尋は怪訝そうに眉間に皺を作る。蘭子の母親は赤く塗った口元に笑みを浮かべるようにして頷いた。

 「そなた姉は、少々図に乗りすぎている感があるのでね」

 八尋の顔が不快そうな色を濃くする。鋭い瞳で目の前の女を睨みつけるが、生憎この年を経た女には効果を与えないようだった。女はにやりと八尋を一瞥してぬけぬけと続ける。

 「そなたは姉を慕っているようだから、忠告をしに来たのよ。そなたの姉だって、いつまでも何も知らない小娘ではないのだから、そうやって盲信していると付け入られるって事をね」

 瞳に怒りを浮かべた八尋を面白そうに見遣って、女は揶揄するような笑い声をたてた。

 「そうやって、自分が守ってあげなければと思っているのね。麗しい、素敵な事だわ。……だけど、あの娘はそなたの思っているよりもずっとしたたか。そなたを平気で利用するような、そんな女よ。疑うのならば尋ねてみなさい。姉上、正妻を押しのける企てに、私を利用しているのではないですか? って」

 それでも、八尋は女を睨み続けるだけだ。女はまたもや笑い声を上げて立ち上がった。

 「さて、そろそろお暇しましょうか。姉思いのあなたに斬られる前に」

 そんな事を言って、女は立ち去る風情を見せる。最後まで、自分を睨みつけている八尋に、一言声を掛けてから。

 「あなたの姉君に言って置きなさい。老いぼれても、小娘如きにはめられるほど、私も甘くはないと」

 その口調だけは、今までと打って変わって、真面目なものだった。


 律花は雨戸の向こうから物音を感じて目を開いた。今は夜。もう、布団に体を横たえて眠っていた所だった。

 耳を澄ますと、戸の向こうから人の気配を感じる。律花は身を硬くした。

 この時間帯は、夕は絶対にここに来ることはない。夕はこの城で当主の寵を受けている側室だから、来れない、と言ったほうが正しいだろう。

 ―――では、誰だろう。

 と考えたものの、見当はついていた。いつまでもここでじっと囚われているのは、いい加減彰達に無用な心配を与えるだろうと思って心苦しかった。だから、律花は夕に気付かれないようにある事を今日の朝方、したのだ。こうして人が現れた、というのはそれが上手く行った証拠だろう。

 律花はもぞりと体を起こすと、物音を立てないように注意しながらそろりと雨戸を開ける。

 徐々に大きくなっていく隙間から覗く高級そうな着物も、蘭子のものだと思っていた。だが、ある程度戸を開けた所で、大きな思い違いをしていた事に気が付いて、律花は激しく狼狽した。

 ―――誰だろう、これ。

 現れた人物は、律花がまるで見たことのない人物だった。動揺しながらも、いまさら開けてしまった戸を閉める事はできない。そんな事をすれば、逆に相手に不審がられるだろう。ここは、堂々としていなくては。

 そう、覚悟を決めて律花は背筋を伸ばしてしっかりと目の前の人物を見据えた。

 その人は、四十代半ば頃であろう女性だった。整った目鼻立ちから、昔は美しかったであろうと事をうかがわせるが、そろそろ年の波が迫ってきている、といった感じを受ける。印象的に気の強そうな顔をしていて、それが律花の知っている誰かを髣髴(ほうふつ)とさせた。

 「どちら様ですか?」

 律花が問いかけると女はつん、と見下すような顔をして、つと律花の前に何かが書かれた折り目のついた紙を差し出した。それを見て、律花は益々動揺した。それは、紛れもなく律花が書いたものだ。そしてそれこそが律花が朝方した企みだったのだ。

 紙の表には蘭子様へ、と書いてある。そして、中には律花が必死に頭を絞った暗号じみた言葉が書いてあったのだ。それを、去る夕が引きずる着物の裾にそっと乗せておいた。そうすると、廊下を着物が擦れる振動で、いつかそれが落ちて、運が良ければ誰かが拾って蘭子に届けてくれると思ったからだ。だが、別の人に拾われて、尚且つそのままそれを持ってこられるとは予想外だった。

 女は朱を塗った唇を開いて、開口一番呆れたような声を出した。

 「呆れてものも言えないとはこのことだわ。こんな汚い字で、こんな何の捻りもない言葉をよくも書けたものだわね。お陰で、蘭子は兄弟に捕まってからかいの的にされているわ。どこぞの下男がお前に懸想けそうしたぞ、ってね。それで、抜け出せなくて代わりに私が来たのよ」

 その言葉に、では無事に蘭子に届いたのだという安堵と、蘭子に対しての申し訳なさを感じた。だが、仕方がない。それが律花の限界だったのだ。『夕日の美しく見える場所にてあなたの事を想って動けずにいます』

 恋文に似せたのは律花が精一杯考えた偽装だ。事情を知っている蘭子ならば、それで夕に囚われてしまった事は分かるだろうし、そうしたら彰に伝えてくれると思ったのだ。

 律花は視線を目の前の女性に向けた。その顔は、やや訝しげだ。そんな律花の様子を受けて、女は眉を顰めて言う。

 「私は蘭子の母親よ。この安曇の当主の正妻に当たるわ」

 その言葉に、律花は大きく目を見開いた。

 ―――それじゃ、どちらかと言えば敵だ。

 いくら母親と言えど、蘭子を見殺しにするような人だ。律花がそう考えて警戒するように見ると、女は盛大に顔をしかめた。

 「信用してない、って顔ね。……確かに、私は蘭子を見殺しにしようとしたわ。でも、それでも人の親よ。人並みに蘭子を可愛いと思っているわ。お前があの子を助けてくれたのならば、何か力になってやるのもやぶさかではないと思っているの。もちろん、それはお前が安曇に害を為さないという範囲でだけどね」

 それに、と女は続ける。

 「どうやらお前を助ける事であの生意気な女を蹴落とす事ができるかも知れないのなら尚更、ね。ここの場所は、あの女の侍女に金を握らせたらすぐに教えてくれたわ」

 その言葉に、律花は慌てた。確かに、律花は蘭子を通じて彰に連絡を取ろうとした。だけど、それは律花が即座にここを脱出するためでもなければ夕を陥れるためでもない。単に、彰達が心配しているだろうと思ったからと、もう一つ、八尋が正式に安曇の臣になって律花がここを出るときに協力してもらうためだった。

 ―――もしかしたら、夕姫はそのまま私を八尋の元へはいかせようとしないかもしれないから。

 もし、自分が夕の立場だったら、八尋の臣である律花からこの軟禁生活の事が洩れれば自分の信用を失うかもしれない、と考える。そうすれば、殺されまではしないとしても、どこかへやってしまわれるのではないかと考えるのが当たり前だった。だけど、それでは律花がわざわざ安曇くんだりまで来た意味がまったくなくなってしまう。だから、彰に頼んでおいて、その時の脱出を手伝ってもらおうと思っていたのだ。そのために、一度彰に会っておきたかった。

 「私は、別に脱出したいわけじゃないです」

 律花がそう言うと、女は不快気に眉をひそめた。それでも律花は怯まずに続ける。

 「蘭子様に、彰さんによろしく、とだけお願いします」

 ―――もし、私が今ここを脱出すれば八尋に害が及ぶ。

 そうでなければ、とうに自分で逃げ出しているのだ。

 女が鼻を鳴らして、不快な様子を隠そうとしないので、律花は戸惑ったように言う。

 「あの、そんなに夕姫が嫌いですか?」

 その言葉には、いかにも蘭子の血の繋がった母親らしい、明確な答えが返って来た。

 「当たり前よ。あんな小娘」

 その言葉に、律花は首を傾げた。確かに、こうして囚われている今、律花にとって夕はありがたい存在ではない。だが、だからと言ってこうして嫌悪感丸出しで語られるほど嫌な性格でもないように思えるのだ。それを見て、女は続ける。

 「大体、そんな事を尋ねるなんて無粋ではない? 私の夫は、今この時もあの小娘と一緒にいるのよ。私の娘と同じくらいの年頃のあの娘とね」

 その言葉に、律花はようやく合点がいった。

 ―――そうか、安曇の側室ということは、そういうことだ。

 側室側室、と言われても、実際はとても実感が沸かなかった。だが、改めて考えてみれば、夕の嫁いだ相手は蘭子の父親にあたるのだ。それに思い至ってゾッとする。

 律花は目の前の女を見た。確かに、夫がそんなに若い娘に入れ込んでいるのは面白くないかもしれない。だけど。

 「でも、それなら夕姫だって辛いんじゃないですか?」

 律花は思わず口に出して言っていた。女が不審気に首をかしげるのを見て、律花は更に言い募る。

 「だって、いきなり自分の父親くらいの年齢の人に嫁いできて、しかもそうやって奥さんとかに嫌われてて」

 それならば、夕がなんとしても八尋を引きとめようとする理由もなんだか分かる気がする。この城には、夕の味方は居ないのではないだろうか。それの証拠に、夕の侍女は夕とは実質敵対しているであろう蘭子の母親が金を握らせたらぺらぺらと秘密を喋ってしまうような人なのだから。

 そんな夕にとって、八尋が側に居るという事は、どんなに心強いか。自分を慈しみ、自分を絶対的に守ってくれる存在。

 律花の言う事に、女は更に不快そうな色を濃くして鼻を鳴らす。

 「確かに、蘭子の言っていた事は本当だわね。お前は、相当に変わった娘だわ。自分をこうして囚えている女にまで同情するんだから」

 それから、大きく息を吐いて立ち上がる。

 「まったく。蘭子の頼みでなかったらお前みたいな生意気な娘の頼みごとなんて、絶対に聞いてあげないんだけど」

 その言葉に、律花はやや顔を曇らせた。なるたけ蘭子の手を煩わせないように、と思っていたのに、結局こうして助けを求めてしまった。それが、とても悔しい。

 「蘭子様はそんなに深く私たちに関わって大丈夫ですか? 当主様に疑われてない?」

 律花が尋ねると「お前がそれを言うの?」と女は肩をそびやかす様にした。それに律花が項垂れるのを見て、満足したようで、それから言う。

 「大丈夫よ。あの子がこの城に居るうちには、私が守るわ」

 思いがけないその言葉に、律花は女を凝視した。そう言う女の顔は、どこか穏やかで、だが決然とした風がある。先程まで見ていた、『女』の顔よりも、それはとても強く、美しく見える顔。

 「私だって人の親だわ」

 ―――ああ、これが『母親』の顔なんだ。

 人とはなんと、色々な顔を持ち合わせているのだろう。そういうものがたくさん絡み合って一人の人ができているのだろうか。

 律花は女の顔を見ながらそんな事を考える。きっとこの女は、夕から見たらひどく意地の悪い嫌な女に見えるのではないだろうか。だが、今律花は目の前の女を、とてもそんな風に見る事はできなかった。むしろ、美しいとさえ思えた。

 ―――蘭子様は、大丈夫かもしれない。

 その顔を見て、ようやく律花はそう安堵できたのだ。


 「こんばんは、時柾様」

 突然のそんな声と共に離れに入ってきた彰に、八尋は呆れた視線を向けた。この間の律花が来た事で、警護の数も増やされた筈なのにこの男はそれをものともしない。

 「今度はお前が説得に来たのか」

 八尋が言うと、彰は笑って首を振った。

 「俺にそんな大層な事ができるとは思っていないですよ。ただ、ちょっとご相談がありまして」

 「相談?」

 怪訝そうに問い返す八尋に、彰は頷いて口を八尋の耳に近づける。

 「この間、時柾様の所に行って以来、律が戻って来ないんですよ」

 その言葉に八尋が眉をしかめると、彰は続けた。

 「で、この後が重要なんですけど、怒らずに聞いてくださいね? 昨日蘭子様に律から連絡があって、どうやら律は夕姫に囚われているようで……」

 「まさか」

 即座に言い切った八尋に、彰は予測済みながらも苦笑した。

 「真偽の程はわかりません。ただ、それを心に留めておいて、できたらそれとなく夕姫に問い質していただきたいなあ、と。それに、どう考えてもおかしいですよ。この度の夕姫の行動は。考えれば考えるほど、疑いたくなってしまう」

 「止めろ」

 彰の言葉を遮って、八尋が声を上げた。彰は少し驚いて八尋を見る。

 ―――やはり、この人は姉の事となると感情的になる。

 八尋はしばし、声を上げてしまったのが気まずかったのか、渋い顔をして押し黙っていた。

 だが、やがて目を伏せたままポツリと言う。その声は、表面上は装っているものの、どことなく必死なように彰には感じられた。

 「分かってくれ、彰。俺は姉上を信じると決めている。何よりも姉上だけと、昔から決めているんだ」

 彰はしばしそんな八尋をじっと眺めていたが、やがて静かに一礼をしてその場を去った。

 ―――やっぱり、律の影響力は侮れないな。

 八尋が口に出してあんな事を言う事自体が、微かに八尋の心の中に疑いが芽生えてきた証拠だ。だからこそ、ああして必死にそれを抑え込もうとしている。

 ―――だが、今回の事はそれだけではないだろう。

 本当に、状況が変わってきているのだ。八尋の、ではない。夕の方が。

 ―――何があったのかは知らないが、愚かなお姫様だな。

 彰はそう、胸中で夕を嘲笑った。

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