第十章 1話
八尋が目を覚ました場所は、見覚えのある屋敷の部屋だった。それなりに広く、きちんと調度品も整っているここは、安積の城の離れの部屋に当る。安曇に来る時は、しばしばここに通されるので、すぐに自らの置かれた状況は把握できた。
―――以前は流行り病で殺そうとしておいて、今度は引き抜こうとするか。
醒めた頭でそんな事を考える。
―――それにしても、まさか自分をここに呼び寄せる餌を姉上が自ら買って出るようになるとは思わなかったな。
姉が自分に差し出したのは彰などが時々使う香で、急激に眠くなるという物だろう。効き目は長くないが、八尋を兵で囲んで連れて行くにはそれで充分だ。
そんな事をしなくても、口で説明して貰えば十分だったのに、と少々残念に思った。
―――暇だな。
八尋が目を覚ますとすぐに、人を呼んでくる、と側に控えていた下男らしき者が去って行っていまだに戻らない。することもなく、なんともなしに座っていると、取り留めの無い事を考えてしまい、いつしか昔の自らの事を考えていた。
幼い頃の自分、哀れで惨めだと、そう人は言うかもしれない。だが、自分はそれなりに満足していたように思う。
物心ついた時には既に、側に親の気配はなかった。母親は自らが篠田の当主である義任の子を生んだという現実を受け入れようとしない人だった。今から考えれば、既にその頃には心が病んでいたのだろう。侍女たちの内輪話は意識せずにも耳に入ってくる。八尋は、随分幼い頃にはもう、母の事情は察していた。
その女は、国にいた好いた男を想いながらも無理矢理に篠田に嫁がされ、泣き暮らしながら二人の子供を孕んで産み落としたが、本人はその現実を拒否して、頑なに受け入れようとしなかった。八尋や姉の夕が腹の中に居た頃から、何度も自らその胎内の子を痛めつけて流させようと試みたらしい。それでも、望みもしないのに子は生まれて来た。だから、母親は産まれて来た子を見ないようにした。目の前にいても、そこにはいないように、目には映っていない様に振る舞い、そして実際、そう強く信じ込むことで、段々と母親の目には二人の子供は映らないようになって行ったのだった。父親の方は、そこまで自らを拒絶する妻の産み落とした子供など、不快に思って会いに来ることもなかった。臣達も、八尋の両親に気を使って、誰も八尋たちを気に掛けない。当主の子供と言う事で、一応衣食住、教育などはつけてもらえるが、その他の事については、誰も二人の子供を見えないものとして扱った。広い城の中で、二人の子供は透明な存在になった。
だから、二人の子供も世界を拒絶したのだ。母が自分たちを認識しないように、周囲が自分たちを見えないものとして扱うように、二人の子供もお互いしかいない、お互いしか見えない世界で、暮らすようになった。八尋は他の誰から与えられる事もないような感情のこもった温かい言葉を姉から与えてもらい、姉に与え、姉を他の全ての嫌な事、苦しい事から守るのだ、と本気で思っていた。
姉が、父親の企てによって安曇に輿入れする事に決まった時の絶望は忘れられない。父親に食い掛かって行って数人に取り押さえられ、目が覚めた時には姉はもう発った後だと聞かされた時の、あの目の前が真っ暗になったような感覚は。あれほど、父親を憎んだ事はなかった。例え、今まで何度となく殺されそうになっているとしても、これほどまでに父親への怒りが膨らんだのはこの時が初めてだ。そして、自らがその息の根を止めるまで、その怒りや憎しみは続いた。
そこまで思い返して、唐突に、何の前触れもなく、自分が父親を殺したと話した時の律花の顔が思い浮かんだ。八尋の行動を悲しい、と言った時の顔。それは、段々最後に見た律花の顔に重なる。手を振り払った時の、あの顔。
―――傷つけてしまったな。
律花はまっさらだ。時々、眩しくて直視できなくなるような気がするほど素直で、そして思いも寄らぬほど強い時がある。初めて出会った時は、不安そうに怯えていたのに、今ではすっかり城でも居場所を見つけて周囲からも好意的に受け入れられている。八尋に出来なかった事をいともあっさりとやってみせて、それが当然のように笑っている。それでも妬んだりする気になれないのは、律花がどんなに色々な事に一生懸命か見ているからだろう。できれば、その笑顔を曇らせる事のないように守ってやろうと思っていたのに、自らでそれを曇らせてばっかりいるような気がする。その事に少し後悔していると、ようやく障子の向こうから声が掛かったので返事をした。
す、と障子が開いて、入ってきた人物に目を向ける。艶やかな黒髪。華奢な体。二人とも母親似のため、自分と良く似た造りの顔。以前、安曇に義巳を迎えに行った時にちらりと会ったが、それも安曇の当主に付き添われての事だ。二人きりでこうして会うのは本当に久しい。
「お久しぶりです、姉上」
八尋が言うと、姉の夕は昔からずっと変わらない、どこか憂いを含んだ表情を、優しげに微笑ませた。
律花は安曇城下にある宿で北見の父親、沖房という名前だと言うその人と二人で手持ち無沙汰にしていた。一緒に連れて来た蘭子とその侍女達はもう少し高級な宿に泊まっていたし、彰と弥一は情報収集に行っていた。安曇城下に潜伏してから既に数日が経とうとしている。律花はすぐにでも城に乗り込んで行きたい気分だったが、彰にある程度情報を得るまでは動く事はできないと厳しく言い渡されていた。
夜になると彰は宿に戻ってくる事が多いが、弥一は行ったっきりずっと戻ってこない。なぜなら、安曇の城に下男として潜り込んでいるからだ。
沖房は北見がそうしてくれたように、時間をもてあましている時は律花に剣術や読み書きを教えてくれていた。地下牢にいた姿ではなく、こうしてちゃんと身だしなみを整えているのを見ると、容姿も性格も似ているところが多すぎて、やはり親子なのだと実感してしまう。ただ、北見よりも沖房の方が穏やかなのは大きな違いだろう。それに、いつも不機嫌で仏頂面の北見に対し、沖房の方は優しそうに、それでもどこか悲しげに微笑んでいる事が多い。
「やあ、ただいま」
襖が開いて、彰が顔を出す。手習いをしていた律花と沖房が振り向くと、彰はにっこりと笑った。
「そうやっていると、なにやら親子のようだね。麗しくて良いな」
そんな軽口を叩きながら彰は畳の上に腰を下ろして言う。
「大分情報が掴めたんだ。そろそろ、本格的に作戦を練ろうと思う。今夜、蘭子様がいらしてくれるように手配しておいた。あと、弥一にもね。君たちも心の準備をしておいて」
彰の言葉に律花はいよいよかと緊張して身を硬くする。そんな律花を見て彰は苦笑した。
「今からそんなに緊張していたら疲れてしまうよ。もっと気を抜いて……それから、俺は少し寝させてもらうよ。昨夜は寝られなくて」
―――そういえば、彰さんは昨夜は帰って来なかった。
「昨夜はどこへ行ってたんですか?」
何気なく疑問に思って律花は尋ねたのだが、彰は少し困ったように笑った。
「参ったな。こういうのは暗黙の了解事かと思っていたんだけど……律、君が思っているよりも俺は結構もてるんだよ」
それでも律花がきょとんとしているので、彰はさらに苦笑を深めて言う。
「昨夜は城下で会った安曇の城に下女として勤めているお嬢さんと一晩中一緒に居たんだ。情報収集のために、ね」
それ以上は説明する気もない、といったように彰は畳の上に寝転がるとすぐに寝息を立て始めた。やっと意味をつかめて赤面する律花を、沖房が穏やかに微笑を浮かべて見ていた。
深夜になって出かけていった彰に伴われ、蘭子とその下女1人、そして弥一が同室に集まった。蘭子達とは安曇に到着するまでは一緒に来たのだが、安曇の側に来た時に、自分達が一緒だとお互いに怪しまれるから、という理由で宿を分けてあったのだ。蘭子が連れてきた侍女は蘭子の自害を止めたあの侍女で、おそらく侍女の中では一番偉い人物なのだろうと思われた。
「蘭子様達に色々お尋ねして、弥一の下見と照らし合わせて、見取り図を作ってみたんだ」
皆が集まって円になってから、彰は言って懐から紙を取り出して広げた。
「うろ覚えの所もあるけど、大体の所はあっていると思うわ」
蘭子が横から言う。
かなり大きい紙であったが、それ一杯に区分けされた部屋が描かれていて、それに色々と書き込みがしてある。
「あの鬱陶しい堀の内側はこうなっているらしい。高いところから眺め下ろして確認してみたけど、まあ、大まかなところで大体あっていると思うよ。蘭子様が俺達を謀ろうとしてなかったらね」
彰が言うと、蘭子が少々憤慨した声で抗議の声をあげる。彰は笑ってそれをなだめると続けた。
「それで、蘭子様の意見と俺と弥一が地道に集めた噂を総合すると、どうやら時柾様はここにいるようだね」
彰は見取り図に描かれているある一室を指で示す。それは、母屋から渡り廊下で繋がっている離れの部屋のようだった。
「かなり奥の方まで忍び込まなければならないと言う事だな」
その位置を見て、沖房が渋い声で言った。
「そうだね。しかも、ここは奥方の部屋が割と近い場所にあるから、なるべく女の子が行った方が目立たない。まあ、どうせ律は自分で時柾様を説得したいだろうし丁度良いと思うけど」
言って彰は律花の方を向く。
「俺が律についていって見張りなんかがいたら取り除く。だけど、説得に行くのは律だけだよ?」
その言葉に、律花は緊張した面持ちで頷いた。彰は笑んで先を続ける。
「じゃあ、それで決まりだ。きっと、忍び込むよりも退路を確保するのが大変だから、後の者はそちらにまわってもらいたい。弥一はまた、下男に混じって様子を伺っていてくれ。何か異変が起きたらすぐに駆けつけられるようにして。それから沖房殿」
言って彰は呼んだ人の方を見る。
「あなたにこんな事をお願いするのはいささか心苦しいのですが、やはり弥一と同じ事をお願いできますか?」
その言葉に、沖房はこだわりなく頷く。
「地下牢に居た事を思えばそのような事は簡単な事だよ」
その言葉に、彰は安心したように笑んで「よろしくお願いします」と言った。
「退路はともかく、入る時はどうするんですか?」
律花が先程から気になっていたことを口にした。彰は意外そうに律花を見て言う。
「何のために蘭子様達を連れてきたと思っているんだい?」
「つまり、蘭子様達がお城に入るとき、一緒に連れて入ってもらうって事ですか?」
薄々は予想していたのだろう。律花が確認するように言うと、彰は頷く。
「でも、そうしたら私達が逃げ出した後に蘭子様達に迷惑がかかるんじゃありませんか?」
自分たちはそのまま逃げてしまえるからいい。でも、蘭子達はその後もずっとそこに残るつもりなのだ。目的のためなら娘が殺されようとも篠田に攻めてくる男だ。蘭子達が無事でいられるとは思えない。
律花の言葉に答えたのは他ならぬ蘭子だった。
「お前は変な心配するわね。ここまでされていて私が何も役にたたなければ面目がたたないじゃない」
「だけど……」
尚も不安そうにする律花に蘭子は言う。
「余計な心配をしていないで自分達が成功する事を考えなさい。私達は大丈夫、あんたたちにそんな目的があったなんて全く知らなかったとしらを切り通すから」
「だいたい律、そんな我が侭を言っても、俺達には他に方法がないんだよ? あの堀を渡るのにはそれが一番安全で確実な方法だ」
彰が横からなだめるように言う。
二人の説得する言葉に、律花はようやく頷いた。
「わかりました。じゃあ、蘭子様、お願いします。でも、入るときだけですから。私達が脱出する時に手を貸したりしたら駄目ですよ。そんな事をしたら……」
その言葉に、蘭子は当たり前のように頷く。
「折角助かった命だもの。必要以上の事をして自らを危険に晒す必要などないと思っているわ」
それで、律花はようやく安心したように黙ったのだった。
しばらくして話し合いは終わり、彰は蘭子を送っていくという名目で律花と沖房だけを宿に残して出た。蘭子とその侍女と彰、三人で夜道を黙って歩く。
彰が口を開いたのは宿についてからだった。中に入ろうとする蘭子の背に向けて、何でもないことのように言った。
「先程は律をなだめる為にああ言いましたが、分かっていますよね?」
その言葉に、蘭子は一瞬不快そうに顔を顰めて、振り返りもせずに答える。
「分かっているわ。私をそんな暗愚のように思わないで。……私は、あの子に命を救われたわ。本当はあの時に落すはずの命だったのだから、多少の事では惜しまないし、私は恩知らずではないわ」
その言葉に彰は満足そうに頷くと、にこやかに「では、おやすみなさい」と言ってその場を後にした。
そのまま彰は律花たちの待つ宿に戻ろうとして宿の前でぐずぐずと留まっている男を見つけて、口元に苦笑を浮べた。
「どうしたんだい? 君は戻って下男の振りをし続けてもらわないと支障が出るのだけど」
彰の言葉に、振り返った弥一は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「その前に、どうしてもアンタに聞きたいことがあって待ってたんだ」
「へえ」
彰は内心で笑い出したいのを堪えて何気ない風を装った。この男の言いたい事など分かっている。安曇に着くまでの道中、彰が律花と接するたびに何か言いたげな目をして彰の事を睨んでいたのを気付かない彰ではなかった。だから、今日、わざと弥一の目の前で律花と親しくしてみせて煽ってみた。極めつけに、先程弥一の目の前で、昨夜を共にした女に分けてもらった香などを律花に贈ってみたりと中睦まじい姿を見せつけてみたりしたのだ。その効果が覿面だったのだろう。
「あんた、律って女とどういう関係だ?」
弥一が言うのに、彰は穏やかな、でもきっぱりとした口調で言う。
「律様と言いな。少なくとも、律は君よりは格段に身分が上だよ。それに、その事は俺にも言えるかな」
その言葉に、弥一はぐっと言葉に詰まって悔しそうに唇を噛み締めた。彰は口元に笑みを浮かべてその様子を見てから、改めて質問に答える。
「君が何を思っているか、なんでここまでついてきたかは分かっているつもりだよ。君の質問に対する答えはこうだ。俺は律に対して君が思っているような想いは抱いていないな。別の意味で興味はあるけどね。律の方も同じだと思う。……だけど、だからと言って君の想いが叶うわけじゃない」
そう、釘を刺すと、話の途中、少し気の緩んだようになっていた弥一の顔がみるみる不審気なものに変わった。彰は続ける。
「まず、君と律は身分が大いに違うし、それを乗り越えても、律は多分君を好きにはならないんじゃないかな」
その言葉に、顔を赤くして食って掛かろうとした弥一を留めて、彰は言う。
「律には、既にきっと想う人がいるよ」
今まで憤慨していた弥一の顔が衝撃を受けたようになる。それを面白そうに見遣って彰は更に言葉を重ねた。
「だって、考えてもみなよ。律みたいな小娘が、たとえ何人かの協力者がいたとしても、こんな所まで来て、しかも城にのりこもうなんて危険な事を考えるかい? 城にいる人は律の大切な人だって考えなかった?」
「じゃあ、俺達が会いに行こうとしている人は……」
弥一の言葉に彰は頷く。
「律の想い人はきっとあの方だ」
それを聞いて、考え込むように押し黙ってしまった弥一に、彰は落ち着いた、だがどこか凄みのある声で言う。
「だからと言って、君がこれからの事を失敗させるように働いたり、手を抜こうなんてする事は許されない事だからね。もし、君がそんな事をすれば害は律に直接降りかかるし、そうならなかったとしても俺が君を殺すよ?」
弥一が、びくりと体を震わせるのが分かった。
彰は肩を竦めて言う。
「せこい泥棒根性は直した方が良いな。奪うのならば正面から奪ってみようとすれば良いのに」
それを捨て台詞のように残して、彰は宿の中へ消えた。弥一はしばし呆然とその場に立ち竦んでいた。




