第八章 7話
律花はジンを引き連れて歩きながら、志摩の部屋へと向かっていた。
八尋と彰は何かの話し合いがあると言って、朝熙と行ってしまったから律花は暇になって、ふと北見の言っていた事を思い出したのだ。
―――ここを通るのも久しぶりだ。
八尋に拒絶されていた時は、よく夜に側にある北見の部屋へ読み書きを教えてもらいに通っていたが、八尋が戻っても良いと言ってくれてからは、剣術は道場で教えてもらうし、読み書きは彰か八尋に教えてもらっているのでこちらの方に来る必要はなくなった。
覚えのある障子の外で声を掛けると、志摩は驚いたようだが、笑顔で迎えてくれた。流石にジンを連れて入るのは気が引けて、ジンには中庭で待っているように言ってから部屋に入る。相変らず、供の一人もつけずに、部屋の中もさっぱりとしていた。
「随分、久しぶりねえ。以前に会ったのは、そう、妻競いの日以来じゃない? あの時は、あなた凄かったわよねえ」
揶揄するように笑って言いながら、志摩は続ける。
「北見に何度もあなたに会わせてって言ったのに、北見ったら全然聞いてくれないんですもの」
拗ねたような口調に、律花は思わず微笑む。
―――相変らず、気さくな人だな。
「前に会った時は、本当にありがとうございました」
律花が改めて言うと、志摩は苦笑して首を振る。
「お礼を言われるような事ではないわ。私は、あのくらいの事しか出来ないから。でも、あのくらいではあなたにとっての何の足しにもならなかったでしょう? ……嫌になっちゃうわね」
口調に微かに自嘲するような風が混じっているのに気付いて、律花は怪訝な顔で首をかしげた。志摩は遠くを見るような瞳で続ける。
「あなたは偉いわね。自身の手で、あそこから抜け出したのでしょう? 私には、とてもそんな事は出来ないわ。だから、人の好意に甘えて、そこに居座ってばかり」
その言葉には、何か苦い物が含まれているようで、律花は思わず口を開いた。
「良く分からないですけど、私は志摩様に助けてもらった時に嬉しかったし、本当に感謝したんです」
それを聞くと、志摩は少し寂しげな微笑みを浮かべた。
「あなたのそう言う所が、時柾様を惹き付けるのかもしれないわね」
そう言ってから、気を取り直すようにがらりと声の調子を変える。
「まあ、私ったら何をお客様相手に愚痴を言っているのかしらね。ごめんなさい。せっかく来てもらったのだから、おもてなしをしなくては」
志摩はそうして、いそいそと茶などの用意を始めた。
志摩とはそれからお茶をして、しばらく色々な話をしていた。志摩は色々な面白い話を知っていて、話上手で律花を退屈させなかったし、志摩の部屋は質素にしていてもとても居心地の良いものだった。
―――きっと、持ち主の性格が表れてるからなんだろうな。
律花はそんな事を考えながら、すっかり居座ってしまった。
話し込んでいたのをハッと我に返ったのは、人の足音が近づいて来たため。志摩もそれに気が付いたようで、怪訝そうに言葉を止めた。
「変ねえ。私の所に来るお客さんなんて、多くない筈だけど。……最近はお召しも途絶えているし」
そんな事を明け透けに言うので、律花は少々顔を赤くしてしまう。ここで働いていれば、女中の話や何かから、それが何を示すのかは嫌でも分かってしまう。志摩だって妻競いに出ていた。つまり、誰かの奥方にあたる、という事だ。
―――そういえば、志摩様の旦那様って誰なんだろう?
聞いた事がなかったが、律花の知っている人だろうか、とふと疑問に思う。
そんな事をしている間に、障子に人影が映り、障子が開いて姿が現れた。
現れた姿に、律花も相手も驚く。
「八尋?」
「律……? 何をしているのだ? この様な場所で」
珍しく、少々狼狽した様子で八尋は問いかける。律花は逆に聞き返した。
「八尋こそ、志摩様と知り合いなの?」
話し込んでいて気付かなかったが、外はそろそろ日が暮れている。普段は今頃、八尋と彰と一緒に食事をしている時分だ。こんな時間から、何の用があって訪れたのだろう。
律花の問いに、八尋は少々うろたえたようだった。一瞬、気拙い沈黙がおりる。それを破ったのは志摩だった。
志摩は八尋の方に膝をつき、深々と頭を下げると言う。
「いらっしゃいまし。殿」
―――殿?
律花は以前にもこの言葉を聞いた覚えがあって、記憶を巡らせる。
―――そういえば、千鶴姫が。
千鶴が、やはり八尋の事を「殿」と呼んでいた。
―――え? でも、それって……?
何か、重要な事に気が付きそうで、だけど肝心な所で頭が混乱してうまく考えられない。
そんな律花の様子を見て、八尋は大きな溜息をつき、諦めたように言う。
「志摩は、俺の側室だ」
すぐには言葉は上手く頭に入ってこないで、律花は鈍った頭で実感のないまま考える。
―――側室?
側室、というのは正室ではない妻の事だ。そういえば以前彰が、正室は千鶴姫だがその他に側室がいる、と言っていた。その側室が……。
だんだんと理解していくにつれ、律花は目を見開いていった。
「え? じゃ、じゃあ、えっと、その……」
―――つまり、八尋が志摩様の元を訪れたのは、そう言う意味で。
律花は完全に理解するにあたり、顔を真っ赤にした。それから、激しく狼狽する。
「あ、ご、ごめんなさい。私、全然知らなくて。すぐに出て行くね」
大慌てでそう言って、八尋の言葉も志摩の返事もろくに聞かずに、即座に部屋を飛び出して自らの部屋へと駆ける。
―――八尋の側室が、まさか志摩様だなんて。
駆けながら、律花は、胸に微かにもやもやとしたものが疼くのを不思議に思っていた。
「どうしたんだい? 律」
顔を真っ赤にして部屋に駆け込んできた律花に、彰は驚いた声を上げた。 丁度、夕餉を運ぼうとしていた所らしく、手には膳を持っている。
「あ、彰さん。……何やってるんですか?」
律花が尋ねると、彰は肩を竦める。
「時柾様が律がどこにも見当たらない事をいい事に、側室の所に行っちゃったから、律と二人で夕餉を食べようと思ってね。……と言っても、行けって言ったのは俺だけど」
悪戯っぽくそう言う彰は、律花が複雑な顔をするので怪訝な顔をして言う。
「本当に、どうしたの?」
彰が膳を部屋の中に運び入れ、律花をその前に座らせながらもう一度尋ねると、律花はようやく口を開いた。
「今まで、志摩様の所に遊びに行ってたんです」
その言葉に、彰は目を一杯に開いた。ただ、その奥でほんの少し、面白がるような色が踊っている。
「それで、時柾様と鉢合わせたと言うわけか。でも、意外だな、律が志摩様とまでお知り合いだなんて」
特に気にした風もなく、どこか面白そうにそう言う彰に、律花は少々不機嫌に答えた。
「朝熙様に仕えていた時に、助けてもらった事があるんです」
その言葉に、彰は頷く。
「お優しい方だからな。……でも、それは悪い事をしたね。最近、時柾様が律にかまいきりで少しも志摩様の所へ行かれないからと気を使ったつもりが、逆効果になってしまったわけだ」
「別に、逆効果ってわけでも……」
志摩の気さくな笑顔と朗らかな笑みを思い出す。
―――側室って事はショックだけど、相手が志摩様なら許せる気がする。
それでも、律花は夕餉の間中、無意識にだろうが渋い顔をしていた。彰はそれを面白そうに眺めているだけだった。
夕餉が終わり、彰も出て行ってしまい、律花は布団に横になりながらぼんやりと天井を眺めていた。
―――彰さん、私のせいで八尋が志摩様の所へあまり行けなくなったって言ってたな。
律花は自らの行動を省みてそれももっともだと思う。
律花は八尋に迷惑をかけているという自覚はある。きっと律花が桂に狙われていると知って、少しでも安全なように八尋は自らのそういう時間を削って律花と一緒にいてくれているのだろう。そう思うと、心苦しかった。
―――おまけに、志摩様も寂しいだろう。
自分のせいで志摩や八尋に迷惑をかけているのは本意ではない。
そんな事を考えていたら、障子の外で獣の吼える声が聞こえた。
律花は慌てて体を起こす。
―――そういえば、ジン、中庭に置いてけぼりにして来ちゃったんだ。
あの時は、あまりに動揺しすぎていてジンがついてきていない事に思い至らなかった。律花は慌てて、ジンの足を拭くために、濡れた布を手に取ると、障子を開ける。
―――自分で帰って来てくれて良かった。
そんな事を考えながら、開けた障子の先には、思いがけない人物がいた。
その人物は、ジンに吠え掛かられてたじたじとしていたが、律花の姿を見ると、助けを求めるように情けない声を上げた。
「ちょっと、こいつどうにかしてくれよ。あんたの部屋の前で番をするようにして張っていて、通れやしない」
律花は驚いてその人物の名前を呼ぶ。
「栄」
栄は以前、彰に手当てをされに出て行ったきりそのまま戻ってこなかったので、気には掛かっていたが、彰が良い仕事を紹介したから、というのでそれで納得したのだった。だが、思えば満足に別れの挨拶もしていなかったと思い至る。
栄は大きな包みを手に持っていて、それを庇うようにしながら律花に言う。
「ちょっと、こいつをどうにかしてってば」
その言葉に律花は慌ててジンに指示を出し、大人しくさせる。栄はようやく落ち着ける、といった様子で大きく息を吐いた。
「で、どうしたの?」
栄を部屋に招き入れて律花は問いかける。栄は抱えてきた荷物を大儀そうに畳の上へ置くと、大きく息を吐いて言った。
「あんたに届け物を持ってきたんだよ」
そう、今しがた置いたばかりの荷物を指して言うので、律花は首を傾げた。
「何?」
「着物」
答えて言って、それから栄は続ける。
「それを着て、明日は自分の所へ遊びに来いって伝言よ」
その言葉に、またも律花は首を傾げる。
「伝言? 誰から?」
「何? あんた、あの彰って人からあたしが今どこにお仕えしているか聞いていないの? ……千鶴姫様の所から、よ」
栄の言葉に、律花は目を見開く。
「栄、千鶴姫の所にお仕えしてるの?」
「そうよ。悪い?」
言われて見れば、栄は趣味の良い着物を着て、こざっぱりとした姿になっている。
「でも、なんでまた?」
「よくわからないわ。あたしはただ、あの彰って人に命じられただけだから。……ところで、伝言の返事は?」
栄の言葉に、律花は一瞬返答を戸惑う。ふと、以前律花を殺そうとした娘が言った言葉を思い出したからだ。
『千鶴様には、気を付けたほうが良いわ』
千鶴の、あの花が綻ぶ様な笑みを思い返せば、到底そんな事は信じられないが、警戒に越した事はない、と思っている。だが。
―――私が、どこかへ遊びに行っていれば、八尋は私を気にせず志摩様の所へ行ける。
そんな考えが頭を過ぎった。
「……行く」
律花が答えると、栄は満足そうに頷く。
「良かったわ。あそこの侍女達ってみんな嫌味っぽくて、あたしがしくじるとすぐに色々と言うからうんざりしてたのよ。……それで、あんた、お茶の作法なんて知ってる?」
「一応、教わったけど」
「なら、安心だね。じゃあ、明日の正午に千鶴様の所を訪ねておいでよ。その着物を着て、ね」
言って栄は大儀そうに立ち上がる。
「さあ、あたしはこれから眠るあんたと違ってもう一仕事よ」
そんな愚痴を言い残して、栄は去って行った。
栄が去った後、律花がなんともなしに包みを開けると、素人目に見ただけでも高価であろうと思われる、立派な刺繍の入った紅い着物が入っていた。
千鶴の所に行くには、流石にジンを連れて行く訳には行かない。仕方ないので、中庭で大人しくしているように言いつけて、律花は千鶴から与えられた豪奢な着物を汚さないよう注意して着てから、彰に断って千鶴の元へと向かった。
八尋とは昨日の今日で気まずかったのだが、幸い八尋はまたも大切な用事があるという事で、朝早くから朝熙と一緒に行ってしまったらしく、会う事はなかった。
千鶴の部屋に行くと、相変らずの可憐な笑みで千鶴が迎えてくれた。
「全然会いに来てくれなかったじゃないの」
そう言って拗ねてみせるその姿を見ても、律花に対して悪意があるとは到底思えない。
部屋の中をざっと見渡したところ、栄の姿を見て取ったが、栄は律花の視線には気が付かないような素振りで澄まして座っていた。
「実家から美味しいお菓子を贈って来たものだから、お茶をたてようと思って」
言いながら、千鶴は自らの部屋の縁側に面する中庭を指す。そこには、地面に布がひいてあり、傘で簡単に日よけの出来るような設えがしてあった。
「律も来るからって殿にもお誘いをしておいたのよ。先程彰が来て、断られてしまったけど」
無邪気にそう言って笑う千鶴に、律花はちくりと胸が痛んだ。
―――千鶴姫はきっと志摩様の事も知ってるんだろうな。
どんな気持ちなのだろう。好きな人、しかも自分の夫であるその人が、自分の事も見向きもせずに別の女の人の所に通っているというのは。
そんな律花の様子など気づきもしないように、千鶴は嬉々として話をしながらお茶の準備をしていた。
茶会は和やかに進み、そろそろ終わりに近づこうと言う時に事は起きた。
前触れもなしに、まるで嵐のようにその場にとびこんで来た者が原因だった。
「ちょっと、邪魔するわよ」
落ち着いた海老茶の着物を纏い、それでも鮮やかさは失わずにいるのがこの人の趣味のよさの表れだろう。
存在感のある、美しい立ち姿。
「朝熙様」
律花は思わず呟くように言う。
今の朝熙は、何かに対して憤りを感じているのか、険のある瞳で律花を見下ろした。そして、低く言う。
「下女達の噂は違えていなかったのね」
棘のある声音に、律花は首を傾げる。
―――最近、朝熙様を怒らせるような事をしただろうか?
思案するが、全く身に覚えもない。
朝熙は言う。
「数日前から、私の部屋から突如として消えた着物を、何故お前が今着ているのかしら」
その言葉に、律花は自らの着物を見る。高そうな着物で、なるほど、これが朝熙の物だと言われても頷ける。包みを開いて見た時に、自分には不似合いな着物だと思った程だ。こんなのを着ては、着物に着るというより着物に着られてしまう、と。実際、現在着ていてその感を否めない。
―――でも、これは千鶴姫が届けてくれた物だ。
ふいに、また、頭の中を例の言葉がよぎる。
『千鶴姫には気をつけなさい』
律花はそれを無理矢理頭から振り払って言った。
「これは、今日のために千鶴姫様から頂いたものです」
律花が言うと、朝熙は千鶴姫にキッと目を遣る。だが、当の千鶴の顔は涼しいものだった。小首を傾げて愛らしい仕草で言い切る。
「存じません」
律花は耳を疑う。だが、千鶴の桜色の唇からは確かに、その言葉が発せられた。千鶴は更に、ふんわりと微笑んで言う。
「お茶会にどのようなお着物で出るも本人の技量ですもの。わたくしがわざわざ、口出しをするに及びませんわ」
律花は呆然と千鶴を見た。
「でも、確かに昨夜……」
言って律花は栄を見た。栄は相も変わらず律花と目を合わせようとせず、控えている。
「栄」
律花は呼びかける。
「確かに来たよね?」
だが、それに返って来たのは硬質の声だった。
「存じません」
律花は頭を殴られたような気分になる。
―――また、裏切られたの?
ふう、と大きく息を吐いて、朝熙が言う。
「私はね、汚い真似をする奴は大嫌いなのよね。人の留守の間に、一番高価な着物に目星をつけて盗むなんて、最低の真似よ」
冷たい声に、律花は身を竦ませる。
「だから、裁いてやるために、わざわざ来たくもないのに女だらけのこんな場所に来たのよ」
朝熙は大股に毅然と歩く。そして、その人の目の前で言い放った。
「私を謀るなんて無謀なのよ。……お姫様」
その言葉を向けられたのは、律花にではない。向けられた千鶴は意外そうに小首を傾げて朝熙を見上げた。
「何故、わたくしにそのような事を仰いますの?」
朝熙は軽蔑を露にした表情で、軽く鼻で笑うようにしてから言う。
「この乳臭い小娘が、わざわざ私の着物の中から一番高価な物を選べるわけがないじゃないの。そんな目を持ち合わせているわけがないわ。おまけにお前は、時柾に近しいおなごには例え下女だって容赦しないと噂になっているしね。志摩にも随分と嫌がらせをしているようじゃない?」
千鶴の顔からは笑みが消え、能面のような表情で、ただ朝熙の言葉を聞いている。
朝熙はいっそ嫌悪感さえ浮かび上がらせた顔で続ける。
「これだから、女って嫌いなのよね。ああ、醜い。私、お前みたいな女を知っているわ。夫に愛されなくて、愛されたくて、狂気まで見せた女をね」
そこまで言うと、くるりと背中を向ける。
「今日の事は、しっかりと時柾に報告して置いてあげるわ……律、来なさい。お前に用件があって来たのを忘れる所だった」
律花は一瞬、迷うように千鶴を見て、それから素早く一礼をして、早足に朝熙の後を追って去って行った。
残された千鶴は、しばらく無言、無表情でその場に留まっていたが、不意に立ち上がると、能面のような顔のままその場にあった茶の碗を思い切り地面に投げつけた。鈍い音がして、碗が割れる。それでも飽き足りないのか、手元にあるものを手当たり次第に投げていく。
侍女達は、ただそれを恐れるように遠巻きに囲んでいた。




