第八章 5話
いったん庭に行き、ジンをそこへ放ってから皆で八尋の部屋へ行く。
「まず、言っておく。朝時の病の真相は他言無用だ」
部屋にめいめいが落ち着いて、それから発された八尋の言葉に、律花は顔を曇らせた。
「真相って? さっきのように刀を振り回して暴れる事? それとも……」
女の子が斬られていた事?
その言葉は言わずにも察せられたらしい。八尋は表情を変えずに言う。
「両方だ」
その言葉に、律花は改めて背筋に冷たいものが通っていくような感覚に襲われながら、それでも問いかける。
「それはつまり、朝時様がああやって女の子を斬っていたのは今回が初めてじゃないって事?」
それには、彰の失笑で応じられた。
「初めてではない、うん。その通りだね。どちらにしろ、朝時様が殺し損ねれば口封じのために桂が殺すんだよ」
顔面を蒼白にさせた律花に取ってつけたような気の毒そうな表情を作って見せて、それでも彰は続ける。
「朝時様のあの病気を鎮めるにはあの香を嗅がせるしかない。だけど、それを誰に置きにいかせるか、って問題なんだ。我を失った朝時様は障子から入ってくる者に見境なく襲い掛かって来る。障子を開くのに手が塞がっていれば、斬られるのは必至だしね。かといって大勢の人間にあんな事が知られてしまえば朝時様の威信に関わる。だから、桂は使い捨てを出来る人間を選んだんだと思うよ」
―――これが、『呪い』の真相?
律花はあまりの事に言葉が出なかった。
心に渦巻くのは、怒りや悲しみや、そのような事を考え得る人への、同じ人間としての戦慄と例えようもないほどの軽蔑。そんな感情が入り混じって吐き気がしそうだ。
「じょうだんじゃないわよ」
叫んだのは部屋の隅で聞いていた栄だった。栄は顔を真っ赤にしてこちらを睨んでいた。
「それで殺された子、どんくらいいるのよ?」
彰は平然と首をかしげて言う。
「さあ、どのくらいだろうね。でも、今まではそんなに発作は頻繁に起っていなかったんだ。せいぜい月に一度あるかないかだった。それが、丁度ご当主の座に就かれた頃から目に見えて回数が増えていった。きっと、当主の座への重圧などの反動だと思うけど」
「そんな事のために殺されるってたまったもんじゃないわよ」
「そうだね」
彰は大人しく頷く。
「今、囚われている木野の女の人達は放してあげる事は出来ないんですか?」
割って入った律花の言葉に、彰は苦笑した。
「桂の気の問題だろうね。俺達が勝手にそう言う事をしようものなら最悪、処刑される事もある。当主の弟と言えど、時柾様や朝熙様は一応朝時様にこの城に住まわせてもらっている、という身分なんだ。当主に逆らう事はできない」
「でもっ」
―――だって人が、そんな風に簡単に殺されて良い筈がない。
尚も食って掛かろうとする律花に彰は静かに首を振る。
「桂は変に真面目な分、思いつめると何をするか分からない恐ろしさがある。勝手な事をすれば君など簡単に殺されてしまうよ。それに、朝時様に直接この事を直談判も駄目だ」
怪訝そうに眉根を寄せる律花に、彰は言う。
「朝時様は発作の間の事はあまり覚えていらっしゃらない。せいぜい、暴れて人を傷つけてしまった事がある、としか認識していないんだ。事実が知れれば、きっとあの人は耐えられない。優しい人と言う言い方も出来るけど、あの人は、弱い人だから」
それでも、尚も諦めきれないでいる律花の顔をじっと覗きこみ、彰は言う。
「君が優しいのは分かっているけど、ここは我慢しなくちゃいけないよ。君がもし何かを起こせば、時柾様にまで害が及ぶ事になる」
律花が返事をせずに俯いたままでいると、彰は肩を竦めて栄の方を向く。
「そこのお嬢さんは何者か知らないけど、とりあえず律の知り合いのようだから手当てを受けさせよう。おいで」
栄はしばらく戸惑っていたようだが、やがて立ち上がり、彰について部屋を出て行ってしまった。しばらく部屋には沈黙が残る。
その沈黙を破って溜息と共に八尋が言葉を発した。
「律。機嫌を直せ」
その言葉に、律花は俯いていた顔を上げた。その表情は暗い。
「機嫌とか、そういうのじゃないよ。そんな簡単なものじゃない。八尋はなんとも思わないの? 何も悪い事したわけでもなくって、ただ普通に生きていた人が殺されちゃうんだよ?」
―――八尋なら、わかってくれるかも。
だが、そんな考えは甘かった。八尋から返って来た言葉は、にべもない一言だったからだ。
「何とも思わない」
「なんで?」
意外な言葉に慌てて食って掛かる律花を、表情の無い瞳で見つめて八尋は言う。
「戦で死ぬ者も、病気で死ぬ者も、皆一緒だ。それで死ぬとしたらそれがその人間の運だったという事だ」
律花は一瞬呆然として目の前の人物を見た。
「だったら、せめてそういう風にして死ぬ人が少しでも少なくなればって思わないの? そうして理不尽に殺される人が目の前にいたら助けなきゃって思わない?」
「戦場でそう言う事を言っていれば、逆に自分が殺されるだろうな。……俺は、自分が大切な者だけを守れればそれで良い」
八尋は息を呑んだ律花を見据えて、だが、と言葉を続ける。
「律はそう言う考えで良いのだと思う。律がそう思う事で救われる者はきっといる。……しかし、今回は諦めてくれ。今、律が動けば俺は守りたい者が守れなくなるかもしれない」
その言葉の意味を取りかねて怪訝そうな顔をする律花の頭に手を置いて、八尋はくしゃりと撫でる。
「それよりも、よく戻ったな」
話をはぐらかされた、とは思ったが、八尋の心を変えるのも無理だと悟った。八尋は明らかにこの話をもう終わりにしたがっていた。
律花はしばらく俯いていたが、やがてそのまま頷く。
「……戻ったけど、償いはできなかったよ」
「償い?」
八尋の言葉に、律花は重い心のままもう一度頷く。
「木野の人を私のせいで殺してしまったって聞いて償いをしに行ったんだけど、結局なんにも出来ないで逃げ帰ってきた」
―――私は、何に対しても何も出来ない。
自己嫌悪で吐き気がする。誰も救えないし、償いもできない。間接的にであれ人を殺す事までする。
「朝熙の戦で、というあれのことか」
八尋は呆れたように溜息をついて目の前で項垂れる律花を眺める。
―――相変らず、変なことで悩む。
「律、戦の場ではお互いが殺して殺される覚悟でいる。お前がやったのは当たり前の事だ」
「だけど、それでも人を殺しちゃったんだよ?」
「木野の方でも神鳴によって人を殺させる。お互い様だろう」
それに、と八尋は続ける。
「律自身が殺さなくとも、お前がここで安穏と生活していられるのは、誰かが殺しあってこの暮らしを守っているからだ。律は、自分が殺すのは嫌でも他の者が殺すのは良いと思っているのか?」
思ってもないことを言われて、律花は呆然と目を見開いた。
―――確かに、そうだ。
木野との戦は、律花が雨の中に京に行った時にも行われていた。それ以前にも、行われていたのだろう。
―――私は、自分が手を汚さない事で満足していただけ?
ならば、それはどこかで間違っている。きっと、人を殺してしまった事で苦しんだり、殺されてしまったりする人はたくさんいる。
―――ここは、なんて、辛い時代なんだろう。
これ程に、そう思ったことはなかった。
動揺する律花の頭をもう一度撫でて、八尋は立つように促す。
「今日は色々な事があったから疲れているだろう。もう、休んで気を落ち着かせろ」
律花は意識を宙に浮かせたまま、その言葉にただ頷いた。
別室で下女に栄の手当てをさせ終ると、彰は改めて栄に向き直った。
「君、律とどういう関係?」
「あたしが一緒にいたくて勝手についてきた、それだけ」
その言葉に、彰はにっこりと笑んで栄の顔を覗きこんだ。
「それってつまり、律を慕っていると言う事だよね?」
栄は目の前に広がった彰の顔に、動転したように赤くなって顔をそむけると、珍しいことにしおらしく頷いた。
彰は満足そうに笑うと、それから言う。
「ならば、律のためにも頼まれて欲しい仕事があるんだ。律の側にはいられないけど、きっと律のためになる事だから」
その言葉に、栄は怪訝そうに首をかしげる。
「なんだか分からないけど、やってもいいよ。あの子のためになる事だって言うんなら」
「なら、決まりだね」
彰は言うと、早々に立ち上がる。
「では、俺は色々お手配してこよう」
少し待っているように栄に言い置いて、その場を後にした。
―――いつもの夢だ。
大勢の人が見守る川岸を見ながら、律花は考えた。手足は縄で縛ってあり、動かす事ができない。きらびやかな着物の金の刺繍の入った紅色は目に鮮やかだが律花には恐怖を掻き立てる存在でしかなかった。
―――朱子さん。私、事情はもう知ってるんだから。べつに見せなくても。
思っているのに相変らず風景は変わる様子は無い。
足の下の小船の底の板が頼りないのは、伝わってくる感覚ですぐに理解できた。小船を岸に繋いであるあの縄が切られて、川の濁流に飲まれれば、すぐにでも瓦解するだろう。流れの速い川の水は見るからに冷たそうで荒々しい。
不意に、気配を感じて見上げた岸に、中年の女性の姿が見えた。
「お母さん」
声にならない呟きが宙に浮く。
たすけて、お母さん。お父さん。みんな。
だが、縋るように見上げた先の、親しかった筈の人々は、皆、知らない人のような目をして律花を眺めているだけだった。
背筋を通り過ぎる戦慄。目の前が真っ暗になったような気持ちに襲われる。
親しかった、信じていた人達。信じていた世界。全てが音を立てて崩れていくような感覚。
―――こんな気持ちを、私にも追体験させたかったの?
真っ暗な絶望的な思いのあとに、湧き出てくるのは果てしない憎しみ。だけど。
―――だけど、あくまでもこれは私じゃない。朱子さんなんだよ。
心の中で話しかけた瞬間、風景がぐにゃりと歪んだ。
体中に、憎しみが突き刺さるように感じられる。それは、きっと朱子が律花に示した感情。
それは、決して好意的なものではない。
だが、夢の続きを見せられる事もなく、律花は深い眠りについていった。




