第八章 2話
「時柾様、少し気になる事があるんですけど」
彰が心なしかいつもより弾んだ声でそう言うので八尋は怪訝な顔で書き物の手を止めて彰の方を見る。彰はにこにこと笑って続けた。
「先ほど、下男から報告がありまして。以前この城にいたヤマイヌだと思われる獣が以前住み着いていた中庭から動こうとしないのでどうしたものかと」
八尋が目を見開いたので彰はにっこりと笑みを深める。
「確認してきたところ、ジンでしたよ。何でか分かりませんが戻ってきたのでしょうね」
「そんな事が有り得るのか?」
八尋のその言葉に、彰は軽く首をかしげる。
「わかりませんけど、実際あると言う事は有り得たと言う事でしょう。ただ、分からないのがですね、なんで律の不在の今、ジンがここにいるかと言う事なんですよ。……そう考えて、ちょっと調べてまいりましたらね、ここ数日、律に良く似た女の子を見かけたという者が何人かいまして」
「つまり、律はこの城に帰ってきていると言う事か?」
「まだ、断定は出来ませんけどね。でも、どうやらその似ている娘というのは朝時様の所へ最近入ったらしいですよ」
「朝時の?」
八尋は軽く眉根を寄せる。そうして何かを案じるような顔をする。
「それは、拙いな」
「そうですよね。……何事も無いと良いんですけど」
そんな言葉を最後に、二人して考え込むように黙り込んだ。
「律、今日は父上の所に近づけないからな」
最近は、律花が側に居るといつも不機嫌な顔をする清丸が、いつもより更に不機嫌そうに律花にそう言い渡した。
「何故ですか?」
律花が問いかけると忌々しそうな口調で答える。
「義巳が来るそうだ。あの男は良くない男だから、俺はなるべく近づかないようにと父上から申し渡されている」
義巳、という人に関して律花は良い噂を聞かない。朝熙にしても八尋にしても心底嫌っているような口ぶりだったし、彰にしても良い顔はしなかった。
「父上はあんなヤツに丸め込まれないだろうと分かっていても、あんな男が父上の側に居るというだけで反吐が出る」
そう、吐き捨てるように言ってすたすたと縁側から庭に降りる清丸を律花は慌てて追う。
「あの、どんな人なんですか?その……」
律花がそこで口を止めたのは、清丸が突然ピタリと足を止めたからだ。怪訝に思って、何かを微かに怯えの含んだ瞳で見る清丸の視線の先を追うと、渡り廊下を渡る中年の男の姿があった。
男は目敏く清丸の姿を見つけたのか、渡り廊下を下りて庭を横切ってこちらに歩いてくる。清丸がびくり、と身を硬くするのが分かり、見れば握った拳が小刻みに震えている。律花は思わずその手を取ってぎゅ、と握ってやった。清丸は始め、驚いたように律花を見て、それから振り解こうと手を引っ張ったが、それが成功する前に男が目の前に来てしまったので諦めて律花のするがままにさせていた。
男は清丸の前に立つと恭しく立膝になり、挨拶と、世事を並べ立てたものを長々と言って、それからその蛇のような目で清丸をじっと見据えた。一見丁寧に見える態度だが、清丸が竦んでしまっているのをどことなく楽しんでいるような印象さえ受ける。
―――これが、義巳って人だろう。
律花は側で観察してそう思った。なるほど、八尋や朝熙が嫌う気持ちも分かるような気がする。ひょろりとした体型で、背はそこまで高くなく、妙に白い顔の中で薄い唇だけが異様に赤い。威圧感は無いが狡猾そうな雰囲気が滲み出ており、少し油断すれば食い殺されてしまうかもしれない、というような危機感を抱かせるのは確かだ。
義巳の視線が硬直してぎこちなく挨拶をした清丸から律花に移された。
「そちらは?」
紹介を促す声に、清丸が新しい世話係りだと言う事を説明すると、義巳は頷いて律花にも軽く世辞を並べて挨拶をした。それから、律花と少し話がしたいから朝時の部屋まで送って行ってくれ、と言うようなことを言う。律花が戸惑っていると、清丸が短く「行け」と言ったので、律花は渋々それに従った。本当は、この蛇のような男の側には一時も居たくなかったのだけど。
少し歩いて清丸から姿が見えなくなった頃に、不意に律花の手の中に何かが押し込まれた。驚いて見てみるとそれは布に包まれた何か重い物だった。その感触には、覚えがある。
―――お金だ。
律花が意味を掴めずに義巳を見ると、義巳は赤い唇にうっすらと笑みを浮かべていた。
「そなたに頼みごとがあるのだ。そなた、世話係ならば説得してくれないかね?」
「何を、ですか?」
律花が警戒しながら問いかけると、義巳は更に笑みを深くする。背筋を何かが駆け抜けていくような嫌な感覚に襲われながら、律花はそれでも義巳から目を離さない。
「清丸様を私が預かることを、だよ。朝時様はご病気だ。あの方の側に居続けては、清丸様の為にはなるまい。私が後見人となってしっかりと教育して差し上げようと申し上げているのに清丸様は頑なに拒否されて、そのせいで朝時様も無理強いはできないと断られ続けている」
その言葉に、律花は手の中の物を思い切りつき返した。
そして、驚いたような義巳の顔を睨みつける。
「清丸様は、本当に朝時様が好きなんです。二人を引き離すような事は私にはできません」
義巳はしばし、意外そうに律花を金を見比べていたが、やがて顔からは取り繕うような笑みが消え、細い目を更に細めるようにして律花を睨みつけた。
「可愛くないおなごだね。せっかく懐柔という優しい手段に出てやったというのに。……ならば、脅しと行こうかな」
律花は思わず後ずさる。この男には、そうさせる何かがあった。
「私は朝時の病の真相を知っているぞ。病と言う名で言い逃れが出来ると思ったならば大間違いだ。あれは、狂人だ」
義巳は律花が退がった分だけ、間を詰めてくる。
「臣達があのことを知ったらどうなるか。朝時の信頼などは一気に崩れ落ちる。……大人しく、私に当主の座を譲れば内密にしておいてやろうと言っているのだ」
―――何のこと?
律花が怪訝そうな顔をしたのを見て、義巳は言葉を止めた。
それから、急に律花に興味を無くした様に白けた顔をして、詰めていた間合いを元に戻す。
「なんだ。清丸の世話係などをやっているから知っているのかと思ったが、お前は知らないのだな。ならば、こんな話をしても意味が無かった」
吐き捨てるように言うと、律花が差し出したままだった金をひったくるように取り返し、それから呆然とした律花を残してすたすたと歩いて行ってしまった。
律花はしばし、その姿を呆気にとられて見ていた。
―――病の真相?
「何を言われた?」
戻ってきた律花に、顔色を変えた清丸は掴みかかるような勢いで尋ねた。
「清丸様をあの人が預かる事を説得しろって言われました」
その言葉を聞いた途端、清丸は更に顔を青くして律花に詰め寄った。
「それで?まさか、受け入れはしなかっただろうな。父上にそんな話を持ちかけたら承知しないぞ」
必死の形相の清丸に律花は思わず内心で苦笑してしまった。
「大丈夫です。断りました」
律花が言うと、目に見えてホッとしたような顔になる。それから自らそれに気が付いたのか、慌てていつもの不機嫌な顔に戻った。
でも、と律花は続ける。
「何か分からないけどおかしな事を言ってました。朝時様の病の本当の事を知っている、とか」
その言葉に、清丸の顔がまた蒼白になった。愕然としたように律花を見る。
「それは、本当か?」
「はい。脅しがどうのこうのって言ってましたけど」
律花が言い終わらないうちに、清丸は大声で腹立たしそうに「畜生」と罵る声を上げた。
「あの男、その事で父上を脅していたのか。だから、あんなに父上は苦しんで……畜生」
目の前の少年のどこか痛々しいまでのその姿に、律花は困惑して呆然と見ている事しか出来なかった。
「桂っ」
清丸が大声で呼ぶ。癇癪を起こしたように何度か呼ぶうちに、やっと縁側から桂が姿を現した。
「遅くなって申し訳御座いません。先ほどまで義巳様が朝時様に謁見なさっていたので見張っていなくてはならなかったので」
落ち着いた桂に怒鳴りつけるような清丸の声。
「そんな事はどうでも良い。お前が父上の事を何よりも優先させる事は分かっている。……お前が父上に惚れていると言う事もな」
その言葉に桂が一瞬、顔をサッと青褪めさせたのを、律花は見逃さなかった。それはつまり、図星と言う事だ。
桂はすぐに無表情に戻り、冷たい口調で言う。
「何を仰っているのやら……」
「そんな事はどうでも良いんだ」
清丸は桂の言葉を遮って言う。
「父上の病の事が義巳に露見している。早々に手を打たなくては、ヤツは本当にその事を皆に公表するかもしれない」
その言葉に、桂は動じはせずに平然と答える。
「それは有り得ません。例え公表したとしても、義巳様と朝時様では信頼されている度合いが違います。証拠もなしにそんな事を言えば疑われるのはまず、義巳様の方でしょう。ですから、私は義巳様が朝時様をその事で脅しても放っておいたのです」
その言葉に、清丸は桂を睨みつけた。
「それでは、お前は父上が脅されて苦しんでいる事を知っていたのか」
「朝時様はあのような脅しに屈する方ではございません」
「父上は優しいお方なんだ。屈する事は無くても苦しむだろう」
律花は呆然として二人のこの言い争いを見ているしかなかった。
―――何を言っているのか分からないけど、大変なことらしい。
「とにかく、お前、義巳を殺せ。それが一番早い」
清丸が乱暴にそう叫ぶと、桂は呆れたように溜息をつく。
「今、この城で義巳様を殺せば、安曇との関係に支障がでます。そんな事も分からない子供の分際で、これ以上口答えなさいますな」
冷たい声のその中にも、はっきりとした苛立ちを感じる。
「あなたのような方が次期篠田の当主と言う事は嘆かわしい事です」
その言葉を捨て台詞のようにして、桂はさっさと去ってしまう。清丸は俯いて拳を硬く握り締めていた。
律花はそっと清丸の側に近づく。涙を堪えている様子は、見ていて痛々しい。
「寄るな」
律花の足音に気が付いて、清丸が叫んだ。
「お前なんかに、同情されても迷惑だ……自分の部屋へ下がれ」
律花は少し逡巡したが、踵を返してその場を後にする。背後で、清丸の嗚咽が聞こえたような気がした。




