第六章 6話
部屋に律花の姿がない事に彰が気が付いたのは翌日だった。
部屋は綺麗に整理されており、卓の上に覚えたてのたどたどしい文字で「ごめんなさい。木野に行って来ます」と書かれた半紙がおいてあった。
彰はしばらく信じられないものを見たかのようにそれを凝視していたが、やがて大きく息をついて天井を仰いだ。
「やられた」
まさか、律花がこんな思い切った行動に出るとは思わなかった。昨日の様子から危うい物を感じさせられたが、時間が経てば落ち着くだろうと高をくくっていたのが間違いだったと後悔する。今から追いかけても、多分間に合わないだろう。その考えを裏づけするように、木野の使者がいつの間にか去った事が伝達された。
―――さて、どのように話せば時柾様のお怒りに触れないかな。
そんな事を考えながら、律花の置き書きを手に、彰は八尋の部屋に向かったのだった。
「何故こんな事になった?」
律花の置手紙を見た八尋の第一声はそれだった。彰は肩を竦める。
「誰の手引きか知らないですけど、昨日木野の使者が律の部屋の側まで忍び込んで直に話をしたらしいです。そこで、どうも朝熙様の戦で自分のせいで人が死んでしまったと聞いたらしくて」
それを聞いた八尋は眉根を寄せて溜息をついた。
「律は、人を殺すのを嫌がるからな」
「だけど、なんでそれで木野について行きますかね」
呆れたように言う彰に八尋は立ち上がりながら言う。
「罪の意識にかられて冷静な判断が出来なくなっているのだろう」
「ところで、時柾様は何の仕度をしているんですか?」
彰が言ったのは時柾が外出用に身支度を整え始めたからだ。
「連れ戻しに行ってやらねばならないだろう」
当然のように言う八尋に彰は苦笑する。
――――いつの間に、ここまで入れ込んだのやら。
以前は、八尋が姉以外の誰かのために行動するなどと言う事を考えた事もなかった。こうして他の者に目が行くのは喜ばしい事だ。だが。
「それはお止めしなきゃいけませんね」
彰がそう言うと、八尋は訝しげに彰を見た。彰は苦笑して言う。
「臣のために主君自ら赴く事なんてあまり聞いた事がないですよ。それに、律は自分から出て行ったんだ。連れ去られたというのならまだ分かるけど、自分から出て行った人を追いかけて連れ戻してやるのは変でしょう」
「だが、律は……」
八尋の言葉を遮って、彰は言う。
「あなたに出来る事は、律が帰ってきたときに心を広く持って受け入れてやることまでです。それ以上はやりすぎだ。それに、今律が城を出たのは事によると良かったのかもしれませんよ」
怪訝そうに目を向ける八尋に彰は続ける。
「義巳様がいらっしゃる今、時柾様と律の二人両方にいられると俺も気を使って大変なんですよ。律がいなければ、あなた一人に絞れるからやりやすい」
反論しようとした八尋の言葉をまたもや遮って、彰は続ける。
「今まで自分の身近に置く臣など作りもしなかったあなたが律を側においている事に気づかない義巳様じゃない。律はあなたの弱点だと思われて律に手出しされたら困るでしょう?」
「だが、どちらにしろ木野にいけば律は危険な目に遭うだろう」
尚も反論する八尋に彰は笑いかける。
「大丈夫ですって。俺の予想だときっと律は帰ってきますよ」
「根拠は?」
「ないですけどね」
八尋は呆れたようにするが、それでも彰の説得で自らの立場を省みてか律花を追いかける事は断念したらしく、腰を下ろす。
「せめて、護衛でも用意してやれれば良かったのだが」
残念そうに、八尋はそう呟く。八尋には、個人の意思で動かせる人材が彰以外に居ない。
「律はあれで結構強くなってますよ。北見の腕は確かだ」
彰は言って、わざと気分を切り替えようと明るい声を出して八尋を急かす。
「さあ、もうすぐ朝餉が運ばれてきますから、律の事は一先ず忘れてください。でないといつ義巳様に足元を掬われるかわかったもんじゃない」
律花は木野の使者と一緒に夜の道を馬で歩いていた。若い青年の方はいない。律花がそう望んだらあっさりと許可をしてくれた。彼は、別の道を通って帰るのだという。
木野の使者が律花の部屋まで来たあの夜、皆が寝静まった深夜に城を抜け出し城下に泊まっている木野の使者の部屋を訪ねて行って、自分は記憶がないから役に立つか分からないがそれでも良いのなら木野に行っても良い、と伝えた。それを聞いた男の行動は早かった。優秀な巫女を篠田が手放す筈がないから今すぐに出発する、と手早く用意をしてさっさと出立したのだった。しかも、人の多い場所を歩いてはすぐに見つかってしまう、と山中を歩く事にして。
木野の領地と篠田の領地は密接しているから馬で二日程で着くらしい。青年の馬を譲り受けて、男の後について馬を歩かせる。
会話は全くと言って良い程なかった。時々見せる素振りから、男は律花のことを恐れているように見受けられた。律花は巫女だと信じているのがその原因だろう。木野ではそのような信仰が厚い事を律花は以前聞かされた覚えがあるから、そのせいだろうと思ったが、その誤解も解く事もなくそのままにしておいた。
しばらくして、突然男の馬が足を止めた。律花は驚いて男に問いかける。
「どうしたんですか?」
男は律花の問いかけの答えというよりは独り言のように忌々しそうに言う。
「ヤマイヌだ」
見れば、右手数メートル離れた所に獣の集団だと思われる影がじっとこちらを伺っているのが分かった。うっすらと闇に光る瞳がこちらを注視している。だが、飛び掛ってくる気配はない。
「手出しするなよ。ヤマイヌは余程腹をすかせていない限り、こちらが隙を見せなければ人は襲わない」
男が馬を下りてゆっくりと歩き出すので律花のそれに従った。横顔に視線を感じる。だが、それに対する恐れはあまりなかった。どうも、ヤマイヌが律花に敵意を発していると思えないのだ。前方を歩いている男は、見ていて哀れになるくらいに怯え、それを必死に隠しながら歩いているのが分かるのだが。
律花たちが前を通り過ぎてしばらく歩いても、ヤマイヌは一定の距離を保ったまま二人の後をついて来た。それに気づいた律花が問いかけると男は当たり前のように答えた。
「送り狼だ」
「送り狼?」
問い返す律花に男は説明する。
「転んだり隙を見せたりしなけりゃあ襲っては来ない。山を下りれば自然に消えていなくなるからそれまでの辛抱だ」
「でも、狼じゃなくてヤマイヌじゃないんですか?」
律花の問いかけには呆れたような視線が返ってきた。
「狼もヤマイヌも同じものだろう」
―――そうだったのか。
どうりで、普通の犬とは違うと思っていたが、ジンは狼だったのだ。そんな事に気が付いて、律花は今更ながらに驚いたのだった。
それからしばらくはヤマイヌに見張られながら歩き続けた。ヤマイヌに気を取られながら進むものだから、どうしても進みは遅くなってしまう。気が付けば日が昇って来る所だった。日が差し始めると、男はいらいらと言う。
「おい、まだヤマイヌはいるのか?」
その言葉に、律花は後ろを振り返る。日が昇ってきたせいでよく見える。数メートル後方に確かに獣の集団が着いてきているのがわかった。
どうも、その先頭のヤマイヌに見覚えがあるような気がして、律花は目を凝らした。
―――まさか、そんな偶然。
そうは思うのだが、目は離せない。
―――同じヤマイヌだから、同じように見えるのかな?でも、他のヤマイヌはそう思えない。
考えた末、律花は思い切って小さく呟くように呼んでみる。
「ジン?」
ぴくり、とヤマイヌの耳が動く。次の瞬間、その先頭のヤマイヌだけ歩みを速めて律花のところまでやってきた。背後で男が怯えた声を上げるのを聞きながら、律花は驚きと嬉しさの混じった表情でヤマイヌが到達するのを待つ。ヤマイヌは、律花の目前まで来ると、行儀良く『お座り』の格好をした。
律花は思わず座り込んで視線を合わせる。
「本当に、ジンなの?」
律花が言うと、まるで言葉を解するように尻尾を振る。律花が手を伸ばしても、嫌がる素振りは見せない。そのままごわごわとした毛にふれて、背中を撫でてやると気持ち良さそうに目を細めた。
内心に、嬉しさがこみ上げる。
「そっか、ジン、群れに入れたんだね」
それどころか、見る限りで群れの先頭に立って仕切っているようにさえ感じさせる。もしかしたら、この群れの頭なのかもしれない、と律花は微笑む。
「だからずっと着いてきたの?」
同意するように吼えるジンに律花は笑いかける。だが、その喜びも束の間。すぐに背後から掛かった声で現実に引き戻された。
「お前、なんでヤマイヌなどと……」
怯えたような声に振り返ると、男が恐怖を顔に引きつらせて律花を見ていた。隣のジンが男に対して威嚇する。それをなだめる様に律花はジンの頭を軽く撫で、群れの方に押し戻す。
「もう、見送りはここまでで良いから、帰りな。私は行かなきゃいけない所があるから」
ジンは「納得できない」とでも言うように低く唸るが、律花は苦笑してかまわず押し帰した。それから、男の方に向き直る。
「さあ、行きましょう」
男はまだ警戒するように律花を見ていたが、律花が馬を引いて歩き出す素振りを見せると、なんとか自分も歩き出した。
小さく呟かれた「化け物め」と言う言葉を、律花は聞こえなかったふりをした。




