第六章 3話
彰の仕事は早かった。翌日の昼にはもう、北見が待っているから仕度をして道場の方に行け、とお達しが来た。律花が言われたとおりにすると、道場の中心で北見は正座で瞑目して待っていた。足音で律花が来るのを察したのか、律花が道場に足を踏み入れた瞬間、目を開く。
「全く、余計な事を話してくれた」
第一声がそれだった。明らかに不快気な口調。
律花は面食らって北見を見る。
北見は不機嫌な瞳で律花を見据えた。相変らず、人を威圧するような圧倒的な眼光。
「やっぱり、話しちゃまずかったですか?」
恐る恐る聞いた事にはあっさりと肯定の返事が返ってきた。
「一番知られたくない人に知られてしまった」
律花が言葉もなく黙ってしまうと、北見は息をついて「まあいい」と言う。
「言ってしまった物は仕方がない。……だが、これからは注意してくれ。私の立場は微妙な位置にあるんだ。目立つ事は控えなければならない」
「はい」
律花が神妙に頷くと、北見は立ち上がり、壁にかけてある竹刀に手を伸ばす。
「では、はじめる」
一通り稽古が終わると、律花は思い出して時柾からの伝言を北見に伝えた。北見は複雑そうな顔をしたが、即答する。
「有難い話だが、それは出来ないと申し上げてくれ」
「なんでですか?北見さん、剣術をしたいんじゃありませんでしたっけ?」
言ってしまってからハッと口をつぐんだのは、北見がじろりと睨みつけたからだ。
「そう言う事を口にするな、と言わなかったか?」
「……すみません」
律花が言うと、北見は溜息をつく。
「どうも、詮索が好きなようだな」
「そういう訳じゃないですけど……」
律花は言い訳をするようにもごもごと口ごもった。八尋にしろ彰にしろ、北見に対する態度は何かしらあるように思える。その上、北見は何かしら意味深な事を言うくせに、ちゃんと説明をしてくれないから、そういうのを見てしまえばやはり好奇心というものが少しは沸いて出てしまうものだ。だから、うっかりと口が滑ってしまうのだ。いけない事だとは分かっているのだが。
北見はその様子を見て、溜息をつく。
「まあ、私が悪いのも分かっている。余計な事を口走った事が多々あるのでな。……別に隠し立てする事でもないから、知りたいのなら地下牢にいる囚人に聞いてみろ。私の口からはとても話す気になれないのでな」
「囚人?」
律花が首を傾げると、北見は言う。
「朝熙様がおっしゃっていた。会ったのだろう? あの男に」
その言葉で、律花の脳裏に朝熙に地下牢に連れて行かれた時の事が蘇った。
「あの人、時柾様を裏切ったって人の事ですか?」
「ああ」
投げやりに返事をすると、北見はそのまま道場を去ってしまった。
「地下牢に行きたい?」
不審気な彰のその声に律花は首を竦める。
「やっぱり、駄目ですか?」
その言葉に、彰はうーん、と唸って首をかしげた。
「駄目と言うか、理由にも寄るかな」
「八尋を裏切ったって人と話がしてみたいんです」
その言葉に、彰は納得したように苦笑した。
「さては、北見から何か聞いたね? まったく、未練を残しているのなら気にしないで時柾様の温情に甘えれば良いものを、不器用な男だよね」
律花は首を傾げる。
「あれ、まだ聞いてないの? 事情」
「それを、聞いてくれば良いって言われました」
「なるほどね」
言って、彰は頷く。
「流石にそれは、時柾様にはお願いできないよね。地下牢の入り口まではついていってあげるから、自分で話せる? 俺は今、あまり長い間時柾様から離れているのは不安なんだ」
「大丈夫です」
「じゃあ、行こう」
彰は律花についてくるように言って歩き出した。
到着したのは、以前も来た地下牢の前。彰が何かを番人に言って去ってしまうと、律花は番人に連れられて以前見た囚人の牢の前まで連れてこられた。番人は牢の中へ入っていってさるぐつわを口から外す。
そのままで出て行こうとしたので、哀れになって律花は言った。
「すみません、せめて壁に縛り付けてあるのは下ろしてあげてくれませんか?」
その言葉には、番人の軽蔑したような視線でしか回答がなかった。
番人がそのままそっけなく鍵をかけて去ってしまったので、律花は牢の外から話しかける。
「あの」
出した声は薄暗い地下で反響する。囚人は軽く項垂れた頭を上げて律花を見た。落ち窪んだ目は思ったよりはしっかりと律花を見つめていてほっとする。
「お話を聞きに来たんです。北見さんからあなたに聞けって言われて」
その名前に、囚人はピクリと反応した。
「北見?」
水分が足りていないせいだろうか。喉から搾り出すようなしゃがれた声は聞き取りにくい。
「少し、待っててください」
律花は言って駆けて番人の所まで戻る。
「話が出来ないので水をあげてくれませんか?」
番人はまた、不快そうな顔をする。それでも律花が「時柾様に言いつけますよ」と脅すと渋々それを実行した。
番人が再び鍵をかけて出て行ってしまってから「有難い」と掠れた声がした。振り返ってみれば、水分を得たせいか、囚人の瞳には大分生気が戻っていた。その目で律花を見据える。
「そなたは確か、時柾様を裏切ったという者だったか」
想像していたよりも、遥かにしっかりとした喋り方。こんなにぼろぼろなのに、どこかしら威厳さえ感じさせられる。
「それは、誤解だったんです。もう誤解は解けました」
律花が言うと、囚人は僅かに驚いた顔をした。
「誤解が解けた? 時柾様がお許しになったのか?」
「はい」
律花が頷くと、驚いた事に囚人の顔が微かに柔らかい笑みを浮かべた。その事に、律花は先ほどから感じている違和感を強くした。
―――この人、悪い人には思えない。
なんの根拠もないのだが、表情や口調が嫌な感じはしないのだ。しかも、誰かに似ている気がする。
「時柾様も、人を許すと言う事を覚えたか。成長なされたな」
静かに言う声。
「あの、あなたはなんで時柾様を裏切ったんですか?」
違和感に耐え切れず、とうとう律花は尋ねてしまった。囚人は少しの間、じっと律花を見つめてから、やがて口を開く。
「そなたと時柾様がどういった関係なのかは知らんが、まあ、良いだろう。何せそなたはあの時柾様の許しを得るくらいなのだから。……私と時柾様の関係は聞いたか?」
「師匠だとか」
律花の言葉に、囚人は頷いて言う。
「私は義任様……もう、前当主になってしまわれたが、あの方の臣だったのだが、時柾様と朝熙様の剣術の稽古を命じられてな。それ以来気に入っていただいてお二人に剣術を手ほどきしていた。特に、時柾様は朝熙様と違ってお母上からは見向きもされず、お父上からは疎ましがられていたから世話をしてやった事も幾度となくあった。だから、畏れ多いがあの方にとっては数少ない信頼できる人間だったのだろうな」
だけど、と囚人は続ける。
「私は、やはり義任様の臣下なんだ」
その言葉は、苦しそうに吐き出された。瞳にチラリと悔恨の色がよぎる。
「ある時、義任様は私に命令された。時柾はお前に懐いている、お前なら警戒されずに殺す事も出来るだろう、とな」
「反論はしなかったんですか?」
思わず問いかけた律花に、囚人は苦しそうに返事をする。
「何とかなだめて思いとどまらせようと思ったが無理だった。若い頃は、それは勇敢な方だったのだが、年をとるにつれて臆病な頑固者になってしまって、私の言葉にも耳を貸されなかった。私は、悩んだ」
「でも、結局殺す事にしたんですか?」
言い訳を許さないその厳しい、まっすぐな口調に囚人は素直に頷く。
「丁度、木野との戦に時柾様が将として行く時があった。その時に、勝利に酔っている宴の中から大事な話がある、と時柾様を連れ出し山に連れ込んで手足を縛って生き埋めに……」
その言葉に、律花の中で合点が行った。
「あの時やったのがあなただったんですね?」
「あの時?」
怪訝そうな老人に律花は頷く。
「私が、掘り出したんです。生き埋めにされた時柾様」
囚人は目を見開いて律花を見る。律花は話の先を促した。
囚人は少々自らを落ち着けるように大きく息を吐くと、それから続けた。
「それで城に戻ってきてな、成功したと義任様に報告した。たいそう喜んでいらしたよ。自分の息子が死んで嬉しい親など、と見ていて悲しくなったがね。だが、その喜びも束の間だった。お主が掘り出してくれたお陰で九死に一生を得た時柾様が朝熙様の軍勢を上手く使って木野に見せかけて篠田に攻め込んだ。それの対応で城に人が少ない隙に乗じて城に忍び込み、父上をその御手で討ち取られてな。私はその後、この通りだ」
「どうしても、義任様の命令に逆らう事はできなかったんですか? いくら主君だからって悪い事は止めなきゃだめなんじゃないですか?」
思わず問い詰めるようになってしまた律花のその言葉に、囚人は思い出すように眉を顰めた。
「あの時の義任様はな、あまりにも見ていて哀れだった。いつも何かに怯えていて、本気で時柾様に殺されると信じていた。相手がまだ正気ならば、戻る見込みがあるのなら、自害覚悟で諌めもしよう。だが、あのお姿を見ていたら……」
囚人はそこで言葉をとぎらせ、まるで、断罪されるのを待っているかのように、首を項垂れて沈黙した。彼女は、律花は時柾側の人間だ。自らの罪を赦そうとは思わないだろう、と覚悟をしながら。
だが、しばしの沈黙の後に降ってきた言葉は、意外な言葉だった。
「でも、あなたは時柾様も最後まで見放せなかった」
確信したような強い口調。
囚人は驚いて顔を上げる。そこには、真っ直ぐに自分を見つめてくる少女の瞳があった。
「何を言っている。私は時柾様を殺そうと……」
不審気に言う囚人の言葉を遮って、律花は言う。
「私は、掘り起こしたんです。時柾様自身はきっと、裏切られたって事が衝撃でそこまで思い至らなかったと思うけど、私は掘ってる時に不思議だったんです。あの竹筒は何なのかな、って」
囚人はその言葉の意味する事に気が付いて、気まずそうに目を逸らした。律花は続ける。
「あれは、即死しないための空気穴ですよね」
しばらく、返答はなかった。だが、辛抱強く待つと、ぽつりと囚人は口を開く。
「もしも、と思ったんだ」
「もしも?」
律花は怪訝そうに問い返した。囚人は弱々しく頷いて言葉を続けた。
「もしも、あの山奥に誰かが通りかかったら。もしも、時柾様を掘り起こして助け出してくれたら。もしかしたら生き延びられるかもしれない。そんなものは奇跡に近い事だと分かっていながら、少しでも自分の罪悪感から逃れようとしてやった事だ」
「でも、実際その『もしも』は本当になった」
律花が言うと、囚人は律花に目を戻し、頷く。
「そなたには感謝している。私は、もしかしたらこうなって良かったのかもしれないと思う時がある。あの状態の義任様がこれ以上当主の座で足掻いたとしたら、篠田は近々滅ぶ事になったかもしれないからな。ただ、どちらにせよ私は、義任様を裏切れなかった」
囚人の言葉には苦い物が含まれている。
あんなに悩んで下した自分の結論なのに、それでも苦い思いをする。どちらにしても、結局後悔をしただろう。
「私も、あなた感謝してます」
またも発された意外なその言葉に怪訝な表情を浮かべる囚人に、律花は言う。
「空気穴を入れておいてくれてありがとうございます。あれがなかったら、いくらなんでも助からなかったと思うから」
その言葉に、囚人は眩しそうに目を細めた。
「そなたは、良い臣だな。時柾様にそなたのような者が付いていてくれると言うのは心強い事だ」
律花はその言葉に照れたような笑みを返して、そこで何かを忘れているような気がして、思い至る。
「そうだ。ここに来た用事はそれじゃないんです」
怪訝そうな顔をした囚人に律花は言う。
「北見さんです。北見さんが剣術をしない理由を聞きに来たんです」
「そんなのは簡単な事だ」
囚人は当たり前の事のように言う。
「罪人の息子だと言うのを気にしているのだろう。あれは、わしの息子だからな」
律花は目を見開く。そういえば、誰かに似ていると思っていたが、発する雰囲気が北見に似ているのだ。
「小さい頃からずっとそちらの道に進む事だけを目指して努力してきたのに、すまない事をしたものだ。あれは、融通が利かないから、例え温情が下ろうとも受け取ろうとしないだろうしな」
「そういう所も父親似なんでしょうね」
呆れたように言った律花に、囚人も同意の苦笑を漏らしたようだった。
―――思ったよりも、良い人だ。
地下牢から戻りながら律花は考える。このまま、あそこに居るのは酷いのではないかと思われてならないのだ。
だが、それを彰に言えば苦笑されて上手く誤魔化されてしまったし、北見に言えばもっと冷たい反応が返ってきた。北見はどうやら、八尋暗殺を諌めもしないで受け入れた自分の父親を激しく軽蔑しているようだった。
「もう、これでそなたの詮索心は満足しただろう。これ以上この件に関して口を挟むな」と厳しく言われてしまった。




