第五章 3話
ハッと目を覚ました時、律花は一瞬自分に何が起きたのか理解できなかった。
霞がかったような頭で必死に記憶を手繰り寄せる。
―――たしか、大勢に殴る蹴るされて……。
そこで記憶が途切れている所からして、どうやら気を失ってしまったらしい。慌てて体を起こそうとして、自分の体が自由に動かない事に気が付いた。見れば、縄でぐるぐる巻きに縛ってある。
―――どうしよう。早く京に行かなきゃならないのに。
こんな所で、道草を食っているわけにはいかない。どうにか抜け出せないのだろうかと体をよじるが、きつく体に食い込んだ縄はみしみしと言うだけで、到底外れるとは思えなかった。その上、体を動かすたびに受けたばかりの怪我がうずき、体中が痛んだ。
しばらく暴れた後、律花はようやく無理だと悟って暴れるのを止めた。こうしていても体力の無駄遣いになると気が付いたからだ。そして、周囲を見渡す。
格子のはまった窓が一つあって、雨はようやく止んだのだろう、そこから月明かりが漏れている。それで、辛うじて中が見える。農具などが置いてあるから、どこかの物置なのではないかと言う事が推測させられた。
―――いったい、どのくらい気を失っていたんだろう。
さし当たって一番気になるのはそれだった。まだ、夜が明けていないからそんなに長くは気を失っていないだろうと思う、というより思いたかった。まさか、気を失ったまま丸一日過ごしてしまったと言う事はないだろう。この傷の生々しさからしても。
―――懐に、短刀が入ってる筈なんだけど。
それを取り出すのも無理そうだ。だが、どうにかしてこの綱を切らなければならない。
ふと、置きっ放しにしてあった農具が目に付く。
律花はずるずると這って行き、そこまでたどり着くと、鋤の刃の部分に縄をこすりつけた。だが、置いてある農具は安定していないため、がたがたと揺れて全然切れている感じはしない。それでも、これしか望みはないとこすり続けた。
ふと、月明かりが途切れた事に気が付いて顔を上げる。格子窓から誰かが律花の事を覗いているのが分かった。一瞬、こすり付ける手を止め、格子の隙間から覗く目を睨みつける。
「誰?私をどうするつもり?」
その言葉に返答はない。ただ、暗い人影はそこに立っているのみ。
律花はしばし警戒してぴくりとも動かなかったが、やがてまた、作業を再開した。
少しすると、また月明かりが差し込んできて、その人影が去ったのを感じた。安堵の息をつくのも束の間、がたん、という音と共に小屋の扉であろう場所が動いた。律花はまたもや作業を止める。
月影を背に入ってきたのはまだ若い女だった。律花よりいくつか年上だろう。
女は最初、警戒するようにじっと律花を見ていたが、やがてそっと小屋の中に身を滑り込ませて。そして、動けない律花を少し離れた所から見下ろす。
「今、あんたをどうするか皆が話し合って決めてるわ」
そう、女が口を開いた。少し、せっかちな喋り方。
「大方、このままあんたの金を奪って殺して山に捨ててくるってのが順当になりそうね」
律花は眉を顰めた。お金を盗むだけでは事足りず、殺そうとまでするなんて。
だが、女は呆れたように言う。
「あんたが不注意なのがいけないのよ。普通、あんな大金を持っている事を見せられたら誰でも目が眩むでしょう」
「それは、泥棒の論理だよ」
律花が言うと女はムッとした顔で律花を睨む。
「泥棒でも何でも、しないとやってけないような貧しい集落だってことくらい見てわかんなかったの? どこぞの箱入りか知らないけど、世間知らずにも程があるわ。よくもまぁ、あんたみたいのに一人で旅をさせた人がいるものだわ」
律花は反論を諦めて、大人しく作業に戻る。こんなやり取りに気をとられている時間や体力が惜しい。
「呆れた。普通、目の前でそういうことする?」
無視。
女はしばらく黙って律花の行動を見ていたが、やがて口を開く。
「ねえ、あんたの着物ってすごく良い物だって知ってる?」
相変らず無視を続ける律花に続ける。
「刺繍の入った絹なんて、あたしたちには一生に一度拝めるかって話だわ」
その、含みを持たせるような声に律花は再び顔を上げた。女の視線はやはり何かを含ませて律花を見つめている。
―――そういう、こと。
律花は納得して、手を止めて顔を上げる。
「条件を呑んでくれたら、あげても良いけど」
「条件は?」
その言葉に、少し考えてそれから言う。
「これの代わりの頑丈な衣と、縄を解いてくれる事、それから道を教えてくれれば」
律花の言葉に女は考える素振りをする。
「前の二つはその通りにしても良いわ。ただ、最後のは場所をあたしが知ってるかわからない」
「京」
簡潔な言葉に、女は目を見開いた。
「京? あんた、いったいどのくらい遠いと思ってるの?」
「どのくらい遠くても行くの。出来るだけ早く」
女はじっと律花をみつめる。
この少年だか少女だか分からない子は何を考えているんだろう。本気で京まで行こうと思っているのだろうか。
―――でも、そんなのあたしにはどうだっていい。
「いいわ。京の方角くらいなら知ってる。行った事はないけれど」
「なら、とりあえず代わりの丈夫な服を持ってきて」
偉そうな口調にかちんと来て、女は意地悪く言う。
「何、その口調。あんた、自分の立場が分かってるのかしら? あたしは別に、あんたと取引しなくて、着物だけ奪っても良いのよ」
「縄をほどいた瞬間、私はあなたを返り討ちにする」
女はギョッとして律花を見る。爛々と光る目は本気の目だ。
「そ、そんな事したら大声でみんなを呼んでやるから」
「それこそそんな事したら、なんであなたは私の縄をほどいたんだ? って話になって怒られるんじゃないの?」
これには、反論の余地もない。女はしばし赤くなって律花を睨みつけると、そのままぷいと小屋を出て行ってしまった。
―――しまった、せっかくここを出れるチャンスだったのに。
律花が内心で後悔した時だった、再び月影を遮って先ほどの女が戻って来た。
「兄の服よ。これなら農作業着だから丈夫でしょうよ」
憎憎しげにそう言って、手に持っていたそれを乱暴に床に放る。そして、持ってきた短刀で律花の縄を切り始めた。
縄を切られながら、律花が内心で考えていた事がある。それは、この女が縄を切り終わった瞬間に、飛び掛って逆にこの女を人質に取る、という方法だ。先ほどから見ていると、この女は隙だらけだし、不可能ではないように思われる。それなら、先ほどのお金を取り返す事も可能だ。なんやかんや言っても、やはり先ほどの事は悔しくない筈がない。
ちらり、と女を盗み見る。女はこういう作業に慣れていないのか、必死の形相で縄と格闘している。まるっきり、律花を警戒する事無く。
―――駄目だ、やっぱりフェアじゃない。
女は律花の事を信用してこうして縄を切っているのだ。なのに、律花がそんな事をすれば、律花は上手く逃れられたとしても、この女は後で集落の人々から責められ辛い思いをするのだろう。
―――お金や、怪我の事は悔しいけど、諦めよう。
律花はもやもやとする心を一掃するように体を揺する、その瞬間、最後の縄が切れたようで、体が軽くなった。
「ありがとう」
言った律花に女は変なものでも見たような顔をする。
「ありがとうって取引したんだから当然でしょう?あたしはちゃんとその分の報酬を貰うんだから、さっさとそれに着替えちゃってよ」
律花は頷いて女が指す着物を手に取った。
着替えながら律花は言う。
「なんで、そんなにこの着物が欲しいの?」
確かに、年頃の娘なら欲しいものかもしれないが、それにしてもこんな危険を冒してまでも欲しいものだろうか。
「あたしは、殿様の側女に召し上げられたいの。そのためにはなるたけ綺麗に見えるようにしておかなければいけないのよ。あの殿様は好色だわ。綺麗な格好をしてうまく目に留まる場所へ行けば、きっとお手をつけられる」
そんな女の言葉に律花は驚いて女を振り返る。確かに、色っぽく、どちらかと言えば整った顔立ちの娘だ。千鶴や蘭子などを見慣れている律花は意識していなかったが。
だが、なんで望んでまでそんなものになろうとするのかが律花には理解できない。側女と言うのは、律花の認識で言うと愛人みたいなものなのだ。
律花のそんな思いは表情に出ていたのか、女は呆れた顔をする
「あんた、なんて顔してんのよ。側女になれば、贅沢はできるし、安全だし、こんないいことってないわ。城に招かれたらもう、毎日怯えて暮らさなくて良くなるし」
「怯えて暮らす?」
聞きとがめた律花の言葉に女は頷く。
「あんた、ここらの者じゃないのね? 有名な話よ。最近領内では若い女が消えるの。どこかへ出かけたっきり帰ってこないのよ。だから、あたしたちはみんな、すごく恐ろしい思いをしながら暮らしてるのよ。いつ、自分の番になるかって」
「何でそんな事が?」
「知らないわよ、一部ではちょっとまえに川に流された巫女の呪いじゃないか、なんて噂があったけど」
―――川に流された巫女?
律花の脳裏に、夢の光景が浮かび上がる。
―――偶然? それとも……。
「とっとと着替えるんじゃないの?」
急に黙り込んだ律花を見て、女が急かすように言う。律花ははっと我に返ると、慌てて着替えを再開した。
―――とりあえず、今は、八尋の事が先決だ。
「京に行くには、あっちの方向にまっすぐ行けば最短よ。ただ、道があるか知らないけど」
そっと小屋を抜け出して来た集落の入り口で、女に言われて律花は頷いた。
その女の視線が、律花の髪に止まった。
「あんた、女の子だったんだね」
「はい?」
「その飾り紐」
慌てて身支度を整えたものだから、髪の毛は側にあった女物の紐で結わいてきてしまったのだろう。それは、蘭子が妻競いでの褒美にとくれた、とても高価な飾り紐だったはずだ。律花はそう考えて、物欲しげな目で見る女に目を向ける。
「お財布を取り戻して来てくれたらあげるよ?」
「じょ、冗談じゃないわよっ。流石のあたしでもそこまでは無理よ」
「じゃあ、駄目」
律花がそう言うと、ねめつけられてぽかりと頭を叩かれた。
「生意気な娘」
「自覚してます……それじゃあ」
「さっさと行っちゃいなさいよ」
言われなくとも、と律花は馬の繋いであった木に駆け出す。どうやら馬は睡眠中だったようだが、律花は揺り起こすと飛び乗った。
「ゴメンね、時間がないんだ。急いで」
そう、声を掛けてから思い切り馬の腹を蹴った。
馬は驚いて疾走する。




