第四章 5話
その日も律花は昨夜の稽古の疲れを回復すべく、昼間から惰眠を貪っていた。
だが、どうにも隣室の蘭子の部屋が騒がしい。慌しく侍女達が右往左往して、時々ヒステリックに話す蘭子の声が混じる。
始めは無視を決め込んで、寝ようとしたのだが、あまりにも煩いために、とうとう諦めて起き上がり、隣室の声に耳を済ませた。しかし、内容は判然としない。
―――無視されるのを覚悟で聞いてみようかな。
そう思い、居住まいを正してから障子を開け、廊下を蘭子の侍女の誰かが通るのを待つ。
少しすると案の定、慌てた様子の女が急ぎ足で蘭子の部屋から出てきた。
「あの」
声を掛ける律花を女は全く無視する。律花はずるずると体を部屋から外に出し、廊下の真ん中に居座って侍女の進路を妨げながら、もう一度声を掛ける。
「何があったんですか?」
これには流石に、侍女も足を止めない訳には行かなかった。不愉快そうに眉をしかめながら律花を睨みつけるが、律花はどこ吹く風だ。
こんな睨み方では恐くない。毎晩北見の鋭い視線に射抜かれるような思いをしている律花にとっては。
律花が退かない事を悟ると、侍女はようやく、しぶしぶと言った感じで口を開いた。
「本日行われる妻競いの出し物に出す筈だった娘が急に病に倒れたのです」
「妻競い?」
怪訝そうな顔をする律花が、自分の疑問を全て解決するまで退かない事を悟ったのか、諦めたように侍女は言う。
「篠田の行事の一つです。その名の通り、妻同士を競わせ、その妻が一番良い女か決める、という遊びのようなものですけど、それぞれの妻の矜持がかかってますの」
「競う、って何でですか?」
妻、というからには家事などだろうか?だが、ここにいるお姫様達は家事をする必要などない気がする。
「いくつかありますわ。和歌や香などは妻が行う種目ですが、他に剣術や舞などの、侍女達を競わせるものもありますの。それに出るはずだった侍女達が皆こぞって病に臥してしまったのですわ……分かったら退いてください。私は代わりの者を見つけなければいけないんですから」
咄嗟に、律花は侍女の着物の端を掴んでいた。侍女は怪訝そうな、不快そうな顔で律花を見る。
だが、律花はいつか北見が言っていた事を思い出していた。自分の力量次第でこの状況は抜け出せる、と。ならば、今、それを生かす時が来たのではないだろうか。
「私、剣術なら少し出来ます」
「は?」
侍女が意味が掴めない、といった顔で律花を見返すが、構わず律花は続けた。
「今から代打を探して、そう簡単に見つかるわけではないんですよね?だったら、私にやらせてください」
侍女は呆れて目の前の少女を見た。剣術をやるとは到底思えない細い体で、しかも、いつも居眠りばかりしていて周囲の失笑を買っているこの娘が何を。
だが、その一方で、出せる人物がいないのもまた事実だった。
この日のために大分前から用意していた娘達はみな、一様に具合を悪くした。まるで、誰かの陰謀の様に。……いや、実際、陰謀なのだろう。だからこそ、蘭子はあのように腹を立てているのだ。そして、その娘にやらせるものだと安心しきっていた他の侍女達に剣を扱える者などいなかった。舞は下手でも、どうにか一通りはできる者は多い。だが、剣術は……。
たとえどんな事があっても、棄権だけは避けなければならない。ただでさえ、蘭子が朝熙の妻である、という事は不安定な感じがするのに、これで棄権などをすれば益々その色は濃くなってしまう。だが、必要人数に足りなければ否応なく棄権とされてしまう。
考えた末、侍女は口を開く。
「ならば、蘭子様に指示を仰ぎましょう。ついていらっしゃい」
「お前が?剣術をやるというの?」
疑わしそうにじろじろとねめつける蘭子に、律花はなるたけ重々しく頷いて見せた。
「はい。全力を尽くします」
律花の言葉に、蘭子はまだ疑わしそうにしていたが、それでも溜息をつくように言う。
「まあ、お前の他にやれるような人がいないのも事実なんだから仕方ない、認めるわ。要は私が他の人よりも点数を稼いでおけば良い話ですもの」
そう言った、蘭子の瞳に怒りの炎が瞬く。
「なんとしてでも千鶴には勝たなければならないわ。こんな事をしてくれたお返しは正攻法でしてやらなくては」
「千鶴姫、ですか?」
律花が怪訝そうに問いかけると、蘭子は力強く肯定する。
「そうよ。あの性悪女がきっと、私の侍女達になにか薬を飲ませて具合を悪くしたのだわ」
律花は千鶴のふわふわとした笑顔を思い出す。
―――そんな事をする人には見えないけどなぁ。
だが、それを口にするのは憚られる程に、目の前の蘭子はふつふつと怒りをたぎらせていた。
―――まずいなぁ。
律花は幕で仕切られた蘭子方の席の裏で、幕の間の細い隙間から会場を覗きながら、出番を待っていた。
妻競いは一番大きな庭でやる事になっており、遠目に見える、一段高くなっている所に設えられた席には朝熙や八尋、それに初めて見るが、二人の兄で現篠田の当主だという人が座っていた。どうやら、この三人の妻に当たる人が競うのが、主な目的らしい。もっとも、競う人の中には他に重臣の妻などもいるようだったが、結局遠慮して力は発揮できないだろう、という事を通り過ぎる人々の話から理解した。
今見えている会場内では、舞の演技が行われている。
律花がまずい、と思っているのはその点数だ。あんなに偉そうな事を言っていた割に蘭子と千鶴姫の点数は拮抗しており、この舞が要となっているようだったが、蘭子方の舞手はなにしろ代打なものだから、素人目に見てもはっきりと両者の差は分かってしまう。これは相当に点差を付けられそうだ、と予測ができた。この後に続く薙刀などの出来もきっとあまり期待できないだろう。
よりによって、剣術は最終項目だ。勝てなかった場合、怒りの矛先が余所者であり、最終項目を行った律花に向くのが目に見えるようだった。
わ、と歓声があがり、舞が終わった事がわかった。点数は律花の予測したとおり。
今のところ、千鶴と蘭子が先頭の二人だったのだが、これを期に蘭子はもう一人、志摩にまで抜かれてしまった。……驚いた事に志摩も出場していたのだ。だが、志摩自身も抜いてしまった事に気まずい思いをしているのだろう、隙間から遠目に見える表情はむしろ、苦々しくさえ見える。
―――身分とかって、大変だな。
この様な勝負事の時も、いちいち誰をたてるだなどと考えなければならないのだ。
―――もっとも、それは性格によるかもしれないけど。
当主の妻という人に至っては、穏やかそうな印象で、勝負にあまりこだわらないで素直に楽しんでいる感があるので、周囲も気を使わずに追い越している風がある。その点、蘭子はあまりにも千鶴に敵愾心をむき出しにしているし、千鶴の方も意外に負けん気が強いのか、二人の間にはぴりぴりとした緊張感があるのが分かった。
「そろそろ、準備をして頂戴」
そんな声が掛けられ、律花は頷く。
自分で買って出たのだから、覚悟を決めなければならない。思ったよりも大勢の観客に怖気づいている暇はない。
律花は深呼吸を一つして、会場に向かって歩き出した。
「時柾様、次の剣術の競技で面白いものを見れるかもしれませんよ」
そんな言葉に、八尋は自分の背後に控える彰を振り返った。
「面白いもの?」
「ええ」
詳しく話すつもりはないのか、そのまま意味深な笑みを浮かべる彰に怪訝な顔をした時、観客がわっとわれ、出場者が出てきたのが分かった。
会場に視線を戻して、八尋は目を疑った。
「律?」
思わず漏れた声に彰が面白そうに笑う。
「蘭子様の侍女達が皆、原因不明の病に臥せっているそうなので、急遽代役を立てたみたいですよ」
八尋はそれには答えずに、無表情に会場の律花を見た。僅かに、眉間に皺が刻まれる。
「なにか、ご命令がおありですか?」
彰が八尋の耳元で囁く。八尋はしばらく無言でいたが、やがてぽつりと言った。
「良い、もう俺には関係ない者だ」
「そうですか」
彰は頷くと、そのまま静かにその場に控えていた。
一瞬、視線を感じて振り返った律花は、そこに八尋の顔を見つけて動揺した。
―――失念していたわけじゃないんだけど。
覚悟をしていた以上に、実際にその場になってみると動揺してしまう。気に留めないように、と思っても意識がそちらに向いてしまうのが分かった。
目の前に千鶴方の侍女が進み出る。見た事のない顔だったから、きっと特別に呼び寄せたのだろう。実際、蘭子の方で出るはずだった人もそうだったのだと聞いた。
がっしりとした体格の、もしかしたら律花の倍もあるような女性だ。
だが、怖気づくような圧力は感じない。毎晩北見と対峙している時は、少しでも気を抜けば即座にそこへ攻め込まれてしまうといったぴりぴりとした緊張感と、何か言いようもないような威圧感を常に感じていたのに、目の前の女性からはそれが全く感じられなかった。
―――それよりも、八尋の視線の方が気になる。
ちりちりと視線が刺さってくるようにさえ感じるのは自意識過剰だろうか。
両者が礼をして、審判が立つ。普段木刀でやっていたせいか、受け取った竹刀が思いのほか軽く感じて驚く。
目の前の女性と睨みあう事しばし。律花は、驚くほど冷静だった。女性が腕を振り上げた時でさえ、その動きを遅く感じたほど。
振り上げられた相手の竹刀が届くより早く、律花は相手の間近に駆け寄っていた。相手の竹刀はそのまま振り下ろされる事なく、手から転げ落る。律花の竹刀は確実に、相手の胴着をつけた腰を打っていた。
観客席は、水を打ったように静まり返っていた。
「一本」
良く通る審判の声が高らかに宣言する。
相手はそのまま地面に倒れこんで、腰を押さえている。
次の瞬間、わっと観客席から喝采が浴がった。勝って当然だと思われた体格の良い方を見事な一撃で小柄な娘が倒した、となれば当然だ。
溢れかえる声の中、律花は黙って一段高くに設置してある席を見上げた。そこにはもう、八尋の姿は見当たらなかった。




