第四章 4話
悪夢を見て律花は目を覚ました。例の夢ではない。戦場の時の夢だ。
目の前で人が死ぬ、なんていうのは衝撃的な事だ。今でも、律花はしばしばこうして夢に見る。寝床に体を起こしてみると、汗でぐっしょりと体が濡れていた。体中が熱っぽい。
夢に見たものの恐ろしさで、しばらく身を震わせていた。周囲は漆黒の闇。電気などがないこの時代の夜は恐ろしく暗い。その代わり、月明かりなどが冴え渡るのも事実なのだが。
律花はそろそろと寝床を抜け出すと、寝間着のままで障子を開けて部屋を出た。この暗い部屋に居られる気分ではなかったのだ。
月に照らされた庭はうっすらと明るい。しばらく気を落ち着かせるつもりでゆっくりと散歩をしていた律花は人影に気が付いて咄嗟に傍の木に身を隠した。
月明かりで影しか見えはしないが、すらりとした人影が、何か棒のような物を持った手を大きく振っているのが分かる。
―――素振り、してるんだ。
規則正しく、乱れる事なくそれは続けられる。
しばらくはそこでそうして見ていたが、いつまでもそうしているわけにはいかない。そう考えて部屋へ戻ろうと体勢を変えた時に、音を立ててしまったらしい。
「誰だ」と、潜められた、低く鋭い声が律花の耳に届く。律花は思わず体を硬直させてしまった。
相手はすたすたと大股に律花の元に近づいてくる。3メートル程離れた所まで来て、それでようやく相手の姿を認識できた。見覚えがない姿ではない。
「北見、さん」
律花は思わず呟いていた。もし、律花に嫌がらせをしていた人達ならば急いで逃げようと思っていたのだが。
北見とは初めて会って以来、何度か見かける事があった。どうやら朝熙に仕える学者のような事をしているらしく、よく朝熙の庭に出入りしていたからだ。だが、何度会おうとも北見の態度はまるで律花の事など知らない、といったようなものだから、必然律花も知らぬ人のように振舞うしかなかった。
北見の方も驚いたのか、しばし目を見開いて、それから眉根を寄せた。
「こんな夜更けに、こんな場所で何をしている」
声は相変らず淡々そしている。むしろ、律花に対して拒絶しているような印象さえ受ける。
「ちょっと、嫌な夢を見てしまって、散歩でもして気を紛らわせようかと思ったんです……あの、素振り、してたんですよね?」
律花の視線は北見の持っている木刀に注がれていた。北見は一瞬、苛立ちを瞳に表す。
「そなたには関係ない事だと思うが」
「そうです、よね」
久しぶりに人と話すので、何とか会話を続けたいと思ったのだが、この人にもどうやら自分は拒否されているらしい、と律花は肩を落す。
「あ、じゃあ部屋に戻ります。邪魔してごめんなさい」
慌てて取り繕うように言い、踵を返して早足に部屋に戻ろうとする。
三歩程歩いた時、ふいに背後から声がした。
「ひとつ、聞きたいのだが」
「……何ですか?」
怪訝な顔で律花は振り返る。少し距離を置いてしまった北見の表情は陰になってよく見えなかった。
「そなたは何者なんだ?」
その問いに、律花は苦笑して首をかしげた。
「さあ? 私にも分かりません」
「分からない?」
はい、と頷いて律花は少し自嘲的に笑む。
「何も、分からないです。自分の身に何が起きたのかも、何で自分が今、こんな状況に置かれているのか、とかも。どんどん周囲に流されて、逆らう事も出来ないで、何が何だか分からないうちに時柾様と一緒にいて、気が付いたらこんな事になっちゃってました」
思えばこちらで目覚めてから今日まで、起きた状況毎に対応するのが精一杯で、それ以外の事を考えられる余裕もなかった。
本当は元の時代に戻る方法を探したいのだけど、それも皆目見当がつかなかったし、かといってこの時代で自分に何かが出来るわけでもないから、他の人のお荷物にしかならない。
北見はしばし黙りこくって何かを考えているようだった。
律花は戸惑ったが、邪魔をしては悪いかと思い、そっとその場を後にしようとした。その時、静かに北見が口を開いた。
「流されて、今居る状況にそなたは満足か?」
―――満足?
びくり、と心が反応したのが分かった。
「そんなわけ、ないじゃないですか」
曖昧に答えてあしらっておけば良いと思うのに、気が付けばそう言っていた。更に、一度開いてしまった口は簡単に次の言葉を紡ぎ出す。
「誰にもまともに扱って貰えなくて、ほいほいと簡単にやりとりされて、そんなのに為すがままになってるしかないんですよ? コレが満足って言う程、私は大人しくありません」
常に持っていた鬱憤が噴出する。
「だけど、流れを変える方法が見つからないんです。私にできる事なんて何にもなくて、それで役立たずって見下されてもしょうがないし、こちらではどちらにしろ偉い人の決める事には逆らえないんでしょう?」
「そうだな。だから我々は皆、その偉い人に少しでも気に入ってもらおうと武芸や学術を磨き、自分の現状を脱しようとする」
―――そんなの、磨く方法もない。
律花はそんな思いをぶつけるように、北見を睨む。北見はそんな視線など気にも留めないように律花をじっと見据えた。
「私の立場にとって、本来そなたは邪魔な存在だ」
静かな、淡々とした口調は変わらない。
「だが、自分の置かれた状況にどうしようもなくて、もがく苦痛を私は知っている。もしそなたが望むのなら、稽古をつけてやっても良い」
その言葉に、律花は睨んでいた目を驚きで見開いた。
「稽古?」
問い直した律花に頷いて北見は続ける。
「自分を守る術、剣術、文字を読む事。もし持っていれば少しは重宝される技術をそなたに与える事くらいなら、私にも出来る。……それを持っていたからと言ってその状況から抜け出せるかはそなたの力量次第だが」
「やります」
噛み付くように律花は即答した。この状況から抜け出せる可能性があるのなら、少しでもそれに賭けてみたい。こんな、受動的にしているのは自分らしくない。
「教えてください。お願いします」
重ねて言う律花に北見は頷く。
「そなたがそれを願う以上、手加減はせぬが?」
「構いません」
「ならば、明日の夜、皆が寝静まった後にまた、ここへ来い」
それから、律花は毎夜そこに通う事となった。
有難い事に昼間は溜息が出るほど暇で退屈だったので、その時間を睡眠に当てる事として、夜の稽古に集中することにした。北見は昼間は昼間も朝熙の仕事があるのだから大変なのではないだろうか、と聞いたが「大丈夫だ」の一言で済ませられた。
こうして夜、稽古するようになっても北見の素っ気無さは相変らずだった。指導の他は、殆ど会話を挟まない。もっとも、その指導に必要なところでは言葉を惜しむことなく、しかも律花の体型などに見合ったやり方を的確に伝えてくれたから、厳しくはあったが理解しやすく、上達が早かった。
―――彰さんより、教え方が上手い。
内心、そんな事まで思ってしまう。始めて数日は筋肉痛でずっと痛かったが、最近ではそうでもなくなった。
教わるのは護身術、剣術。それに、雨の日はそっと北見の部屋に招かれて文字を教えてもらう。北見の部屋は志摩の部屋の隣だった。だから、よくあの様に使われてしまうのだろう。部屋の中には珍しい物がたくさんあって、特に、乳鉢や薬箪笥が目を引く。あまりにも律花が興味津々でそれを眺めていたものだから、普段無駄口を叩かない北見が渋い顔で説明したところによると、それは植物を調合したりするものらしい。ここに来て、律花はようやく北見の仕事を聞く事が出来た。北見は、朝熙が外国から仕入れた珍しい苗などを育てたり、それについて研究したりする学者のような事をしているのだ。
「無駄な事に興味を持っていないで。自分の事に集中しろ」と北見はにべもなかったが。
「あの、聞きたい事が山ほどあるんですが」
律花がそれを口にしたのは一月もそんな事が続いた後だった。対する北見の返事は相変らず素っ気無い。
「そんな事をしている暇がお前にあるとは思えない」
「でも……」
更に粘ろうとする律花を北見は気にも留めないで、音がしないようにと念入りに布を巻いている木刀を構えた。律花は最近、ようやく打ち合いをして貰えるようになったのだ。
律花もつられるように木刀を構える。北見の稽古は容赦なく、こちらの準備がまだ出来ていなくても平気で打って来る事があるからだ。だが、それでも律花は諦めきれないのか、木刀を構えたまま口を開く。
「じゃあ、こういうのはどうですか?私が北見さんから一本取れたら、教えてもらうって」
「そなたが私から一本取れるとでも?」
苦笑することさえしないで、真面目な顔を崩さないまま、北見は言う。
「そんな事を考えている暇があったら集中しろ」
ガン、と防具をつけた頭に衝撃が走る。一瞬、目の前が白くなる。
―――集中しないと。
急いで頭を切り替える。でないと、この人の稽古にはついていけない。
―――着実に、私の実力が伸びているのは分かる。だけど、到底この人に追いつけないのも知っている。
北見は強い、と思う。もっとも、律花の目から見てなので八尋などから見てどうなのかは分からないが、それでも、時々稽古をしているのを見かける侍達よりも形が綺麗で素早いと思うのだ。その上に、勉強家で部屋には分厚い和綴じの本がいくつも積みあがっている。頭も良いのだと思う。学者などをやっているくらいなのだから。
―――何者なのだろう?
こうして毎晩稽古をしていても、律花と親しくなろうとは微塵も思っていないようだというのは確かだ。
―――そういえば、立場上は私は邪魔な存在って言ってたな。
打ち合いをしながらそんな事を考えていれば、当然上の空になる。あっと思ったときはもう、胴に激しい痛みが来ると同時に律花は吹っ飛んでいた。
打ち付けた衝撃の痛みで咳き込む律花を見下ろして、北見は冷たく言う。
「本日はこれで終いにする。雑念があると相手にならん」
そうして、咳き込み続ける律花を置いてさっさと部屋に戻ってしまう。
しばらくの間、律花は無人の庭で咳き込み続ける事となった。
それからは、また毎日稽古に打ち込むしかなかった。北見から何かを聞き出そうとすれば、また二の舞になってしまう事は分かっていたし、それで愛想をつかされるのは避けなければならないと思ったからだ。
どちらにしろ、律花がここでやって行く上で北見の教えてくれる事がどんなに大切なのかは分かっている。
夜の稽古に気が取られているせいか、周囲の状況はさほど気にならなくなった。冷たい目で見られようと無視されようとも好きにしてくれ、という心境だ。いちいちそのような事に心を煩わせていて、それを稽古に持ち込んだ日には「雑念がある」と厳しく鍛えられるのも原因の一つだったかもしれない。
昼間は大体、眠っているか文字の稽古をしているかだったが時々注意して侍女などの話が漏れてくるのを聞いていると、何となく事情はつかめてきた。
どうやら蘭子はどこか大きな家の娘らしいのだが、たまたま見かけた朝熙に一目惚れしてしまい、父親に頼み込んで無理矢理縁談を纏め上げたらしい。どういった事情かまでは知らないが、どうやら蘭子が見たその時は、朝熙は女装をしていなかったのだろう。蘭子は朝熙を『仏門の修行のために女を一切近づけない』禁欲主義な男だと説明されており、朝熙の修行が終わるまで待っているのだという。だが、元々が激情家だけに、朝熙の部屋に女の姿が消えて行った、などの話を聞くと我慢できなくなり、ああしてヒステリーを起こして怒鳴り込みにいくらしい。もっとも、消えていった女の姿は律花が推察する限り、十中八九、女装した朝熙自身だろう。朝熙は絶対に自分の側に女を寄せ付けないのだから。
―――侍女達の噂って、あなどれないものなんだ。
律花は呆れて溜息をつく思いだった。




