第四章 2話
朝熙の元で働き始めて数日。律花は自分が八尋の元でいかに守られていたのか否が応でも実感させられた。
以前、朝熙の下男として働いていた時でさえ、彰が側にいてくれたから律花は不自由することはなかった。これも、八尋の配慮だった。八尋の信頼を失った今になってようやくその有難さに気が付いた。
普通、律花のやっている小姓という仕事は、名家の者がつく、いわばエリートコースであるらしい。それが、律花のようにどこの馬の骨とも知れぬ者がやっている、というのがまず、他の者にしては気に食わない。しかも、その馬の骨はロクに仕事もこなせないし、字も読めない。小姓はいざと言う時に主人を守らなければいけないのに武術にも全くといって良いほどに出来なかった律花が周囲から煙たがられ、嫌がらせを受けるに至るには十分な理由だろう。
律花はお勤めへ行く道すがら、大きな溜息を落とした。ここでは、律花の味方は誰も居ない。
おまけに、律花の気持ちを沈ませるような事が、もう一つあったばかりだ。
それは、律花が朝熙に引き取られて二日目の朝の事だった。それまでバタバタしていてつい忘れていたジンの事を思い出し、律花はジンを繋いである中庭に走った。餌を自分で捕れるように繋いである鎖を外してやらなければ、と思ったのだ。
だが、慌ててかけてきた中庭の中にはどこにもジンの姿が見当たらない。 きょろきょろと辺りを見渡すと、遠くから人影がこちらに近づいてくるのが見えた。律花は、思わず身を硬くする。それが、彰だと気が付いたからだ。慌てて逃げようとする律花に向かって、彰は相変らず軽快な声で話しかけた。
「逃げなくてもいいんじゃない? 律」
その言葉に何とか踏みとどまって、それでもすぐに逃げられる準備をしながら律花は彰の到着を待った。彰はにっこりと笑っている。
「今はこれと言って時柾様から指示がないから君を殺したりはしないよ。まぁ、君を怖がらせないためにこれ以上は近づかないから」
そう言って、1メートルほど律花から離れた所で足を止める。
「ジンを探しに来たんだろ? 残念ながら、この城の中のどこを探しても居ないと思うよ」
「どういうことですか?」
律花は嫌な予感に彰を睨みつける。彰ははは、と笑って肩を竦めた。
「そんなに睨まないでよ。殺してはいないよ。時柾様がそこまではする必要はないだろうって言うから。だけど、もうここには帰ってこないだろうな」
「どうしてですか?」
「ヤマイヌの群れる場所を知っているんだ。そこに放して来た。仲間が居れば、わざわざジンもこんな所に居ついている必要はないだろう?」
ふと、以前八尋とした話を思い出した。
ジンとはいつか別れが来る。
でも、こんな形でだとは思わなかった。どう思えば良いのか分からなかった。ジンはその方が幸せなんだから、と祝福した方が良いのだろうか?だけどとてもそんな気持ちにはなれなかった。
律花は、素早く彰にお辞儀をすると身を翻して走り去った。
その日から、最後の律花の味方だったジンも居なくなったので、律花は本当に一人ぼっちだった。顔見知りの下男達とは会う事もあまりなかったし、会っても自分は八尋を裏切った間者だという噂が広まっているから慌てて目を逸らされてしまう。
―――急がなきゃ。
思い出して溜息なんかついている場合ではない、と律花は小走りに朝熙の部屋へ急ぐ。
ただでさえ、仕事が出来ないのだからせめて自分に出来るだけは精一杯やらなければならない。
途中、渡り廊下に泥が撒いてあるのを、顔を顰めて飛び越える。ここ数日で、こんな事は慣れっこになった。いじめとはこんな時代からあったのか、と呆れてしまう。この程度は序の口だが、気を引き締めて掛からないとまた、思わぬところで引っかかってしまう。
そう思った矢先、向かいの廊下から水の入った桶が跳んで来た。律花は慌てて避けるが、避けきれずに頭から水を被ってしまった。
水浸しになりながら、髪をかきあげる。向かいの廊下にちらりと見えた下男らしき男は、もうどこかへ行ってしまっている。
―――さて、このままびしょ濡れで行くか、着替えていって遅刻するか。
後者はもう何度も、やって、その度に朝熙に怒られている。
―――たまにはこのまま、行ってみるのも良いかもしれない。
自棄になってそんな事を考えてから、慌ててそんな考えを打ち消した。朝熙の部屋にあるものは高価なものが多く、そんな物を濡らしたりしては怒ら れるだけで済むとはとても思えなかった。
―――着替えに引き返そう。
諦めて踵を返そうとしたとき「まあ」と言う女の声が聞こえた。
振り返ってみると、向かいの渡り廊下から、二十代半ばの女が驚いた顔でこちらを見ている。きらびやかな着物を着ているところから見ると、身分は低いわけではないだろうに、侍女も連れずに一人で。
女は慌てて小走りに律花の方へ歩み寄って来ると、眉根をひそめた。
「どうしたの? こんなに濡れてしまって、酷いわね」
特別に目を見張る程美しいというわけでもないが、生き生きとした表情が魅力的で、どこか品がある、好感を持てる人だった。
「申し訳ありません、あの、廊下を汚してしまって」
律花が言うと、女は呆れたような声になって言う。
「貴方のせいではないのでしょう? 自分から好き好んでこんな場所で水遊びするなんて人、いないものね?……いらっしゃい」
そう言って、律花を引っ張って行こうとするので、律花は慌てて言う。
「申し訳ないのですが、私はこれからお勤めが……」
「分かっているわ。すぐに出来上がります」
そう言って、すぐ近くの部屋に律花を招き入れた。
部屋の中にも、侍女は居なくて律花は不思議に思う。この女の人は、身分が高そうな着物を着ているのに、実際はそんなに身分が高いわけではないのだろうか? 身分が高い人は、千鶴姫のように世話をする侍女をつけるのが普通だというようなことをいつか彰が言っていた気がするのだが。実際、朝熙などにも小姓がいる。
そんな律花の疑問に気が付いたのか、女性は笑って言う。
「人に色々としてもらうのは苦手で、侍女は最低限の時以外はつけて頂いていないの」
嫌味のない、サッパリとした話し方。
戸惑う律花を尻目に、女は自分の部屋の箪笥を開いて言う。
「その男装は、趣味なのかしら?」
男装だ、という事に気がつかれたのにも驚いたが、律花は慌てて首を振る。
「私は朝熙様の小姓なので、この格好をしないといけないんです」
その言葉に、女は箪笥を閉めて、首を傾げる。
「それじゃあ、私の着物を貸すというわけにも行かないわね」
そう言ったと思ったら、突然よく通る声で「北見」と廊下に向けて呼んだ。
しばしの沈黙の後、障子に人影が映り「お呼びになりましたか?」と声が聞こえる。
「入って」と女が言うと、障子が開き、二十代半ば程の落ち着いた雰囲気の男がしかめっつらしい顔で部屋に入ってきた。
「何度も申し上げておりますが、あのように私を呼びたてるのは……」
「火急の用事なのよ。今すぐこの子に合うような男物の着物を持ってきて頂戴」
「その娘は」
北見、と呼ばれた男は律花に視線を注ぎ驚いた顔をしたが、「早く」と女が畳み掛けるように言うと、一礼して部屋を出て行った。
女は律花を振り向き「少し待っていてね」と言うと、側に置いてあった急須に手ずから茶葉を入れ、お湯を注ぎ、お茶を出してくれた。その鮮やかな手つきに見とれてしまう。
「私は志摩というの。さっきのは北見よ。……あなたは、律さんね」
その言葉に律花が驚く顔をすると、志摩は苦笑した。
「そんなに驚かないで。あなた、結構有名だもの」
「有名?」
律花が問いかけると、志摩は頷く。
「時柾様のお気に入りだったり、殺されそうになったり、朝熙様の小姓だったり。噂が絶えないわ」
「はあ」
なんて答えて良いのか分からずに律花が戸惑っていると、北見の声が聞こえて、志摩は障子を開けて北見から着物を受け取った。北見は、そのまま一礼をして去ってしまう。
志摩がそれを律花に渡してついたてを立ててくれたので、律花は急いで着替えた。
濡れた着物をどうしようかと思って持っていると、志摩が「また後で取りにいらっしゃい」と引き取ってくれた。
律花が礼を言って部屋を出ようとすると「ちょっと待って」と引き止められる。
「朝熙様の所ならば、私では駄目ね」
志摩はそう呟いてから、また「北見」と呼ぶ。うんざりとした顔で北見が姿を現した。
「今度は何ですか?」
「この子を朝熙様のところまで送って行って弁解してあげて、この子が遅れたのは私のせいだって」
その言葉に慌てたのは律花だった。
「だ、大丈夫です。慣れてますから」
「駄目よ」と即座に切り捨てて、志摩は北見に畳み掛ける。
「ね、貴方、朝熙様に気に入られているんだし」
北見は諦めたように息を吐いた。眉間には深い皺が刻まれている。
「わかりました。では、付いてきてください」
律花に向かってそう言って、すたすたと歩き出す。
戸惑った律花だが、志摩が「行け行け」と手を振って身振りで示すので「有難うございました」と志摩に礼を言うと、慌てて北見の後を追った。
北見は朝熙の部屋に着くまで始終無言だった。
朝熙の部屋についても、口数もさほど多くなく、淡々と話す。だが志摩の言った「北見は朝熙に気に入られている」という事は確かだったようで、その日は律花は北見が去ったあともお咎め無しだった。
だが、そんな事があっても、日常に戻ってしまえばまた変わりない。
そうそう都合よく何度も志摩と遭遇する事もないわけで、律花には相変らず嫌がらせが続いていた。




