第二章 4話
それからまた、数日が過ぎた。
三回に一回くらいの割合では律花の張った罠に動物がかかることがあり、他の日はねずみで我慢してもらっていた。ジンも大分、野生の勘を取り戻してきたらしく、今では自身で兎を殺す。
律花が自ら兎を捕って与えるようになってから、少し、ジンの態度が軟化した。噛み付いてくることがなくなったのだ。
少しは自分の事を認めてくれたのかと、律花は喜んだ。
仕事の方も大分慣れ、彰の他にも何人かの下男と親しくなった。気さくに何かを話しかけてくれ、時々仕事を手伝ってくれたりもする。
そんなある日の事だった。
律花が馬に飼葉をやっていると、バタバタと下男の1人が駆け込んできた。
「伝令。朝熙様が出陣なさる。今すぐに用意を」
男はそんな事を叫びまわって屋敷内を駆け回っている。
「出陣?」
律花がキョトンとしていると、いつの間にか側にいた彰が困ったような顔で言う。
「また木野との小競り合いだよ。きっと木野がまた攻めて来て、この屋敷が一番戦場に近い場所にあるから、すぐに対応できるだろうと言って、任命されたんだろうね」
「でも、この屋敷にはそんなに人はいませんよ?」
律花が言うと彰は頷く。
「そうだね。召集をかけたそうだからじきに続々到着するだろう。でも、何しろ急な話だから、今出られる人数を掻き集めてでも、足止めするんじゃないかな」
そして、独り言のように「朝熙様もお父上に好かれていないからなぁ」と言った。
そうして、律花の顔を覗き込む。
「律も覚悟しておいた方が良いかな。俺達も足軽として借り出されるかもしれないよ」
彰の予想は当たった。律花たち下男も荷物持ちなどの要員として戦に駆り出されることが伝わったのはすぐ後だった。大きな荷物などを持たされ、馬に乗った侍や、その後ろを歩く、鉄砲を担いだ足軽に続いて歩く。
「雲行きが怪しいね」
重い荷物にへこたれそうになりながら必死に律花が歩いている横で、律花の倍もの荷物を持っている彰が平然とした顔で呟く。この場合、雲行きは状況のことではなく、本当に天気が悪くなってきた事を指すのだろう。なるほど、言われてみれば空に黒い雲が立ち込め始めている。
「また、木野はこの戦法で来たのか」
「戦法?」
律花の問いかけに彰は頷く。
「木野の殿様はどうも、神憑り的なんだよ。木野には優秀な巫女がいるらしくて、その人が天候を読むらしい」
そう言いながら、顔をしかめて渋い顔をしている。
「天候を読んでどうするんですか?雨が降れば有利になるとか?」
律花が怪訝そうに問いかけると彰は首を振る。
「いや、連中が待ってるのは雨じゃない。……今、向かっている戦場になるであろう平原はね、神鳴がよく落ちるんだ」
「雷?」
律花は首を傾げた。
「戦場になるんだったら雷が落ちたらお互い不利でしょう?」
「普通は、そうだよね」
彰は頷きながら言う。
「だけど、木野の殿様は普通じゃない。自分たちには神が味方しているから雷は自分達に有利なように働くと信じているんだ」
「信じていたって実際は……」
律花の言葉に彰は肩をすくめる。
「実際は、木野の者にも被害は出てるんだろうけど、それでもやはり神鳴になって困るのは篠田だね。奴等は神が自分たちの味方だと思っているから神鳴を恐れない。だから、統率が乱れない。それに比べて篠田の兵はやっぱり、恐れてしまうからね」
「なるほど」
改めて見上げた空は、目に見えて真っ暗になっていく。
「神鳴が来る前にケリがつけばいいけどな」
憂鬱そうに彰がため息をついてそう言った。
平原の向こう側でずらりと兵が並んでいる。次第に暗さを増す空の下で、お互いの軍勢が睨み合う形で揃った。
「やはり、向こうは準備万端だな」
彰の言葉に律花も無言で頷く。
ずらりと並ぶ兵たちは遠目に見えるだけだが、銃や弓を構えてこちらに向けている。
戦いの火蓋が切られたのは、律花たちが到着してからまもなくだった。
相手方の銃声を合図にお互いの兵が次々と原の中央へ躍り出て入り混じる。
辺りは蹄の音や馬の嘶き、それに人々の咆哮や刃の交わる音や銃声で恐ろしいほどの騒ぎになった。土埃が舞い上がって戦場の光景を霞ませるのが、離れたところに待機している律花にとって唯一の救いだった。
それでも、入り混じる人と人の中で飛び散る赤いものが容赦なく視界に入ってくる。
自分がいた世界ではTVや映画でしかお目にかかったことの無いような光景。律花は目を覆った。とても、見ていられるものではなかった。
だが、目を瞑ってやり過ごせるものではなかった。それが起きたのは戦が始まってからしばらくしてからだった。
「圧倒的に兵が足りない。お前たちも参加せよ」
そう、伝令が来たのだ。
手に配られた長槍の重みを呆然と感じながら佇む律花の横で彰がくるり、と軽々と槍を振って「しょうがないな。面倒くさいけど、やるしかないか」などと言って今まさに戦いが繰り広げられている場所へ向かって行く。
二、三歩進んだところで、いまだ足の動かない律花を振り返って笑う。
「ほら、律も行かないと怒られちゃうよ。……お互い、武運があったら、また会おうね」
そうしてにこりと笑ってそう言うと、さっさと歩いて行ってしまった。
律花は途方にくれて戦場を見る。
―――ほら、また血飛沫。
戦場では先ほどから断末魔や血飛沫や、そういう死の臭いが立ち込めている。
―――私が、あの中へ?
とんでもない、と思った。どうしてあんな恐ろしいところへ行けようか、と。
凝視していたら吐き気がしてきた。絶対に、普通じゃない。人がまるで人ではないように死んでいく。
ぐらり、と視界が揺れ、倒れそうになる。ここでこうして立っている間に、戦いが終わってくれないだろうか。そんなことを考えたが、そんな甘えは許されなかった。
背後から、野太い声がする。
「おい、お前、何ぼーっと突っ立ってるんだ。早く行け」
声とともに、太い腕に掴まれて、どんどんと戦場の只中へと引きずられていく。
段々と近づいてくる砂煙と刃物と血飛沫の世界が恐ろしくて、必死に抵抗するが、男の腕はびくともしない。それどころか、大儀そうに投げ飛ばされた。
飛ばされた先はすでに、戦場の只中。
地面に擦った腕から血が滲んでひりひりと痛んだが、それどころではなかった。
慌てて起き上がるも周囲の人だかりに押されて逃げ出すなどと到底できそうに無い。元より戦う気などこれっぽっちもなかったが、長槍もどこかに落としてしまっていた。
顔を上げた刹那、律花の顔のすぐ側を熱いものが横切る。
何かと確認したときは、すでに律花の背後にいた人物が喉から血を流して倒れていた。その喉からは、うっすらと煙が立ち昇っている。
律花は恐怖で凍りつく。
矢が何本も刺さった人が倒れている。苦しそうに呻いては、助けを求めるように手を上げる。
その手が、律花を捉えようとした時、律花は思わず、逃げるように走り出していた。
―――あの人は、生きているのに。
逃げてしまった自分に、胸に苦々しいものが広がっていくのを感じるが、それでも戻る気になれない。罪悪感がじくじくと胸に広がる。
そうして走っている間にも、時折、体のすぐ側を矢や弾丸が掠める。
恐怖で気が狂いそうだった。
―――どうして、私がこんな目に合わなくちゃいけないの。
人が倒れるのを見るたびに、血飛沫が自分に降りかかるたびにそれを心の中で絶えず繰り返しながら、逃げ回るしかなかった。
舞い上がる砂煙が口に入るのも気にせず、口で荒い呼吸を繰り返しながら走る。
皮膚にいくつか何か鋭いものが掠めた気がしたが、気にしている余裕はない。もう、ただ、自分が生き延びることしか考えられなかった。
突然、何かにつまずいて律花は転んだ。
慌てて起き上がって、自分がつまずいたものを目にして、絶句した。
そこにあるのは、かつては人だったものだろう。だが、首から上が無い。
律花は金切り声を上げて叫んでいた。
もう、耐えられそうにない。
そう思った瞬間、突然辺りに、轟く音が響いた。
大きく空気を揺るがすその音に、一瞬、全ての者が天空を見上げた。
いつの間にやら空は真っ暗になっていて、ばらばらと、雨が降り始めていた。
「神鳴だ」
側にいた誰かがぽつりと呟いた。
雷の音に驚いたのか、侍たちの乗っている馬がいくらか騒いだが、流石に手馴れているのか、その程度で落馬する侍はいなかった。
雨はだんだん酷くなり、容赦なく体を打つ。ぴかり、と空が光った。
律花は雨に打たれた事で、少し落ち着きを取り戻す。
体から洗い流される誰のものとも知れない血を見ながら、大きく息を吐いた。
パニックを起こしてやみくもに走り回ってしまったが、余計な労力を使ってしまった。
周囲を見渡すと、一瞬は雷鳴のために止まった戦は、また、再開されている。
―――逃げよう。
やみくもに走り回るのではなく、考えて歩けば、すぐにこの戦の輪から逃げ出せるはずだ。
そう考えて周囲の様子を見る。人ごみでよく見えはしなかったが、どちらかに直線状に進んでいけば、この人ごみの外には出られるだろう。
深呼吸して覚悟を決めてから、駆け出した。周囲の混乱をなるべく見ないようにしながら。
しばらく走った時、突然、辺りに先ほどとは比べ物にならない程の大音響が響き渡った。大地をつんざくような低い、腹のそこから突き上げるような重みのある音。同時に、眩い稲妻が走る。
律花は驚いて足を止める。
あまりの音に鼓膜の奥でわんわんと耳鳴りがする。音の衝撃だけで、体が痺れた。
わ、と人ごみが乱れる。馬が暴れ、侍が振り落とされる。
―――雷が、落ちたんだ。
どこからか、異臭が漂ってくる。
「侍が一人やられたぞ」
そんな声が伝わってきた。
戦場はもう、パニック状態だった。なるほど、彰の言った通り、確かに動揺しているのは篠田の兵たちが多い。次々と逃げ出そうと敵に背を向けて走り出す。そこを、相手に衝かれる。
混乱の人ごみの中、馬に蹴られたり人に踏まれて倒れる者も多い。
逆に敵方の方を見てみれば、雷が落ちたことでかえって士気が高められたかのように先ほどよりも勢いづいている。
逃げ惑う人々に揉まれながら、律花もなんとか逃げようとする。
その時、ふと目の前に馬が現れた。
律花が顔を上げると、暴れる馬を手綱で無理やりに乗りこなし、律花を見下ろす男の姿があった。その、狡猾そうなキツネ顔には見覚えがある。
―――朝熙様の家来だ。
家来、というより取り巻きのように見えた。いつも朝熙の顔色を伺って、朝熙に気に入られようと媚を売っていた印象しかない。残念ながら、効果はあまり見受けられないようではあったが。
その男が逃げようとする律花の前に立ちはだかっている。
律花が迂回しようとすると、男は馬から飛び降りて律花に刀の切っ先を向ける。
「まだ生きていたのか、小僧」
妙に甲高い声で言ってにたりと笑う。
「もし、生きているのなら戦場のどさくさに紛れて殺してしまえ、と朝熙様がおっしゃってたんでな。遠慮なくそうさせてもらう」
律花は目を見開く。まさか、この期に及んでまだそういうことが起こるとは思わなかった。
動くこともできなかった。閉じることもできない視界に刀を振り上げる男の姿が映る。
その時、律花の瞳に焼き付いたものは、後々まで律花を苦しめた。
まるで、スローモーションのように鮮明にゆっくりと、律花はそれを見ていた。
振り上げられた刀。
目が潰れるかと思うほどの激しい雷光。
体を裂かれる様な大きな雷鳴。
稲妻はまるで定められたように目の前の刀へと降ってきた。
眩い白光の光の中で、それでも律花は男の焼かれる姿を見た。何かを叫ぶように口を大きく開けて、苦悶の表情を浮かべた真っ黒な影。
光が収まっても、律花は動けずにそこに棒立ちになっていた。
目の前では黒い塊が雨に打たれて白い煙をあげ、ぶすぶすと音を立てながら異臭を放っている。
耳の奥が、ガンガンと鳴って周りの音は何一つ聞こえなかった。
目も、あまりに眩い光の余韻で、よく物の形をつかむことができない。目の前が白い霞で覆われているような感じで、絶え間なくチカチカとする。
周囲の喧騒も聞こえなくなって、律花はただそこに立っているしかできなかった。
たった今見た光景は、あまりにも衝撃的で、そのショックで思考が止まってしまったようだった。




