第二章 3話
「……また、あの夢」
流石に、もう慣れてきた。律花は溜息と共に、硬い布団から起き上がる。
―――今回は、修羅場だったな。
思い出してみてげんなりした。
さっぱりしようと井戸に顔を洗いに行く。冷たい水で顔を濡らすと気持ちがよかった。
「おはよう、律。早いね」
そんな言葉が背後から聞こえて、律花は振り返って微笑む。
「おはようございます。彰さん」
厩に来てから数日が経った。
最初は戸惑った。なにせ、部屋も一応個室だが、粗末な所に移されるし(それでも、下男は大広間でごろ寝が多いらしいので、これはどうやら柏の気遣いらしいが)、早朝から起きて、ヘトヘトになるまで重労働の仕事と言う過酷とも言っていい毎日だった。しかも、律花は慣れていないし、体力もない。何度も失敗しては怒られた。
それになにより、これが一番戸惑ったのだが、ジンの餌を恵んで貰えなくなったのだ。
ジンは肉食なので、獣の肉を与えなければいけないのに、律花に出される食事に肉が出ることなどまったくなかった。
初めの日にどうしようかと悩んだ律花の目の端に移ったのは、丸々と太ったネズミだった。ネズミならば一応は肉という事になるのだろう。素手でネズミを捕まえるのには、かなり抵抗があったが背に腹は変えられない。
律花は仕事が終わった後の、へとへとの体でちょこまかと駆け回るネズミを追った。
だが、そんなことで捕まるほどネズミも馬鹿ではない。律花の意図に気付くとすぐに、さささ、と素早く壁の隙間に入り込んでしまった。
律花は恨めしげに這いつくばって、穴を覗き込む。
「そーんなやり方じゃ、捕まるわけないよ」
その時に、不意にそんな言葉が聞こえて律花は慌てて立ち上がり、振り返った。
声の主は、まだ若い青年だった。八尋よりも2、3年上だろう。すらり、と背が高く、感じの良い笑顔でにこりと微笑む。
「この屋敷には、ネズミ捕りがしかけてあるから、それを貰ってきた方が早いんじゃないかな」
「それってどこに仕掛けてあるんですかっ?」
勢い良く尋ねる律花に、クスクスと笑って、青年は歩き出した。
「ついておいで。一緒に行ってあげよう」
それが、彰との出会いだった。
彰の協力を得て、どうにか手に入れたネズミは、どうやらあまりジンのお気に召しはしなかったようだが、それでも空腹には代えられないらしく、不服そうに口に運んだ。
「今日は昨日の夜、罠を仕掛けておいたところを見てくるといい。きっと掛かっているよ」
彰はやはり、律花と同じで、最近ここの下男になったのだと言う。そのせいで親しみを感じるのか、律花の事は、可愛がってくれている。昨日は仕事の後に、兎捕りの罠の張り方を教えてくれたのだ。
律花と彰は二人で、屋敷から少し離れた、昨夜罠を仕掛けた所に行ってみる。
罠は、全部で5つ仕掛けたのだが、4つはなにも掛かっていなかった。その4つは、律花が仕掛けたもので、最後の1つは彰が見本に見せてくれたものだ。そして、その最後の1つにだけ、兎が掛かっていた。
肩を落とす律花を笑顔で励まして、彰は言う。
「ジンにはそのままやると良い。彼も自分で狩れるようにならなくてはいけないから」
その言葉に、律花は、戸惑った。
手の中の兎は生きていて、温かい。抱いた手の辺りに心臓があるのか、コトコトと、鼓動が伝わってくる。
昨日まで貰っていたネズミ捕りのネズミは死んでいた。
生きている生き物を与えるのは、初めてだ。しかも、手の中の兎は、小学校の頃、飼育小屋で飼っていたような可愛い兎だ。
彰に肩を押されるような形で、ジンを繋いである木まで行く。
ジンはいつもと同じ、不機嫌な顔で律花が来ると唸った。
「ほら、鎖が届く範囲に放して」
律花が動けずにいると、彰が促すように言う。それでも、自分は何もせずに見ているだけだ。律花が自分で動くのを待っている。
―――わかっている。ジンが生きるためには、他の生き物を殺さなきゃいけないことくらい。それは。必要な殺しだってことも。
普段、自分達が食べていた豚肉や牛肉だって生きているのを知っていたはずなのに、それでも、実際目の前で動いているものを食べ物だと考える事はできなかった。
普段は牛や豚が殺されるところなんて想像したこともなかった。わかっているつもりで、全然わかっていなかった。こうして温かい、血の通ったものが殺される瞬間。肉、と言われて即座に思い出すのはこんな姿ではなくスーパーで売っているような、切り身になって発泡スチロールのパックに入って陳列されているものだ。
「律―。仕事が始まっちゃうよ」
彰が更に急かす様に言う。その声に押されるように、律花は震える手でのろのろと地面に兎を置いた。
すぐにジンが飛び掛るが、兎の方が早かった。ぴょんぴょん、と跳ねて、素早く逃げてしまう。律花は慌てて追うが、どうしても、その動きは遅くなってしまった。内心で、捕まえられなければ良い、と思ってしまっているせいだ。
「しょうがないな」
ひょい、といつの間にやら兎に追いついていた彰が兎を抱き上げる。
「ジンはやっぱり、カンが鈍ってるよ。今日はもう時間がないから、律が殺して与えてやるしかないな」
その言葉は、更に律花にとって衝撃的なものだった。
―――私が、兎を殺す?
彰は何かと便利なのでと言って普段から持ち歩いている短刀を律花に渡す。
「一突きで殺してやった方が苦しまなくてすむからね。心臓か首を狙いなよ」
にっこり笑いながら言う台詞とは思えない事を言って兎を律花に差し出した。
律花は手が震える。短刀が、手から滑り落ちた。
―――頭では理解していても、そう簡単に出来るものじゃない。
「律、落ちたよ」
言われても拾う事もできない。
顔面蒼白で硬直している律に、彰は溜息をひとつついてから、諭すように言う。
「ジンを育てるって決めたのは律なんでしょう?こうして君が餌を与える事ができなかったら、ジンは死んでしまうんだよ?ジンにとって律は母親の代わりなんだから、ちゃんとしてあげないと駄目だよ」
律花はジンを見る。全然懐いてくれないし、可愛げもない。それでも、自分は育てることに決めたのだ。
たとえ、『育てる』ということが、真実どんなものだか分かっていなかったとしても、そう宣言したのは自分だ。八尋の反対も押し切って。
律花はのろのろと屈んで短刀を取る。
つぶらな兎の瞳が痛い。目を瞑ろうとしたら、彰に止められた。
「駄目だよ、律。ちゃんと見ていないと狙いが定まらない」
その言葉に、覚悟を決めて向き合う。
―――そうだ。ちゃんと向き合わないと。
向き合って、自分がしたことの重さをちゃんと認識して。そうして感謝しなければいけない。ジンの血や肉になってくれることを。
律花は短刀を振り上げる。
柔らかい肉を刺す感触、ビクリと大きく波打った兎の体、血が手を濡らす感触を、この先ずっと忘れられそうにない、と思った。
いまだ温もりの残る兎をジンの前に差し出す。
ジンが兎を貪る様は、とても見ていられるものではなかったけれど、それでも見なくてはいけない、と思った。
ジンが訝しげに兎の血にまみれた顔を上げ、律花の顔を見た。
それでようやく、律花は自分が泣いていることに気づいたのだった。




