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一章 運送会社ととてけ

「善きサマリア人は引き籠もるしかないのか」




                             国木田 真吾






 ー或る人、エルサレムよりエリコに下るとき強盗にあひしが、強盗どもその衣を剥ぎ、傷を負はせ、半死半生にして捨て去りぬ。或る祭司たまたま此の途より下り、之を見て彼方を過ぎ往けり。又、レビ人も此れにきたり、之を見て同じく彼方を過ぎ往けり。ー




一章 運送会社ととてけ




 キーを差し込んで、手首を捻った。それでもエンジンはうんともすんとも言わない。馬頭一徹はもはや気にも留めなかった。このオンボロジープを手に入れて以来、一発で始動出来た試しが無かったからだ。


 しばらく何度かエンジンの始動を試してみる。キュルキュル、という中古車特有の、聞いているだけで運転手の方の頭のバッテリーが上がりそうな音がして、ようやく振動があった。始めに油圧を見て、それからガソリンの残量を確認する。


 今日回るはずの配達先の道順を頭の中で描いてみて、これならギリギリ大丈夫だろうと考えた。車庫からジープを道路にだし、事務所のシャッターを閉める。馬頭はこの一連の作業を何も考えないまま行う事が出来た。試しに夜中に電気も付けず、車庫入れをやった事がある。さしたる気後れもせず、ジープは一発で車庫に吸い込まれていった。


 シャッターは開けっ放しにして、ジープの運手席へと戻る。運転座席のシートに収まって、右手のドアを閉めた。バイン、という軽いのか重いのかよくわからない、独特の音がする。すると、今度は助手席の方から声が掛かった。


「ねぇ、ちょっと、もっとゆっくり閉めてよ。暖房が逃げちゃうじゃない」


 女の掠れた声がする。馬頭はわざわざ返事を返す事はしなかった。この女、名前は物部京(けい)という、には恐らくどんな気遣いをしても徒労に終わるであろう事を知っているからだ。同僚、一応は馬頭の仕事上の相棒に当たるであろう彼女だが、彼自身、物部からおよそ女性らしい愛嬌というものを感じた事は無かった。容姿はザンバラ頭に、フレームの厚い眼鏡を掛けている。もうすぐ冬だと言うのに、服装は年中を通して上下でジャージだ。おかげで鼻筋の通った顔立ちも、決して悪くないスタイルも、すべてぶち壊しだった。年齢の方もはっきりしなかった。顎のラインが細い割に、目がきついので、十代と言われればそうかと納得するし、もうすぐ三十路だと言われても違和感は感じないだろう。




 彼女の顔は今、自分のひざ掛けの上に置かれたラップトップの画面に釘付けである。文句を言うにも相手の方を見ようともしない。彼女自身に悪気がある訳ではない、ただ、思った事が何でも口から出てくる性格で、その一言が余計なだけである。馬頭の方もそれはわかっているので、仕事中は業務上の必要最低限の連絡しかしないようにしている。特にこのスタンスで車内の雰囲気が悪くなるという訳では無かった。精々が、馬頭の頭のバッテリーが少し上がる位である。


「今日は千葉から始まって、津田沼の方に抜ける。荷物は全部で6件、帰りは出来れば高速に乗りたい。道が混んでなきゃ、昼過ぎには帰れる。何か問題はあるか?」


 馬頭はそう言ってからバックミラー越しに後部座席を見た。後部座席は座席を全部取っ払って、荷物が置けるようにしている。ダンボールが6つ、無造作に置かれてあるのを確認した。隣から声がする。


「あれ、じゃあ返ってくるのって、昼過ぎになるの? 私、今日荷物届くんだけど、どうしよう?」


 知ったこっちゃあない、自分で営業所にでも何処へでも取りに行け。そんな言葉がのど元まで出掛かった。ニュートラルを一速に入れて、アクセルを踏み込む。鈍い排気音を立てて、旧式のジープは動き出した。




 馬頭一徹がこの商売を始めてからはや二年になる。簡単に言ってしまえば、個人事業主による配達サービスである。この手の業種にしては、短いと言えば短いし、長いと言えば長い、そんなキャリアだった。規模の小さい同業者を挙げるなら、弁当屋の卸販売から、それこそ奇天烈な健康器具を売りつけて回る所まである。もう少し規模が大きくなれば、大手宅配便会社が手の回らない配達の穴を、補助的に埋めるような所もあった。だが、馬頭自身、この業務内容はその何れにも当てはまらないように思えた。というのも、今、自分達が運んでいる荷物、そしてその届け先というのが少々特殊だからである。


「ねぇ、馬頭さん。ちょっと一服したいんだけど、ダメ?」


 案の定、午前中の国道は中途半端に混んでいた。物部が片手だけで喫煙の仕草をしてみせる。彼女の眼は相変わらずパソコンの画面を眺めたままだ。一体、何がそんなに面白いのだろうか。


「ダメだ」「あっそう」


 馬頭がにべもなくそう返す。この車内での唯一の決まり事は、“喫煙者同士は煙草を吸わない。”だった。特に銘柄が違った場合は絶対である。喫煙者ほど、タバコの嫌いな人種もいない。他人が吸って吐いた煙が死ぬほど嫌いなのだ。馬頭自身そうだし、恐らく物部自身そうである。快適な車内環境を維持するためにはお互いの気遣いが必要なのだ。




 信号待ちで馬頭と物部は少しの間見つめ合った。色気の欠片も無いので、睨み合う、の方が近かかったのかもしれない。物部はすぐに降参のポーズを見せて、嫌な顔一つ見せず、手元のパソコンに意識を戻していった。意外に思えるかもしれないが、悪態を付く事も無ければ、妙にごねる事も無かった。物腰や言動のせいで誤解されやすいが、彼女は決して性格が悪い訳では無いのだ。よって他人様の領分に土足で入ってくるような真似もしない。だから、狭い車内で二人きりでも息が詰まる事もないのである。一見、トラブルになりそうに見えても、ちゃんと向き合って話をすれば、逆上する恐れもない。〝自分達”はそういう人種なのだ。最近ではそう思うようにもなった。


 そろそろ、一件目の配達先が見えてくる頃だ。馬頭はニコチン不足の頭でなるべくスムーズな駐車を思い描く。ダッシュボードにはA4の用紙の束が紐で閉じられてあった。今から行くのは、そのリストの三枚目の、上から十四番目の住所だ。通称、“ブラックリスト”。運送業界では割と有名な話であった。




 ピンポーン、と安っぽい音がする。馬頭は今、ダンボールを一箱、脇にかかえてアパートのドアの前に立っていた。軽量鉄筋のモルタル建て、一目で安普請だと分かる。壁にはひび割れが至る所に顔を出し、ご丁寧にも蔦がその上を覆う始末だった。そんな二階建てアパートの二階の端にあるのが配達先の部屋である。さっき馬頭がインターホンを鳴らしたのもこの部屋だ。


 五分が経過した、普通なら帰っても良い頃合いかもしれないのに、馬頭はそうしなかった。代わりに呼び鈴を無造作に連打する。それから胸元のポケットから煙草を取り出し、火を着ける。そして、彼が一本吸い終わる頃、ようやく玄関ドアの向こう側が騒がしくなった。ガチャガチャ、とチェーンを弄る音がする。馬頭はドアが開く寸での所で、煙草を欄干の隙間から外へと投げ捨てた。


「やぁ、薬師寺さん。おはよう、今日も元気そうで何よりだ」


 馬頭はチェーン越しに相手と目が合った。部屋の中は薄暗く、午前中だと言うのに光源が一つもない。それでも、ぎらぎら光る眼だけは見間違えようがなかった。間違いない、彼女だ。さっきの金属音はドアチェーンを外していたのではなく、掛かっているのかを確認していたのである。しばらく二人は無言で見つめ合った。見つめ合う、と表現する他ない。薬師寺と言われた方は言葉を発するではなく、ただじっと馬頭の顔を見ているだけ、対する馬頭は満面の作り笑いを浮かべたまま身じろぎ一つしない。そんな状態がしばらく続いて、唐突にドアが閉められた。馬頭は壁に突いた自分の指がドアとの間に巻き込まれないように細心の注意を払う。初めて“彼女”の元に配達に来た時は、これで二週間、右手指先が腫れあがる羽目になった。




 カチャカチャ、という金属音がする。今度は本当に外しているらしい。そして、ようやくその扉が開いた。


「・・・いらっしゃい、馬頭さん。よく来たわね・・・」


 そう言って彼女は口の端を限界まで持ち上げてみせた。おそらく、笑ったのであろう。腰まで伸びた髪の隙間から、大きく開いた切れ長の口と色白の肌が見え隠れする。とどめにこの薄ら寒いこの季節に着ている、半袖のワンピースから突き出た、むき出しの彼女の腕を見れば、大抵の人間は目を背けるだろう。至る所に注射針とリストカットの痕が嫌でも目に付いた。前に来た時と比べてまた増えている、と馬頭は思った。このダンボールの中身も想像するまでもないだろう。アハッ、薬師寺と呼ばれた女はそう言って笑った。今度は笑ったのだとわかった。薬師寺鏡子、それが彼女の名前である。少なくともリストにはそう記載されていた。




 “リスト”とは彼女のような、普通の大手宅配業者が音を上げた、曰くつきの顧客をリストアップしたデータの事を指し示す。今日日、別段、珍しい話でも無い。2025年現在、資本の一極化がそれまで以上に進行した結果、民間の大手宅配会社の垣根は取り払われてしまった。看板は違っても、元を辿れば同じ根っこという訳だ。そもそも、この“リスト”の原型を作ったのは銀行員である。青色・黄色・赤色、ときて最後はブラックになる。その顧客がどれほど面倒で、〝危険〟であるかを表す色分けである。一度、“グレード”が上がると、それは生涯下がる事は無かった。横には国民番号まで付随しているのだから、多分それは確かなのだろう。視覚的には大変分かり易い。恐らく、このリストを製作した銀行員は大層有能なのであろう、と馬頭はリストを初めて見たときに感じた。目の前に現れたら、二度と動かなくなるまで殴ってやりたくなるタイプだ。


「ねっ、今日は上がって行ってよ。馬頭さん、お仕事、そっ、そんなに忙しくないんでしょう?」


 今、馬頭の目の前に居る薬師寺は赤色、すなわち大変危険である、に分類されていた。補足説明には、配達員に注射器で襲いかかった、とある。恐らく、客観的事実だけを明記すれば、それは本当の事なのだろう。劇薬を打ち込まれた配達員は泡を吹いて倒れたらしい。


「いや、申し訳ない。まだ配達が残ってますんで。せっかくのお誘いですけど、どうかご勘弁を」


 馬頭が彼女に配達を行うようになってからは、特にトラブルらしいトラブルは一度もない。精々、指を挟まれた程度だ。それどころか、薬師寺は馬頭の事を認めたのか、気に入ったのか分からないが、最近はこうして、度々、部屋に馬頭を招き入れようとする。


「えっ、ええ!? つれないなぁ〜、今日っ、は良いのが入ってるんですっ、よー?


嫌な事なんか、どっか、飛んでっちゃいますよー。ね、良いでしょう?」


 ほら、と催促してくる薬師寺に馬頭はやんわり断りを入れた。所々、くしゃみのような引きつけを起こすのはドラック中毒の症状である。彼女の滑舌が悪いわけではない。馬頭がその気が無いとはっきり口にすると、薬師寺は案外簡単に引き下がった。


「・・・じゃ、また、気が向いたときに来て下さい。ほっ、ホントですよ」


「あぁ、ホントにどうも。じゃあ、また」


 アパートの扉が閉まった。再度、ガチャガチャとチェーンが掛けられる音がする。馬頭は安普請のアパートの階段をブーツの音を響かせながら降りてゆく。今どき珍しい短めのオールバックを、ピッチリと後ろに決めた男の姿がそこにはあった。後頭部をポリポリと掻いている。腹は出ていない、背は百八十に届かない位である。浅黒い肌に年季の入ったジーンズとジャケット、一年を通して馬頭がその装備を変えることは基本的には無かった。その容貌は、何となく馬を彷彿とさせる。馬頭が単純に少し馬面だからという訳ではない。もちろん面長ではある、だがそれを差し引いても、馬頭の顔立ちは、癖はあっても、整っている部類に入った。それよりも、全身から醸し出す雰囲気の方が印象としては強い。筋骨隆々というほどではないが、ジャケットを通してでも締まった体つきをしているのが見て取れる。その佇まいが、ある種の野生馬、マスタングでも前にしたような、粗野な印象、あるいは、粗にして野だが、非では無い、そんな印象を相手に持たせる。そして、それは馬頭一徹の性格をよく表していた。




 馬頭は階段を下りきった時に再度頭を掻いた。見ると先程、自分が捨てた吸い殻が地面に転がっている。それを排水溝の方に蹴ってやると、隙間から排水路に落ちて見えなくなった。今頃、薬師寺の意識は、アンドロメタ星雲の彼方まで吹っ飛んで行っているであろう。あるいは有史以来の生命の起源でも遡っているのだろうか。人によっては悪くない話に聴こえるかもしれないが、いずれにせよ、薬が切れる頃にはほとんど忘れてしまうのだ、夢と同じである。特殊相対性理論級のアイディアを天から授かる頃には、恐らく五臓六腑、特に肝臓と腎臓がイカレてしまい、世紀の傑作はあの世で書き上げる羽目になってしまう。クスリに頼るのは、あまり生産的とは言い難かった。




 一瞬、あのドアの前まで駆け戻り、ドアを蹴破ってから、あのヤク中女を頭から風呂桶に突っ込んでやろうか、と考えた。それから、更生施設の職員を呼びつけて、引き渡してやれば良い。だが、止めた。馬頭は麻薬中毒の患者がどんな待遇を受けるか知っていた。刑務官の憂さ晴らしにサンドバックなるのを承知で引き渡す訳にもいかない。更生施設の方も怪しいものだ、だいたい、金が無ければ入れない。審査に弾かれれば刑務所にぶち込まれる。薬師寺の懐具合もわからないのに、差し出がましい真似も出来ない。そもそも、保証人だって居るのかどうか怪しい。馬頭は軽く薬師寺の部屋の方を振り返ってみた。来た時と同じ、何の変哲もないオンボロアパートの薄汚れたドアが見える。馬頭の顔が僅かに歪んだ。それも一瞬の事である。すぐに、停車してあるジープの方へと踵を返していった。








—どうしてこんな因果な商売を始めたのか、自分でも上手く説明できない。


「・・・どしたの、何かあった?」


 無言で運転席に収まる馬頭に物部がそんな声を掛けてくる。相変わらず視線はラップトップの画面に注がれたままだ。


「—いや、特に、何も」


 一体、いつこちらの方を窺ったのか。馬頭は少し不思議だった。バルチサンの訓練も受けていないのに、時折、こうして、こちらの所作を見透かしてくる。この同僚は配達先で何かあった時、あるいは馬頭が何か思う所が有った時、必ずといって良い程、こんな風に一言、何かしらの気遣いをしてくれる。表情を顔に出さなくても同じである。生来、口下手な馬頭にとって、どう反応して良いのか判らない時がたまにあった。有り難い話だが、今となっては、特に意識する事も無くなっていた。これから回る配達先も、それからさっきの薬師寺も、似たような感じだからかもしれない。


 言ってしまえば、常人離れした、観察力と洞察眼。それから、情報収集・処理能力の高さと先見の明、つまりは、想像力、ずば抜けたイマジネーション能力の高さとそれに由来する、危機管理能力の高さ。それが彼ら、〝モンスターコンシュマー〟と呼ばれる面々の共通項だった。




“モンスターコンシュマー”、誰が呼んだか、ブラックリストに乗る様な顧客の事を指す言葉として使われている造語だ。宅配会社の人間が、自分達では手に負えない配達先を指して、冗談半分に使い始めた。21世紀初頭に問題になったモンスターペアレントを捩った言葉である。そんな大手運送会社が音を上げた顧客、面倒な問題や厄介な騒動を起こす客相手の仕事を下請けし、代理でこなすというのが馬頭の会社の主な業務内容だった。二年前、馬頭が自身の前職にあたる自衛官を退官する際、駐屯所の端っこで、廃棄処分にされかけている旧式のジープが眼に入った。ちょうどやることが無くなって暇だったという事もある。部隊で一緒だった同僚の夢が、いつか自分のトラックを持って、会社を興す事だったというのを思い出した。




 キーが差しっぱなしであるのが、遠目からでもわかった。捻ってみると、オンボロジープはなんとか動いてくれた。壊れたから処分される訳では無く、耐用年数を過ぎたから解体してパーツにしようとしていた車体だった。この型番のジープはもう生産ラインが止まっているのでこうでもして部品パーツを流用させる他ない。馬頭は行きがけの駄賃にと、そのジープをかっぱらった。後の事は何も考えてなかった。たまたま、千葉の方に工場主が夜逃げした挙句、差し押さえを受けた廃工場があった。債権回収が縺れ、その土地と建物の持ち主が役所なのか銀行なのか消費者金融なのかはっきりしない。おかげで馬頭の雀の涙ほどの退職金でも譲り受けるのに問題は無かった。ただ、だだっ広いだけの、中はがらんどうの元廃工場。工場設備は全てサルベージされていた。最寄りのコンビニまで歩いて30分は掛かる。馬頭以外の買い手はいなかった。




 新規参入するには、運送業の、特に小口配達の敷居は高い。馬頭の元に回ってくるのは必然的に訳ありの仕事ばかりとなった。この手の同業者の数は決して少なくはない。2025年現在、職業倫理やモラルハザードなんて言葉はもはや考慮される事すらなくなってしまった。日本という国の、資本主義と共産主義の〝間の子〟のような社会システムは完成されたと言っても良かった。大企業が個人の顧客から訴訟や損害賠償請求を受けるような事例は、まず起こりえない。そのおかげか、汚れ仕事を請け負う業者の需要自体はまだそれなりにあった。ただ、そういった業者の多くはトカゲの尻尾切りのような扱いであり、経営に行き詰まり、すぐに潰れる所がほとんどだった。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返し、一昔前の産廃品業者のようなビジネスモデルが主流である中で、どういう訳か、馬頭の事務所だけは不思議としぶとかった。その商売は開業以来の二年間、特に大きな問題を起こすことも無く、委託元の大手宅配会社の人間の首を傾げさせ続けていた。




 バイン、という独特の音がして、馬頭はジープの運転席側のドアを閉めた。今日の配達もこれで終わりである。防水用の腕時計、ダイバーウォッチに一瞥をくれた。自衛隊時代から御用達の一品である。短針はまだ11時を少し過ぎた所だった。この分なら昼前には事務所に戻れるかもしれない。モンスターコンシュマーへの代理配達は、その性質上、日に何件もある訳では無い。おまけに危険手当を込みでという事で、一件あたりに委託元から支払われる単価も比較的高額に設定されているので、しゃかりきになってノルマをこなす必要もなかった。多い時でも、日に7〜8件ほどで、だいたい、昼過ぎには暇になる。仕事がない日もザラだった。




「あれ、馬頭さん。今日、これで終わり?」


 助手席の物部がこちらを見てそう言ってきた。彼女の方の仕事も、どうやらひと段落したらしい。所謂、デイトレーダーという奴だ。存在も不確かな株式とやらを、右に左に弄って遊ぶ、その仕組みは何度聞いても馬頭には良く理解出来なかった。彼女、物部然り、基本的にこのジープの助手席に座っている人間が通常業務に付き合う事は少ない。


 馬頭はモンスターコンシュマーへの代理配達以外にもう一つ副業を営んでいた。配達の中で知り合った顧客のうち、行き場の無くなった者に対して、格安の賃料の代わりに、事務所の業務の手伝いをさせる事で居場所を提供するというものである。


「あぁ、今日はもう上がりだ。飯でも食って帰るか?」


「ううん、私はお腹減ってないけど。どっちかっていうと早く帰りたいし。」


 今、隣で首の凝りをほぐしながら背伸びをしている年中ジャージのこの女も、同僚であると同時に借主、そして元顧客である。馬頭はエンジンをスタートさせながら、物部と初めて会った時の事を思い出していた。


 商売を初めてしばらくした頃、真夏の蒸し暑い熱気が、コンクリの通路に充満したマンションに配達に行った事があった。蛍光灯が切れかかっており、足元がほとんど見えやしない。目的の部屋目前で何かに蹴っつまずいた。


「何処見てんだよ、てめえ!突き落すぞ、コンダラァ!」


 見るとウィスキーの酒瓶を片手に女が蹲っている。それが物部との出会いであった。結構な迫力だったが、彼女の足元は覚束なかった。部屋の前には家財道具が一式、持ち出されていた。


 このジャージ女を壁に叩きつけて、紅色のメガネフレームをグチャグチャにしてやろうかと馬頭は一瞬、思案した。だが、部屋の号室を見て、止めた。懐に抱えた、中身がガチャガチャ、と金属音がやたらと五月蠅いダンボールの配達先が彼女であるとわかったからだ。ひとまずはサインを貰うまでは昏倒して貰っては困る。




 物部京がマンションを追い出されたのは、有線LANをパンクさせたのと、部屋をゴミ屋敷にしたのが原因だった。モンスターコンシュマーとしての色分けは黄色、住居移転回数が両手の指を使っても足りない。配達先の荷物が着く頃には、部屋はもぬけの殻で、何度、別住所に再配達を掛ける事になったかわからない、という補足説明がリストには付けられている。黄色のカテゴリとしては、まだ可愛い理由だった。おそらく、記載されていない補足説明がまだあるのだろう。




 結局、行き場のない物部はそのまま馬頭の事務所に居つくことになった。栄えある入居人第一号である。どうせ、広さだけは余っているのである、馬頭はそのまま、二階建ての廃工場の二階を改装し、住人が何人か住めるようにした。それから馬頭は、なし崩し的に、今の賃貸業務を続けている。


 今の所、入居者は二人、物部と、今は事務所に居るはずのもう一人だけだ。家賃収入は、物部達の分の公共料金を考えると、収支がプラスマイナスゼロになる。流石に割に合わないので、二人には時々、業務の手伝いをしてもらっていた。今、物部が助手席に座っているのも、その一環という訳だ。配達に出る時は、大抵、事務所の一階にどちらか一方がいて、何をするでもなく徘徊しているので、それを捕まえてくるのだ。強制という訳では無いが、物部達はほとんど付いてきた。恐らく、基本的に暇なのだろう。運転中、良く退屈で眠くなったり、我が物顔で車道に飛び出している自転車なんかを跳ね飛ばす衝動に駆られる馬頭にとって、同乗者の存在は座っていてくれるだけでも有難かった。




「あっ、馬頭さん。ごめん、ちょっとコンビニ寄ってくれる?」


 物部が何か思い出したようだ。目前に、事務所から歩いて30分の唯一のコンビニエンスストアが近づいてきていた。物部達が配達に着いてくる理由は、帰りにこうして何処かに立ち寄る事が出来る、という要因も非常に大きい。馬頭は軽く頷いてから駐車場だけは大きい片田舎のコンビニにジープを滑り込ませた。




 品ぞろえは、お世辞にも良いとは言えない。それでも馬頭は萎びたサンドイッチと湿気た弁当を手に取ってレジに向かう。店員は関東近辺の片田舎なら何処にでもいるような珍走団上がりの若者だった。普段の職務態度は恐らく違うであろうが、馬頭の時はやたらと鯱ばって対応してくれる。確か一度レジから引きずり出して、ジープの前輪に頭を寝かせてやった気がする。仕事帰りで酔っ払ってもいたので良く覚えていない。こうして生きて動いているという事は、恐らく発進するジープから飛び退く体力はあったのだろう。正直、どうでも良いことだった。




 馬頭が別段、短気で分別のない荒くれ者だという訳では無い。2025年現在、110番はそもそも、あまり意味を持たなくなっていた。何年か前、現職の警察官が一般市民を弾除けにするというミラクルを起こした。それがきっかけだったのか、戦後を通して日本警察が築き上げてきた治安維持機構の安全神話は脆くも崩壊していった。これなら、非正規でもいいじゃないか、という意見まで挙がり、規制改革の大号令のもと、大幅な人員整理が断行された。


 只でさえ少なかった警察官の人員は現在、10万人にも満たない。後は警備会社から派遣されてきたような外部職員である。酷い所では、下北沢の劇団員などを配置している派出所まである始末だ。もはや、治安維持もへったくれあったものではない。現職の正規の警察官10万人ではまともな仕事が出来るはずも無く、負担は一人一人の警察官の肩に重く、圧し掛かって行った。


 桜の大門に対する市民の評価が地に落ちるのに伴って、僅かばかりに残っていた警察官の良心やモラールも露と消えた。2025年現在、110番は、特定の携帯電話か比較的富裕層が住む地域の局番からしか繋がらないようになっている。大手通信会社の販売局を通りかかった時、新しい契約プランの一つを馬頭は目にした。110番が出来る機種、という売り文句がデカデカと謳われていたのを良く覚えている。どうやら、自分の身は、自分で守る他ないようだ。




「マルボロのボックス、カートンで」


 馬頭は一番の望みの商品をレジにて要求した。引きつった笑顔を浮かべる店員に、手早く会計を済ませるように目で催促する。つり銭の渡し方はマシになっていた。


 寂れたコンビニを後にして、都心から流れてくる京葉道路を傍目に見ながら、千葉の方から内房寄りに入ってゆくと、事務所の看板が見えてくる。


 運送会社〝ととてけ”、それが馬頭自身で命名した社名だった。物部は一度、馬頭に由来を聞いた事がある。馬頭曰く、何かあった時に素早く逃亡出来るような名前だから、だそうだ。とと、は兎々、つまりは脱兎のごとくで、てけは、テケテケという擬音である。元々は誰かからの受け売りらしい。良く意味は解らなかったが、物部はそれ以上深くは聞かなかった。


 ととてけ事務所の周りには、風光明媚とは言い難い、打ち捨てられた田畑が碌に手入れもされずに広がっている。千葉といえども一歩都心部から離れれば、その寂れ具合は酷いものがある。出身が関西の物部にとって、その落差がひどく際立って見えた。前に、東京、錦糸町よりこちら、東側は東京の人間の眼には映らない、存在しないのと同じだ、と馬頭が説明してくれた事があった。東京23区に住みたくても住めない、住むだけの器量や甲斐性の無い連中のたまり場、それが千葉という土地なのだと言う。


「それでも、連中は東京で働くしかない。だから、この土地にしがみ付く。惨めったらありゃしねえよな。だから、人間が、トゴる。まともな奴でも、仕舞には腐って行くんだ。」


 横で今、仏頂面でハンドルを握っている馬面の男が、ゲラゲラと笑っていたのを物部は覚えている。物部が助手席に座るようになって一月ほど経った頃だったろうか。それが、仏頂面以外に、滅多に表情を見せない馬頭が見せた、数少ない笑顔の一つである。もっともアレが笑顔であるならの話だが。




 旧式のジープは事務所の前で止まった。エンジンを切ると、辺りはすっかり静まり返る。大自然に囲まれた、というよりは、文明に忘れ去られた、といった表現が適切であろう。田畑には雑草が生い茂り、未舗装の道路も何本かあった。唯一の交通インフラは一時間に数本のバスが近くを掠めてゆくだけだ。その割に空気は汚く、嗅覚の敏感な物部には、磯の香りすら含んでいるように思えた。裸眼で2・0の視力の馬頭でも、快晴の夜に星がはっきりと見えたという事は無かった。


 物部が先に降りて、事務所に正面玄関から入ってゆく。愛用のラップトップとピアニッシモをワンカートン、それぞれ脇に抱えている。先のコンビニでの戦利品だろう。馬頭が後ろも振り返らず、バックミラーだけを頼りにジープをするすると後退させた。暫くして車庫のシャッターが閉まる音がして、馬頭の姿も事務所の中へと消えていった。


 事務所の一階の造りは居間と台所になっている。馬頭が入っていくと、ちょうどセーターを着込んだ初老の男がキッチンでコーヒーを入れている所だった。馬頭に気付いたのか、その男は入口の方へと顔を振り向いてみせる。


「あぁ、一徹君。おかえり、どうかね。一杯?」


そう言って陶磁のマグカップを傾けて見せた。どうやら、馬頭の分も入れてくれるつもりらしい。


「いや、いい」


 馬頭はそういって、にべもなく、その男のお誘いを断った。それから、自室に引き上げようか迷って、出発前に物部が言っていた事を思い出した。


「あぁ、先生。物部宛の荷物、届いてなかったか? アイツが、さっき、出る前、昼過ぎに着くとかぼやいてたんだ」


 馬頭は大して意味も無く、居間の共用冷蔵庫を開けようとして、止めた。


「あぁ、それならさっき、京君が入ってきた時に直接渡したよ。代わりに受け取っておいたんだ」


 先生と呼ばれた男はフィルターにコーヒー粉末を放り込みながらそう答えた。江ノ島喜八というのが男のフルネームである。どうやら、馬頭達が配送に出ている間に、物部宛ての私信を預かってくれていたようである。荷物の主の姿は既に一階のリビングには見当たらなかった。大方、訳の判らない電化製品でも取り寄せて、喜々として、それを弄くり回している頃合いだろう。


「一徹君」


「どうした?」


 気付くと、目の前にマグカップ二つ、手に持った江ノ島が立っている。


「コーヒー、入れ過ぎたんだ。悪いけど、ちょっと手伝ってくれんかね」


 江ノ島はそう言って、馬頭の前にあるソファに腰掛けて笑った。 馬頭は内心、煙草を吸いたい気持ちもあったが、この白髪の老人に付き合う事にした。




 リビングには三人掛けのソファ一対が、背の低い長テーブルを挟んで申し訳程度に置いてある。他に目ぼしい調度品はない。馬頭の分のマグカップが目の前に置かれる。馬頭と江ノ島は、テーブルを挟んで向かい合う形でソファに座りこんだ。




 しばらく、馬頭は目の前で旨そうにコーヒーを啜る老人の姿を眺める。老人と言っても、その足取りはしっかりしていた。白髪交じりのロマンスグレーは綺麗に後ろに撫でつけられ、しっかり櫛が通っているのがわかる。フレームの薄くて軽い丸眼鏡の奥に、知的な双眸が見て取れた。臙脂色のセーターの下にはしっかりと襟付きのYシャツを着こんでいる。インテリを絵に描いたような爺さんだ、と初めて会った時にも馬頭はそんな印象を持った。




 江ノ島が嫌味な年寄りだという訳では無い。事実、その所作はむしろ洗練されていた。巷に溢れかえる似非インテリジェンスを気取った、早期退職組の老害連中とは一線を画していると馬頭は思っていた。片や、企業が頭を下げてまで、金輪際、会社に関わらないでくれと早期退職を懇願、促した連中。片や、大学が最後まで慰留をお願いした人物である。違いは明白といえば、明白である。


 馬頭が江ノ島と初めて会ったのは、江ノ島の邸宅だった。物部がととてけ事務所に入ってから三か月ぐらいした頃、ちょうど、今から一年ほど前に当たる。江ノ島はその頃、30年務めた大学教授の職を退いたばかりだった。




「なんだ、一徹君。コーヒー、飲まないのか?」


 ふと気づくと目の前のマグカップから湯気が立ち消えている。


「ー煙草が吸いたい」


 馬頭は内心、煙草が吸いたい気持ちで一杯だったが、ニコチンアレルギーの江ノ島の前でこれ見よがしに吸う訳にもいかなかった。葉巻ならOKなのだという。ちなみに、コーヒーに手をつけないのは、別に不味いからではなく、コーヒーの粉が猫の糞を乾燥させて挽いた奴だからだ。それ以来、何となく、手が出し辛い。




「ふふっ、せっかちに、そんなに、何だっけな。マルボロばっかり吸ったって仕方ないだろう。せめて、もっと燃焼促進剤の少ない奴にしなさい。せっかくのコーヒーの味が判らなくなるぞ。


ーというより、舌が、馬鹿になる。麻痺する」


 江ノ島の忠告も程々に、目の前のマグカップを啜ってみた。何とういか、独特の酸味臭がする。本物のルアック・コーヒーとはこんな味なのだろうか。


 当のバリスタ本人は目の前で何処から出して来たのか、本日付けの日経新聞と朝日新聞を流し読みしている。こうしてみると、江ノ島喜八は只の温厚な知識人にしか見えなかった。だが、このセーターを着込んだ老人が、モンスターコンシュマーとして赤色に分類されていた元自分の顧客である事を、馬頭はよくよく知っていた。




 江ノ島喜八の邸宅に初めて赴く際、馬頭は前の職場である自衛隊の駐屯地に潜り込み、防弾チョッキを拝借してこようか本気で思案した。補足説明の記載に、態度の悪い配達員目掛け、猟銃からスラッグ弾を発射したとあったからだ。思いのほか猟銃の反動が大きく、弾道は上に大きく逸れ、玄関の敷居が削り取られた。使用した弾が、江ノ島が普段使用している散弾だった場合、配達員の顔は正確に吹き飛ばされていたはずである。




 後で親しくなってから聞いたことだが、その時は頭に血が上って、たまたま傍にあった弾丸を装填してしまったらしい。


“おかげで、玄関が下種の血で血まみれにならなくて助かったよ。”というのは本人の談である。ともあれ、馬頭はそれなりの覚悟で江ノ島邸へと仕事に赴いた。万が一の事を考えて、物部は事務所に残してきた。


「・・・あぁ、配達の方か、ご苦労さん」


 チャイムを鳴らして出てきたのは、馬頭が思い描いていた江ノ島喜八のイメージとは違った。てっきり、60〜70年代の学生運動を未だに忘れられない、バリバリの右翼革命家が鉢巻でも巻いて出てくるものだと思っていた。だが、目の前に現れた老人は、武闘派というよりは、どちらかといえばインテリ学者である。どことなく、しょぼくれて、元気が無いように見える。この分では、背中のベルトに挟んだ旧式のガバメントを抜く必要はないだろう。馬頭が自衛隊を退官した際の、退職金の一部である。コルト・ガバメント、デカい図体で、はっきり言って玄関先のような狭い空間では取り回しには不安があった。




「・・・大きいな、悪いけれど、中にまで運んでくれないか」


 馬頭は敷居を跨いで、玄関に通された。その際、パラパラと木くずが舞い落ちる。鴨居の中央は大きく抉れていた。木くずはそこから落ちてきたものだった。


 広い邸宅の中は、生活感が欠乏している。サインを貰っている間に、グルっと回りを見渡してみる。調度品が、豪華な内装の割に少ない。下駄箱には靴が一足しか見当たらなかった。




「・・・熟年離婚という奴さ、退職金が出た途端、これだ。ちなみに、この荷物は、別れた女房からで、引っ越しの時に紛れこんだ私の研究書類だ。勝手に持ち出したかと思えば、こうして勝手に送り返してくる。 ーどうだい、配達員さん、笑えるだろう?」




 ニッコリと口の端を持ち上げ、肩を揺らす江ノ島を、馬頭は黙って見つめ返した。丸眼鏡の奥の目が極端に細まっているのがわかる。ここで滅多な事を言えば、恐らく、肩から襷がけにしている革ベルトで背中の裏に忍ばせてある猟銃が、火を噴くのだろう。銃口が、腎臓の裏手から思い切りはみ出ている。そもそも、隠すつもりが有るのかどうかも怪しかった。下駄箱の上に、無造作に散弾の空薬莢が転がっている。


 恐らくは、レミントンの、ブローニング。装弾数が、弾倉4発に、薬室1発。俗にオート5と言う奴だ。人一人の頭を、跡形も無く吹き飛ばす位は簡単である。




 馬頭は言葉数を少なめに、仏頂面で着払いの代金を江ノ島に要求した。ぞんざいにならないように、一応は気を付ける。


 荷物の受け渡しの際、馬頭と江ノ島は着払い請求書を挟んで、お互い無表情で見つめあう形となる。よく見ると、疲れた目をしている。馬頭は江ノ島にそんな感想を抱いた。だが、相手が銃で武装をしている以上、ここで気を抜く訳にもいかない。


「ー大きなお世話かもしれないが」


 馬頭は徐に口を開いた。


「ー何だね?」


 江ノ島の意識が、若干こちらに向くのが判る。散弾銃に対する意識が、僅かに、薄れた。


「素人が、玄関先なんて狭い場所で散弾銃なんて振り回さない方が良い。せめて、そんな骨董品なんかじゃなく、ソードオフ。レミントンなら、M870、マスターキーか何かにするべきだろう。ちなみに、俺なら、この至近距離で、短髪の老人が腰からオート5を引き出してくるまでに自動拳銃をフルバーストで全弾叩き込める。


ーはっきり言おう。喧嘩を売る相手は選んだ方が良い」


 馬頭はそこまで一息に言い切った。デカい顔をしたいなんて、幼稚で、子供染みた理由からの言葉では無かった。この商売、顧客からの信頼が命である。自分が何者であるか、という自己紹介の機会は、何時如何なる何時でも、大事にすべきだ。


 効果はすぐに現れた。江ノ島が請求書を手に取り、頬を緩めたからである。極細だった目が僅かに開いた気がした。


「なかなか、面白い人じゃないか。気に入ったよ。どうだね、コーヒーでも一杯、中で飲んでいかないか」


 特に急ぎの用事もなかったので、馬頭は江ノ島の招きに応じた。馬頭が江ノ島に対して持っていた当初の警戒心も話をするにつれて薄らいでいった。江ノ島の話は、流石に30年間国立大の教壇に立っていただけはあり、聞いていて面白かった。社会学を中心に、人を食ったような感じで、博士課程とはとんと縁が無い馬頭にも判り易かった。馬頭の方も馬頭で、自衛官時代の無茶な訓練なんかを掻い摘んで話した。すると、話が案外盛り上がり、結局は最後に二人して、官僚機構は糞である、という結論に達して落ち着いた。




 江ノ島は馬頭の仕事内容にも興味を示した。特に、副業として、賃貸もやっていると馬頭が伝えると江ノ島は思いのほか食いついてきた。邸宅のリビングにはダンボール詰めされた荷物が幾つも転がっている。それは離婚相手から送り付けられた荷物だけでは無く、江ノ島自身で用意したものが大半であった。江ノ島はこの邸宅を引き払い、どこか放浪の旅にでも出かけようと思っていたのだという。このだだっ広い屋敷に一人でいても、気が滅入るばかりで碌な事がないそうだ。馬頭としては特に断る理由も無かった。こうして、ととてけ事務所に栄えある入居者第二号が生まれた訳である。






「いやー、ありえないっしょ、凄えスゲェ、ひっひっひ、あっ、先生、さっきはありがと」


 二階から珍しく上機嫌の物部が降りてきた。


「どうだい? 最新型のノートパソコンとやらは、やっぱり違うのかい?」


「もう、最高。全然違うね、スゲェのなんのって」


 ザンバラ頭のジャージ女と襟付きセーターの白髪男が和気藹々と世間話に興じている。馬頭が江ノ島を事務所に迎え入れるにあたって、唯一気掛かりだったのが、元モンスターコンシュマー同志で核融合反応を起こさないか、という事だった。だが、それも杞憂に終わった。江ノ島は面倒見がよく、物部の方も歯切れの良い性格だったので、比較的良好な関係を築けているように思えた。




 モンスターコンシュマーを二人も迎え入れて、どうなるものかと馬頭は当初思わないでもなかった。しかし、意外にも物部と江ノ島の加入はととてけ事務所にとって、そして馬頭の仕事にも多大な貢献をもたらした。


 始め、馬頭の通常業務は只の下請けだった。籍も契約社員という形で大手の傘下に入っていたに過ぎない。タダ同然の廃工場を買って、勝手に看板を掲げているだけであった。まだ、仕事内容も、通常の顧客への配送業務を押し付けられる事も少なくなかった。同じ部隊に居た同僚が語って聞かせてくれた、ビジネスモデルの半分も馬頭は履行出来てはいないような状態だった。ただ、馬頭自身、配属された部隊内でトラブルを起こし、配置換えの処分を受ける事が多かった事もあって、その時出来た野放図な人脈を生かしてこの商売を始めたに過ぎない。運送業界は自衛官の転職先として未だに人気が高かった。




 このままでは体の良い使い走りだと思っていたところ、この事務所に物部が越してきた。しばらくして、物部も事務所の生活に慣れた頃、彼女の方からある提案をしてきた。それは会社を法人化してみてはどうだ、という提案であった。


「私、役所なんかに出す書類なんかには疎いけど、会社のホームページ位なら作れるよ。どう? 迷惑じゃなかったら、やってみようか」


 物部なりの恩返しのつもりもあったらしい。最初にマンションで出会った時、馬頭に食って掛かったのをまだ気にしているようでもあった。


「あの時は、その友達の、なんていうの? 命日って奴でさ。ちょっと気が立ってたんだ。まぁ、その借りを返すって訳でもないんだけど」


 ポリポリと頭を掻きながら、物部はばつの悪そうな顔でそう言ってくれた。




 しばらく経ってから、物部が馬頭にラップトップの画面を見せてきた。そこには丁寧に造り込まれた会社のホームページ画面が映っていた。画面の中央にはちゃんと、ととてけ、の文字が躍っている。マスコットのような一見、あくどい顔をした兎が画面端でほくそ笑んでいた。唐草文様の風呂敷を木の枝に引っ掛けて、それを肩から下げている。それが、妙に愛嬌があった。




「馬頭さん、前に会社の名前、兎がどうって言ってたじゃん。だから、因幡の白ウサギをモチーフにデザインしてみました。どう、悪くないでしょ?」


 ホームページのコーディネートに関しては、はっきり言って素人である馬頭の目にも、そのセンスは悪くないように思えた。スマートフォンやタブレット端末を操作するのにも難儀する馬頭には到底真似出来ない芸当である。イナバ、という単語だけ耳の奥に引っかかった。確か、アイツの名前もそんなだったような気がする。






 江ノ島が事務所に転がり込んできたのは、丁度ととてけのホームページが出来上がる位だった。馬頭達が事務所の独立に難儀している事を知ると、その知的好奇心旺盛な老人もまたひと肌脱いでくれるのだと言う。問題だった登記簿の手続きは二、三日中に片が付いた。役所仕事しかしない、何かあれば他人様を盥回しにすればよいと考えている公僕連中が、江ノ島の前では理詰めの論理によって、いとも簡単に、こちらの言う事を聞くようになるのが馬頭達には不思議だった。途中で、


「なに、これからここでお世話になるんだ。これくらいの事はさせて貰うさ。この年で、全国津々浦々、放浪の旅なんてやらかしても、疲れるだけだろうしね。それに、私もこの事務所の事は気に入っているんだよ」




 江ノ島は登記簿を纏める際に保証人にもなってくれた。ととてけ株式会社が法人しての認可が簡単に認可されたのも、江ノ島の名前の影響が大きかった。次第に、ホームページのメールボックスを通した直接の仕事の依頼も入るようになった。大手宅配会社から回されるだけだった仕事も、単純なトップダウンの業務委託から、会社同士の依頼へと変化していった。いずれも馬頭一人では到底成し得なかった所業である。物部にせよ、江ノ島にせよ、馬頭一人では出来なかった事を手伝ってくれたのだから、その点、二人には頭が上がらなかった。格安の家賃でも、二人には事務所に居て貰う必要があった。




 自分一人だったら、今頃、大手のいけ好かない社員でも殴り飛ばしたりして、また面倒でも抱え込んでいたかもしれない。今はもう、特別国家公務員という立場ではないのだ。自重せねばならない、と思いつつも、三十歳を過ぎて気性なんてそうそう変わるものではなかった。特に馬頭の場合、自衛官時代の苦い経験があった、人間、頭で覚えたことはすぐに忘れても、体で覚えたことはなかなか忘れない。








 ととてけ事務所の午後は基本的に暇である。商売が軌道に乗り始めてから、大手の宅配会社の尻拭いをする必要もなくなったからだ。いまや、千葉方面のモンスターコンシュマー関連の仕事のほとんどが馬頭の元に集まってくる。他の同業者で、一年以上続いている所は無かった。顧客とトラブルを起こしたり、訴訟を抱え込んだりして、最後には首が回らなくなるのである。かといって、馬頭自身、特別な事をしているつもりもなかった。強いて言うのであれば、当たり前の事を当たり前にする。あるいは、他人様を色眼鏡で見ない、不義理はしない、という事位である。


 今、馬頭の目の前では元モンスターコンシュマーの二人が思い思いに寛いでいる。物部の方は少し離れた所で、先程手に入れたピアニッシモをプカプカやりながら、新しく手に入れた玩具、最新型の極薄ラップトップで遊んでいる。江ノ島の方はというと、今度は雑誌を無造作にテーブルの上に広げ、気が向いたものから順にペラペラとページを捲ってゆく。コーヒーが切れると、おもむろに立ち上がって台所まで新しくコーヒーを入れに行った。




 恐らく世間様とやらからすれば、彼らははみ出し者なのだろう。自分も含めて、平日の真昼間から何をしているんだ、という理屈である。だが、馬頭からすれば、それでも一向に構わなかった。マルボロのカートンの包装をじれったげに破き、火を着ける。はっきり言って、味は落ちた。口の中に燃焼促進剤の味が広がる。




 大体、その世間様という奴が困った時に何をしてくれる訳でもあるまい。馬頭はそんな考え方の人間だった。ものの考え方があのリストの連中と近いのだろう。


 例えば、江ノ島に世間体がどうのなんて話を聞いてみれば、それこそ延々この国の“社会モデル”の在り方について語ってくれるに違いないだろう。


 曰く、日本は、働き辛くて、再雇用がし辛くて、職業訓練の機会が滅多に無い。北欧のモデルには福利厚生の面でボロ負けするし、欧米のモデルに比べても、職業選択の自由の面で大敗を喫していた。恐らく、中国やブラジル、あるいは発展途上国のモデルと比べても碌なモノでは無いというのが江ノ島の言い分だった。


「“ダイヤモンド・カルテット”って知ってるかい? 一徹君。僕の研究生が創った造語なんだけどね」


 社会構造を、福利厚生、社会保障、公衆衛生、生活保護、安全保障の五段階のブロックで分けた時、はたして、どんな社会モデル、その国の、浮かび上がってくるイメージを、グラフを使って判りやすく論文に纏めた学生が居たそうだ。


“ダイヤモンド・カルテット”とは、現行の日本の社会システム、モデルのイメージである。丁度、三次元グラフ上に、菱形の、ダイヤの形をした社会モデルが姿を現す、といった具合だ。


 そのモデルの構成はというと、論文の発表当時、2020年、下から、公衆衛生、安全保障、社会保障、福利厚生である。生活保護、まぁ、言うなれば、“基本的人権の尊重”、“生存権”を下敷きにして、そのダイヤの形をした駒はクルクルと回り続けているという次第である。それらを総称して、日本の社会モデルを、ダイヤ、四菱の四重奏、と表現、捩ったのだろう。


 ちなみに、社会モデルとは、その社会に帰属する人間全ての意識、価値観の具象かであり、その精神構造の裏返しで有る。であるならば、その社会、共同体、あるいは、只の集合として見た時、この国の国民は果たして、一、人間として足り得るのか、というのが、江ノ島のゼミの研究テーマの一つであった。




 馬頭は一度、有り難い事にその課外講義を拝聴させて貰った事がある。曰く、英国が“ゴールデン・ピラミッド”で、欧米が“デス・ハリケーン”だという。結局、日本の社会保障と福利厚生が真っ向から対立し、戦後、80年、その基本的構造は変化する事は無かったのだと言う。それは、ヒ素ミルクや三億円事件を通してもそうだし、足利事件に堀木訴訟、宮崎勤事件を通したってそうだった。基本的に、自己責任カントリーなのである。




 都合の悪い事は、責任の一端が自分にあろうとなかろうと、全て他人様になすり付けるお国柄なのだ。まぁ、社会の構成員たる資格の無い輩が、あらゆる分野で、あらゆる階層で魑魅魍魎っていたからだろう。10年前、一度だけ、自衛隊の公式データでは、陸軍の、最後の災害派遣救助となっている作戦に従事した事のある馬頭にも、それは痛い程よく分かった。傍目は行儀よく並んでいるかと思えば、その実、自分の事しか考えていないのである。列に並んでいる連中を見ていると、肘は入れるは、足は踏む。目線だけで、恫喝紛いの事は平気でする。その内、何割かは、堪忍袋の尾が切れた隊員と、現場の有識者達の協力のもと、文字通り、砂にされ、それから土嚢となったので事無きを得たが、台風や地震の度にこんな事をしていては身が持たないと、防衛省はようやく重い腰を上げ、旧軍以来の伝統と信頼、麗しの公共政策を打ち切るに至った。はっきり言って、自業自得である。




 有り大抵に言えば、この国に遍く魑魅魍魎の、人間に対する“パーソナル・スペース”の侵害が深刻な訳である。まぁ、軍隊を持っているような国、まともな先進国なら、まず、あり得ないだろう。今日も今日とて、国鉄の車両の乗車率は500%で線路の上を走り続けるのである。総武線とは、全く良く言ったものだ。




 そんな感性の馬頭だからかは知らないが、物部達を前にしても、馬頭は共感こそすれ、特に色眼鏡で見るような事は無かった。




 むしろ、小手先や上辺だけを誤魔化すような連中の方がいけ好かなかった。この国において幅を利かせている、大多数の魑魅魍魎、所謂〝まとも〟な連中の事である。徒党を組んででかい顔をし、他人の揚げ足をとるのが上手で、おまけに恥を知らない。この世の春を謳歌するための3つの秘訣を、奴ら、物部に言わせれば、“出来の悪いエクセル連中”は忠実に実行しているのである。


 一度、物部の頼みで、彼女を郊外の大型電化製品店の閉店セールに連れて行った時、980円の、猿でも出来るとかいう青色申告ソフトを買い求めながら、彼女がそんな事をぼやいていたのを馬頭は覚えていた。確か、店員のサービスが90%還元とネットで評判の系列店である。千葉県、最後の閉店であった。店の名前の方はどうでも良かったので、覚えていない。




 確かに、モンスターコンシュマーの大半が、一見して、挙動不審であったり、何かしら性格に難が有ったりする奴等ばかりである。だが、それがなんだというのだ。人間なんて星の数ほどいるのである。雨の中、傘もささず、踊る馬鹿がいたって良いだろう。そんなものは個性の範疇ではないか、と馬頭はあのリストを見ながら考えるのだった。


 日々、当たり前の事を当たり前に、驕ったり、かといって卑屈になる事もなく、目の前の顧客に誠実に対応する。馬頭が何の気なしにやっている、そんな事が彼の商売を存続させ、癖のある顧客を納得させている理由でもあった。




 そんな風にして、なんとかととてけ事務所は回っていた。すったもんはありつつも、馬頭達は概ね平和な日々を謳歌していると言ってもよかった。だが、そんな日々にも脅威は着々と忍び寄りつつあったのだ。




 ーあぁ、これはマズイ。かなりマズイ。


「・・・なぁ、京の字よ。ちょっと、良いか」


 隙間風が事務所の中まで入ってくるようになり、そろそろ冬支度も必要のなり始めた頃、眉間にしわを寄せた馬頭が目の前を通り過ぎようとした物部を呼び止める。相変わらずのジャージ姿だ。中に着ているTシャツの柄だけが、彼女のその日の気分によってコロコロ変わる仕様になっている。今日は網走刑務所の奴なので、どちらかといえば機嫌が良いはずであった。


「どしたの?馬頭さん、顔が悪いよ。大丈夫?」


「・・・顔色が、だよ。悪かったな、畜生め。ちょっと、顔貸してくれや」


 配達が終わり、事務所のソファで寝転がっていた馬頭は何となく暇だったのでスマートフォンでウィンドウショッピングをしていた。事務所の一階に備品としてデカい液晶テレビが欲しくなった。値段を確認した後、ネットバンキングの残金が画面にホップアップされる。しばらく画面を見つめていた馬頭のムスッとした馬面が、余計に凶悪になった。




 馬頭は事務所の郵便受けに向かった。郵便受けにはペラペラの紙切れがしこたま詰まっている。事務所宛ての公共料金の確認伝票の束だ。事務所の公共料金は自動引き落としにしてあった。細々とした文字を苦心惨憺して読んでゆく。活字に疎い馬頭は、なんとかここ二、三か月分の合計を概算ではじき出した。


「・・・どういう事だ。こりゃあ?」


「私に聞かないでよ、そんなの」


 物部がそう、にべも無く答えた。




「・・・お前さんよ、いくら払いがこっちだからって、電気代とか使いすぎなんじゃないねえのかい?」


「えーそんな事ねぇよ。私の質素倹約ぶりには目を見張るものがあるってー、マジで」


 そういってぼりぼりと頭を掻いて見せる。ザンバラ頭から粉が舞った。毎日風呂に入っているくせに、牛乳石鹸しか使わないからそんな風になる。事務所の一階にある共同の風呂場、その脱衣所に置いてあるコロンやリンスは全て江ノ島老人の私物だ。一応、二階の居住スペースには各部屋に簡易シャワールームを設けている。馬頭はというと面倒なので、自室のそれで手早く済ませる事が多かった。




「・・・ちょっと、馬頭さん、聞いてんの?私、嫌だよ。こんなクソ寒い時にエアコン止まるとか。絶っ対ぇ我慢できない」


「わかった、ちょっと待ってろ。今、先生を呼んでくるから。あぁ、それから京の字、お前さん、パソコン持ってきてくれ。事務所の口座残高なんかをみんなで確認したい」


 物部の髪から舞い上がる石鹸粉や網走のロゴを見ている内に、知らぬ間に呆けてしまったようだった。癇癪を起しかけている物部を一階に残し、馬頭は事務所の階段を登っていく。事務所の広さはせいぜい、100平米の二階建て、畳三十枚も敷けば一杯になる。外観はサイコロをその辺の地面にでも、無造作に埋め込んだような感じである。数年前までは、ここで工作機械が唸りをあげていた。確かに、この度辺鄙な場所なら周囲への騒音を気にする必要はないだろう。




 そんな元廃工場の二階部分には馬頭の分も含めて居住者用の部屋が5部屋、並んでいた。事務所の壁に沿うように取り付けられ、一度角で直角に曲がる階段を登りきると、傍らに錆びて動かなくなった業務用エレベータの残骸と、右手に3つ、左手に2つ、中央に通路を挟んで肩を寄せ合っている光景が広がる。元々、更衣室か何かだったのを居抜きで流用しているので、改装費はそれほど掛からなかった。ただ、仕切りとシャワールーム等の事を考えれば、居住スペースは一部屋6畳程度が限界だった。それでも、入居者二人から苦情めいたものは今まで訊いたことは無い。




 馬頭は右手、階段正面に位置する部屋の前に立ち、備え付けの簡易ブザーを押した。そこが江ノ島喜八の自室にあたる。間に空室を一つ挟んで、一番奥の部屋が馬頭、通路を挟み、左手に入ってすぐの手前の部屋が物部の部屋となっていた。ブザーと鍵はそれぞれ備え付けである。元々は、馬頭が二階の更衣室の残骸で寝泊まりしていただけであったが、物部が入居して、この賃貸業務をスタートする事になった際、これだけの設備を馬頭は自力で整備してしまった。ブリザードが吹きすさぶ長野の山中で、雪中ビバーグをする羽目になった事を考えれば日曜大工のDIYなどママゴト程度でしかなかった。




「ーはい。なんだね、どうかしたのか?」


 部屋から江ノ島が顔を出した。ドアの隙間から暖かい空気がこれでもとかいう程漏れてくる。中で暖房をガンガンに焚いているのだろう。公共料金は全て馬頭持ちである。道理で苦情の一つも出ないはずだ。


「あぁ、先生、ちょっといいか。見て貰いたいものがある。事務所の口座残高がどうもおかしい、支払いがどうとかいう話なんだがー」


 後ろで階段を上がってきた物部が通り過ぎてゆく気配がする。おそらく愛用のラップトップを引っ張り出しにいったのだろう。近頃は便利になったもので、ネットバンキング一つで、何時でも何処でも出入金やその確認が個人でも行えるようになっていた。江ノ島などに言わせれば、貨幣があるべき姿に戻ったのだ、とかそもそも経済何て宗教以外なにものでもないだとか、そもそも古くは免罪符がどうのこうの、言いだしそうな話だった。物部のような、まだスマホ全盛の時代に生まれた若い世代は、さして抵抗は感じていないように見えた。四捨五入すれば40歳になる馬頭はというと、無用の長物である窓口業務の銀行員の大半が、バッサバッサと首を切られる様子を見ていなければ、ネットバンクの全面導入に抵抗を感じていたはずである。


「ーえぇと、ここをこうしてこうすればいいんじゃないか。あ、待ってくれ。いま老眼鏡を取ってくる」


「だから違うって、ここを押せば、こっちに飛んで、—あれ?」


「ーどうでも良いから、何とかしてくれ。俺にはさっぱりだ」




 三人集まれば文殊の知恵とはよく言うが、実際そんな事はなかった。物部が引っ張り出したラップトップの画面を、大の大人三人で食い入るように見つめている。事務所のソファに物部を中心にして、馬頭と江ノ島が挟み込むように座っていた。馬頭が物部と江ノ島を集めたのは他でもない。さっき大型テレビを買おうとした時に確認した事務所の残高が、最後に確認した頃に比べて減少していたからである。モンスターコンシュマーへの配達が軌道に乗ってからというもの、毎月の収支は微々たるものであっても増えていた。減った、という事は、なにかしら支出が増えたか、あるいは収入が減ったかのどちらかしかない。


 馬頭は当初、物部達が暖房や風呂のガス代をそれこそ湯水のごとく使っている事が原因なのではないかと踏んでいた。心当たりは嫌というほどあった。




 直近の財務状況と出入金を逐一確認していく。なかなか根気のいる作業だった。事務所が契約している銀行のホームページはすこぶる見辛かった。サイト内での堂々巡りなんて当たり前である。おかげで三人はしばらく洞窟探検でもしている気分になった。連絡先一つ見つけるのにどれだけ時間が掛かるかわかりやしなかった。




 三人の口数が、それぞれ少なくなってゆく。馬頭も、物部も、江ノ島も、開始三十分で眼が座り始めていた。そろそろ不親切極まりない銀行への襲撃を、誰かが提案してもおかしくなくなった頃、ようやく事務所の消えた残高の原因が判明した。




「ーつまりは、なんだ?お前さん達が馬鹿みたいに電気代を垂れ流してるのが原因じゃないって事か?」


「そうそう」「そういう事になるね」


 馬頭は気まずくなってソファを離れた。換気扇の傍まで行って、煙草に火を着ける。後ろからでも二人の視線が舐めるように吸い付いてくるのがわかった。事務所の残高が減っていた主な理由は物部達の浪費癖ではなかった。確かに、その面もあるにはあったが、微々たるものである。あるいは誰かが事務所の売り上げをちょろまかしていたという事でも無い。原因は、単純に店の売り上げ、モンスターコンシュマーへの配達依頼が減少している事にあった。


 そもそも、物部と江ノ島は、基本ととてけの通常業務へはノータッチである。或る意味、馬頭が自分で起こした会社の金をどう使おうかは、極端に言えば馬頭の勝手であると言っても良かった。だが一応、登記簿を作成する際に、物部と江ノ島の名前も入っている。あくまで広告デザイナー、相談役としてであったが、最低限、説明責任位は果たすべきだと馬頭自身では思っていた。




 そして、ととてけ事務所にはまともに経理が出来る人間が一人もいなかった。今回の原因究明がここまで難航したのも、馬頭を含め、事務所の面々の財務感覚が非常に緩いからである。そう結論づけた馬頭は換気扇を止め、ソファに戻るや否や、財政緊縮を二人に提案してみた。無駄遣いは止めてくれ、という訳である。物部と江ノ島の反応は、批難轟々だった。


「えぇ!?マジちょっとあり得ないんですけどー。馬頭さんが甲斐性ないのが原因でしょー、もっと割のいい仕事でも見つけてくればいんじゃないですかー?」


「この歳になると、冬の寒さは体に堪えるんだがね・・・。多少、家賃の方は値上げしても良いから公共インフラくらい好きに使わしてくれんか?」


 二人とも質素倹約に勤しむつもりは毛頭ないようだった。馬頭は昔、空挺レンジャーの選抜試験を受けた時の事を思い出す。ナイフ一本持ってなにが悲しくて生きた鶏を餓死寸前の状態で追っかけまわさなければならなかったか、今でもわからない。


「って言うか、年末年始、どうするの?去年はおせち取ったよね、おせち。私、今年もあそこのホテルのが良いなー、ダサい旅館の、臭っさい奴じゃなくて。あっ、あとお餅も食べたい」


「近頃、腰痛がひどくてね。一徹君、悪いけど、自費で勝手に風呂場のバスタブにシャワーバブ、付けさせて貰って良いかな」


 ここぞとばかりに要求を突き付けてくる二人を前にして、馬頭は泣きそうになった。




「そもそも、なんで事務所の依頼が減っているんだ。それをはっきりさせたい」


 馬頭はブチ切れそうになるのを堪え、努めて建設的な解決策を打ち出した。流石にそんな馬頭の様子を察したのか、物部達も自分勝手な発言や言動を控えめにする。普段は破天荒な風でも、その辺の線引きや感覚は常人よりもはるかに鋭く、繊細なのである。元モンスターコンシュマー達は珍しく真剣な顔つきになる。公共料金使いたい放題という居住者特典の存続が掛かっているという理由もあった。


 ととてけ事務所は、幸か不幸か無借金経営である。別段、誰に気兼ねする必要もない。それでも、このままではまともに冬も越せそうもなかった。それが今、三人を突き動かす原動力になっていた。


 ああでもない、こうでもないと論議を続ける。江ノ島が20世紀に入ってからの社会情勢を、通り一辺倒ご高説賜り、天安門が終わってそろそろベルリンの壁が崩壊しようとしたところでようやく解決の糸口が見つかった。物部がネットサーフィンしているうちに、拾い上げてきた情報だった。


「これじゃないの? —はい。なんか、うちと業務内容が丸被りな気がするんだけど」




 物部がそういって馬頭と江ノ島にラップトップの画面を差し出してきた。サイトのトップに“DAIMON STAFF SERVICE”とある。どうやらそれが社名のようだ。DAIMONが代紋に馬頭の頭の中で変換される。


「経営者の名前が大門っていうみたいだね。—一徹君、訊いているかね?」


「あぁ、聞いてる、聞いてるよ」


 どうやら本業は人材斡旋の会社らしい。ホームページから受ける印象としては悪い感じはしなかった。ちゃんと連絡先も所在地も分かり易く記載されている。さっきの銀行のそれとは全然違った。全体のセンスも良い、青と白を基調とした洗練されたデザインである。社名の横にある会社のロゴには、何故か亀をモチーフにしたようなマークがあしらわれていた。


「 “モンスターコンシュマー 依頼”で検索したら、出てきたよ。ココ、なんか訳ありっぽいね〜」


 物部がそういって横でケラケラ笑っている。口にはチュッパチャプスが放り込んであった。すぐ隣にいる江ノ島が、煙草が駄目なのでその代わりである。今の言葉はそっくりそのままブーメランとしてととてけにも返ってくるんじゃないかと馬頭は思ったが、黙っていた。




 どうやらその正体不明の相手、大門スタッフサービスとやらが、運送会社ととてけへの依頼を横取りしているようである、三人がその結論に至った頃には、事務所の窓の外はすっかり暗くなっていた。他に思い当たる原因も、特に考えつかなかった。


 相手の本社住所は東京の都心にあるテナントビルとある。ワンフロアをまるまる借り切っているのだろう。ホームページの情報を信じる限り、相手は配送センターを関東全域に、地域ごとに持っており、本社の所在地だけ情報開示しているようである。“どのようなお荷物でも、お運びして見せます。”という文言が目についた。配送業は人材派遣からの流れをくむ副業のような印象も受けたが、やはり、ととてけのビジネスターゲットと重なっている気がした。




「単純に計算して、半年くらい前からポツポツと、依頼が減ってるねぇ。大体、二割くらい、どっかに持ってかれてるんじゃないかな」


 江ノ島が過去の事務所の入金履歴と一件当たりの代理配達の報酬から月々の配達回数をざっとグラフにしてくれた。チラシの裏に描かれたそれはお世辞にも綺麗とは言い難い。それでも、順調に配達数を伸ばしてきたのが、二、三か月前から頭打ちになっている事はわかった。右肩上がりだったグラフが、ぽきっと折れている。




 事務所の資金繰りが停滞している原因はひとまず目処がついた。ただ、これだけでは確証に乏しい。本当に大門スタッフサービスとやらの商売敵のせいで売り上げが落ちているのかわからなかった。仕方がないので、通常の業務と並行して、モンスターコンシュマーの面々に聞き込みを掛けてみよう事で、ひとまずの話し合いは落ち着いた。その性質上、彼らしか知らない情報は決して少なくなく、馬頭もそれを経験上知っていたからだ。




 もういい加減三人ともだれ始めていたので、詳しい調査は明日からという運びとなって、物部と江ノ島はそれぞれ自室に引き上げて行った。一人リビングに残された馬頭は、煙草を取り出して、それに火を着けた。その煙を深く吸い込む。


 去り際の物部達の様子は別段、いつもと変わらなかった。彼らは元々そういう連中だ。仮に明日、この事務所が迫撃砲か何かで吹き飛ばされても、頓着することは無いだろう。何処にでも勝手に生きてゆくはずである。モノに執着するということも、余りない。あってもせいぜい、本当に大事にしているのは、そのモノに付随する思い出や暗黙知である。一見浪費が多く見えるのも、いつかは消えてなくなるのだから、いう考えが根底にあるからだろう。馬頭にはそれがよくわかった。自分も同類だからである。




 ふとみると、事務所の端、暗くなった部屋の隅で、何かが揺れ動くのを感じた。


 ー耳だ。見ると如何にも人相の悪そうなウサギがこちらを窺っている。馬頭はそれが自分で作り出した幻覚である事がわかっていた。別段、珍しいことではない。時たまこうして、在りもしないものが見えたりする。精神安定剤を貪れば、消えない事もなかったが、馬頭は医者や薬が嫌いだった。


「ーウサギと亀じゃあ、分が悪いだろう、えぇ?」


 部屋の端に居るととてけの看板キャラクター相手にそう問うてみた。人相の悪いウサギほくそ笑んだままである。馬頭は傍にあった雑誌を額に乗せて、ソファにそのまま身を預けた。自室まで戻って床に着くのが面倒だった。長テーブルの下に自分のボトルがあったのを思いだして、一気にそれを煽った。次第に意識が酩酊してくる。




「ー他にもこんな商売しようなんて、酔狂な連中が居たんだなぁ、えぇ、おい」


 馬頭は誰に言うでもなく、架空の看板キャラクターに向かって言葉を投げかける。反応はあるはずもなかった。


 ーおかしいな、誰かが化けてでも出たのかと思ったのによ。なぁ、稲葉。




 馬頭は次第に薄れゆく意識の中でそんな事を思った。記憶の片隅で、昔の同僚の言葉が浮かんでは消えた。他人の役に立つ仕事がしたい、確かそんな事を言っていたはずだ。ずいぶん青臭い事を言う奴だ、と思ったのを覚えている。


 ヘリの馬鹿みたいに煩いローター音や吹きすさぶ風の音、そんな記憶を無理やり頭から追い出す。しばらくしてソファに寝転がったオールバックの中年は死んだように動かなくなった。





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