実るほど 頭を垂らす なれノ神
───実のところ、信仰と怪談というものに大きな違いは無いんだよ。
信仰心というものは、そもそも未知なるものへの畏怖から始まったものなんだ。その昔、天災を知らない人々は、自分たちではどうにもならない、理解できない現象を畏れ、そして祈るしか無かったんだよ。
助けてください。どうか鎮まりください。なんて言葉でね。
そうして人々は考えたんだ。
この災厄は、我々では計り知れない超自然的な上位存在が起こしているのだと。
あるもの達は、一つの圧倒的な神格による裁きと罰なのだと考えた。
あるもの達は、万物には神格が宿り、それらの怒りなのだと考えた。
あるもの達は、この世の中がそもそも苦しみの多き世界であり、それを乗り越えた先に救いがあると考えた。
今の時代、一人の人間がそんなことを突然言い始めれば空想だと笑われるものだが、多くの人々がその話を信じ、納得し、解釈を擦り合わせていくことで、絵空事は現実になっていくのさ。
真実じゃない、現実にね。
ようは、噂話みたいなものさ。
誰もが信じ、知り得る噂話は周知の事実となる。ネス湖に本当は何もいなかったとしても、皆が住み着く怪物を信じているのなら、真実はどうであれ、そこに怪物はいるんだよ。
私が扱っているものだってそうさ。
悪魔、妖怪、呪い、霊障、これらも同じ解釈の一致でしかない。
皆が思い描き、知り得て、それを恐怖するのなら真実は何であれ、噂のバケモノってやつはそこにいてしまうのさ。
そしてね、似ているからこそ、それはある日突然置き換わってしまうものでもあるのさ。
恐れが肥大化して、社や像のようなもので偶像し、荒ぶるなかれと祈りを捧げる。そうなればもう立派な神格なんだよ。
簡単な話、バケモノはある日神様になっちゃうんだ。神々に供物を捧げ、祭事を催し、皆で祈る、その根本原理というのは、畏怖存在へのご機嫌取りなわけだからね。
私たちが相手取るのはそういう存在だ。
人の心が山の天気の如く移ろいやすいように、彼らもまた人の心から現実になった変化しやすい曖昧な存在なんだ。
どんな場合においても、油断はしないことだ。
如何に“君の力”が彼らに特効だったとしてもね。
いつか、そんな話を聞いたと思う。
少し埃の被った記憶を思い起こす。額に脂汗を滲ませながら。
青紫のやつが受けた今回の話は、とある町の異様な自殺率と、“丑の刻参りモドキ”の関連性の調査だったはずだ。
そして、あたしは軽い気持ちで例の木とやらを現地調査に来ていたはずだ。
青紫本人は、この件を大した事件じゃないと言っていたが、アイツの勘が外れるのも珍しい。
丑の刻参りモドキを執り行う連中がこぞって集まる呪いの木。たしかアイツはクスノキだと言っていたと思う。あたし自身、植物についてはなんも知らない。クスノキがどういう木で、どういう特徴で、なんてものはよくわからない。だが、目の前の巨木はまるで柳の木のように枝々が垂れ下がっていた。
ああ、きっとあの木の元でせっせと呪いをかけていた連中は、五寸釘を打ち込む連中は知らないのだろうな。
垂れ下がる木から吊られた数多の首を。
そのさらに上、木の天辺から見下ろす異形の怪物を。
毛の無い青白い肌で痩せ細っているのに、腹部だけが歪に膨張している。餓鬼のようにも見えるが、よく見れば手足が全部で六本あって虫を彷彿とさせる。そして、頭部には人間を真似たような出来損ないの顔があり、それこそ人間であることを表したいのだろうか、顔の上半分を隠すように大黒天のような笑顔の老人の仮面を引っ提げていた。
……デカイ。
そして異常に“臭い”。
あたしとて、怪異と相対するのは一度や二度じゃない。何体もの化け物たちを喰らい尽くして胃袋へ収めてきた。
ただ、そういう連中は大きくても人間大のサイズなのだ。
それに、この匂いである。例えるなら、夏場に生ゴミを漬け込んだような酷い悪臭がするのである。
いつも通りならば、私にとって怪異は込められた、あるいは集まった念が強いほど、悪意が濃いほど芳醇な香りがする。言わばこいつは、腐っているように感じる。
こちらが気付いた事を察したのか、怪物はにたりと頬を吊り上げた。
「……ちっ、何が可笑しい」
初めてだった。
怪異を、気味が悪いと思うのは。
きっと、今まではあっちがあたしだったのだろう。いつだって笑みを零すのは捕食者の方だ。
……限界、できる限りまで自分の口角を上げてみせる。
「おもしろいじゃん」
◆
着信。
時刻は深夜二時頃。丑三つ時。
すぐに携帯電話を手に取った。
虫の知らせというやつかもしれない。
いつもならこんな時間の電話は取らない。目を通しておかねばならない資料もまだ山のまま。それにどうせ十影は連絡も報告もしない、いつも事後報告だけ。
画面も見ることなく、片手間に鳴り響く端末を掴み取り、応答した。
「もし───
「青紫ッ!」
十影の声。それも、今までに無いほど切羽詰まった声音。
「術式外して、今すぐ!」
十影の必死な声音。それですぐに状況は理解した。
形而上学的存在は人間の信仰心によって変化し、時に進化しうる。それが怪異であろうと、神であろうと。
これは私の持つ学論であり、かつて十影に忠告した話だ。
丑の刻参りという歪な信仰。信仰が集い収束する場所。
怪異が生まれてしまう可能性はあると考えていた。だが、十影が手に負えないほどに神格化が進んでしまっていたというのは誤算だ。
どんなに異形のものだろうと、それは歪なりにも神様だ。さすがの栗山十影であっても、封印を施されている状態では荷が重いだろう。
「駄目だ。すぐに戻ってこい」
「はぁ?! コイツ放置するわけにはいかないじゃん!」
たしかに、神格化した怪異などあまり長く放っておきたくはない。それは十影の言う通りだ。
だが、それを天秤にかけてもだ。
栗山十影。
お前の封印術式を解くというのは凄まじい危険性が伴う。否、リスクなんて言葉で片付けられるものではない、彼女が内に飼っているモノは私が過去見てきた中で最も性質が悪い、文字通りの怪物だ。あれが再び野に放たれれば、私どころか最悪協会の連中でも対処が追いつかない。
「いやいい、とにかく戻れ」
舌打ちののち、通話は切られてしまった。
……まぁいい、被害はまだ少し続いてしまうのは口惜しいが、それでも最悪の事態はこれで避けられる。
さて、これから忙しくなるな。
◆
某県某所。
ここは少し寂れた住宅街になっている。山に囲まれた沿岸部の街であり、駅周辺にはポツポツと商業施設があり、歩いて五分もすれば周りは民家ばかりになる。そして、さらに十分ほど歩けば民家も疎らになり始め、道も急勾配になって自然の豊かさが顔を出す。
そんな地域である。
この一般的な住宅の地域では今、水面下で大きな問題が発生している。
それは、異様に高い自殺率だ。
この地域の不動産会社や神社仏閣ではすでに、“事故物件が多い”と有名な話になっている。
今回、依頼があったのはその地域のとある神社だった。
かなりの年季ものかつ、そこそこ大きな神社であり、神職も何名か所属しているそうだ。
そして問題の依頼内容はというと、清祓の担当をしている神職が次々に退職、あるいは自殺してしまうというもので、何か憑き物があるのではないかという。それも、わざわざ他県の私の事務所を見つけて相談をしてきたわけである。
現職の神職が揃いも揃って情けない話だが、この時代においては仕方のないことかもしれない。逆に、本当に力のある神主や僧侶というのは協会の連中から声がかかっているだろう。
「……それで、何で私が呼ばれるんです?」
「仕方ないだろう、十影がいじけてしまったんだ。まぁ君にはちょっと視てもらいたいだけだから、ちょっとした小旅行くらいに思ってくれればいいさ」
「いやまぁ、そうなんですけど……」
まぁ、嘘は言っていない。実際に十影は今ホテルで不貞寝している頃だろう。
本音としては、少しでも情報が必要だった。依頼主らを情けないとしておいて、私自身神主でも僧侶でも無ければ、新妻君のように視えるわけでもない。今回は彼女の目も必要なのだ。
今回、依頼主の初老の神職と不動産会社のビジネスマンに連れられて来ているのが、件の事故物件の一つ。タイミング良く、室内で首を吊った者がいたというのでその跡地を見に来ているというわけだ。
現地は三階建てで所謂ワンルームという一人暮らし用の小さな部屋。至って普通のマンションだ。
玄関を開いてもその感想は変わらなかった。すでに清掃は終わっているようで、普通に綺麗な部屋という印象しかない。事故物件と言われなければわからないくらいだ。
それに、感応術式にも反応がない。
文字通り、この物件は至極一般的な部屋ということになる。
正直、拍子抜けもいいところだ。十影の報告を考えるに、何が出てきても不思議ではないと思って身構えていたのだが。
──新妻君は何か視えるかい?
そう尋ねようと振り返ると、彼女は青い顔で部屋の中を見つめていた。
なるほど、何か見えているらしい。
しかしそうなるとわからない。私の感応術式は魔力や魔術のようなものだけでなく、形而上学的存在、所謂怪異や幽霊、なんなら神霊であっても反応するはずだ。
「新妻君、何が視える?」
すると、彼女は口をすぼめながらゆっくりと告げた。
「うっすらと青白い木? 小さな木が視えて……なんだかその、すっごく気持ち悪いです」
木……?
それも、感応に反応しない木。新妻君ですらうっすらとしか視えない木。
聞いた事のないものだった。
「他には?」
「……えっと、青白いとは言いましたけど枯れ木ってわけじゃないみたいで、葉は割と付いてます」
「ふむ……」
ますます分からないが、似たようなものはどこかで耳にしたことがある。宿り木や不幸の木の噂話、木にまつわる話には強い霊感や特殊な霊感というのが登場する。そういう微弱なものの集合体ということなのだろう。
さて、問題はこれがどう丑の刻参りモドキと関連しているかということだ。
十影の場合、怪異にとって天敵のような存在にあたる。アレなら特別準備をせずとも並大抵の怪異なら太刀打ちできるのだ。
しかし、私は違う。
この怪異共を蒐集し、研究しているだけの人間だ。だから奴らを知り、解析し、準備する必要がある。
「まずは収集だね」
連れてきてくれた神職と不動産屋には、一旦離れていて欲しいと部屋から追い出し、新妻君に大まかな位置を教えてもらう。次に、何枚、何十枚の半紙に墨でいくつもいくつも紋様を書き記す。さすがにこれは手間が必要なので少し嫌そうにしていた新妻君に手伝わせた。
そうして、十分少しで件の見えない木を囲むように半紙の方陣を広げる。
「……結構、手間がかかるんですね」
「私達の世界はそういうものさ。杖一つでなんでもできるのは映画やドラマの中だけなんだよ」
まぁ、本来ならこういう儀式の工程を他人に見せるのも御法度なんだけどね、新妻君。
「毘沙門天よ、授けたまえ(オーン・ヴァイシュラヴァナーヤ・スヴァーハー)」
方陣を描いていた半紙が吹き荒れて、紙吹雪の如く室内を覆い尽くす。そしてそれらは球状へと固まり、見えない木を包囲してしまう。最後に、紙の球体は小さく縮まり、手のひらサイズの紙の玉となった。
私の扱う格納結界の一つ。魔除けの真言を術式で裏返し、魔を出られなくするものである。これそのものは封印結界なのだが、私のものは方陣で細工を施している。
「ぉぉ……」
驚いた顔で固まっている新妻君。無理もない、彼女には色々なものを見せてきたが、列記とした魔術を見せたのはこれが初めてだ。
「さて、一旦ホテルに戻ろうか」
すぐにでも解析しなければならない。次の犠牲者が出る前に。
◆
レジで不機嫌に千円札を投げ渡す。対して店員は、無機質な顔のまま受け取り、自動精算機にそれを突っ込んだ。そして流れるように無言で釣り銭をトレーに置いてこちらへ寄越してくる。
場所はホテル近くのコンビニ。
袋の中にはビールと味玉。
ムカムカと腹の中が煮えたぎったままなんだ、アルコールで無いとこれを冷やすのに足りない。
どうにも、やはり青紫の奴はあたしを慎重に扱いやがる。普段は雑に小間使いさせる癖して、昨晩みたいな重要な場面では動かせてくれない。
アイツに信用されていないというのもムカつくし、どうせ数ある駒の一つ程度にしか見られていないだろうという事もムカつく。
信号を待ちながら、口をへの字に曲げてため息をついた。
ただ、アイツの判断はきっと正しい。
あのバケモノは、多少枷を外してもらったくらいで喰えたかは怪しい。もしかしたら、あの時喰われていたのはあたしの方かもしれない。自分でさえそう思ってしまうのだから、連中に詳しい青紫が警戒するのも一応理解はできる。
今はそれすらムカつくのだが。
「……ん?」
ふと。
微かに鼻を掠める悪臭。
真夏に生ゴミを漬け込んだような腐った臭い。
仄かな臭いを頼りに辺りを見渡すと、そこには俯いて信号を待つ青年の姿があった。
──間違いない、アレと同じ臭いがする。
「ねぇねぇ、お兄さん?」
「……えっ……はい?」
突然声をかけられ、彼は驚いたように肩を跳ねさせていた。
「アンタ、ひでぇ顔してるじゃん? 話聞くからその辺飲みに行こうよ」
「へっ? いや、でも……」
「いーからいーから! 金もあたしが出すから行こ行こ!」
あの臭いに顔を顰めたくなるのをぐっと堪え、笑顔で青年を連れ、居酒屋へ飛び込んだ。
早い時間から空いているチェーン店の居酒屋へなだれ込み、アルコールを煽らせ、酔いが回ったところでようやく話が見えてきた。 聞くに、会社で仕事が上手くいかず、上司からは嫌われており、それを長年思い悩んでいたようだ。しかも相当な恨みを募らせているようで、彼の上司の愚痴やら悪口がそれはもう次々と出る出る。
あたし自身、人間関係が希薄でここまで思い詰めたことも無かったが、世の中こういう偏った関係値があるのだと改めて思い知らされる。
さらに酒を進めると、ようやく気になる言葉が出てきた。
──呪ってやった、と。
「呪いー? お兄さん結構やべぇじゃん!」
「いやいや、俺も友達から聞いたし、この辺だとフツーなんだって!」
……この辺では普通、ね。
「でも呪いって何すんの? あたしにも教えてよー」
「んー、君も誰か呪うの?」
「いや、そうじゃないけどさー、急に呪いとかいうから気になるじゃん?」
「んー……まぁこう、藁人形と五寸釘でやるやつだよ。丑の刻参りっていうの?」
青紫が言っていた、丑の刻参りモドキ。
やっぱり間違いなかった。コイツはあのバケモノに影響を受けているんだ。あのまま放っておけば、そのうち首を括るつもりだったのかもしれない。
だが、それにしても変だ。
たしかにコイツからバケモノの臭いはする。だけど、あたしの鼻が“ここには無い”と告げているのである。残り香、って感じだろうか。
幽霊に取り憑かれた人物には何度か会っているし、何度も喰ったことがある。そういう人は大抵肩やら腕やら、特定の部位から腹の鳴る良い匂いがしてくるので、こうして対面すればすぐにわかるはずなんだ。
そうなると、コイツに取り憑いているというわけではないのかも?
……とりあえず。
あたしは話ついでに青年の隣に席を変え、背中をバンバンと叩いた。
「まぁ元気出せよ! もうどうしてもソイツが無理なら転職しちまえばいいじゃん!」
「転職……か、でも」
「そりゃ? キューリョーとかジョーケンとか色々あるんだろうけどさ、気に病むくらいなら辞めちゃえばいいんだよ。 死ぬよかマシじゃん!」
なんて言いつつ、背を叩く手を少しだけ変容させて、彼にこびり付く残り香だけでも喰ってやった。……クソ不味くて吐きそうな味だけど。とりあえず、これで少しはマシになったはずだ。
さて、もう仕事は済んだな。
テキトーに吐いて帰る雰囲気にしとくか。
◆
「はぁ!? 帰るだぁ!?」
ホテルに戻ってきた十影は青紫さんの話を聞いてすぐに反発した。
「アレを放置してくのかよ!」
「私達では手に負えないと言っているんだ十影」
対する青紫さんは淡々と告げる。
「君の聞いてきた話でも、私の解析でも解った。すでにお前の見たバケモノは対処できない」
十影が戻る前、個室に籠っていた彼女が戻ってきた時も不機嫌そうにそう言っていた。
曰く、今回の化け物はもう犠牲者が出過ぎてしまったのだという。あの気持ち悪かった青白い木は、どうやら本体である楠木の枝先であり、丑の刻参りを行った人を媒介として、その自室に植え付いて精神エネルギーのようなものを吸い続ける装置になっているらしい。それが数多の居室に張り巡らされていて、もう一介の怪異の規模をとっくに超えているそうだ。加えて十影の話にも出てきたけど、若者を中心に流行りのおまじないとして知名度だけでなく、古くからの丑の刻参りとしての怪談として知られ過ぎている。
つまりは、怪異としての強いエネルギーと、怪異を神霊に昇格する為の信仰も持っている、そういう話なのだそうだ。
「じゃあ犠牲者が増えてくのを指咥えて見てろってか?」
「今はそうするしかない。ああいう手合いには専門のスペシャリストが要るんだ。お前の力でも私の装備でも返り討ちになるっていうのにこれ以上どうしろと言うんだい?」
正直、十影の気持ちは痛いほどわかる。目の前に犠牲者がすでに沢山いるというのに、何もするなというのはあまりにももどかしい。
「……ならあたしの──
「駄目だと、昨日も言ったぞ」
遮る青紫さんの言葉は鋭かった。普段は掴みどころの無い雲のような人なのだが、今の彼女の目に柔らかさは一切ない。
「──チッ」
舌打ちだけ残し、ベッドに飛び込んで行った。十影でも、引くしかないと悟ったのだろう。
こんな事態は初めてのことだ。
いつもなら、十影がなんとかしていたし、そうでなくても青紫さんが一人で行って何事も無かったかのように解決して帰ってくることがほとんどだった。
私はというと、奥歯をぐっと噛み締めていた。
自分だけが何もできない。何の力にもなれない。十影みたいなおぞましい力を持っているわけでもないし、青紫さんのように怪異に精通しているわけでもない。
ただ、視えるだけ。
これだけ多くの人が怪異の影響を受けているというのに、何もできずに見ていることしかできないのだ。青紫さんも、十影もきっと手段がまったく無いわけではないのだろう。でも、私は本当に何の力になれないのだ。
せめて、私にも何かあればあるいは……なんてたらればが頭の中で反復してしまう。
「とりあえず、君たち二人は今日か明日にでも先に帰って……新妻君?」
「はぃ?」
突然だった。
強い倦怠感が全身を覆い、肩が、腰が、力が抜けて全身が重くなる。
薄れゆく意識の中、最後に残ったのは十影の声と、あの青白い若木だった。
術式による警告──。
それに気付いた時には、すでに新妻君は膝から崩れていた。
「未耶っ!?」
「新妻君!?」
「あ、れ……?」
十影がすぐに新妻君を支える。
……理由は明白だ。
新妻君の見えていたあの木の情報を読み取った術式が、雄弁に語ってくれていた。
その可能性はあった。何せ彼女は怪異から狙われやすい。だが──、だがあまりにも早すぎる。まだ若木に近づいてから一日も経っておらず、そもそも奴の本体には接触すらしていない。こうならないようにせめて新妻君だけでも明日中には帰らせるつもりだったというのに。
「青紫……これ」
「ああ、そのようだね」
十影も気付いているようだ。なら話が早い。
「さっき話していた男のように処理できるか?」
私がそういう言い終わる前に、十影は左手から黒煙を上げていた。
だが。
「くそっ!」
「……そうか」
こうなってしまっては、もう協会を待つという選択肢は無さそうだ。あまりにも若木とやらの精神エネルギーを吸う力が強すぎる。
それに……。
新妻君をベッドに寝かせると、十影はまっすぐ部屋を出ようとする。
「とか──」
「嫌だね」
「……まだ何も言っていないだろう」
まぁ、そうなる。
新妻君も大概だが、コイツはコイツで肩入れしすぎている。
「はぁ……せめて一人で行かないでくれ」
すると、彼女は少し驚いた顔で振り返る。
「私だってそこまで冷淡じゃないさ」
「……青紫」
どうせ止められない。ならばせめて、コイツの手網を最低限握れるようにはしなければいけない。
「ともかく、動くなら夜だ。君が動くと目立ちすぎる」
キャリーバックを開く。
さて、時間もあまりない。急いで準備はしておくとしよう。コイツは性質上強力なのだが、なんせ数秒としか使えない。
◆
楠木。
それは神の宿る木。
多くの神社において、御神木として立派に縄を締められるその巨体に、真っ直ぐと天を目指す太い幹に圧倒される人々は多いだろう。
だが、目の前のそれはまるで巨大な柳の木。
本来なら空目掛けて伸びる枝々は、奇妙にも地面へと垂れ下がっている。その理由は、感応術式を見ずともわかる。
あの枝は、絞首台なのだ。
人を呪い、二つの穴の餌食となった人々を見下ろしているのだ。
そのさらに上。
ヤツは木の上から私たちを見下ろしていた。
なるほど、これは十影で喰えなかったのにも納得できる。コイツは神性が強すぎるのだ。そして、私が想像していたよりも遥かに巨大なのだ。それはつまり、この地域に丑の刻参りモドキがどれだけ浸透しているのかを、どれだけの人間が呪穴に呑まれたのかを物語っている。
信仰と怪談に大きな違いはない。
いつか、欠伸をしながら聞く十影に話したことがあった。
これはまさに噂が、神話になったと言っていい。
冷や汗の冷たさに肩を震わせながら、十影に告げた。
「一瞬でもいい、あの化け物を木から離せ」
「しゃあ!!」
十影が黒いマスクを、黒い手袋を脱ぎ捨て、痛々しい火傷跡を露わにするのとほぼ同時、そこから黒い瘴気が上がる。
そして、チリチリと空気が焼けつき、焔がユラユラと立上がる。
普通の炎ではない、黒い炎だ。
左手へ、左目へ黒い炎を纏い、栗山十影本来の姿になる。
すぐさま、十影が巨大な楠木の上へ向けて飛び上がる。そして、彼女の身体よりも大きな五本の黒炎揺れる指で化け物を薙ぎ払う。
一般的な怪異なら大概これで終わる。当然、今回はそうならない。
化け物の腕に五本線の深い傷を刻む程度だ。
「うぇっ、やっべ!」
化け物はお返しとばかりに青白い腕で十影を薙ぎ払う。
今回の私の出番は二つある。
口を開けたキャリーケースに手を突っ込み、ごわんと音を立てて水甕を石畳に置く。
「食め」
指示を与えると、すぐに水面から半透明の獣のようなものが化け物の払おうとした腕に噛みつく。
犬神。
憑き物としてそこそこ有名な怪異な存在だろう。ただ私のアレは、呪物では済まないレアな品物だ。なにせ、ああやって土佐犬のような体躯で噛み付くことだってできる。
「サンキュー青紫!」
敵の攻撃が止まったと見るやいなや、追撃に入る十影。
十影のサポート、私の出番のうちの一つだろう。あの六本もある手足から、アイツを守らなくてはならない。
二撃、三撃と黒い炎が化け物を削り取っていく十影だが、化け物の方は先ほどからニヤニヤと笑うばかり。まだまだ余裕があるらしい。
ふと。
怪物の背中がぶにぶにと隆起し始める。
「──連れ帰れ!」
「おわっ!?」
犬神は指示通り、強引に十影の襟首を咥え、私の目の前に送り届けさせる。
それから一瞬遅れて、化け物の背中からさらに四本の腕が生え、さっきまで十影がいた場所を握り潰していた。
「……どうだ、十影」
「ぜんっぜん手応えない、あとめっちゃ不味い」
「味は訊いていない」
やはり、今の十影では出力不足らしい。化け物の方も、先ほど十影が抉った傷の奥から、指のような突起が次々に生え始めている。
「今のままどこまで出力できる?」
「んー、多分さっきの二倍までなら抉れると思うけど……そう何度もできないぞ?」
「いや、構わん」
キャリーケースの方を見下ろす。
信仰と怪談は成り立ちこそ同じだが、生まれる存在は別物と言っていい。怪談は恐怖でしかない。しかし、信仰は畏怖だけでなく祈りでもある。今回ならば、相手を呪いたいという祈りだ。祈りを託されるからこそ、神格を持ち、祈りを叶えられるよう権能を持つ。そういう存在であってくださいと定義されたのだから。
神格を持ち、ここまで流布された信仰となると、怪異を専門としている私のような魔術師でさえ対抗策がほぼない。だからこそ、手を出す気はなかったのだ。
だが、打つ手が全く無いわけではない。こと、この化け物においては。
「言った通りだ、一瞬でもアレを木から離してくれ」
「……わかったよ、帰りはちゃんとおぶってくれな」
黒炎が、更に轟々と燃え上がる。封じられている今の十影が出せる最大出力。
再び、二つの化け物が対峙する。
黒炎の怪異喰らい、栗山十影。
丑の刻参りから生まれた呪いの苗神。
醜い神は大きな口から歯茎を見せニヤリと笑う。
ただ、私に背を向けて神と対峙している、こちらの化け物もきっと笑っているのだろう。
動き出すのは十影。
だが、苗神も今度は黙ってはいない。背中から生えた四本の腕を伸ばして十影を捕らえようとする。
「食い千切れ!」
犬神への指示が響き渡る。すぐさま、待機していた我が忠犬は両者を超える速度で飛び出していき、四本の細腕を噛み千切っていく。
非常に強力なこの特製の犬神だが、今のでこの子の魔力はほぼ尽きてしまっている。
「ここで決めてくれ十影!」
「当たり前じゃん!!」
さらに肥大化した黒炎の左腕が、苗神の脚を引き裂く。
『───────ッ!!』
流石の神様も、片側三本の手足を八つ裂きにされて水牛の雄叫びのような悲鳴を上げ、身体をよろめかせる。
しかし。
まだ落ちない。
ヤツはまだ樹上にしがみついて離れない。それどころか、苦痛に開けた大口をそのまま十影に向ける。
がりっ。
「ああああああああっ!!」
十影の悲鳴だった。
彼女は、苗神の顎に左半身を食らいつかれたのだ。
「十影っ!?」
まずい。
いくら化け物とはいえ、十影はほぼ人間だ。このままでは半身を千切られる。
しかし──あれはこの状況でまだ使えない。犬神は魔力切れでもう出力が……。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!
クソ痛ってぇぇぇえ!!!」
黒い焔。
それが苗神の口から噴射したかと思えば、ヤツの下顎を焼き尽くした。
あの馬鹿、わざと避けずに食われたのか。苗神を内側から抉るために。
今度こそ、苗神の身体は傾き、御神木から真っ逆さまに落ちる。
──ずしんっ。
だが、苗神はまだ終わらない。いや、これで終わるなら苦労などしない。厄介なのは、ヤツの媒介たる若木が苗床になった人間から精神エネルギーを吸い続けているところ、そして何よりも呪いを信じる人々の存在が異形の神をまだ終わらせない。
地面に落ちた苗神は、指のような突起物を身体中に生やし、千切られた手足に、抉られた下顎に充てがうように伸ばしていく。
対して十影の方は、先ほどの攻防でかなり消耗してしまっている。左腕の炎も明らかにさっきより小さい。
──ようやく勝負が、ついたな。
それは突然起こった。
青紫と十影が苗神と死闘を繰り広げていたその時、全国各地のテレビ画面に、動画視聴サイトのモニターに、スマートフォンの画面に、奇妙な異変が起こる。
映し出されるのは異形の化け物。
毛の無い青白い肌で痩せ細っているのに、腹部だけが歪に膨張している、餓鬼のような身体つき。よく見れば手足が全部で六本あって虫を彷彿とさせる。そして、頭部には人間を真似たような出来損ないの顔があり、それこそ人間であることを表したいのだろうか、顔の上半分を隠すように大黒天のような笑顔の老人の仮面を引っ提げている、異形の化け物。
その姿が、唐突に多くの人々の視界に飛び込んできたのである。
悲鳴、悲鳴、悲鳴、相次ぐ悲鳴。
金切り声、驚嘆の声、次から次へと困惑する人々が増えていく。
たった数秒の出来事だった。
この夜、世間に一つ新たな怪異が生まれた瞬間であった。
その名を──“なれノ神”と。
ヤツにとっては、突然の出来事だったのだろう。
大黒天のような老人の仮面に突如としてヒビが走る。身体中を埋め尽くす指の群れの勢いが止まり、ヤツの肉体が再生しなくなる。
そう、私が仕向けたのだ。
今回のとっておきは、準備していたのは犬神なんかではない。
名を“NNN臨時放送”。
真夜中、砂嵐のテレビ画面に突然映し出された『明日の犠牲者』をテロップで流していく不気味な放送。かつてインターネットで語られた都市伝説の一つ。その要素の一部を今回はずっと構え続けていたのだ。
放送ジャック。
目的は唯一つ。
苗神を、神様から怪異に変えるため。
「信仰と怪談の話、前にしたのを覚えてるかい、十影?」
「ああ、覚えてるよ、一応ね」
「なら話が早い。全国の人々にこの異形の化け物の姿を数秒だが突然見せつけてやったのさ。
すると、人々はどう思う?
唐突で短い非日常に恐怖するもの、困惑するもの、騒動を楽しむものもいるかもしれないが、皆一様にこれを怪談として認識するだろう。
そう、結局は解釈の一致でしかない。真実がどうであれ現実はより多くの人々は認知する。こんな姿の怪異がいると。
御神木を映さないことが重要だったのさ。そこは十影のお陰だよ。この御神木の主や神様かもしれないという解釈の余地を残しちゃ意味が無いからね。
たしかに、信じる者を積み重ねていく信仰から生まれた神様とやらは非常に強力だよ。だがね、私が研究しているものたちは一瞬あればいいのさ。多くの人々が目撃し認知し恐怖した。たったそれだけで怪異は生まれる。
信仰は積木だが、恐怖は火災なんだよ。
さて、この街の人口と信者、全国でたった今目撃した数万、数十万、数百万の被害者、どちらが多いか君にはわかるかい、十影?」
「……よくわかんないけどさ」
彼女はニヤリと笑いながら告げた。
「やっと美味そうな匂いがしてきたな」
それは、捕食者の眼だった。
神様になり損ねた怪異。その末路は惨めなもので、すぐに肉薄した十影の黒い焔によって跡形もなく食い尽くされしまうのであった。
◆
ふと目を覚ますと、そこには白い天井があった。
「……病院?」
今度は少し身体が重いことに気が付く。ゆっくりと上体を起こしてみると、理由はすぐ目の前にあった。
十影が、白いベッドの傍ら、私の上半身へ覆いかぶさるように寝ていたのだ。
「えっと……?」
記憶を辿る。
たしか、丑の刻参りの件で遠出してて、結局私達で対処できないから帰ろうって────あぁ、そうか。
最後の記憶はあの青白い若木。
きっと、私は足を引っ張ってしまったのだろう。何もできないどころか、十影や青紫さんを巻き込んでしまったのだろう。
おそらくは、私はあの若木に取り憑かれてしまっていて、それを二人が助けてくれた。そういうことなんだろう。
すやすやと寝息を立てる十影の頭をそっと撫でてみる。彼女の髪は思っていたよりも艶があってさらさらとしていた。
「ありがとね、十影……」
ふと、病室の扉が開かれる。そこから顔を出したのは、いつもより少しげっそりとした青紫さんだった。
「おや、目が覚めたかい……っと、今度は十影が寝てるのか」
「はい……青紫さんもひどく疲れた顔してますけど、大丈夫でしたか?」
「あぁ、私は平気だ。なに、若い頃は連日徹夜で研究に耽っていた事もあった身だ、一晩くらいどうということはない」
あっはっはと青紫さんにしては豪快に笑ってみせた。
「すいません……多分、私のせいですよね」
あのとき、倒れてからの記憶はないが二人を見ればわかる。丑の刻参りモドキというのと、無理をして戦ったのだと。
罪悪感を抱える私とは対照的に、彼女はきょとんとした顔で告げた。
「何を言ってる? 今回は君が若木を見つけてくれたから、私も解析に時間を割けたんだ。君も立派な功労者だとも」
「えっ、でも……」
「それに──」
私の言葉を押し殺すように青紫さんは言う。
「それに、君が無事でなによりだよ」
そして、手を口に当てて上品に微笑んだ。
……初めて見たかもしれない。この人がこれほど慈しみの溢れる表情をしたのを。いつも何を考えているのはわからない飄々として、いざというときは冷淡な人だと思っていたが、それはもしかしたら間違っていたのだろうか。
ふと、私の腰が軽くなり始めた。
十影が眠そうに目を擦りながら顔を上げたのだ。
「んあ……未耶、おはよ」
「お、おはよ……」
「……」
「……?」
ぽかんとした顔のまま固まった十影。
次の瞬間、目尻から大粒の涙をポロポロと流して顔を歪ませた。
「未耶ッ!! 無事か、無事だよな!? 心配したじゃぁぁん!!!」
そうして、泣きべそでぐちゃぐちゃになった十影が飛び込んでくるのであった。
大丈夫……か。
病室を後にした私は、廊下の天井を見上げため息をついた。
実を言うとそんなに大丈夫ではない。なにせ、全国に一つの怪異の存在をばら撒いた事件を起こしたのだ。ここ数日はその処理で寝る暇も無かったものだ。少なくとも、協会やWMOの連中は黙っていないだろう。
……あまり、あの子らを巻き込みたくはないのだがね。さて、どうしたものかと思考を巡らせる。
しかしまぁ、
「……他人を気遣うとはね、私も大人しくなったものだな」
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