ひとりかくれんぼ
「まぁ、こんなもんか……」
目の前にはくたくたになってしぼんだぬいぐるみが横たわっている。彼の白い五臓六腑を引きずり出した本人は、ぬいぐるみと同じようにしぼんだ顔で退屈そうに、黒マスク越しの溜息をついた。
「ねぇ、こんなんでホントに怪異来んの……?」
「飽きる早いって、ほら次はこれ」
気の進まない相方へ今度は五キロの米を手渡す。不思議そうな表情で返されるが、さっき説明したでしょ?と強引に持たせた。正直十影よりも私の方が億劫。だって、私は十影みたく怪異に対応する手段なんて持っていない、ただただそこにいる存在が見えてしまうだけ。降霊術なんて噂されているものなんて試したくもない。
「ねぇ、これ未耶がやるんじゃダメ?」
「ダメ。面倒がらないのはわかるけど、一応青紫さんの指示だから」
「アイツの?」
「私が作ると、私が標的にされるからダメなんだって」
「えっ、あたしは呪われろってこと?」
「そうそう、話が早い」
今度は私の方が溜息をつきながら、ぼやき続けて作業が進まない彼女からハサミと米を取り上げて封を切り、再度押し付ける。十影にはこの米を、目の前のくたくたになった人形の中に詰め込んでもらう必要がある。それも儀式の手順の一つ、そう指示されているのだから。
「そういえば、ぬいの名前決めた?」
「チャッピー」
「……なんで?」
「なんとなく」
彼女は不機嫌そうに米袋に手をつけた。
儀式の手順。
一つ、ぬいぐるみに名前を決め、中の綿を摘出して米と自分の爪を入れて赤い糸で縫い合わせる。
なんでも白い米はぬいぐるみの内臓を、赤い糸は血管を表しているのだという。何故米を、と青紫さんに聞いてみたが、なんでも古くからある日本の伝統として米や稲は命の源、神からの贈り物、神々が込められたものとして神聖視されているそうで、この儀式を最初に考えた人もぼんやりとした神聖そうな雰囲気から選んだのではないかと言っていた。神聖視されているところまではわかったけど……そんなテキトーな感じでいいのだろうか。
「未耶~、針と糸どこ?」
「ああ、ちょっと待ってて」
気が付くと、もう米を入れ終えたようで、さっきのくたくたなぬいぐるみとは見違えるほどたくましくふっくらとしたテディベアの姿があった。すぐとなりにはぺたんこになった米の袋が横たわっており、どうやら五キロ全部入れたようである。
「全部入ったんだ、米」
「まーね、わりとすんなり入ったわ。めっちゃ重いけど」
「そりゃそうでしょ、五キロってあ───
「……ん?どうしたの?」
「ううん……何でもない」
赤ちゃんくらいの重さ。
そう言おうとしてやめた。このあと、このぬいぐるみは十影の持っているサバイバルナイフで串刺しにする。その光景を、そういう見方で眺めたくはなかった。
二つ、午前三時にぬいぐるみへ、最初の鬼が自分であることを三度繰り返し告げて、水を張った浴槽へ入れる。
三つ、家屋内の全ての照明を消し、テレビだけつけて砂嵐を流し、十秒間だけ目を瞑る。
四つ、刃物をもって再び浴室に戻り、ぬいぐるみの名前を呼び、見つけた旨を告げて突き刺す。そして、次はぬいぐるみが鬼であると告げて今度は自分が隠れる。
これで儀式自体は完成。あとは怪異が出てくるまで隠れて待つのだそうだ。
少し気味が悪い。
ひとりかくれんぼ。
それがこの奇妙な儀式の名前。この名前自体は映画とか小説とかで聞き覚えがあるが、実際のものがこんなに気持ちの悪い儀式だとは思わなかった。普通にかくれんぼするだけでいいんじゃないのか。そもそもぬいぐるみの中身を入れ替えたり、わざわざ刃物を突き立てたり、あまりにも猟奇的だし、無駄にぬいぐるみを冒涜しているようにも思える。
いわく、この儀式そのものに意味は無いらしい。元々、これは自己陶酔や自己暗示、自己催眠の類のものだと言う。緊張感と非日常感で彩り、“何が起こっても不思議じゃない雰囲気”を作るものだと言う。
赤い糸を縫い終えた十影が深い溜息を吐き捨てた。
「まじだりぃ……次は?」
「終わったのね、下準備はそれくらいのはず」
「ふぃ〜、じゃああと三時まで待機?」
「そうなるかな」
そう告げると十影は呑気にもふらふらとソファにもたれかかった。左手は手袋をしたままだったし、結構神経を使っていたのだろう。そのわりには、ぬいぐるみの縫い目は綺麗に隙間なく仕上がっているようで、相変わらず手先は器用らしい。
いつも通りお気楽な彼女と違い、私はどうにも落ち着けないままでいた。
本件は、青紫さんの事務所に舞い込んだ相談事から始まった。依頼主は今いるこの家の家主だ。話によると、依頼主はこの家を知人に貸して住まわしていたようなのだが、半年前にその知人は突如失踪。その後は事件性が無いものとして扱われ、あまりしっかりと捜査はされなかったという。依頼主は知人の家族とあれこれ揉めたようだが、とりあえず一件落着となり、業者を呼んでこの家を清掃してもらったそうだ。
本題はここから。私はあまり詳しくないが、色々法律があってこの半年の間はこの家に誰も入っていないらしく、半年前のままになっているはずなのだが、そこで清掃業者が浴室で奇妙なものを発見したそうだ。
それが、お米が詰められたぬいぐるみと、錆びたカッターナイフ。
今、私たちが行っている儀式と同様のものなのだ。
その他に奇妙なところは無かったものの、インターネットで調べて“ひとりかくれんぼ”を知った依頼主は気味が悪くなり、たまたま知った青紫さんのところに駆け込んだという。
青紫としては、ご供養か清祓で済むようなものらしいが、本人いわく、ひとりかくれんぼの呪物はまだ持っていないのでせっかくだから依頼を受けたのだそうだ。
そして私たちが現場作業員として呼ばれた、というのが今回の顛末だ。
儀式をするのも、処理するのも全て十影の役割だから私は必要無いのではないかと思うが……、どうやら十影の報告はまったくあてにならないらしく、”視える”体質の私が観察役であり、十影がサボらないように監視役でもあり、そして私もそろそろ十影について知っておく良い機会だから、だそうだ。
たしかに、私は十影がどのようにして怪異を処理しているのかは知らない。
今でこそ、私たちは仲の良い友人であり、時折こうして仕事を遂行するパートナーだ。ただ、彼女とは小中高と同じ学校の幼馴染みたいなものだけど、私と十影がこうして話し始めたのは高校生くらいの頃からで、それ以前の事はほとんど記憶にない。特に小学生の頃の十影は顔も思い出せないレベル。十影の事について知らないことが沢山ある。
そう思い、引き受けたわけなんだけど……。
こうして現地で儀式が進んでいくのを見ていると、少しずつ臨場感と儀式の気持ち悪さで思ったよりも怖い。
「ねぇ十影」
「んー、どした?」
ソファにふんぞり返ったまま、顔を向けずに声だけ返される。
「今のテレビって砂嵐にならないんだっけ?」
時刻は二時半頃。
そろそろテレビも準備しておくかと、放送時間外の番組を開こうとするがほとんどのテレビ局が放送中、唯一四時まで休止している局も砂嵐ではなくカラーバーのようだ。
「あれってアナログテレビじゃないと出ないんじゃない?」
「ほんとに? えっ、じゃあ儀式どうしよ……」
「よくわかんないけど、そのピーってカラフルなヤツでいいんじゃん」
「いいのかな?」
「いいでしょ。そういうの指示しなかったアイツの責任だし」
「……今日のこと、怒ってる?」
「別に」
相変わらず顔すら向けずにそう答えた。あの感じは多分怒っている。
そうして三十分後。時刻は午前三時になる。
儀式の時間だ。
「十影」
「はいよ」
何度目かのため息をついた十影が立ち上がる。その手には米と十影の爪が詰まったテディベア、そして大きなサバイバルナイフ。
「塩水は?」
「用意してあるよ」
私の手にはペットボトル。中身は青紫さんから渡された塩が溶かされた塩水である。なんでも、二時間か三時間程度であれば、塩水を口に含んであのクマに吹きかければこの儀式を終わらせられるらしい。
基本は十影が処理するのだけど、イレギュラーがあった時の為に用意してあるものだ。
「よし、やっと始められるね」
十影はずかずかと、私はそんな十影の後を追うように浴室に向かう。浴槽へはあらかじめ水を張っており、彼女は躊躇う様子もなく、クマを冷水へ落とした。
呪文。
「最初は十影が鬼だよ」
「最初は十影が鬼だよ」
「最初は十影が鬼だよ」
彼女が三度唱える。
次に、部屋の照明や明かりを全て消して回る。これは二人で手分けしてすぐに終わった。
次に、十影がカラーバーの鳴り響くテレビの前で十秒間目を瞑る。
私は十影の監視役であり、同時に事態の観察役でもある。異変が無いかドキドキしながら見守るのだけど、十影が目を開くまで特におかしなところは無い。
「んじゃ、あたしが鬼だな」
十影本人にも変化は無い。気だるそうにサバイバルナイフを持ち、私を引き連れて再び浴室に向かう。当然、ぬいぐるみは浴槽に入ったままだ。米の重さで底まで沈んで動く気配もない。
右手の袖を捲り、彼女は水面へ刃物をくぐらせ───
「つめてっ」
「ひっ!?」
十影の肩がビクンと跳ね上がる。
……急な十影の声に、私は思わず声を漏らしてしまった。
「……結構マジでビビったんだけど」
「私も十影の声にびっくりしたんだもん」
半目で訴えかけてくるその目に、そう言い訳することしかできなかった。
今度は無言で水に手を入れ、サバイバルナイフでクマをぐっさりと突き刺す。一切の躊躇いの無さに少しぞっとするが、彼女はそんな私など構いもせずに続ける。
呪文。
「次はチャッピーが鬼だから」
「次はチャッピーが鬼だから」
「次はチャッピーが鬼だから」
十影が三度繰り返す。
これで準備は一通り完了した。あとは私たちが隠れるだけである。
未だ、何も起こらない。
少しだけ奇妙な感覚だった。
ひとりかくれんぼは降霊術の一種と聞いている。ここまで手順を踏めば、何かしら嫌な感じとか、霊的な何かが視えてもよい頃合いにも思えるが、今のところ何もない。
十影も同じことを思ったのか、振り返って私に「何か見える?」と尋ねるも、私は首を横に振るしかできない。
「やっぱそうだよな……あたしも全然匂い感じないんだよ」
匂い……?
少し疑問に思うも、すぐに十影の声にかき消された。
「まぁとりあえず隠れようぜ、別々に」
うん、一応儀式だし私たちも……あれ?
「えっ、別々に?」
耳を疑う。何言ってるんだこいつ?
「そりゃひとりかくれんぼでしょ? あたし一人で隠れてなきゃ意味ないんじゃね?」
「いや……たしかにそうだけど、えっ、さすがに無理だって」
「大丈夫大丈夫、これ標的はあたしじゃん? なんかありゃ大きな声出して報告してやるから、それから見に来れば問題ないって」
「それもそうだけどさ…………いや、ごめん普通に私が怖いって話なんだけど」
「あー、えっ、未耶お前何しに来たんだよ」
「だって青紫さんが」
「いい歳して半泣きになってるんじゃないよ。一応仕事なんでしょ?」
そう言われてしまうともう返す言葉もない。抵抗虚しく、私は十影とは別々の場所に隠れることとなったのだった。
時刻はちょうど午前四時くらい。
かれこれそろそろ一時間が経過しようとしているが、未だに物音一つしない。誰かの気配も無いし、クマが十影を探し回るなんてことも全く無い。強いて挙げるなら、遠くでテレビのピーという音がし続けているくらいだ。最初こそ震えが止まらなかった私だが、十分もすると体力に限界が来たのか、震えも止まり、完全に脱力し切ってしまっている。こうなってしまうと人間投げやりになってしまうようで、もうどうにでもなれという心境に至った。
正直、青紫さんがわざわざ十影と私を派遣されるということは、てっきり本当に怪異が登場するものだと思っていた。何が現れるかまでは想像もできないし、したくもないが、少なくとも心霊現象の一つや二つは覚悟していた。しかし、蓋を開けてみればこうして何事もなく時間だけが過ぎていく。現状、私が十影の前で無駄に半泣きしただけになっている。
あるいは、儀式が失敗していたのかもしれない。
要素はいくらでもある。ひとりかくれんぼなのに、儀式を始める段階で二人いたし、なんなら今も二人で隠れている形になっている。それにテレビも砂嵐ではなくてカラーバーだった。青紫さんは儀式そのものに意味はないと言っていたし、これでも大丈夫だと思っていたが、本当は儀式の手順にもしっかりと意味のある行為だったのかもしれない。
しかし、こうなってくると十影が居眠りしていないか心配だ。
最初からあまり乗り気ではなかったし、ここまで一時間何もないようでは退屈になって寝落ちている可能性もある。
四時半くらいになったら一旦出て十影の様子でも見て来よう。一応塩水も十影が持っているし、念の為チャッピーに塩水を吹きかけて今日はおしまいかな。
再度スマホの画面を見る。
時刻は四時三分。
長い待機時間だ。十影の心配をしたものの、私にも睡魔が近づきつつある。何とか耐えないといけないな。
こうして、眠気にうとうとしながら夜闇を過ごしていると、学生の頃を思い出す。社会人になってからは夜更かしなんてしている暇もなくなってしまったが、昔はアニメや映画やらを見て夜を越したことが何度もあった。深夜アニメも録画じゃ視聴した気にならないと強がって、放送時間まで粘っていたのが懐かしい。あの頃の十影はすでに今とそう変わらず、じっとしているのが苦手で飽き性だった。ファッションセンスも私と違ってロック、前髪とマスク、手袋で火傷跡を隠しているのもあの頃から。私と違って外交的で趣味もどちらかというとアウトドア派、生粋のインドアな私とは合わない。だけど、なんだかんだ、私の話をいつも楽しそうに聞いてくれる子。
思えば、いつも私のアニメの話をわからないながら聞いていてくれたのも十影だったと思う。
時刻は四時十二分。
相変わらず外からはカラーバーのピーという音しかしない。
……あれ?
この状況に覚えた違和感。
何か、忘れている気がする。
これまでの記憶を思い返す。
五キロの米、呪われることに拗ねる十影、チャッピー、赤子くらいの重さのテディベア、手先が器用な十影、家の残されていたぬいぐるみとカッターナイフ、まだまだ知らない事の多い友人、砂嵐にならないテレビ───。
そう、たしかに私はさっき今日の番組表を確認した。休止しているテレビ局は一つだけで、休止時間も四時までだった。四時からは早朝のニュースが始まるはずである。
それなのに。
ピ──────。
クローゼットの外では、カラーバーの音だけが鳴り響いている。
時刻は四時十三分。
おかしい。
絶対におかしい。
すぐに検索し直しそうと思い立つが、よく見れば画面左上には”圏外”という二文字。
ピ────────────。
袖であごを拭うと、じっとりと濡れている。
疲れ切っていたはずの体が震えている。
なんだか、あの音近くなってきてる?
ピ────────────────────。
やっぱり気のせいじゃない。
音が大きくなってきている。いや、違う。近づいてきているんだ。
おかしい。
絶対におかしい。
降霊術は、ひとりかくれんぼは不発に終わったんじゃないのか。そもそも、降霊術を行ったのは十影の方で私の方に来るわけがない。
いわく、これは触媒の無い魔術のようなものらしい。そのとき、青紫さんの言葉に一つの疑問を持った。触媒になる何かがあるのなら、それは列記とした魔術というものになるのだろうか。
ピ────────────────────────────────────────。
音が近づいてくる。
迫ってる。
私のいる部屋に。
クローゼットの前に。
ゆっくりと。着実に。
「んひぃ!」
……。
…………止まった?
突然静かになった。
震えた手で押さえていた耳をゆっくりと開いてみる。
無音だった。
何も音がしない。
カラーバーの電子音も、何かが迫ってくるような気配もしない。何も感じない。
なんとかやり過ごせたの……?
そう思った途端、肩から力が抜け落ち、止まったままの息を吐き捨てた。
その刹那だった。
大きな音と共に、何かが顔のすぐ傍を横切ったのは。
なに?
なになになに?
なにが、おこって?
頭が追いつかない。
真っ暗で何も見えない。
自分の荒い息遣いしか聞こえない。
硬直したまま指すら動かない。
ただ。
頬に何か鋭い物が当たっているのだけはわかる。
すると、木材が軋む音と共に顔横にあった物体が引き抜かれ、そこでようやく、その穴を見てようやく状況を理解できた。
クローゼットの外から、何かが刃物を突き立てている。
ズガンッ。
炸裂音と共に、次は私の身体と見当外れな場所が貫かれる。刃物はすぐに引き抜かれ、二つの隙間から僅かにだけ光が差し込む。
意味がわからない。
まだ頭が回らない。
まだ真っ暗でよく見えない。
さらに早まる吐息と木材の悲鳴。
身体はガチガチと震えて止まらない。
以前何が起きてるのか整理できない。
でも。
このままだと私が殺されることだけはわかる。
咄嗟に飛び出した。
全体重を、出せる全ての力を込めて、クローゼットの外にいる何かすら突き飛ばす勢いで。
だが、走り出す私の気持ちとは異なり、身体は思いっ切り床に激突していた。
「痛っ……!」
骨に響く痛みについつい呻きを上げる。だけど、それどころではない。
すぐに起き上がり辺りを見回す。
小刻みに震えて力の入らない下半身、隣のリビングのテレビの光しか明かりのない暗い部屋、何故かリビングから砂嵐のようなザーッという音が漏れ出ている。
そして、足元には転がるサバイバルナイフと、倒れたままのテディベア。
チャッピーだ。
鬼役のチャッピーが探しに来たんだ。
思考が巡る。
鬼役。
サバイバルナイフ。
儀式の手順。
次の鬼はチャッピー。
今の鬼はチャッピー。
チャッピーは、鬼役を渡すために、次の鬼を示す為に、私を突き刺しに来ている。
「───ッ!」
叫び声を、助けを呼ぼうとするも喉の奥に声が引っかかる。
立ち上がろうと、走りだそうと足腰に鞭を打つが言う事を聞いてくれない。
鼓動だけがバクバクと早鐘を打つ。
視界の端。小さな怪異はむくりと立ち上がる。
非情に、無情に。
次の鬼へ送る鋭利な刃物を掲げ、糸で結われたガラス玉の双眸をこちらに向け、一定の速度で一歩ずつ。
リビングからの光が強まり、耳を劈くノイズ音が次第に大きくなる。
クマの歩に合わせるように。
ゆっくりと。着実に。
怖い。
怖い怖い怖い。
───これまで、幾度となく幽霊も怪異も見てきた。線路下に寝そべる頭の無い人、交差点の向こうで手を振り続けている人、誰かの肩に寄り掛かる足の無い人、首を吊ったままいつも窓のから見下ろしている人。数えればキリがないほどのおかしなものを見てきた。数えきれないほど恐怖を感じてきた。
ただ、違う。
その姿が、行動が、得体の知れない存在が怖かっただけのものとは違う。
明確な敵意、殺意、死の恐怖。そういったものが、刃物のように喉元へ突きつけられているような現実感が、私の身体に絡みついて離れない。
「いや……誰か、助けて……」
突如、バシンッと音が走る。
「いや、何やってんの未耶」
視界の端から飛び出してきた足がチャッピーへ炸裂して、部屋の奥まで吹っ飛んでいった。
「騒がしいと思って来てみればさ、先に盛り上がっちゃってずりぃな」
十影だ。
彼女はいつも通り変わらない様子で、チャッピーの前に立つ。
チャッピーの方もむくりと起き上がる。
すると、今度はテディベアの体が急激に膨れ上がる。頭と胴体が蒼白な人肌の肉の塊のようなものに肥大化し、手も同じくぶにぶにと膨張し、足はそれらの肉に潰れててよく見えない。特に頭部の肉量が異常であり、成人の肥満体な身体でありながらも等身はまるで赤子。そして、その頭部には私や十影のような成人女性くらいは簡単に飲み込めてしまいそうな、口と思わしき孔部が観音開きのように広げられている。
思わず想像してしまう。いや、せざるを得ない。
あの怪物に、頭から吞み込まれてしまう自分を。自分の死に様を。
「へぇ、あんな儀式でも怪異出てくるんだ」
相も変わらず飄々とした態度の十影。
……否、いつもと様子が違う。
彼女の手袋から、服の左袖から、マスクの内側から、黒い煙のようなものが溢れ出ている。煙というよりは、瘴気のようなものに近いかもしれない。それも、凄まじい濃度の。
「そんじゃあ、お互い喰らい合うとするかチャッピー」
例えるなら、それは黒い炎。
蜃気楼みたくゆらゆら揺れる中、黒く灼けつく彼女の肉体よりも大きな左腕。彼女が普段は隠している火傷跡を覆うように、黒炎が燃え上がっているのだ。
いわく。
───あれは忘却の魔物だよ。法も理も、何もかもを置き去りにして“本当の死”を与えられる死神なのさ。
「あたしの勝ちだ、チャッピー!」
次の瞬間、大口の肉塊は、焼け尽くす黒い五指によって穿かれているのであった。
◆
「十影、私の言ったことを覚えているな?」
「さぁ、昨晩吐いたゲロにそんなのもあったっけね?」
「まぁまぁ、一応事件は解決したわけですしいいじゃないですか」
「ま、解決っても見つかったの遺体だけどな」
「いや、そんな事はどうでもいい。それよりも私のコレクションになるはずだったのにどうしてくれる!」
翌朝。
朝から青紫さんは青筋を立てて十影を見下ろしていた。回収を指示されていたひとりかくれんぼの怪異も、ましてやテディベアすらも喰らい尽くしてしまったからだ。
対して十影も不機嫌だった。青紫に怒られると気付いた本人が、ヤケになったのか朝まで飲んだくれ、終いには吐瀉物を撒き散らした後だからだ。今も頭痛が酷いという。
十影に関しては完全に自業自得だけど。
結局、十影は今月は減給になることで話はすぐに纏まった。そして、彼女は大変不服そうに出ていってしまうのだった。ここの主はというと、大きなため息で見送るだけであった。
「……すいません、私がもう少ししっかりしていれば」
恐る恐る、不機嫌そうな青紫さんへ伝える。
「いや、気にしなくていいさ」
そう返すと彼女はいつものワークチェアに身を預け、お気に入りの珈琲に口をつけた。
「それに、君はいいのかい?こんな時間まで付き合ってて」
「あぁ、それなら今日非番にしてもらってるんで大丈夫ですよ」
彼女はそうかい、と一息つく。
十影と青紫さんが揉めているところは何度か見た事がある。十影の方がいい加減でテキトーな性格をしているので、概ねトラブルの原因は彼女の方だろう。
「十影、どうだった?」
おもむろに尋ねられる。
「どう、と言われても……」
言葉に詰まる。
黒炎を纏い、怪異を貫き、炎で呑み込んでしまう彼女の姿は、私の知っている栗山十影とはまったく異なる存在だった。思い出すと恐怖さえ覚えてしまうものだった。
ただ、疑問に思うところもある。
「……あの、あれは何なんですか?」
これまで、幾度となく幽霊も怪異も見てきた。線路下に寝そべる頭の無い人、交差点の向こうで手を振り続けている人、誰かの肩に寄り掛かる足の無い人、首を吊ったままいつも窓のから見下ろしている人、そして巨大な赤子のような肉塊も。数えればキリがないほどのおかしなものを見てきた。数えきれないほど恐怖を感じてきた。
ただ、違う。
肌で感じたあの感覚。それは幽霊や怪異とは、明らかに違うものに思えるのだ。
「正直な話、私も解明はできていない」
ため息をつき、煙草を加え、カチンッと金属音を鳴らしてオイルライターで火を灯す。
「君が視ても、なお何も分からないというのなら私だってお手上げだよ」
そして、彼女は煙を吹き出して続ける。
「前にも言ったがね……私は栗山十影を飼っている身だが、場合によっては私ですらあれを止めることはできないかもしれない。それほどに危険な存在だ。
君はそれでも───」
「前にも言ったじゃないですか、青紫さん」
毅然と紡がれた言葉を弾き返した。
たしかに。
十影へ対する私の感情に恐怖はある。十影が化け物であるという忠告は以前から散々受けてきた。十影が怪異ですらない“なにか”であるというのを今回で実感した。
それでも。
「私が唯一覚えている友人なんです。今でも忘れたくなんてありませんよ」
これは私のわがまま。過去のない私が唯一持っている繋がり。そして、私に残された最後の糸口なのだ。
「……再三忠告はしたからね、新妻未耶」
煙草が灰皿へぐりぐりと擦られ、種火が消えていくのを見届ける。そうする彼女の目は、眼鏡で反射してよくは見えなかった。
◆
新妻君の帰宅を見送る。
彼女は間違いなく良い人間なのだろう。朗らかで大らかで心優しく、こんな偏屈な私にさえ懐いてしまうほど人懐っこく、過去を失った今でもきっと交友関係が広いのだろう。
ただ、頑固なところと体質だけはよろしくない。
今回の件もまさにそうだ。
“ひとりかくれんぼ”という降霊儀式の手順は間違いなかった。それに事前指示通り、儀式の内容に未耶の存在は出さなかった。一連の行為は全て十影に実施させたし、二人ともそこはしっかりと守ってくれた。
だが実際はどうだ。襲われたのは十影ではなく新妻君の方だったという。
薄々、そんな気はしていた。
生贄体質。
巫女適性とも言えるだろうか。
この世ならざる者たちを受け入れやすい生まれ持った体質。宗教や霊現象よりも科学を信じる今の時代において、千人に一人といない非常に珍しい体質だ。
普通、人間には精神の許容量がある程度決められている。成長で稀に増えるケースもあるが、基本は生まれ持ったものである。その許容量が他者よりも過剰なほど多いのがこの体質なのだ。私たちの業界から言うのなら生まれ持った魔力量が異常に多いということにもなる。
精神の許容量、魔力量が多いということは、怪異からすると栄養満点の餌と同義でもあるし、修羅神仏からすれば自分の力を預けても耐えられる人間という意味でもある。
だからこの体質の持ち主は、怪異から狙われやすく、幽霊に取り憑かれやすく、それ故非常に短命なのだ。
この体質を理由に、かくれんぼの怪は儀式主ではなく新妻君を狙ったのだろう。
そしてあるいは───この体質を理由に彼女は栗山十影によって死ななかったのかもしれない。
今一度、タバコに火をつける。
珈琲も入れ直そうとしたが、電気ケトルにはもうお湯が残っておらず、渋々水を入れて給湯をセットする。
しかし、あの頑固な性格は本当によくない。
今回、新妻君にわざわざ現場に行かせたのには、もう一つ“彼女に怯えてもらう”という目的があった。怪異ではない、栗山十影という存在にだ。さすがの新妻君も、十影の本性を見れば怖気付いてしまうだろうとタカをくくっていた。
……まったく、ただでさえ短命だというのに。
カチッ。
電気ケトルが合図を鳴らす。
短くなった煙草の火をもみ消し、ゆっくりと席を立つ。
熱々の珈琲を片手に、再度席に戻る。
今日は予定が無い。このまま来客が無ければ、午後からは工房に篭っているとしよう。頭の中で予定を組み立てながら、次の煙草を取り出す。
しかしまぁ。
「研究に使わない希少種ばかり、こうも集まるものだな」
誰にでもなく、虚空へ向けて呟くのだった。
青紫探偵事務所、本日午前中のみ営業。
ご意見ご感想罵詈雑言、いつでもお待ちしております。




