第15話 その先の景色
闘技場を包み込んでいた狂乱の熱は、深夜になっても一向に冷める気配がなかった。
数千人の観客たちは、喉を枯らしながらも笑顔でスラムの夜道を歩き、王都へ帰っていく。彼らの口の端に上るのは、泥臭く立ち上がったザックの意地、ジジの痛快なジャイアントキリング、そして何より──身分も魔法も超えて魂をぶつけ合った、ユリウスとレオンの歴史的な死闘だった。
スラムの酒場はどこも満員で、今日の興行を肴に朝まで樽酒を空にする連中で溢れ返っている。
王都の治安を脅かす暴動など、ただの一つも起きなかった。客たちは「極上の暴力」を安全な場所で摂取し、完全にガス抜きされたのだ。聖騎士団の連中も、安堵と、隠しきれない興奮の余韻を顔に浮かべながら撤収していった。
◆◆◆
「……信じられねぇ。本当に、信じられねぇぞショウ」
ガルドの執務室。
スラムのドンは、机の上に積み上げられた『山』を前にして、両手で頭を抱えていた。
チケット代、VIP席の特別料金、そして闘技場内での酒と食事の売上。それらが合わさり、執務室にはガルドがこれまでの裏稼業で稼いできた一生分を遥かに超える、莫大な金貨が雪山のように積まれていた。
「言っただろ、ガルド。エンタメってのは、人間のあらゆる欲求の中で一番金になるんだ」
俺はソファに寝転がりながら、エールのジョッキを傾けた。
「金だけじゃねぇ。王都の貴族どもが、帰り際に俺に頭を下げていきやがったんだぞ。『次回の特等席も必ず私に売ってくれ』とな。スラムのゴミを虫けら扱いしていた連中がだ」
「当然だ。あいつらはもう、俺たちの作る『毒』なしじゃ生きられない身体になっちまったからな」
そこへ、コンコンと控えめなノックの音が鳴り、白衣を着た医療魔法チームのリーダーが入ってきた。
「ガルド様、ショウ様。選手の治療、すべて完了いたしました」
「……で?死人は出たか?」
俺が尋ねると、リーダーは深く頭を下げ、晴れやかな顔で答えた。
「ゼロです。重傷者は多数出ましたが、医療魔法の即時展開により、後遺症が残る者も一人もおりません。全員、数日休めばまた全力で動けます」
「……そうか。ご苦労だった」
俺はジョッキを置き、長く、深い安堵の息を吐き出した。
誰も死ななかった。誰の命もすり減らすことなく、これだけの熱狂を生み出し、これだけの富を得た。
前世で俺が命と引き換えにしても辿り着けなかった「理想の興行」の形が、この異世界でついに完成したのだ。
「ショウ」
執務室の扉の影から、ローブを羽織ったリリが顔を出した。その手には、淡く光る記録石が握られている。
「……ユリウスとレオンが、帰るみたい。声、かけるの?」
「あぁ、一番の功労者だからな」
俺は立ち上がり、闘技場の裏口へと向かった。
◆◆◆
裏口の冷たい夜風の中、二つの影があった。
顔面に分厚い包帯を巻いたレオンと、純白だった革鎧をボロボロにしたユリウスだ。
二人は口を利くこともなく、ただ互いに背を向けて立ち去ろうとしていた。
「おいおい、最高のメインイベンターが随分と寂しい背中だな」
俺が声をかけると、二人が同時に振り返った。
「……貴様か。プロデューサーとやら」
ユリウスが、腫れ上がった口元を歪めて睨みつけてくる。
「私をこんな見世物小屋に引きずり下ろし、あまつさえ『引き分け』という泥を塗ってくれたこと……一生忘れんぞ」
「泥だなんてとんでもない。あんた、今この王都で一番『男を上げた』冒険者だぜ?」
俺はニヤリと笑った。
「綺麗事だけ並べるエリートじゃなくなった。泥水すすってでも勝ちに来る、人間臭い『本物の戦士』として、客の心に強烈に焼き付いた。あんたの冒険者としてのブランド価値は、昨日の十倍に跳ね上がってる」
「……戯言を」
ユリウスは舌打ちをし、しかしそれ以上は何も言わず、踵を返した。
「次はこんな結界の中ではない。……レオン。万全の魔力と剣を持った状態で、必ず貴様を殺す。首を洗って待っていろ」
「……望むところだ、ユリウス。俺の剣も、次までに研ぎ澄ませておく」
レオンが低く、熱を帯びた声で返した。
ユリウスの背中が闇に消えていくのを見送ってから、レオンは俺の方を向いた。
「ショウ……だったな」
「あぁ。どうだ?スラムの猿山での殴り合いは」
「最悪だ。身体中が痛くて、あちこちの骨が軋んでいる。だが……」
レオンは自分の分厚い掌を見つめ、少しだけ、本当に少しだけ口角を上げた。
「こんなに『生きている』と実感したのは、何年ぶりだろうな。……借金は、本当にチャラになるんだな?」
「チャラどころか、莫大なファイトマネーが支払われる。あんたはもう、スラムの負け犬じゃない。王都中が次回作を待ち望む、俺のバトル倶楽部の『絶対的エース』だ」
レオンはフッと鼻で笑い、夜の闇へと歩き出した。
「エース、ね。悪くない響きだ。……だが、俺の上には立たせんぞ」
役者たちは、すでに次の物語に向けて歩き出している。
俺が台本を書くまでもない。彼ら自身が因縁を生み出し、大衆がそれを求めて金を払う、最強の永久機関が完成したのだ。
闘技場の外に出ると、スラムの生ゴミの臭いに混じって、どこからか夜風が心地よく吹き抜けていった。
雲が晴れ、ファンタジー世界特有の、二つの巨大な月が空に浮かんでいる。
俺は一人、夜空を見上げた。
「……見たかよ。俺、誰も死なせないで、一番すげぇ興行を打てたぜ」
前世で、病院のベッドの上で感じたあの冷たい虚無感は、もうどこにもない。
胸にあるのは、すべてを支配し、すべてを熱狂させたという、燃えるようなプロデューサーとしての達成感だけだった。
「ねぇ、ショウ」
いつの間にか、背後にリリが立っていた。彼女の目には、すでに次の映像の構想でギラギラとした光が宿っている。
「第一回は大成功。でも、これで終わりじゃないんでしょ?」
「当たり前だ」
俺は振り向き、不敵に笑った。
「スラムは完全に制圧した。次は王都、いや……冒険者ギルドや国家そのものを、俺のリングに引きずり上げてやる。記録石の生放送技術を完成させろ、リリ。世界中の全人民に、同じ時間に同じ闘いを見せて、熱狂の奴隷にしてやるんだ」
「……フフッ。本当に、悪魔みたいなプロデューサーね」
「最高の褒め言葉だ」
1分間で、常識を壊す。
誰も死なない世界で、一番過激な命の削り合いを売る。
前世でリングに散った男の、異世界における最強のプロデュース伝説は、今、ここに幕を開けたばかりだった。
(完)











