13
今日はディルの顔を見ていない。
そう気付いたのはそろそろ午前の茶の時間という時だった。
山のような仕事を押し付けておいて顔も出さないとは何事だと軽く憤る。だが、理由なくサボる奴でないことは知っている。そのうちひょっこりと顔を出して、また難題を落としてくるのだろう。いてもいなくても腹立たしい奴だ。腹立たしいが、誰よりも信頼の置ける腹心であり、誰よりも長い時間を共にしてきた友人でもある。
山のような書類仕事も適度に片付いてきたことだし、茶でもしに行こう。俺以外誰もいない部屋を出ると、ドアの前に立っていた護衛が何も言わずとも行き先を察して付いてくる。最近の俺の出先など決まっているからな。
通い慣れた道を歩く。あまり人目につかないような道を選び、後宮へと向かった。そろそろ俺が後宮へ通っていることも漏れてきているだろう。対策はしているつもりだが、何が起こるか分からないのが後宮というところだ。正直面倒くさい。しかし、そうしなければあの子はここにいられない。会うこともできなくなる。そう思えば、面倒くさいこともやってやろうという気になるのだから面白い。
もう少しでユーシェの部屋というところで、聞こえるはずのない声が聞こえてきた。
「へぇ…。だから皇帝陛下は怖くないと?」
あいつ…。あれだけユーシェに接触するなと言っていたのに、仕事を放り出してここにいたとは。
一気に身体中が怒りに包まれるのが分かった。部屋の前に立つ護衛騎士が俺を見て目を見張ったのが見える。あいつの変装に気づかずに部屋に入れたんだろう。こいつらにそこまでの非はない。悪いのはあくまであいつだ。
腰に携えた剣に手をかけ、部屋の前に立つ。
「10年程前に、私の住む町が戦場になりました」
剣を抜こうとしたところでユーシェの声が聞こえ、咄嗟に姿を隠した。
ユーシェは、硬くはあったが、しっかりとした口調でディルに言い返していた。そして、彼女にとっては辛いであろう記憶を話し始めた。
俺は、ただその話を聞いていた。10年前は、もうじき終戦というところで、総力戦だった。そして、血濡れた兵士達の中には精神を壊しかけている者達もいた。何十、何百の命を奪ううちに、とにかく誰でもいいから命を奪おうとするのだ。それこそ、敵味方関係なく、自国の民の命でさえ。
そういった者は隊をまとめるものがいち早く気づいて戦線を離脱させるなりしていたが、終戦間際はもう後手後手になっていた。敵国も同様だった。何年も何十年も戦争を長引かせた結果の、最悪な出来事だった。
俺自身はそうはならなかったが、そういった場面に出くわすこともあり、何度か殺されそうになっていた民を助けていた。1番の目的は終戦だが、助けられる命は助けたかったのだ。無駄に失われていい命などあるわけがない。
ユーシェを助けたのは…俺か…。
助けられた命が、ここにある。それは思いの外、嬉しいものだった。
「陛下は、覚えていなくてもいいのです。覚えていて欲しいとも思っていません。助けた方は、忘れてしまって構わないのです。助けた人間のその後まで背負う事なんて出来ないんですから。その必要はないし、そんな義務もありません。助けることに…理由をつけることもないと思っています。助けてもらった方が覚えていればいい事なんです。それか…覚えていたい方だけが覚えていたらいいことだと思いますし、忘れてしまってもいいんです。それは、当事者の自由だと…思います」
ユーシェの言葉に、ぎゅっと目をつぶり、今度こそ剣を抜き、部屋に入った。
「何をしている、ディル」
殺気を隠すことなく首筋にぴったりと剣をあてた。少し血が流れたようだが、大したことではない。
「やぁアレク。お前が毎日通うお姫様はどんな子だろうと気になっていたものでね。色々聞いてみたいこともあったし」
「お前にここに来る許可を与えた覚えはないが」
「俺にだって見極める必要はあるよね」
「それは今でなければならなかったか、ディルクライン。このまま剣の錆になるか」
剣をさらにディルに押し当てる。これで十分すぎるほどに俺の怒りは伝わるだろう。
「……大変失礼を致しました。申し訳ありません陛下、過ぎた真似を致しました」
「…分かればいい。次はない」
「有難き幸せ」
しおらしく従者らしい態度を取ったところで、ニヤリと笑ったのを見逃したりはしない。こいつはこういう奴だ。
フンッと鼻で息を吐き、剣をしまう。手元が狂って更にディルの首の傷を広げたのも、気づかなかったことにしておく。
「怖がらせた。すまない」
俺が来てから一言も言葉を発せず、背を向けたまま体を強張らせていたユーシェの肩に手を置くと、ビクッと身体を震わせた。こんなに間近で剣を見ることなどなかっただろう。剣を抜くべきではなかったと思う反面、これが俺なのだから、それが怖いのなら仕方のないことだとも思った。
「いえ、少し驚いただけですので、大丈夫です」
慌ててユーシェが立ち上がる。大丈夫なんて嘘だろう。
「お心遣いをありがとうございます、陛下。私は、大丈夫です。怖くなど、ありません」
そう言い切ったユーシェの声は震えておらず、一礼してあげた顔に怯えはなく、揺れているかと思った瞳はしっかりと俺を見据えていた。想定外の反応に、思わずこっちが息を飲んだ。これは、こんなに肝の据わった娘だったのか。
「その剣に、私は護られました。救われました。怖いなど、思うわけがありません」
黒い瞳が、まっすぐ俺を捉える。嘘偽りのない、澄んだ瞳。
そうか、あの時の娘が、これだったか。
「もう…泣いていないな」
ユーシェの前髪を軽くすくう。途端、目を見開いたと思ったらくしゃっと顔を歪め、みるみるうちに涙をためた。
「助けていただいて、ありがとうございました。いつか、いつかあの時のお礼を言えたらと思っておりました。本当に、本当にありがとうございました」
ユーシェは涙を浮かべながらも綺麗な笑顔を浮かべ、ゆっくりと頭を下げた。軽く結い上げた黒髪が、それを追ってさらりと流れる。
呼び起こされる記憶の中の少女はいつも泣いていて、いつも、苦しそうにしていた。別れるその日まで、涙が止まることはなかった。
泣き止んでいて…よかった。本当に、そう思った。
「…あの時救われたのは、俺も同じだ」
拳にグッと力が入る。いつの間にか立ち上がっていたディルが、ハッとして息を飲んだのが伝わってきた。
暴走している・・・。




