最終話「妻だけを失ったつもりだった夫」
最近、妙にうまくいかない。
何か大きな問題が起きたわけじゃない。
仕事はある。給料も変わらない。体調も悪くない。一人暮らしにも慣れた。
洗濯も掃除もできる。飯だって、作る気がなければ買えばいい。
だから、困ってはいない。
ただ、前より何をするにも面倒だった。
土曜日の朝、クリーニングに出したスーツを取りに行くのを忘れていたことに気づいた。
午後には買い物へ行きたい。洗剤も切れかけている。宅配便も届く予定だった。
冷蔵庫を開ければ、卵が二個と賞味期限の怪しい牛乳。
「……面倒くさ」
結婚していたころも、こういうことはあったはずだ。
俺だってゴミを出したし、掃除もした。買い物に行くこともあった。
ただ、何をいつやるのかまで考えることは少なかった気がする。
スマートフォンを手に取った。
そういえば、しばらく実家にも帰っていない。
母に電話をかける。
『もしもし』
「母さん、来週の土曜そっち行っていい?」
『来週? ちょっと待って』
少しして、母が言った。
『ああ、ごめん。その日は京都』
「京都?」
『佐知子と日帰りで』
「じゃあ次の週は?」
『温泉』
「その次」
『美術館』
「……母さん、最近予定多くない?」
『そう?』
「前もっと暇だっただろ」
電話の向こうで、母が少し黙った。
『暇だったんじゃないわよ。空けてたの』
「何を?」
『予定。あんたたちが来るかもしれないから』
初めて聞いた。
『今は先に予定入れちゃうから。来るなら早めに言って』
「ああ。分かった」
電話を切った。
昔は実家に行くと言えば、だいたい母はいた。
そういうものだと思っていた。
◇
月曜日。
会社で資料を開いて、手が止まった。
前回の数字が見つからない。
「直人、これどこだっけ」
言ってから気づいた。
直人はいない。
「あ」
そうだった。
異動したんだった。
社内チャットを開いて名前を検索したが、少し迷って閉じた。
自分で探す。
五分ほどで見つかった。
別に、大したことじゃない。
昼休み、食堂へ向かう途中で直人を見かけた。
知らない社員二人と歩いている。
「直人」
声をかけると、振り返った。
「あ、佐伯さん。お疲れさまです」
「どう、新しいとこ」
「忙しいです。でも面白いですよ」
「もう慣れた?」
「まだ全然です」
そう言いながら、楽しそうだった。
「佐伯さんは?」
「お前いなくなって大変だよ」
冗談で言った。
直人も笑った。
「頑張ってください」
「冷たいなあ」
「もう別部署なんで」
「それ前にも聞いたぞ」
「何回でも言いますよ」
直人は笑って、「じゃ、また」と二人の社員を追いかけた。
俺は一人で食堂へ向かった。
直人がいなくても、仕事はできる。
ただ、以前なら考えなくてよかったことを、自分で考えることが増えた。
◇
その夜。
コンビニ弁当を食べながら、テレビをつけた。
面白くない。チャンネルを変えても面白くないので、消した。
静かになった。
スマートフォンを手に取る。
莉奈とのトーク画面は、もうずいぶん下に沈んでいた。
最後に会った日のことを思い出す。
『何もしないんですよ、拓也さん』
今でも、納得できないところはある。
俺は莉奈が好きだった。莉奈の行きたいところに行ったし、莉奈の食べたいものを食べた。欲しいと言っていたプレゼントだって覚えていた。
何もしなかったわけじゃない。
それなのに、莉奈は俺を選ばなかった。
母は自分の予定を優先するようになった。
直人は新しい仕事へ行った。
最近、俺の周りから人が離れていく。
そんな気がした。
そのとき、美咲の顔が浮かんだ。
離婚してから、もうすぐ一年になる。
美咲は今、どうしているんだろう。
◇
美咲と会うことになったのは、それから一か月ほど後だった。
結婚していたころに契約した保険の書類に、古い情報が残っていた。
郵送でも済む話だったが、美咲の会社の近くへ行く用事があったので連絡した。
『近く行くんだけど、直接渡していい?』
返事はすぐに来た。
『いいよ。十二時なら出られる』
昼休み。
駅前のカフェで待っていると、美咲が入ってきた。
「久しぶり」
「久しぶり」
少し髪が短くなっていた。
向かいに座り、書類を渡す。
「これ」
「ありがとう。助かった」
それで用事は終わった。
けれど、美咲はすぐには立たなかった。俺も帰る理由はなかった。
「仕事どう?」
「忙しいよ。前より忙しいかも」
「相変わらず?」
「今、新規サービスのチームやってるから」
「新規サービス?」
「うん」
「そんな仕事してたっけ?」
「離婚したあと、公募に応募したの」
「へえ。通ったんだ」
「通った。今はそのチームのリーダー」
「マジで?」
「マジで」
思わず笑った。
「すごいじゃん」
「ありがとう」
「出世したなあ」
「給料もちょっと上がった」
「いいな」
美咲も笑った。
その笑顔を見て、少し安心した。
普通だ。
俺たちは普通に話せている。
「出張とかもあるの?」
「あるよ。この前、福岡行った」
「仕事で?」
「仕事で。ついでに一泊延ばしたけど」
「遊んできたのかよ」
「せっかくだし」
「来月は?」
「京都」
「また仕事?」
「それは友達と」
「忙しいな」
「楽しいよ」
楽しそうだった。
本当に。
そこで、ふと思った。
莉奈とは終わった。
美咲は俺を嫌っていない。
こうして笑って話せる。
離婚したころとは、俺も違う。一人で暮らしてみて、分かったこともある。
だったら。
まだ戻れるんじゃないか。
「美咲」
「ん?」
「俺たちさ」
美咲がコーヒーカップを置いた。
「もう一回、やり直さない?」
美咲が目を見開いた。
「……なんで?」
「今なら、前よりうまくやれると思う」
口にすると、思っていたより自然に言葉が出た。
「家のことも俺がやるし、美咲の仕事も応援する。前みたいに任せっぱなしにしないから」
美咲は黙っていた。
「俺も一人で暮らして、いろいろ分かったんだよ。今なら前よりちゃんと――」
「拓也」
止められた。
「何?」
「私が戻りたいか、聞かないんだね」
言葉が止まった。
「……え?」
「拓也は、やり直したいんだよね」
「ああ」
「それで、今度はちゃんとする。私の仕事も応援する」
「そうだよ」
「でも、私が今どうしたいか、一回も聞いてないよ」
何を言われているのか、すぐには分からなかった。
「じゃあ聞くよ」
少し苛立った。
「美咲は、やり直したい?」
「思わない」
即答だった。
胸の奥を殴られたような気がした。
「……そんなに、今の生活がいいの?」
「うん。好きだよ」
「俺だって、今ならちゃんとできるって言ってるだろ」
「だから、それが何?」
「……何って」
「拓也が今度はちゃんとできることと、私が戻りたいかどうか、関係ないでしょう?」
言い返せなかった。
美咲が時計を見る。
「ごめん。そろそろ戻らないと」
このまま帰られる。
そう思ったら、急に腹が立った。
俺は変わろうとしている。
今度はちゃんとすると言っている。
なのに、美咲は考えようともしない。
「そんなに今の生活がいいのか?」
美咲が俺を見た。
「うん」
「仕事して、旅行して、それがそんなに楽しい?」
「楽しいよ」
なぜか、その答えに腹が立った。
「俺といたときだって、やればよかっただろ!」
美咲の顔が変わった。
「やりたかったよ!」
「だったらやればよかっただろ! 俺、一回でも止めたか!?」
「止めてないよ!」
美咲も声を上げた。
「私が勝手に二人の生活を先に考えて、勝手に諦めてたの! 公募だって三年前から見てた!」
「そんなの言わなきゃ分かんないだろ!」
「だからでしょう!」
美咲が俺を睨んだ。
「拓也は何も言ってない! 何もしてない! 私が全部考えてたの!」
頭の中で、莉奈の声がした。
『何もしないんですよ、拓也さん』
「……じゃあ何なんだよ」
自分でも、もう何に腹を立てているのか分からなかった。
「俺といたときより、今の方が幸せだってことかよ!」
美咲が黙った。
数秒が、やけに長かった。
「……うん」
美咲が俺を見る。
「今の方が、幸せ」
何も言えなかった。
「ごめん。戻るね」
「……ああ」
美咲は席を立った。
今度は、引き止められなかった。
◇
一人になったテーブルで、冷めたコーヒーを見た。
『暇だったんじゃないわよ。空けてたの』
母の声。
『もう別部署なんで』
直人の声。
『何もしないんですよ、拓也さん』
莉奈の声。
みんな、俺から離れていったと思っていた。
違った。
誰も俺から離れていったんじゃない。
自分で行きたい方へ行っただけだった。
母も。
直人も。
莉奈も。
美咲も。
俺は妻と離婚しただけのつもりだった。
俺がいなくても、美咲は何も困らないと思っていた。
その通りだった。
何も困らなかった。
そして最後に。
俺といたころより、今の方が幸せだと。
美咲本人から聞いた。
『何もしないんですよ、拓也さん』
今なら、意味が分かる。
分かったところで。
もう誰も、戻ってはこなかった。




