王太子殿下は「今だけ」と言い、幼馴染との思い出作りに励むそうです
「……忘れられない人がいる」
婚約してしばらくした頃、レイナルド・アステリア殿下からそう聞かされて以来、私は努力を重ねてきた。
王太子妃教育では睡眠時間を削って机にかじりつき、次の授業までに完璧な答えを用意した。社交を苦手とする殿下を補えるよう礼儀作法を学び、外国語にも力を入れた。
将来、彼の隣に立ったとき、少しでも彼の心が私に向くように。
そんな願いを込めて続けてきた努力も、意味などなかったのかもしれない。
「ねえ、レイ。見て。この本、覚えてる? まだ続いてたのよ。本屋で見つけてびっくりしちゃった」
中庭の木陰で、レイナルド殿下とシルビア・ベクター令嬢が並んで一冊の本を覗き込んでいた。
「ああ。覚えてるよ。昔、君に読み聞かせたら泣いていたな」
「もう……そんなことまで覚えてるの?」
「『主人公が報われないなんて嫌だ』って、ずっと言ってただろう」
「やめてよ。恥ずかしいじゃない」
シルビアが楽しそうに笑い、殿下もつられるように笑う。
私は校舎の窓辺から、その姿を眺めていた。
もう胸は痛まなかった。
いつの間にか二人の姿は、中庭の木々や行き交う生徒たちと同じ、見慣れた学園の風景の一つになっていた。
「ジュリア」
声をかけられて振り返ると、同じ学年のセドリック・ヴァルナー公爵令息が立っていた。彼も中庭へ目を向ける。
「レイナルド殿下は……またシルビア嬢と一緒か。今日のことは伝えたのか?」
「伝えたわ。でも、『すまない、ジュリア。今だけだから』ですって」
セドリックは何か言いかけたようだったが、結局そのまま口を閉じた。
「……そうか。なら、行こう」
「ええ」
私たちは並んで校舎を出た。
校門前には、すでに迎えの馬車が待っていた。
◇
レイナルド殿下は、王太子として申し分のない方だと評されていた。
容姿端麗で学問にも秀で、歴史や法律にも明るい。剣術でも同年代の騎士科の生徒に引けを取らず、まだ若いながら、将来は立派な王になるだろうと誰もが口を揃えていた。
幼い頃から多くの令嬢の憧れで、私――ジュリア・アルバインも、彼との婚約が決まったときは心から嬉しかった。
ただ、婚約してからも殿下の表情はほとんど変わらなかった。もともと感情を表に出さない方として知られていたので、最初はそういうものなのだと思っていた。
それでも、婚約者となってしばらく経った頃、思い切って尋ねてみたことがある。
「殿下。あの……私に、何か至らないところがあるのでしょうか」
「いや、君が悪いわけではない」
殿下は少し迷ったあと、彼女のことを教えてくれた。
数年前、地方の王領を視察した際、殿下はひと月あまりその土地に滞在したことがあったという。
周囲にいるのは大人ばかりで、どこへ行っても王太子として振る舞うことを求められる。そんな息苦しい日々の中で、一緒に遊んでくれたのが、一人の少女だった。
「平民の子だった。俺の身分も知らなかったから、王太子ではなく、ただの一人の人間として接してくれた。それが……嬉しかった」
「……初恋、だったのですか?」
殿下はしばらく考えてから答えた。
「分からない。そうだったのかもしれない」
そして、遠くを見るように目を細める。
「もう何年も前の話だ。向こうは俺のことなんて忘れているかもしれない」
そう話す横顔を見たとき、私は嫉妬するより先に胸が痛んだ。
だから、この方はいつもどこか寂しそうなのだろうか。
ならば私が、その寂しさを埋められないだろうか。そう思ってからは、殿下の好きな音楽の演奏会へ誘い、興味を持ちそうな本を探して贈った。殿下が好みそうな話題を調べ、少しでも会話が続くよう心を砕いた。
それでも殿下との距離は変わらないまま、月日は流れ、私たちは王立学園へ入学した。
王族や高位貴族にとって、王立学園は勉学の場であると同時に、将来につながる人脈を築く場所でもある。王太子であるレイナルド殿下も、その婚約者である私も、当然のように通うことになった。
ただし、婚約者同士がいつも一緒に行動していては交友関係が偏るという理由から、婚約者はなるべく別のクラスへ振り分けられている。
だから私は、最初は何も知らなかった。
「殿下、最近ご機嫌がよろしいですね」
ある日そう尋ねると、殿下は意外そうに私を見た。
「そうか……?」
「ええ。クラスで親しいご友人でもできました?」
「……ああ」
「そうですか……よかった。殿下が学園を楽しまれているなら、私も嬉しいです」
殿下は入学前、王立学園へ通うことにあまり乗り気ではなかった。だからこのときの私は、心から安心したのだ。
今思えば、ずいぶん間の抜けたことを言ったものだと思う。
その『親しい友人』が誰なのかを知ったのは、それからしばらく経ってからだった。
教えてくれたのは、セドリック・ヴァルナー公爵令息だった。
当時のセドリックとは、顔を合わせれば挨拶を交わす程度の関係だった。容姿がよく令嬢たちからも人気があったものの、誰に対しても気安く話しかけるため、私は軽い方なのだと思っていた。公爵家の嫡男でありながらいまだ婚約者も決まっていないこともあり、自分から親しくなろうとは考えていなかった。
そんな彼が、ある日珍しく真面目な顔で私を呼び止めた。
レイナルド殿下が、いつも一人の令嬢と過ごしている。
その令嬢の名は、シルビア・ベクター。地方のベクター子爵家へ養女として迎えられた、元平民の少女。
そして彼女こそ、殿下がずっと忘れられずにいた人だった。
二人きりでいるところを初めて目にした日、私は即座に殿下へ声をかけた。
「殿下。未婚の令嬢とお二人だけで過ごされるのは、あまりよろしいことでは……」
そこで初めて、レイナルド殿下の顔が大きく動いた。いつも何事にも動じない方が、明らかに焦っていた。
「ジュリア、頼む」
「……殿下?」
「学園にいる間だけでいい。シルビアと、昔のように過ごさせてほしい」
私は何も答えられなかった。婚約者である私に、そんなことを頼むなんて。
「卒業したら、きちんと君との将来に向き合う。王太子としても、君の婚約者としても」
そして殿下は、私をまっすぐ見つめた。
「だから、それまで待っていてくれないか」
青い瞳が私だけを捉えていた。
こんなにも真正面から見つめられたのは、婚約してから初めてだった。まるで、このとき初めて、殿下にきちんと『ジュリア』と呼んでもらえたような気がした。
「……分かりました」
気づけば、私は頷いていた。
「ありがとう、ジュリア」
殿下が笑った。初めてだった。
冗談を言っても、贈り物をしても、決して見ることのできなかった笑顔を、初めて私に向けてくださった。
嬉しかった。泣きたくなるほど、嬉しかった。
だからそのときの私は、考えることすらしなかった。その笑顔が、シルビアと過ごすことを私に許してもらえた安堵から生まれたものだったことを。
◆
馬車がゆっくりと学園を離れていく。
「セドリック様……申し訳ございません。巻き込むような形になってしまって」
向かいに座るセドリックは、しばらく窓の外を眺めていたが、やがてこちらへ視線を戻した。
「気にする必要はない。我が家も王家を支える公爵家だ。私が同行するのは当然のことだよ。それより、君こそ本当によかったのか?」
「……はい」
そう答えて、窓の外へ目を向ける。
遠ざかっていく学園を眺めながら、私はここへ来てからの日々を思い返していた。
◇
レイナルド殿下とはクラスが違うため、二人が一緒にいるところを毎日目にするわけではなかった。
それでも、噂は嫌でも耳に入ってきた。
昼休みも一緒に過ごすことが多く、放課後には二人で出かけることもある。そして互いを、昔と同じ愛称で呼び合っていることも。
「レイ……か」
その呼び方を聞いたとき、昔のことを思い出した。
『殿下。二人きりのときくらい、もう少し親しみを込めてお呼びしてもよろしいでしょうか』
愛称で呼び合えば、少しは距離を縮められるかもしれない。そう期待して尋ねた私に、殿下は首を横に振った。
『将来王族となる君が、公私で呼び方を変えるような癖をつけるべきではない』
もっともな話だと思ったし、納得もしていた。
「なのに、シルビアには許すのね……」
ある日、私はふと尋ねた。
「殿下。シルビア様には、ご自分のお気持ちを伝えていらっしゃるのですか?」
「いや……彼女に余計な負担をかけたくない」
――私には、いいのですね。
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
だってシルビアと再会してから、レイナルド殿下は私にも笑顔を見せるようになったのだ。エスコートの際に差し出される手にも、以前ほどのよそよそしさを感じなくなった。
それなら、いいではないか。
少なくとも以前より、殿下との距離は近づいている。
私は婚約者で、いずれ王太子妃になるのだから、殿下の気持ちも、それによって生じる苦しさも受け止めるべきなのだ。
王妃陛下にも、言われたことがある。
『あなたには、本当に我慢をさせてしまっていますね』
王妃陛下は申し訳なさそうに眉を下げた。
『今のあなたにこんなことを言うのは、卑怯だと分かっています。それでもわたくしは、あの子の妃となるのはあなたしかいないと思っているのです』
そうまで言われてしまえば、自分の我慢は間違っていないのだと思った。
王妃陛下にも必要とされている。
殿下も、卒業すれば私との将来に向き合うと言っている。
なら、あと少しだけ。
そう自分に言い聞かせた。
やがて、学園内でも二人の関係を好意的に見る者が増えていった。
シルビアは明るく愛想がよく、相手の身分によって態度を変えない。伯爵家の一部や、子爵家以下の生徒たちから特に人気があり、彼女の周りにはいつも誰かがいた。
「殿下、シルビア様といらっしゃると本当に楽しそうですわね」
「お二人って、なんだかお似合いよね」
最初は、その程度だった。
それが次第に変わっていった。
ある日の放課後、セドリックに呼び止められた。
「ジュリア。少し話がある」
人気のない廊下まで移動すると、彼はため息をついた。
「シルビア嬢が王太子妃になればいい、という話まで出始めている」
「……それは、殿下とシルビア嬢の関係を、私が認めていると思われているから?」
「ああ。君が何も言わない以上、周囲がそう考えるのも無理はない。……君も分かっているだろう。これ以上放置すれば、ただの学園の噂では済まなくなる」
シルビアを好意的に見る者たちが増えれば、やがて彼女を次期王太子妃として支持する空気が生まれる。一方で、アルバイン侯爵家とつながりの深い家々からすれば、王家が私との婚約を軽んじているようにも見える。
「高位貴族ほど、そうした空気の変化には敏感ですものね……」
「分かっているなら、一度きちんと殿下と話してくれ。私が言っても、あの方は聞く耳を――」
「私だって止めさせたいわよ!」
思った以上に大きな声が出て、セドリックが黙った。
「……やっとなの。やっと殿下が笑ってくださったのよ……」
自分でも情けないと思うほど、声が震えた。
「私にも、以前より話しかけてくださるようになって……ずっと遠かった殿下が、やっと少し近くに来てくださったの……」
セドリックは何も言わず、私の話を聞いている。
「そこで私がシルビア様とのことを責めたら、また殿下が離れていってしまうかもしれない……そう思うと……」
「……ジュリア。それは、殿下が君を見ていることになるのか?」
「っ……それは……」
「……すまない。今の君に言うことではなかったな」
セドリックは踵を返し、数歩進んだところで足を止めた。
「ジュリア。一度、冷静になって考え直してほしい。君のためにも」
それだけ言って、彼は立ち去った。
私は呼び止めることも、言い返すこともできなかった。それは私自身もずっと考えないようにしていたことだったから。
そんな中、学園内で開かれる夜会が近づいた。
婚約者のいる生徒は、その相手とともに出席する。当然、私もレイナルド殿下にエスコートされるはずだった。それでも不安になって、確認せずにはいられなかった。
「殿下……夜会は、殿下がエスコートしてくださるのですよね?」
レイナルド殿下は驚いたように私を見る。
「当たり前だろう。君は俺の婚約者なんだから」
その言葉に、胸の奥がほどけた。
そうだ。殿下はちゃんと、私を婚約者だと思ってくださっている。
夜会当日も、殿下は約束どおり迎えに来た。
会場へ入る際には私へ腕を差し出し、最初のダンスにも当然のように手を差し出してくれた。
殿下の手を取り、音楽に合わせて踊る。これまで胸に積もっていたものが、軽くなった気がした。
何度も練習してきたダンスだから、互いの足取りが乱れることはなかった。
殿下の手に導かれ、緩やかにターンする。
そのときだった。
向きが変わった一瞬、殿下の視線が私ではなく、その向こうへ向けられていることに気づいた。それからも踊りながら、殿下は何度も私の肩越しへ目を向けていた。
その先にはシルビアがいた。
友人たちと楽しそうに話しながら、ときおりこちらを見る。そのたびに、殿下の口元がわずかに緩んだ。
私は目の前にいるのに。
やがて曲が終わり、殿下の手が離れる。
「レイ!」
弾んだ声が聞こえた。
シルビアがこちらへやって来る。
「次は、私とも踊ってくれる?」
「言うと思った」
「えっ、なんで?」
「さっきから、目がそう言っていた」
「うそっ。そんなに分かりやすかった?」
レイナルド殿下は笑った。つい先ほどまで私と踊っていたときには、一度も見せなかった顔で。
二人が並んで離れていき、私はその場に残った。
――今だけだ。
頭の中で、殿下の言葉が繰り返された。
「ジュリア」
隣から声がした。
セドリックだった。
私は踊り始めた二人を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……あなたの言うとおりだったわ」
◆
王宮を出ると、肩に入っていた力が少し抜けた。
馬車へ向かいながら、私は隣を歩くセドリックへ声をかける。
「私、これからやってみたいことがあるの」
「なんだ?」
「学園の魔法薬研究会。いろいろな薬や日用品を開発しているでしょう?」
セドリックが意外そうにこちらを見る。
「そんなことに興味があったのか?」
「作ってみたいものがあるの。ずっと気になっていたのだけれど、今までは時間がなくて」
「へえ……なら、私も参加してみようかな」
「セドリック様が? どうして」
「面白そうじゃないか」
「まだ何を作るかも話していないのに?」
「だから興味を持ったんだよ」
そんなことを笑いながら話し、私たちは馬車へ乗り込んだ。
◆
翌朝。学園へ着き、馬車を降りて校舎へ向かっていると、その途中にレイナルド殿下が立っていた。
「ジュリア。少しいいか?」
いつもと変わらない声だったが、その表情は硬い。
「もうすぐ授業が始まりますので。ここでよろしければ」
「……昨日、父上から聞いた。婚約を解消したいと申し出たそうだな。……なぜだ?」
「殿下の思い出作りに、これ以上お付き合いするつもりがなくなったからです」
「君は、俺の気持ちを理解してくれていたじゃないか。同意もしてくれたはずだ」
「……殿下は今、ご自分が生徒たちからどのように見られているか、ご存じですか?」
「シルビアと俺がお似合いだとか、彼女が王太子妃になればいいとか、そういう話だろう。ただの学生の噂だ。まさか君が、そこまで気にしていたとは思わなかった」
そこまで言ってから、何かに気づいたように考え込む。
「……いや。王太子妃が誰になるかを面白半分に口にする者が増えているのなら、確かによくないな。誰が言い出したのか確認させよう。教師からも注意を――」
「もう、そのようなことをなさらなくても結構です」
「ジュリア?」
「昨日、国王陛下と王妃陛下が、すでに婚約解消をお認めくださいました」
「……待て。俺は了承していない」
殿下が一歩こちらへ近づく。
「なぜ昨日、婚約解消の話だと言わなかった? それなら俺は――」
そこで、殿下の言葉が止まった。
「わたくしは申し上げました。大切なお話があります、と。それでも殿下は、シルビア様のお誕生日は昨日しかないからと、そちらを優先なさいました」
「ジュリア、それは――」
「殿下が今を大事になさるように、わたくしも自分の『今』を大切にしたいのです」
殿下が息を呑んだ。
そのときだった。
「レイ!」
背後から明るい声が響いた。
シルビアがこちらへ駆け寄ってくる。
「昨日はありがとう! 見て、さっそくつけてきたの。こんな素敵な髪飾り、初めてだから緊張しちゃった」
レイナルド殿下が何も答えなかったのを不思議に思ったのか、シルビアが首を傾げる。
それから私に気づき、ぱっと笑った。
「あ……ジュリア様。おはようございます」
「おはようございます、シルビア様」
軽く会釈をして、私はレイナルド殿下へ向き直る。
「お話は以上でしょうか」
「ジュリア、まだ――」
「授業がありますので、失礼いたします」
もう一度だけ頭を下げ、私は二人に背を向けた。
◆◆◆
その日のうちに、婚約解消の話は学園中へ広まった。
朝、校舎の前でジュリアと話していたところを見ていた生徒もいたらしい。昼休みになる頃には、俺とアルバイン侯爵令嬢の婚約が解消されるという話を知らない者はいないほどだった。
実際にはまだ正式な手続きが終わったわけではない。それでも、生徒たちにとっては大した違いではないらしい。
「やっぱり殿下はシルビア様を選ばれたのね」
「ずっとお二人、お似合いだったもの」
「これで堂々と一緒にいられるじゃない」
そんな声が聞こえてくる一方で、露骨にこちらを避ける者もいた。
特に高位貴族の子息たちは、俺と目が合っても軽く会釈するだけで、話しかけてこない。
こんなふうに、生徒たちの間にすでに温度差が生まれていたことすら、俺は知らなかった。
入学してからというもの、多くの時間をシルビアと過ごしていた。それ以前から、自分から積極的に人の輪へ入っていく性格でもない。
だからといって、王太子である俺が気づかなくてよかった理由にはならないのだろう。
昼休み、いつものように中庭へ行くと、シルビアの周りには何人もの令嬢が集まっていた。
俺の姿を見つけるなり、そのうちの一人が楽しそうに声を上げる。
「ほら、殿下がいらしたわ」
「シルビア、よかったじゃない」
「ちょっと、やめてよ」
シルビアが困ったように笑う。
やがて令嬢たちが少し離れ、俺とシルビアだけになると、彼女は小さく息を吐いた。
どうやら朝からずっと、「殿下がシルビアのために婚約を解消したのではないか」と言われ続けているらしい。
「そんなわけないのにね……なんて、みんな言うから困っちゃうよね」
シルビアが、ちらりと俺を見る。
何を期待しているのかは分かった。
シルビアを好きだ。
それは、ずっと変わっていない。
もう二度と会えないと思っていた少女と再会できたとき、信じられないほど嬉しかった。
昔と変わらない声で「レイ」と呼ばれ、昔のように笑いかけられるたび、この時間を失いたくないと思った。
そして、その期待に応えたいと思っている自分もいる。
だが――今、答えるわけにはいかない。
俺がここでシルビアへの気持ちを口にすれば、ジュリアとの婚約を解消して彼女を選んだのだと認めることになる。そうなれば、シルビアまで今回の婚約解消に巻き込む。
「……婚約解消と、シルビアのことは別だ」
「……そっか。ううん、そうよね。みんな勘違いしちゃって。ちゃんと訂正しないとね」
シルビアの表情が曇り、胸が痛んだ。
それでも、ここで彼女を喜ばせる言葉を口にすることのほうが、よほど無責任だった。
◆
正式に婚約が解消されてから、私は魔法薬研究会へ入り、セドリックと一緒に美容液の開発を続けていた。
きっかけは、学園へ入ってから肌荒れに悩むようになったことだった。
わが国では、魔法薬の研究といえば傷を治すポーションや解毒薬などが中心で、美容を目的としたものはほとんどない。
ならば、自分で作ってみようと思ったのだ。
セドリックの紹介で王都の薬品工房にも協力してもらえることになり、研究会だけでは扱えない素材や器具まで使えるようになった。
「うちの庭園の薔薇、使えないかしら。でも、さすがに屋敷にある分だけでは足りないわよね」
「ヴァルナー家の領地にも薔薇園がある。必要ならいくらでも用意できるぞ」
「本当? なら、香りだけじゃなく抽出液も試してみたいわ」
そんなふうに試行錯誤を重ね、ようやく満足できるものが完成した。
最初は、自分で使えればそれでいいと思っていた。
ところが完成した美容液を研究会の令嬢たちに試してもらったところ、思いのほか評判がよく、今では「どこで買えるのか」と聞かれることまである。
「いっそ商会でも立ち上げようかしら」
試作品の瓶を眺めながらそう言うと、向かいで研究記録を読んでいたセドリックが顔を上げた。
「商会? 君が?」
「ええ。今からまた婚約者を探すのも大変でしょう? この際、自分で稼いで生きていくのも面白そうだと思って」
「なるほど」
セドリックは少し考え込んだ。
「それなら、私と結婚しないか?」
「……はい?」
「商品化するなら、素材の調達先や製法の権利、工房との契約も決めなければならないだろう」
「……今私、独身宣言したところなのだけど」
「私が出資して、ヴァルナー家の領地で原料も確保する。君が開発を続けるなら、そのまま二人で事業にしてしまえばいい」
「……それは事業提携のお話では?」
「いや。結婚の話だ」
「私には、共同経営者の勧誘にしか聞こえないけれど。それに、公爵夫人よ? 私、あなたの前であまりいいところをお見せした記憶がないわ。どうして私なの?」
「そうだな……確かに最初の頃は、王太子殿下のわがままに振り回されても何も言えない、流されやすい人なのかと思っていた」
「……ずいぶんな言いようね。間違ってはないけれど」
セドリックは笑ってから、手元の研究記録へ目を落とした。
「でも、一緒にやってみて分かった。君は流されやすいんじゃない。むしろ、一度こうすると決めたら驚くほど頑固だ」
褒められているのか分からず、私は眉を寄せる。
するとセドリックは、今度はまっすぐ私を見た。
「王太子殿下のことだって、そうだったんだろう。いつかあの方の隣に立つと決めていたから、そのために自分で我慢することを選んでいた」
私は目を瞬いた。
「それで分かったんだ。君は、一度こうすると決めたら、そのためならいくらでも頑張れる人なんだって。今回だってそうだろう?」
セドリックは試作品の瓶を指先で示した。
「だから、君となら面白い人生になりそうだと思った」
何も言えなかった。
こんなふうに見られていたなんて、知らなかった。レイナルド殿下には、一度も褒めてもらえなかったことだった。それを、出会ってからまだそれほど長くもないこの人は、ちゃんと見てくれていた。
泣きそうになり、私は顔を伏せた。
「……少し、考えさせてくれる?」
「もちろん」
◆◆◆
シルビアとの婚約について父上と母上に話したとき、二人ともすぐには答えなかった。
先に口を開いたのは母上だった。
「……本当に、その方を妃に迎えるつもりなのですね。ジュリアとの婚約を失ったから、代わりにということではなく?」
「違います。俺は昔からシルビアを想っていました」
母上は目を伏せた。
父上も難しい顔をしたまま、しばらく黙っている。
「ベクター子爵令嬢には、王太子妃となるための教育がほとんどない。アルバイン侯爵家から得られるはずだった支援も失った。それがどういうことか、分かっているのか?」
「王太子妃として足りない部分は、俺が補います。貴族たちからの協力についても、今後は俺自身が各家との関係を築き直します」
父上はしばらく俺を見つめたあと、重々しく口を開いた。
「……ならば覚えておけ。これは、お前が選んだ道だ。お前が選んだ王太子妃だということを」
「承知しています」
もう迷いはなかった。
シルビアは学園でも成績上位だった。人と接することも得意だ。
知らないことなら、これから学べばいい。
慣れるまで時間がかかったとしても、二人で乗り越えていけばいい。
そう決めてから数日後、俺はシルビアに想いを告げた。
「シルビア。俺と結婚してほしい」
一瞬、彼女は何を言われたのか分からないような顔をした。やがて大きく目を見開き、その瞳にみるみる涙が浮かぶ。
「……本当に……私で、いいの?」
「ああ。君がいい」
その瞬間、シルビアは泣きながら笑った。
「私も……私もずっとレイが好きだった」
これでよかったのだ。
何年も胸にしまっていた願いが、ようやく叶った。
学園でも、婚約の話を聞いて喜んでくれる者はいた。特にシルビアと親しかった者たちは、自分のことのように祝福してくれた。
一方で、婚約が正式に発表されてから、学園内の空気はさらに変わった。
以前なら俺の周りで交わされていた将来の国政や各領地の話が、今ではセドリックを中心に進むことが増えている。
アルバイン侯爵家と親しい家の者だけではない。これまで俺に意見を求めてきた者まで、いつの間にかそちらへ加わっていた。
少し気にはなった。
それでも、シルビアとの婚約が正式に発表され、俺たちが王太子とその婚約者として務めを果たしていけば、いずれ関係も築き直せる。その程度に考えていた。
◆◆◆
「うわぁ……今日もこんなにあるの?」
王太子妃教育は、予想していた以上に進まなかった。
シルビアは学園での成績こそよかったが、それと王太子妃に求められる知識はまるで別物だ。
国内の貴族家同士の関係、領地ごとの産業、外交儀礼、各国の王族や高官の家系。外国語にいたっては、そもそも履修していなかったため、一から覚えなければならなかった。
「うう、全然進まないなぁ」
机いっぱいに広げられた教材を前に、シルビアが肩を落とす。それでも、すぐに一冊を手に取った。
「でも、レイのお嫁さんになるんだもの。このくらいできるようにならないとね」
「ああ。無理はするな」
「うん。分からなかったら教えてね」
シルビアは慣れない勉強に苦戦しながらも、愚痴をこぼしつつ教材を開いていた。
だから俺も、できる限り支えた。
分からないところがあれば教え、予定を調整し、教師から遅れを指摘されれば補習の時間を作った。
大変ではあったが、まだ何とかなると思っていた。俺が支えればいいのだから、と。
そして迎えた、婚約披露の夜会。
国内の有力貴族だけでなく、近隣諸国からも王族や大使が招かれていた。
「レイナルド殿下、ご婚約おめでとうございます」
隣国の大使が祝いの言葉を述べたあと、シルビアを見る。ほんの一瞬、その表情に戸惑いが浮かんだ。ジュリアが隣に立っていると思っていたのだろう。
「こちらが婚約者のシルビア・ベクターです」
俺が紹介すると、シルビアは練習したとおりに挨拶した。
そこまではよかった。
大使は笑顔で挨拶を返し、最後に自国の言葉で短い祝いの言葉を添えた。
シルビアの表情が固まる。
俺はすぐに、その意味を彼女へ伝えた。
「あ……ありがとうございます」
「失礼。つい癖で申し上げてしまいました」
大使はすぐに共通語へ戻し、そのまま当たり障りのない会話が続く。
「今年はそちらの葡萄が豊作だったとか」
俺が話題を振ると、シルビアも会話に加わった。
「たしか、ルゼール地方が有名なのですよね?」
「……ルゼールは北部ですな。今年豊作なのは南部のアルデ地方です」
「あっ……すみません。勉強したばかりで、混同してしまって……」
「いえいえ。似た名の産地も多いですからな」
大使は笑って流してくれ、俺もすぐに別の話題へ移す。
それだけのことだった。
それでも、周囲にいた者たちが交わした視線を感じた。
そのとき、離れた場所から笑い声が聞こえた。
聞き覚えのある声に、思わず振り返る。
そこにいたのは、ジュリアだった。
セドリックの隣で、外国の商人と話している。
流暢な外国語だった。
「そちらでは、今年も柑橘が豊作だとか」
ジュリアが言うと、商人が笑う。
「まさか、その柑橘まで美容液に入れるおつもりですか?」
「使えるものなら、何でも試してみたいと思っています」
「それでは我が国の果物が、すべて化粧品にされてしまいそうですな」
「そのときは、きちんと買い取らせていただきますわ」
周囲から笑いが起こった。
ジュリアも楽しそうに笑いながら、手にした試作品の瓶について説明を続ける。
相手の国の産業へ自然に話をつなげ、ときおりセドリックにも話を振る。会話が途切れることはない。
俺は、その姿を見つめた。
『外国語の勉強を増やしてみたんです』
以前、ジュリアがそんな話をしていたことを思い出す。
『実際に学んでみると面白いのですよ。他国の文化について、知らないことがたくさんありました』
俺はそのとき、なんと答えただろう。
確か、「そうか」と、それだけだった。
母上からも聞いたことがある。
ジュリアは、俺が社交を得意としていないから、自分が少しでも補えるようになりたいのだと話していたらしい。
思い返せば、これまでにも何度もあった。
俺が相手との話題に困れば、ジュリアがさりげなく別の話を振ってくれた。名前を思い出せない相手がいれば、会話の中で自然に呼びかけて教えてくれたこともある。
外国からの客人との席でも、いつの間にか俺が答えやすい話題へ流れを変えてくれていた。
そのどれも、俺は深く考えたことがなかった。
ジュリアは、そういうことが得意なのだと思っていた。
「レイ?」
シルビアに呼ばれ、我に返る。
「あ……なんでもない」
小さく首を横に振る。
――今だけだ。
シルビアが慣れるまで、俺が支えればいい。
だが、その言葉に、自分で引っかかった。
本当に、今だけなのだろうか。
ジュリアは、いつからあれほど外国語を話せるようになった?
いつから各家の関係を覚え、俺が困るより先に動けるようになった?
ふと、王太子妃教育の最中、机に突っ伏して眠ってしまったシルビアの姿が浮かんだ。
慣れない勉強で疲れているのだろうと、あのときは起こさずにいた。
……俺はこれから先もずっと、シルビアが足りないところを補い続けることになるのか。
――俺に、それができるのか。
「レイナルド殿下」
客人から声をかけられ、俺は顔を上げた。
今は目の前の客人に集中しなければならない。
俺はもう一度、会話へ意識を戻した。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
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