第19話 庇われる場所には立ちません
殿下が知ったのは、その日のうちだった。
誰が伝えたのかは分からない。学園に、伝わらない話は無い。夕方、寮の受付に呼ばれた。降りていくと、セドリック殿下が玄関の外に立っていた。中に入らずに、外で待っていた。
「歩けるか」
「はい」
中庭の並木道を、二人で歩いた。夕方の学園は人が少ない。
「ドラクロワ様に会ったそうだね」
「はい」
「取り下げろと言われた」
「はい」
殿下は足を止めた。
「あの人は、僕が止める」
わたしは、その言葉を聞いた。
「文書法の件は、王宮の記録保管室の管轄だ。保管室の長は父上の直属で、女官長室の下ではない。手続きに入るには決裁が要る。僕から父上に話せば、決裁は止まる」
殿下は早口だった。この人が早口になるのを、はじめて聞いた。
「共同研究の枠も、僕が推挙し直せばいい。学園長は僕の推挙を通す。今回も通した」
並木の影が、道の上で長く伸びていた。
「殿下」
わたしは言った。
「いいえ」
殿下が振り返った。
「いいえ、というのは」
「その方法は、お取りにならないでください」
わたしは、自分の声が落ち着いているのを確かめてから続けた。
「殿下がお止めになれば、たしかに止まります。今回は」
わたしは並木の幹に手を置いた。
「では、次はいかがなさいますか」
殿下が黙った。
「わたくしの四百十二通は、消えません。写しは保管室に残ります。取り出そうと思えば、誰でも取り出せます。今回止めても、次の誰かが同じ束を持って参ります」
わたしは殿下を見た。
「そのたびに、殿下がお止めになるのですか」
「必要なら、そうする」
「では、わたくしは、殿下が止め続けてくださる限りにおいて、ここに居てよい人間になります」
殿下の口が、少し開いた。
「それは、いままでと同じでございます」
「父が許す限りにおいて書き、姉が要る限りにおいて居る。相手が変わるだけです」
風が並木を通った。葉が一斉に鳴って、それから静まった。
「……そういうつもりじゃない」
殿下は言った。
「存じております」
わたしは頷いた。
「殿下は、そういうおつもりでは決してありません。それは、わたくしがいちばんよく分かっております」
わたしは並木の幹から手を離した。
「けれど、庇われる場所には、立ちません」
自分の口から出た言葉が、思ったよりはっきりしていた。殿下はしばらく黙っていた。それから、深く息を吐いた。
「――君は、ときどき本当に手強い」
「申し訳ございません」
「褒めている」
殿下は道の先を見た。
「では、僕は何をすればいい」
その問いは、はじめて対等な形をしていた。わたしは少し考えた。
「ひとつ、お願いがございます」
「言って」
「王宮の記録保管室に、公爵家以外の家の文書も、同じように三十年ぶん保管されておりますか」
殿下が眉を上げた。
「……ある。格のある家は全部」
「王家のものも」
「王家のものは別の棚だが、ある」
「では、それだけで結構でございます」
「それだけ?」
「はい」
殿下は不服そうな顔をした。この人が感情を顔に出すのは珍しい。
「何をするつもりなのか、教えてくれないのか」
「まだ、何もいたしません」
わたしは正直に答えた。
「三日で決めるようにと言われております。三日で決めますので、決まりましたら申し上げます」
殿下は、並木の道を少し歩いてから、振り返った。
「ヴァレンティ嬢。ひとつだけ言わせてくれ」
夕日が、その人の背中側にあった。
「僕が君を守りたいと思うのは、君が弱いからじゃない」
「三年前、僕を立たせたのが君の紙だからだ。あれは施しじゃなかった。取引でもなかった。ただ、書いてあった」
その人は少し笑った。
「だから、僕も何かを書いて返したい。それだけなんだ」
わたしは頭を下げた。下げた顔を、しばらく上げられなかった。上げれば、たぶん何か余計なことを言ってしまう。言ってしまえば、それは今日の話ではなく、もっと先の話になる。
その夜、わたしは寮の机で、紙を三枚並べた。一枚目に、取り下げの一筆を書きかけて、途中でやめた。二枚目に、四百十二という数字を書いた。
三枚目には、何も書かなかった。
――残っていないものを含めれば、あなたご自身にしか分からない。
カトリーヌ様は、そう言った。あの人は、わたしが数を知らないことを見抜いていた。見抜いた上で、数えていないだろうと踏んで、あの束を持ってきた。
数えていない人間は、脅せる。自分がどれだけ罪を持っているか分からない人間は、いちばん脅しやすい。わたしは三枚目を引き寄せた。紙の左上に、指の跡が薄くついている。二晩、同じところを押さえていたらしい。
ペンを取って、いちばん上に書いた。
――わたくしが書いたもの、一覧。
書いてから、少し手が止まった。これを作れば、消えない証拠を自分で作ることになる。誰も知らないものまで、全部書き出すことになる。
わたしは、それでも書き始めた。
六つの年の書き取りから、順に。年ごとに行を分け、宛先の分かるものには宛先を、分からないものには「不明」と書いた。不明の行が増えるたびに、自分がどれだけ何も見ないで書いてきたかが、行の数になって出てきた。
次話、監督生が自分の記録を出します。




