皇女の署名
皇女宮へ届いた書簡は、朝の銀盆に載せられていた。
封蝋は第二皇子の私印。軍務省でも皇城でもなく、セドリック個人としての印だった。
アリシアはしばらくそれを見つめていた。
開ける前から、内容の重さが分かる気がした。公的な申立てでも、軍務報告でもない。姉へ向けた弟の言葉は、政治的な刃より扱いが難しい。
ラヴィニアが控えめに問う。
「確認いたしましょうか」
「いいえ。私が読むわ」
アリシアは封を切った。
文字は整っていた。幼い頃から、セドリックの字はそうだった。勢いではなく、線の終わりまで制御する書き方。兄の乱暴な筆跡とはまるで違う。
姉上。
帝国を正そうとするあなたを、私は軽んじていません。
むしろ、兄上よりはるかに皇族の責任を理解しておられると思っています。
ですが、帝国はこれから必ず戦場を迎えます。
元老院は沈み、軍は割れ、属国は飢え、聖務庁は民の信仰を盾にする。
その時、冠を戴く者は、誰かを裁く正しさだけでなく、誰かを死地へ送る冷酷さを求められます。
姉上を傷つけたいのではありません。
帝国を守るため、候補を退いてください。
末尾に、短い追伸があった。
カサンドラ様も、あなたが監察官に寄りかかりすぎていることを案じています。
アリシアはそこまで読み、書簡を机へ置いた。
怒りはあった。
だが、怒りだけではなかった。
セドリックは本気だ。
彼は姉を侮辱したいのではない。帝国を守るには自分が必要だと信じている。その信念があるからこそ、厄介で、痛い。
「殿下」
ラヴィニアの声に、アリシアは顔を上げた。
「顔色が」
「弟に退けと言われたわ」
「無礼です」
「そうね」
アリシアは小さく息を吐く。
「でも、あの子は無礼を言ったつもりではない」
それが一番つらかった。
午前の皇女宮には、側近たちが集められた。
法務官、文官、近衛代表、改革派貴族の代理人。机上には、アリシアが用意させた一枚の文書がある。
皇位継承審査および関連資金・証人調整に関する全面監察請求。
対象欄には、セドリック派だけでなく、アリシア派、皇女宮、アリシア本人の名まで含まれていた。
最初に反対したのは、改革派貴族の代理人だった。
「殿下、これは危険です」
「承知しているわ」
「我々の側に一切の傷がないとは申し上げません。ですが、今ここで全面監察を受ければ、支持基盤が崩れます」
「傷があるなら、今のうちに出すべきよ」
「セドリック殿下を利するだけです」
アリシアは代理人を見た。
「私が監察を恐れるなら、皇帝候補ではない」
室内が静まった。
法務官が慎重に言う。
「殿下ご自身も対象に含める必要は」
「あるわ」
アリシアは文書へ手を置く。
「弟は私が帝冠監察官に依存していると言った。ならば、私が監察から逃げないことを示す。私の判断、私の側近、私の資金、私の署名。すべて秤に乗せる」
ラヴィニアは黙って聞いていた。
止めたい気持ちはある。だが、ここで止めれば、主君を小さく守るだけになる。それは、アリシアが選ぼうとしている道とは違う。
アリシアは筆を取った。
一瞬だけ、指が止まる。
自分を秤に乗せることは、怖い。
第一部で監察を受けた時、彼女は監察される側の冷たさを知った。隠したかったもの、見たくなかったもの、便利に放置していたものまで、光の前へ出される。
それでも、今度は自分で求める。
彼女は署名した。
アリシア・ヴァルガスト。
青紫のインクが紙へ沈む。
「これを、継承審査室へ提出します」
「使者を」
「私が行く」
側近たちが一斉に顔を上げた。
「殿下ご自身が?」
「そうよ」
アリシアは立ち上がる。
「自分を秤に乗せる文書を、人に運ばせるわけにはいかない」
継承審査室へ向かう廊下には、すでに噂を聞いた者たちが集まり始めていた。
アリシアはその視線の中を歩く。ラヴィニアが一歩後ろ、さらに近衛が続く。誰も声をかけない。署名済みの文書を持つ皇女の姿は、ただの移動ではなく宣言だった。
審査室には、セドリックもいた。
彼は偶然ではなく、待っていたのだろう。円卓の側で、軍務報告の写しを読んでいる。
アリシアが入ると、彼は顔を上げた。
「姉上」
「書簡は読んだわ」
「そうですか」
「答えを持ってきた」
アリシアは審査官へ文書を差し出す。
審査官が内容を読み、目を見開いた。
「殿下、これは」
「皇位継承審査、および関連する全陣営の資金、証人、軍務接触記録について、帝冠監察院の全面監察を求めます」
セドリックの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
驚き。あるいは、姉を見る目の更新。
「ご自身も対象に?」
審査官が確認する。
アリシアは頷いた。
「私自身も秤に乗せなさい」
審査室の空気が変わった。
誰かが小さく息を呑む。グレゴリウスは席の奥で、感情を読ませない顔のまま文書を見ていた。
レオンが呼ばれたのは、すぐ後だった。
彼は黒い礼装で入室し、文書を受け取る。
「帝冠監察院は、第一皇女アリシア・ヴァルガスト殿下からの全面監察請求を受理します」
短い宣言だった。
だが、その一言で、継承審査全体の地形が変わる。
セドリックが口を開いた。
「姉上」
「何」
「そこまでして、退かないのですか」
「ええ」
アリシアは弟を見る。
「あなたが本気で帝国を案じていることは分かった。だから、私も本気で立つ」
セドリックはしばらく黙った。
やがて、静かに笑う。嘲笑ではなかった。
「ならば、帝国の前で競いましょう」
「望むところよ」
姉弟の間に、幼い日の名残はなかった。
だが憎しみだけでもない。互いに相手を認めた上で、退けない場所へ立った。
グレゴリウスが低く言う。
「興味深い」
誰にも向けていないようで、全員へ届く声だった。
「皇族が、自ら秤に乗る時代ですか」
レオンは文書へ監察印を押した。
黒い文字が紙面に浮かび、アリシアの署名を囲む。逃げ道を塞ぐ鎖ではない。責任を固定する印だった。
その夜、皇女宮へ戻ったアリシアは、セドリックの書簡を再び読んだ。
退いてください、という文字は変わらない。
彼女は新しい紙を取り、返書を書いた。
私は退きません。
あなたも退かないなら、帝国の前で互いを示しましょう。
書き終えた後、彼女はしばらく筆を置けなかった。
弟と戦う道を、自分で選んだ。
その事実は重い。だが、不思議と足元は揺れていなかった。
帝冠監察院では、レオンが監察請求書を記録庫へ収めていた。
ミラベルが隣で言う。
「殿下は、ご自身を危険に晒しました」
「ええ」
「止めるべきでしたか」
レオンは署名を見た。
「責任から逃げないための危険です」
黒い記録棚が閉じる。
「監察します」
その声は、いつもと同じ冷たさだった。
だがその冷たさの中で、アリシアが選んだ覚悟は、確かに受理されていた。




