ラヴィニアの涙
深夜の帝冠監察院は、石の音がよく響く。
昼間は執行吏や法務官の足音、記録室の紙音、訪問者の声で満ちているが、夜になると建物そのものが古い契約の殻に戻る。回廊を歩くと、自分の靴音だけが追ってくる。
ラヴィニアは中庭脇の訓練場で、木剣を振っていた。
灯りは一本だけ。肩に掛けた上着はすでに外し、額には汗が滲んでいる。だが、鍛錬のためだけなら、ここまで追い込む必要はなかった。
眠ると、顔が浮かぶ。
失格を宣告された皇太子。
地下司令部で床に押し伏せた元近衛。
判決を聞いて膝を崩した旧皇太子府の侍従。
そして、法廷中央で誰も例外にしないと言い切ったレオン。
木剣が空を切る。
踏み込み、打ち下ろし、返し、突き。体に染み込んだ近衛の型は、今も美しい。だが、その型を捧げる相手を間違えたままなら、美しさごと腐る。
ラヴィニアは息を吐き、もう一度構えた。
皇太子に忠誠を誓った日のことを思い出す。
若かった。誇らしかった。帝国の中心に仕えるのだと信じていた。誰かに選ばれたことが、自分の価値を証明してくれるような気がした。
その忠誠が歪んでいたと知った時、彼女は自分の過去まで失ったように思った。
だが、違う。
誓った心そのものが嘘だったわけではない。向ける先を間違え、間違えた先にしがみつき、帝国ではなく人の虚栄へ膝をついていた。それが罪だった。
木剣の動きが止まる。
肩で息をしながら、ラヴィニアは顔を伏せた。
頬を何かが伝った。
汗だと思いたかった。だが、夜風は冷たく、汗とは違う熱を持っていた。
彼女は木剣を握りしめる。
泣く資格があるのか、分からなかった。自分が傷ついたからではなく、自分も誰かを傷つける側にいたかもしれない。その怖さが、今になって胸の奥を削る。
「ラヴィニア」
背後から声がした。
彼女は反射的に振り返り、木剣を構えかけて止まった。
レオンが回廊の入口に立っている。黒い外套は羽織っていない。夜間の巡回用なのか、簡素な上衣姿だった。
「失礼しました」
ラヴィニアは姿勢を正す。
「騒がしかったでしょうか」
「足音が乱れていました」
彼らしい指摘だった。
心配ではなく観察から入る。だが、だからこそ誤魔化しにくい。
レオンは近づき、彼女の頬を見た。
「泣いているのか」
「いいえ」
答えは速すぎた。
「涙ではなく、汗です」
言った瞬間、自分でも苦しい言い訳だと分かる。
だがレオンは、否定しなかった。
「そうか」
それだけだった。
追及されなかったことで、逆に喉の奥が詰まる。嘘を暴かれないことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
「何をしている」
「帝国を守る準備をしています」
ラヴィニアは木剣を下ろさない。
「近衛騎士団は再編されました。ですが、誓いの言葉を変えただけでは足りません。剣を振るう者が、自分の中の誓いを変えなければ」
レオンは黙って聞いている。
「私は、遅かった」
その言葉は、自然にこぼれた。
「もっと早く、皇太子殿下ではなく帝国を見るべきでした。あなたに言われるまで、私は自分の忠誠が美しいものだと思っていた」
「忠誠そのものは、美徳です」
レオンは言った。
「向ける先を誤れば、罪になる」
その正確さが、ラヴィニアの胸を刺した。
慰めではない。だから逃げずに受け取れる。
「はい」
彼女は頷く。
「だから、もう間違えません」
「人は間違えます」
また、即座に返ってくる。
ラヴィニアは思わず顔を上げた。
レオンは続ける。
「間違えないと誓うより、間違えた時に戻る場所を定めるべきです」
「戻る場所」
「帝国です」
短い言葉だった。
だが、それはラヴィニアがずっと探していた答えでもあった。
皇太子ではない。
誰か一人の称賛でも、庇護でもない。
帝国へ戻る。そこへ戻る限り、自分は何度でも剣を正せる。
胸の奥から、別の熱が上がってくる。
それは忠誠に似ていた。だが、かつて皇太子へ向けたものとは違う。もっと苦しく、もっと自由で、もっと個人的だった。
この男に従いたい。
この男が見る帝国を、自分も守りたい。
この男が間違えるなら、その前に盾になり、必要なら止めたい。
それを恋と呼ぶには、まだあまりに重い。
敬意と忠誠と救われた痛みが絡み合い、名前をつけるには早すぎる形で胸にある。
ラヴィニアは木剣を床へ置き、正式な騎士礼を取った。
「レオン・クロウヴァイス殿」
レオンは彼女を見る。
「私は、近衛騎士として帝国に仕えます」
「ええ」
「その上で、あなたを守ります」
夜風が中庭を通った。
言い過ぎただろうか。護衛任務としてなら当然の言葉だ。だが、今の声にはそれ以上のものが混じった。
レオンは、そこを測るように一拍置いた。
「私を守ることが、帝国を守ることと一致する限り」
ラヴィニアは、思わず笑いそうになった。
甘い受諾ではない。任務条件の確認だ。だが、彼にとってはそれが最大限の誠実さなのだと、もう分かっている。
「一致しなくなれば」
彼女は言った。
「止めます」
「それでいい」
たったそれだけで、涙がまた溢れそうになる。
ラヴィニアは慌てて顔を背けた。
「汗です」
「何も言っていません」
「念のためです」
沈黙が落ちる。
気まずさではなく、受け取られた後の静けさだった。
レオンは回廊へ戻りかけ、途中で足を止めた。
「明朝の訓練」
「はい」
「無理に全員の前で強く見せる必要はありません。隊は、指揮官が壊れないことでも保たれる」
ラヴィニアは言葉を失った。
振り返る前に、レオンはもう歩き出している。
優しさと呼ぶには不器用すぎる。
だが、その不器用さが彼女の胸を深く満たした。
彼の背を、自然に追いかけそうになる。
ラヴィニアは一歩だけ踏み出し、そこで止まった。
今夜は護衛ではない。
追うのではなく、自分の場所へ戻る。帝国へ戻る。その上で、また隣に立つ。
彼女は頬を拭い、木剣を拾った。
涙ではなく汗だと、自分にもう一度言い聞かせる。
その嘘は、もう逃げるためではなく、明日の朝に立つための小さな意地だった。




