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皇帝失格 〜帝国最強の監察官、腐った皇族を廃位する〜  作者: セルヴォア


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24/30

ラヴィニアの涙

深夜の帝冠監察院は、石の音がよく響く。

昼間は執行吏や法務官の足音、記録室の紙音、訪問者の声で満ちているが、夜になると建物そのものが古い契約の殻に戻る。回廊を歩くと、自分の靴音だけが追ってくる。


ラヴィニアは中庭脇の訓練場で、木剣を振っていた。

灯りは一本だけ。肩に掛けた上着はすでに外し、額には汗が滲んでいる。だが、鍛錬のためだけなら、ここまで追い込む必要はなかった。


眠ると、顔が浮かぶ。

失格を宣告された皇太子。

地下司令部で床に押し伏せた元近衛。

判決を聞いて膝を崩した旧皇太子府の侍従。


そして、法廷中央で誰も例外にしないと言い切ったレオン。


木剣が空を切る。

踏み込み、打ち下ろし、返し、突き。体に染み込んだ近衛の型は、今も美しい。だが、その型を捧げる相手を間違えたままなら、美しさごと腐る。


ラヴィニアは息を吐き、もう一度構えた。


皇太子に忠誠を誓った日のことを思い出す。

若かった。誇らしかった。帝国の中心に仕えるのだと信じていた。誰かに選ばれたことが、自分の価値を証明してくれるような気がした。


その忠誠が歪んでいたと知った時、彼女は自分の過去まで失ったように思った。


だが、違う。

誓った心そのものが嘘だったわけではない。向ける先を間違え、間違えた先にしがみつき、帝国ではなく人の虚栄へ膝をついていた。それが罪だった。


木剣の動きが止まる。

肩で息をしながら、ラヴィニアは顔を伏せた。


頬を何かが伝った。

汗だと思いたかった。だが、夜風は冷たく、汗とは違う熱を持っていた。


彼女は木剣を握りしめる。

泣く資格があるのか、分からなかった。自分が傷ついたからではなく、自分も誰かを傷つける側にいたかもしれない。その怖さが、今になって胸の奥を削る。


「ラヴィニア」


背後から声がした。


彼女は反射的に振り返り、木剣を構えかけて止まった。

レオンが回廊の入口に立っている。黒い外套は羽織っていない。夜間の巡回用なのか、簡素な上衣姿だった。


「失礼しました」


ラヴィニアは姿勢を正す。


「騒がしかったでしょうか」


「足音が乱れていました」


彼らしい指摘だった。

心配ではなく観察から入る。だが、だからこそ誤魔化しにくい。


レオンは近づき、彼女の頬を見た。


「泣いているのか」


「いいえ」


答えは速すぎた。


「涙ではなく、汗です」


言った瞬間、自分でも苦しい言い訳だと分かる。

だがレオンは、否定しなかった。


「そうか」


それだけだった。

追及されなかったことで、逆に喉の奥が詰まる。嘘を暴かれないことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。


「何をしている」


「帝国を守る準備をしています」


ラヴィニアは木剣を下ろさない。


「近衛騎士団は再編されました。ですが、誓いの言葉を変えただけでは足りません。剣を振るう者が、自分の中の誓いを変えなければ」


レオンは黙って聞いている。


「私は、遅かった」


その言葉は、自然にこぼれた。


「もっと早く、皇太子殿下ではなく帝国を見るべきでした。あなたに言われるまで、私は自分の忠誠が美しいものだと思っていた」


「忠誠そのものは、美徳です」


レオンは言った。


「向ける先を誤れば、罪になる」


その正確さが、ラヴィニアの胸を刺した。

慰めではない。だから逃げずに受け取れる。


「はい」


彼女は頷く。


「だから、もう間違えません」


「人は間違えます」


また、即座に返ってくる。


ラヴィニアは思わず顔を上げた。


レオンは続ける。


「間違えないと誓うより、間違えた時に戻る場所を定めるべきです」


「戻る場所」


「帝国です」


短い言葉だった。

だが、それはラヴィニアがずっと探していた答えでもあった。


皇太子ではない。

誰か一人の称賛でも、庇護でもない。

帝国へ戻る。そこへ戻る限り、自分は何度でも剣を正せる。


胸の奥から、別の熱が上がってくる。

それは忠誠に似ていた。だが、かつて皇太子へ向けたものとは違う。もっと苦しく、もっと自由で、もっと個人的だった。


この男に従いたい。

この男が見る帝国を、自分も守りたい。

この男が間違えるなら、その前に盾になり、必要なら止めたい。


それを恋と呼ぶには、まだあまりに重い。

敬意と忠誠と救われた痛みが絡み合い、名前をつけるには早すぎる形で胸にある。


ラヴィニアは木剣を床へ置き、正式な騎士礼を取った。


「レオン・クロウヴァイス殿」


レオンは彼女を見る。


「私は、近衛騎士として帝国に仕えます」


「ええ」


「その上で、あなたを守ります」


夜風が中庭を通った。

言い過ぎただろうか。護衛任務としてなら当然の言葉だ。だが、今の声にはそれ以上のものが混じった。


レオンは、そこを測るように一拍置いた。


「私を守ることが、帝国を守ることと一致する限り」


ラヴィニアは、思わず笑いそうになった。

甘い受諾ではない。任務条件の確認だ。だが、彼にとってはそれが最大限の誠実さなのだと、もう分かっている。


「一致しなくなれば」


彼女は言った。


「止めます」


「それでいい」


たったそれだけで、涙がまた溢れそうになる。

ラヴィニアは慌てて顔を背けた。


「汗です」


「何も言っていません」


「念のためです」


沈黙が落ちる。

気まずさではなく、受け取られた後の静けさだった。


レオンは回廊へ戻りかけ、途中で足を止めた。


「明朝の訓練」


「はい」


「無理に全員の前で強く見せる必要はありません。隊は、指揮官が壊れないことでも保たれる」


ラヴィニアは言葉を失った。

振り返る前に、レオンはもう歩き出している。


優しさと呼ぶには不器用すぎる。

だが、その不器用さが彼女の胸を深く満たした。


彼の背を、自然に追いかけそうになる。

ラヴィニアは一歩だけ踏み出し、そこで止まった。


今夜は護衛ではない。

追うのではなく、自分の場所へ戻る。帝国へ戻る。その上で、また隣に立つ。


彼女は頬を拭い、木剣を拾った。

涙ではなく汗だと、自分にもう一度言い聞かせる。

その嘘は、もう逃げるためではなく、明日の朝に立つための小さな意地だった。

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