生命の源1
その邸宅を囲むレンガ造りの高い塀は、外の世界との断絶を象徴していた。厳重な警備システムと、常に周囲を巡回する屈強な男たち。そこは街の喧騒から隔絶された、静謐で、かつ冷徹な「聖域」だった。
広大な庭園の中央には、透き通った水を湛えた池がある。そこでは、一匹が数百万円もする選び抜かれた品種の錦鯉たちが、宝石のように色彩を散らしながら、優雅に、かつ無機質に尾を振っていた。
彼は幼少期の頃から、その池の縁に腰掛け、生き物たちが自分の与える餌を求めて狂ったように群がる様を眺めるのが唯一の愉しみだった。餌を撒けば、水面は激しく波立ち、生命たちが醜く重なり合う。だが、彼が手を止めれば、世界は瞬時に静まり返る。
彼にとって、世界とはそういう構造をしていた。
自分という絶対的な中心があり、その周囲を無価値な生命が、自分に媚を売るように、あるいは生かされていることに感謝するように回っている。そこに「個」としての尊厳など存在せず、すべては彼の指先ひとつで左右される部品に過ぎなかった。
彼の父は、中央政界において「影の支配者」とさえ目される大物議員だった。
父の周囲には常に、黒塗りの車と、感情を殺したスーツ姿の男たちが群れていた。
「父さんに任せなさい」
父が発するその低い声は、彼にとっての福音であり、神の託宣でもあった。
十歳の時、ふとした知的好奇心から近所の飼い犬を実験台にし、その生命を奪った時も。十五歳の時、自分を軽蔑するような視線を向けた同級生を、社会的に、そして肉体的に再起不能なまでに叩き潰した時も。
警察の捜査が入ることは一度としてなかった。それどころか、被害者であるはずの親たちが、顔を青ざめさせ、震える手で菓子折りを持ち、涙を流しながら「うちの子の至らなさが原因で、お坊ちゃまにご不快な思いをさせた」と謝罪しに来たのだ。
父の振るう「チカラ」は、起きた事象そのものを歴史の裏側へ消し去る、傲慢な魔法だった。
彼には、他人の痛みや悲しみに共鳴するための神経が、生まれつき欠落していた。
他人が絶望に打ちひしがれ、泣き叫ぶ姿を見ても、それは「故障した機械が耳障りな異音を発している」程度にしか感じられない。むしろ、その精密な機械を自分の意志で破壊し、二度と動かなくさせたという「支配の事実」が、彼の渇いた心に歪んだ自尊心を注ぎ込んだ。
「お前は選ばれた人間だ。この国の未来、すなわち『秩序』を担う一族なのだから、泥にまみれた連中と同じ物差しで自分を測るな」
父の教えを、彼は歪んだ形で内面化していった。
自分は「法」や「道徳」という、弱き大衆を統制するために発明された鎖から、永遠に免除された存在なのだと。
成人し、何不自由ない暮らしを続ける中で、彼の退屈はついに限界を超えた。
名誉も、有り余るほどの金も、約束された地位も。手に入れる前から「そこにあるべきもの」として用意されているそれらは、彼にとって、価値のないガラクタの山に等しかった。
彼が唯一、自分の体内の血が沸き立つのを感じるのは、他人が信じて疑わない「平穏な日常」という場に介入し、それを劇的に、かつ残酷に破壊する瞬間だけだった。
そんなある夏の午後、運命の歯車が静かに回り始める。
彼は父の書斎の奥、重厚な本棚の裏に隠された秘密の収蔵庫で、一冊の古い、革表紙の日誌を見つけた。
そこには、かつて父が権力の座に上り詰める過程で「処理」してきた数々の凄惨な不祥事の記録とともに、人の生命を最も効率的に、そして科学的な証拠を一切残さずに奪うための、毒物に関する断片的な知識が、事務的な筆致で記されていた。
その文字を追う彼の瞳に、数年ぶりに生気が宿った。
父は権力という目に見える暴力で、現実を上書きし、塗りつぶしてきた。
ならば自分は、目に見えない、無味無臭の死の粉末を用いて、この退屈な現実そのものを内側から腐敗させてみよう。
それは、この完璧すぎて、あまりにも窮屈な黄金の檻から抜け出すための、彼なりの、そして彼にしか許されない「究極の遊び」の幕開けだった。
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