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  作者: しゅう


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光と闇2

司教執事の執務室で命じられたのは、ルカの想像を遥かに超える「栄転」であった。

「ルカよ、お前のその揺るぎない信仰と正確な筆致を、より神聖で、より困難な職務に捧げる時が来た。中央より派遣された異端審問官、コンラート様の専属書記として、異端審問所への転籍を命ずる」

その言葉を聞いた瞬間、ルカの視界は歓喜で白く染まった。異端審問官の書記。それは神の敵を暴き、言葉という剣で光の秩序を守る、聖なる戦士の右腕になることを意味する。かつて灰の中に文字を隠し書いていた石工の息子が、今や教会の最も深遠な正義に携わるのだ。

期待と希望に胸を膨らませ、ルカは慣れ親しんだ明るい写字室を後にした。

彼の歩みは軽く、未来への不安など微塵もなかった。これから向かう場所は、自分が愛してやまない「光の正義」を、より力強く証明するための聖なる戦場なのだ。自分はあの大聖堂のステンドグラスのように、真理を鮮やかに映し出す透明な媒体になるのだと、彼は輝かしい未来を確信していた。


ルカは、身廊の北側に位置する、ひときわ重厚な石造りの別棟――「異端審問所」へと足を向けた。

そこには一切の装飾がなく、厳格な静寂が支配していた。入り口の門には、剣と秤を組み合わせた冷徹な、しかし彼にとっては「公平な正義」を象徴する紋章が刻まれている。ルカは、木箱を抱える腕に力を込めた。冬の凍てつく風でさえ、今は彼を祝福する聖霊の息吹のように感じられた。

彼は希望に満ちた足取りで、その内側へと招き入れられた。

一歩足を踏み入れると、そこは光溢れる大聖堂の裏側だった。通路は狭く、壁には窓が一つもなかった。点々と置かれた鉄製の燭台が、煤まみれの火を吐き出し、石の壁をどす黒く舐めている。

しかし、今のルカの目には、その暗ささえも「これから自分が光を当てるべき場所」としての神聖な静寂にしか映らなかった。自分自身の内側に、大聖堂のステンドグラスのような輝きを宿したまま、ルカは運命の扉へと歩を進めた。


突き当たりの重いオークの扉を叩くと、中から低く、冷徹な響きを持つ声が応じた。

「入れ」

執務室は、陰鬱な空気に満ちていた。机の向こうに座っていたのは、漆黒の法衣を纏った男、異端審問官コンラートであった。彼は教皇直属のドミニコ修道会から派遣された、異端撲滅の鋭き「剣」である。その顔は深く被ったカウルの影に隠れ、ただ磨き抜かれた黒曜石のような瞳だけが、獲物を探る鷲のようにルカを射抜いた。

「書記ルカ……石工の倅か」

コンラートは、ルカが差し出した紹介状に目を落とすこともなく、冷たく言い放った。

「お前がこれまで写字室で書き写してきたのは、神の『慈愛』であろう。だが、この部屋でお前が綴るのは、神の『正義』だ。お前のペンは、罪人が吐き出す汚泥のような言葉を濾過し、一点の曇りもない『事実』として定着させるための楔とならねばならぬ。迷いは、悪魔が入り込む隙となる。心せよ」

ルカは緊張で喉を鳴らし、深く頭を下げた。

「はい、コンラート様。神の秩序を汚す闇を、この筆先で暴き出す所存です」

ルカの答えを聞くと、コンラートは無言で立ち上がった。その法衣が擦れる音さえも、研がれた刃物が鞘を滑るような鋭さを持っていた。


数日後、ルカはコンラートに連れられ、さらに深い地下へと足を踏み入れた。

大聖堂の地下深く、「浄化の檻」と呼ばれる地下牢。そこは、ルカが夢見ていた光の世界からは最も遠い、絶対的な闇の領域だった。壁の石は結露で濡れ光り、天井からは絶えず冷たい水滴が滴り落ちている。

「本日の被疑者を見よ、書記よ」

コンラートが指し示した鉄格子の奥に、その男はいた。

一畳ほどの狭い牢の中に、泥と排泄物の臭いにまみれた一塊の影として転がっている老人。

「被告名、バルタザール。元大聖堂・硝子焼職人」

ルカの手が、インク瓶を開ける際にかすかに震えた。バルタザール。その名を知らぬ者などこの街にはいない。ルカが毎日、祈りを捧げ、その美しさに魂を震わせていたあの大聖堂の、もっとも荘厳なバラ窓を焼き上げた伝説的な職人だ。


「バルタザールよ」

コンラートの声が、冷たい水のように牢内に響く。

「お前は硝子に色を与える際、教会が禁じた東方の密儀、さらには錬金術の悪魔的配合を用いた疑いがある。あの不自然なまでの輝きは、神を称えるためのものではなく、民の目を眩ませ、不浄な思念を植え付けるための罠か。白状せよ。お前がその業を教わったのは、どの悪魔からだ」

老人は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は白く濁っていたが、ルカにはそれが、地下牢の暗闇の中でさえ何か遠くの輝きを見つめているように見えた。

「……審問官様。硝子に真実の命を吹き込むには、熱い闇が必要なのです」

老人の声は掠れていたが、その響きには石工の誇りを超えた、宇宙の真理を掴んだ者だけが持つ威厳があった。

「炎という名の、制御できぬ闇。それを潜り抜けて初めて、砂は光を通す宝石へと変わります。私はただ、その闇の奥にある『光の形』を、この世に写し取っただけにございます……」

「黙れ。光は天から無償で降るものであり、地下の炎から無理やり引き出すものではない。それは、聖なるものに似せた偽りだ」

コンラートは無表情に言い放ち、ルカに記録を促した。

ルカのペン先が羊皮紙を走る。

『被告は炎の闇を光の源と呼び、神の奇跡を冒涜した――』

自ら記した言葉の冷酷さに、ルカの胸の奥で何かが軋んだ。

 

その日の深夜、ルカは整理しきれなかった記録の細部を本人に直接確かめるという名目で、コンラートから預かった通行許可の印章を衛兵に示し、独り松明を手に地下牢を訪れた。

沈黙の中、鉄格子の向こうで老人が静かに呟いた。


「若き書記よ。お前は文字という光を手に入れたが、そのインクの黒さを恐れてはいないか?」

ルカは息を呑み、ペンを止めた。

「お前が紙に書いている黒い線。それは、白き紙という光を汚しているのか、それとも光を縁取って意味を与えているのか。……相似なのだよ、若者よ。光は闇がなければその色を証明できず、闇は光があるからこそ、その深さを知ることができる。すべては一つ、同じ震えから生まれているのだ」

「相似……?」


ルカは思わず呟いた。

コンラートの語る、不純な闇を切り捨てる冷たい「光」。

バルタザールの語る、闇と一体となって輝く「光」。

ルカの中で、信じていた世界の輪郭が、じわりと滲み始めた。

白き羊皮紙の上で、インクの黒がじわりと滲む。ルカは、自分がこれまで避けてきた「闇」の中にこそ、自分が求めていた「光」の正体が隠されているのではないかという、恐ろしくも抗いがたい疑念を抱き始めていた。


翌日から、審問はさらなる熱を帯びていった。

地下牢に響くのは、もはや言葉による対話ではない。鉄が石を打つ重い音、そしてバルタザールの老いた喉から漏れる、獣のような呻き声だ。

コンラートは一度も自らの手を汚さない。彼はただ、影の中に立ち、冷徹な声で「真実」を要求し続ける。その傍らで、ルカは必死に羽根ペンを走らせていた。羊皮紙の上に並ぶのは、神を称える美しい詩文ではなく、苦痛に耐えかねて漏らされる断片的な悲鳴と、無理やり引き出された「自白」の歪な羅列であった。


「書け、ルカ。一言も漏らすな」

コンラートの視線が、ルカの震える指先を捉える。

「この老いぼれの呻きこそが、仮面の下に隠された悪魔の鳴き声だ。肉体が崩れて初めて、魂の虚飾が剥がれ落ちる。それが浄化というものだ」

ルカの視界が、地下牢の松明の火に揺れる。

台の上に横たえられたバルタザールの腕には、かつて数多の美しい色硝子を操った誇り高い指先があった。だが今、その指は無残に砕かれ、爪の間からは血が滲み出している。それは、ルカがかつて石運びで汚した自分の手よりも、ずっと無惨で、ずっと「真実」に近い色をしているように見えた。


「……光、は……」

バルタザールが血の混じった唾を吐き出しながら、掠れた声で笑った。

「光は、奪うものではない……審問官様。あんたが求めているのは、影一つない白一色の死の世界だ。だが、神が創りたもうたこの世界は……熱を持って震える、黒き炎から生まれたのだ……。あのバラ窓を焼いた熱を知らぬあんたに、何が裁ける……」

「狂人の妄言だ。記録せよ」

コンラートの冷たい命令に従い、ルカは『被告は神の光を否定し、地獄の業火を聖なるものと称した』と書き添える。

その瞬間、ルカの耳元で、バルタザールの言葉が相似イメージとなって重なった。


――お前が紙に書いている黒き線。それは光を汚しているのか、それとも形を与えているのか。

ルカは気づいてしまった。自分が今、真っ白な羊皮紙に刻みつけているこの「黒いインク」こそが、バルタザールという一人の人間の命を、そして彼が追い求めた真実を、塗り潰し、殺しているのではないか。

大聖堂のステンドグラスは、背後に透過する光があって初めて輝く。

だが、今の自分が行っているのは、光を遮り、すべてを一つの「罪」という色に染め上げる作業だ。


「ルカ、どうした。手が止まっているぞ」

コンラートが静かに歩み寄る。彼の纏う法衣の黒は、地下牢の闇よりもさらに深く、光を一切通さない。ルカは、そのカウルの奥にある瞳に、かつて大聖堂で見上げた神の慈愛など、欠片も存在しないことを確信した。そこにいたのは、秩序という名の「虚無」を守る番人だった。

「……いえ、記録に、間違いがないかを確認しておりました」

ルカは必死に平静を装い、インク瓶に深くペンを浸した。

だが、インクの滴りが羊皮紙の上に落ち、大きな黒い染みを作った。それは、まるでルカの心に芽生えた、決して消すことのできない「巨大な闇」の象徴のように見えた。


その夜、執務室に戻ったルカは、一人で膨大な審問記録の整理に当たっていた。

積み上げられた羊皮紙。そこには、数多の職人や民草が、コンラートの手によって「闇」へと葬り去られてきた記録が眠っている。

ルカは衝動的に、バルタザールの過去の記録を漁り始めた。

そこで彼が見つけたのは、公式な記録とは別に挟み込まれていた、数枚の古い図面だった。

それは、大聖堂の設計の根幹に関わる、幾何学的な紋様の断片。

そこには、コンラートが異端と断じた「密儀」の図案が描かれていたが、ルカがそれらを重ね合わせて見たとき、全身に鳥肌が立った。

それは、大聖堂の最も高い場所にある、あの黄金の十字架の「影」が、一日のうちで最も光が強くなる瞬間に描く軌跡と、完璧に一致していたのだ。


光を支えるための、影の設計図。


聖なる正義が成り立つために、あらかじめ用意された「闇」の相似形。

ルカは、自分が憧れていた「光の世界」が、実はこの地下牢に繋がる「闇」という土台の上に、計算ずくで築かれたものであることを知る。

その時、背後で扉が軋む音がした。

「……そこまで熱心に記録を読み解くとは、感心なことだ」

振り返ると、そこにはコンラートが立っていた。手には、まだ消されていない一本の蝋燭。

その小さな火が、コンラートの顔を下から照らし出し、怪物のような長い影を壁に映し出していた。

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