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  作者: しゅう


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226/226

茶碗4

 夜明け前、あれほど世界を根底から打ち砕かんばかりに荒れ狂っていた暴風雨は、まるで最初から存在しなかったかのように、急速にその勢いを減じていった。

分厚い鉛色の雲が東の空からゆっくりと引き裂かれ、その僅かな裂け目から、世界を新しく洗い直すかのような、どこまでも透明で、そして少し刺すように鋭い朝の光が差し込んできた。

空気が、あまりにも澄み切っている。

彼女が平屋の古い木製の引き戸をほんの数センチだけ開けると、室内に流れ込んできたのは、夜の間に溜まったすべての不純物や熱気を一瞬で削ぎ落とすかのような、冷たくて清々しい空気で満ちていた。庭の隅に植えられた小さな紫陽花の葉からは、昨夜の爪痕である大粒の雨の雫が、生まれたての朝日に照らされて水晶のようにキラキラと眩い輝きを放ちながら、湿った黒い土へと音もなく滴り落ちている。

それは「大きな嵐が去ったあとの世界」の風景だった。

しかし、嵐の去った街の被害は、決して軽微なものではなかった。窓から遠くを見渡せば、土砂混じりの泥水が道路の端を今なお不気味な音を立てて流れており、へし折られた街路樹の枝や、どこからか吹き飛ばされてきた看板が無残に路頭に転がっている。主要なインフラが寸断され、昨日まで当たり前のように機能していた、現代社会が誇る「いつでも、どこでも、誰とでも繋がれる」という砂上の楼閣のような盤石さは、ほんの十数時間の濁流と暴風によって、その脆弱な正体を完全に晒してしまっていた。人々の価値観や社会のあり方は、この決定的な夜を境に、否応なしに少しずつ、けれど確実に変容していかざるを得ないだろう。人間が作り上げたシステムがいかに脆く、いかに頼りないものであるかを、誰もが骨の髄まで思い知らされた、そんな静かな朝でもあった。


 やがて、遠くの電柱にあるトランスが、低く唸りを上げるような音を響かせた。それを合図にするかのように、街のあちこちにパチパチという微かな音を伴って、電気が息を吹き返し始めた。

平屋の中に集まっていた人々のポケットの中で、あるいは暗い畳の上にそっと伏せられていたスマートフォンが、次々と短い通知音を室内に響かせ始める。

電波が、そしてネットワークが戻ったのだ。

液晶画面が再び現代特有の青白い光を放ち、タイムラインには昨夜の嵐に関する無数の情報、真偽の定かではないデマ、行政の対応の遅れを激しい言葉で糾弾する文章、そして己の無事や正当性を大声で誇示する記号の群れが、再び超高速で流れ始めていく。世界は瞬時に、あの騒がしくて、トゲトゲとした元の姿へと戻ろうと躍起になっていた。

けれど、昨夜、この古い平屋の暗闇の中で、土鍋から立ち上る真っ白な湯気を全身に浴び、一杯の白米の確かな温もりを無言で分かち合った人々の様子は、昨日までとは明らかに違っていた。

彼らは、息を吹き返したスマートフォンの画面を、もう以前のように狂ったような目で見つめることはしなかった。溢れ返る情報の奔流に、自分の心を簡単に明け渡してしまうような脆さは、今の彼らにはなかった。ただ一度だけ画面を確認し、遠くの家族に短く無事を報せるメッセージを送ると、誰に言われるでもなく、静かにその機械をポケットの奥へと仕舞い込んだ。画面の向こう側の、顔も見えない誰かとの実体のない数字の競い合いや諍いに加わることよりも、今、自分のすぐ隣で同じ痛みを耐え抜き、お米の温もりを分かち合った人間の顔を、お互いに愛おしそうに、しっかりと見つめ合っている。


「……本当に、ありがとうございました」


最初に立ち上がったのは、夜中に「消えてしまいたい」と泣きながら平屋にたどり着いた、あの若い女性だった。彼女の瞳には、昨夜の世界を呪うような絶望の影はもうどこにもなかった。まるで、激しい雨によってすべての汚れを洗い流された衣服のような、静かで、透き通った落ち着きがその表情に宿っていた。

続いて、彼女の看病によって熱が下がり、すやすやと眠っている蓮くんを愛おしそうに抱きしめたお母さん、昼間に泥の中で一緒に洗濯物をまとめた中年の女性、そして、かつてこの平屋の主を「時代遅れ」「要領の悪い変な人」と容赦なく陰口を叩いていた近所の人々も、少し照れくさそうに視線を泳がせながら、けれど心からの深い感謝を込めた穏やかな笑顔を彼女に向け、一人、また一人と、自分の家へと帰っていった。

彼らが古びた引き戸を開けて去っていくとき、彼女はただ、玄関の板間にぽつんと立ち、少しオロオロとしたいつもの頼りない佇まいで、何度も何度も小さく頭を下げながら、彼らの少し汚れた後ろ姿を静かに見送っていた。お礼の言葉を巧みに返すわけでもなく、ただ「気をつけてね」「よかったね」と言いたげに、何度も小さく手を振るだけだった。


 彼女は、誰かに大声で称賛されることもなく、どこかのメディアに取り上げられて英雄視されることもない。ただの「要領の悪い、古い平屋の住人」のままだった。人々が全員去り、すっかり静まり返った台所に、彼女はぽつんと一人で佇んでいた。

ガスコンロの上には、昨夜みんなの凍えたお腹と心を隅々まで満たした黒い土鍋が、その大きな役割を終えて、静かに冷まされている。彼女はその土鍋の、少し煤けた表面を愛おしそうにそっと撫でてから、冷たい水道の水で丁寧に洗い、いつものように棚の定位置へと仕舞い込んだ。彼女にとって、昨夜の奇跡のような救済も、決して特別なイベントではなく、日常の延長線上にある、ごく当たり前の営みに過ぎなかったのだ。

そして、彼女はいつも通りの、誰にも知られることのない静かな日常へと戻っていく。

電気が完全に復旧した台所で、彼女が次に手を伸ばしたのは、あの使い込まれた土鍋ではなく、棚の横に置かれた、少し旧式の、何の変哲もない普通の炊飯器だった。

昨夜のような極限状態の嵐の夜ではない、ごく普通の平穏な日常において、彼女は決して特別な背伸びをしようとはしない。ただ、いつもと同じように、一合のお米を古いプラスチックの計量カップで正確に量り、小さなボウルに入れて、蛇口から出る静かな水を注ぐ。

彼女の右手には、今もあの掴みどころのない微弱な痺れが、現代という時代の歪みを引き受けた後遺症として、静かに残り続けている。けれど、彼女はその右手の感覚を、もう自分を苦しめる忌まわしいものとしては捉えていなかった。むしろ、現代という複雑で騒がしい時代を、五感を開いて真摯に生き抜いている自分自身に対する、名もなき勲章、あるいは世界と繋がるための大切な回路のように感じていた。

指先でお米の硬さや冷たさを確かめながら、優しく、自分の心の中心へとしゃもじを入れるようにして、丁寧に、丁寧にお米を研いでいく。水が白く濁り、それを何度も取り替えながら、お米の表面に傷をつけないように手のひらでそっと転がす。その一連の動作には、一切の焦りも無駄もなく、まるで一つの祈りの儀式のようだった。炊飯器の釜に最適な位置まで水を満たし、本体にセットして蓋を閉め、小さなスイッチを指で押し込むと、しばらくして、いつも通りの静かな、どこか懐かしい駆動音が台所に響き始めた。

やがて、炊飯器の小さな吹き出し口から白い蒸気が細く上がり、部屋の中に、昨夜の土鍋よりは少し控えめな、けれど確かに心を芯から安らげる、お米の放つ特有の甘い香りが漂い始める。

ピピッ、という、聞き慣れた電子音が室内に鳴り響き、ご飯が炊き上がったことを告げた。

彼女はゆっくりと蓋を開けた。内側から溢れ出た熱い湯気が、彼女の顔を優しく包み込み、メガネのレンズを白く曇らせる。彼女はしゃもじを手に取り、ふっくらと炊き上がったお米を十字に切り、底の方からひっくり返すようにして、全体に均一に空気を含ませていく。一粒一粒が、朝の光を浴びて艶やかに輝いていた。

そして、彼女はあのお茶碗に、自分のための一杯のご飯を、こんもりと大切そうに盛り付けた。

それを小さなお盆に乗せて、朝日の心地よく差し込む畳の部屋へと運んでいく。

彼女は座卓の前に静かに座り、その生成り色の茶碗を、自分の両手でそっと包み込んだ。

昨夜、あの黒い土鍋が蓄えていたような、すべてを圧倒するような強烈な熱量ではない。けれど、炊飯器から移されたばかりのお米の、じんわりとした、どこまでも確かな温もりが、彼女の少し痺れる手のひらの皮膚を通じて、肉体の奥深く、そして心の最も深い場所へと、心地よく伝わっていった。

世界は相変わらず不穏で、どこか異常なままだ。気候の激しい変動はこれからも人々の生活を脅かすだろうし、ネットのインフラが戻れば、人々はまたすぐに、スマートフォンの画面の中で小さな数字を競い合い、誰かを言葉の刃で傷つける諍いを始めてしまうかもしれない。

彼女はこれからも、その不条理で、あまりにも騒がしい世界の中を、少しオロオロとした頼りない歩調で、迷いながら歩き続けるのだろう。スマートに生きることも、効率よく立ち回ることも、彼女にはきっと、逆立ちしたってできそうにない。

けれど、昨夜、彼女に救われた人々の心の中には、あの最悪な嵐の夜の、底のない暗闇の中で灯った、決して消えることのない温かい灯りが、これからもずっと残り続けている。それは社会の仕組みを根本から変えるような、大きな光ではないかもしれない。けれど、一人の人間が孤独に震え、凍えそうになったときに、その足元を「大丈夫だよ」と確かに、優しく照らし出す、名もなき灯りだった。

彼女は、茶碗から立ち上る真っ白な湯気の向こう側で、静かに両手を合わせた。


「いただきます」

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

本作『茶碗』は、これにて完結となります。


本作の着想は、古代の叡智である「カタカムナ第55首」に示されたことわりから得たものでした。

このうたには、生命の根源的な響きである「電気粒子の発生、変換、持続の場」「変化の途中」という本質が示されているとされています。


この言葉の響きに触れた瞬間、私の中に「宮沢賢治」という言葉が強く浮かび上がりました。


【雨にも負けず】


 風にも負けず

 雪にも夏の暑さにも負けぬ

 丈夫なからだを持ち

 欲は無く

 決して瞋からず

 何時も静かに笑っている

 一日に玄米四合と

 味噌と少しの野菜を食べ

 あらゆる事を自分を勘定に入れずに

 良く見聞きし判り

 そして忘れず

 野原の松の林の影の

 小さな萱葺きの小屋に居て

 東に病気の子供あれば 行って看病してやり

 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い

 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い

 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い

 日照りのときは涙を流し

 寒さの夏はオロオロ歩き

 皆にデクノボーと呼ばれ

 誉められもせず苦にもされず

 そういう者に

 私はなりたい


この詩こそが、今回の物語の発生はじまりでした。

ここ数年の、異常な夏日、線状降水帯、赤ちゃんから老人まで大量のワクチン接種と後遺症――。まるで「雨にも負けず」の詩が現在の私たちの状態を予言し、表しているように感じられたことから、この物語が作られました。


【読者の皆様へ】

本作を読み終えた皆様の率直な感想が、今後の執筆の大きな糧となります。

もしよろしければ、以下の5段階評価、および皆様の心に残った情景をお聞かせいただけますと幸いです。


評価: ★ 〜 ★★★★★

コメント: 最も印象に残った場面や、心に触れた描写など、自由にお聞かせください。


皆様からいただく言葉が、この物語に最後の一片を付け加え、真の完成へと導いてくださることを願っております。

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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