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  作者: しゅう


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208/230

二つの未来2

 一九二三年。灼熱の砂塵が舞うゴビ砂漠の地平を、一列のキャラバンが遅々として進んでいた。

かつてサンクトペテルブルクの貴族社会で、絹のネクタイを締め、大理石の床を踏みしめていたニコライ・リョーリフは、いまや日焼けした皮膚と埃にまみれた旅装を纏い、ラクダの背に揺られている。背後には、彼の生涯をかけた企てに魂を預けた家族、そして多民族からなる百人近い隊員と、数百頭のラクダや馬が続いていた。

彼らが向かうのは、世界の屋根――ヒマラヤ。

そこは地図上の空白地帯である以上に、人類の精神が最後に辿り着くべき「源流」であるとニコライは確信していた。一九一七年のあの夜、凍てついた廃教会で目撃した石の紋章が示す「人類の証」を、彼はこのアジアの心臓部で見出そうとしていたのだ。


 標高が上がるにつれ、風景は色彩を失い、代わりに「密度」を増していった。

一九二七年の冬、遠征隊は標高五、〇〇〇メートルを超えるカラコルム峠の入り口に立っていた。大気はその薄さゆえに、いくら肺を広げても酸素を運んでこない。隊員たちは一人、また一人と高山病に倒れ、顔を土色に変えて喘いでいた。心臓は、薄氷を叩く木槌のように激しく、不規則な鼓動を刻み、耳の奥では常に血管が破裂しそうな拍動が鳴り響いている。


「止まるな! 歩みを止めることは死を意味するぞ!」


隊の先頭で、鋭い号令を飛ばしているのは長男のユーリーであった。彼は英国製の軍服に身を包み、腰には冷たい光を放つモーゼル銃を下げている。ユーリーは東洋学者としての卓越した言語能力を駆使し、現地の案内人や、時には銃を構えて道を阻む馬賊たちと渡り合っていた。

ある時、赤茶けた岩陰から三十人ほどの武装集団が躍り出た。彼らは略奪を目的とした荒くれ者で、ニコライたちのキャラバンを「動く財宝」としか見ていなかった。銃口が向けられ、空気が凍りつく中、ユーリーは馬を一歩進め、首領の前に立った。


「我々は奪いに来たのではない。観測しに来たのだ。この道を空けよ。さもなくば、お前たちの神が我々に下す審判を、私が代行することになる」


ユーリーは現地の言葉で、彼らの部族的な誇りを揺さぶりつつ、隊が保持する規律正しさと武力を冷徹に示した。銃を抜くよりも早く、言葉の重圧で相手をねじ伏せる。その眼光は、父が描く色彩とは対極にある、冷徹な軍人のそれであった。首領はユーリーの揺るぎない瞳に気圧され、唾を吐き捨てて道を譲った。ユーリーは家族を守るための「盾」であり、混沌とした地を切り拓くための「剣」そのものであった。


 一方で、次男のスヴャトスラフは、兄が切り拓いた道の傍らで、常に地面を凝視していた。彼は遠征隊の「手」であった。凍てつく寒さで感覚のなくなった手先を動かし、未知の植物や鉱物を採集していく。


「父上、この石を見てください。この層には、かつてここが海の底であった証が刻まれています」


スヴャトスラフが見つけ出す鉱物の組成や、極限地帯に咲く一輪の植物。それらは、ニコライがキャンバスに定着させる「理」を、物質的な側面から補強する重要なデータであった。彼は土を掘り、石を割り、この地の血肉を収集し続けた。


 しかし、一行を待ち受けていたのは、自然の猛威だけではなかった。一九二七年の晩秋、チベット当局の理不尽な命令により、遠征隊は雪深いチャンタン高原で五ヶ月間に及ぶ「留め置き」を余儀なくされた。それは、事実上の死刑宣告に等しかった。

夏用のテント一つで、マイナス四十度の夜を凌がねばならない。十分な食料もなく、医薬品も底を突いた。夜になれば、凍死した馬やラクダの死骸が、凍った大地の上に無残に横たわった。隊員たちは飢えと寒さで理性を失いかけ、互いを疑う暗い視線が飛び交う。

夜、その地獄のようなテントの中で、震える指に息を吹きかけ、執念深くペンを走らせる女性がいた。妻、エレナである。

彼女は自身も高熱に浮かされながら、ランプの微かな灯りの下で、その日の天候、正確な高度、そしてニコライが旅の途上で口にする哲学的な思索や、内なる視覚で捉えた啓示を、一字の乱れもなく綴っていった。


「ニコライ、今夜の風の音は、かつて聴いたどの音楽よりも純粋な理を鳴らしています」


エレナの言葉は、絶望の淵にある隊員たちの心を繋ぎ止める磁石であった。ニコライが観測した視覚的な情報を、エレナは「言葉」という座標に変換していく。彼女は遠征の真の「記録者」であり、彼女がいなければ、この過酷な記憶はただの惨劇として散逸していただろう。

そしてニコライ自身は、死の影が色濃く漂うこの高地で、凍りつくキャンバスと向き合っていた。

極限の空腹と酸素欠乏の中、彼の視覚は常軌を逸した鋭敏さを得ていた。

そこにあるのは、地上の色彩学や、かつてサンクトペテルブルクのアカデミーで教えた光の理論を根底から覆すような「圧倒的な現実」であった。

標高が六、〇〇〇メートルを超えると、空の色はもはや青ではなかった。それは大気の層を突き抜け、宇宙の入り口を覗き込んだかのような、底知れぬ紺碧。酸素の薄い空間が、宇宙の闇を透かして見せているかのような、自ら発光する深い、深い青である。

日没が訪れると、雪に覆われた山嶺は劇的な変換を遂げる。斜面は鮮烈なオレンジから、瞬く間に燃えるような菫色バイオレットへと変貌する。影の部分は、地上のそれのように単なる暗い灰色ではなく、冷たく澄んだ青色に発光していた。この色は、地上では決して見ることができない。高高度の紫外線と、極限まで濾過された光だけが作り出せる「真実の色」なのだ。


 ニコライは「不思議な夢から身を乗り出した」かのように、震える手で筆を動かし続けた。

高山病による幻覚が彼を襲い、意識は何度も遠のきかけた。亡き父母の姿や、燃え上がるサンクトペテルブルクの街並みが雪原に現れては消える。しかし、彼が描こうとしているのは、個人の追憶ではない。それは、人類が初めて世界の屋根で見出した「測量図」であった。凍結した絵具を自らの体温で溶かし、雪がキャンバスを濡らし、指の感覚が消えても、彼は描き続けた。遠征期間中に彼が残した絵画は、七、〇〇〇枚に及ぶ。それらは芸術作品という呼称を超え、この地球という天体が、宇宙の中でどのように光り輝いているかを示す、剥き出しの記録であった。


 突然、背後で悲痛な嘶きが響いた。

長年旅を共にしてきた頑強な馬が、凍てつく雪の上に膝をつき、そのまま動かなくなった。隊員たちが駆け寄るが、既に瞳からは光が失われている。結局、この抑留期間中に九十頭以上の家畜が命を落とした。


「父上、もう限界です。今日だけでさらに二人が倒れました。……なぜ、我々はこれほどまでにして、追わねばならないのですか」


ユーリーの問いは、喉から血を吐くような叫びだった。ニコライはゆっくりと筆を置き、息子の肩に手を置いた。

見上げれば、ヒマラヤの巨峰が、慈悲も拒絶もなくただそこに在った。一九一七年に失った「国家」や「地位」といった鎖。それを断ち切って目覚めた先にあったのは、この圧倒的な無言の自然という審判であった。ここでは、誰が貴族であるか、誰が革命家であるかなどという問いは、薄い空気の中に霧散する。残るのは、生命という名の微かな灯りと、それを包み込む永遠の青だけだ。


「朝をむさぼり、夜を吐き出し……」


サンクトペテルブルクの廃墟で、燃える絵画を背に呟いた言葉が、再び口を突いて出た。

この過酷な行軍、そして抑留という長く暗い「夜」を、苦しみと共に吐き出すたびに、彼の精神は、見たこともないほど透明な「朝」へと変換されていく。死にゆく馬の熱、エレナが綴る言葉、ユーリーの冷徹な指揮、スヴャトスラフが拾い上げる石。これらすべてが、ニコライのフィルターを通し、キャンバスの上で「一つの真実」へと収束していく。

ニコライは、エレナが書き留めたノートの余白に、再びあの紋章を記した。

三つの円。

この地獄のような地で戦う家族、そして人類。それらが文化という名の「一つの輪」で結ばれない限り、人間は再びあの帝都の炎に焼かれることになるだろう。

 

 一九二八年春。ようやく抑留が解け、一行が再び動き出したとき、ニコライの髪は雪のように白くなっていた。しかし、その瞳には、五ヶ月間の闇を潜り抜けた者だけが持つ、ダイヤモンドのような硬質の輝きが宿っていた。

東の空が白み始めると、巨大な雪壁が発光を開始した。

ニコライは激しく咳き込みながらも、再び筆を取った。

点と線が繋がるまで、彼はこの「青き真実」を定着させ続けなければならなかった。彼らが求める「結末」は、まだこの山脈の向こう側に、そして未来という名のキャンバスの中に、隠されていた。

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