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  作者: しゅう


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207/226

二つの未来1

 一九一七年、十月。

サンクトペテルブルクの空は、神が慈悲を忘れたかのような、重く垂れ込めた鉛色に閉ざされていた。北のヴェネツィアと称えられた帝都の優美な運河は、今や煤けた黒煙を映し出す泥の川と化し、街の至るところで「昨日までの正義」が火に投げ込まれていた。凍てつく大気には、火薬の焦げた匂いと、行き場を失った民衆の剥き出しの飢え、そして死を予感させる冬の沈黙が混じり合っている。


 ニコライ・リョーリフは、ネヴァ川の畔に建つ芸術アカデミーの学長室で、ただ独り立ち尽くしていた。部屋の温度は零度を下回り、吐き出す息は白く凍る。壁に掛けられた古の名画たちは、窓から差し込む冬の微かな光を吸い込み、まるでこれから訪れる惨劇を静かに見守る殉教者のように並んでいた。数日前まで、この部屋はバッハの旋律が流れ、世界中から集まった芸術家たちが「美の永遠性」を信じて疑わずに語り合う聖域であった。しかし、いま窓の下を流れるのは、略奪者の咆哮と、かつて教え子であった者たちの憎悪に満ちた叫びである。


「学長! 裏門が破られました! あいつら、武器を持ってなだれ込んできます! もう止められません!」


秘書の絶叫と共に、重厚な扉を突き破るような振動が建物全体を揺らした。廊下からは、荒々しい軍靴の響きと、洗練を拒絶する怒号が近づいてくる。昨日までここで筆を握り、黄金比を学び、ミケランジェロのデッサンに溜息を漏らしていたはずの学生たちが、赤い腕章を巻き、銃剣を構えて「特権階級の象徴」を狩りに来たのだ。彼らにとって、数世紀にわたって守られてきた絵画は、ただの「贅沢な布」であり、彫像は「冷たい石の塊」に過ぎなくなっていた。

ニコライは、机の上に広げたリストを、血が滲むほど強く握りしめた。そこには、レオナルド・ダ・ヴィンチの素描、レンブラントの習作、そして彼が私財を投じて収集したシベリアの古代遺物たちが、整然と記されていた。これらは人類が数千年かけて積み上げてきた、魂の測量記録だ。しかし、いま廊下を埋め尽くす群衆にとっては、それらは暖を取るための薪か、あるいは「富の不平等」という名の罪状でしかない。


「学長、早く! 彼らがこの棟の美術品を燃やし始めています!」


窓の外で、オレンジ色の不気味な光が揺れた。中庭に積まれた名画の数々が、ガソリンを浴びせられ、火を放たれたのだ。何世紀も前に誰かが抱いた祈り、誰かが流した涙の結晶が、黒い煤となって空へと消えていく。その光景を見つめるニコライの脳裏に、かつての華やかな朝の情景がフラッシュバックした。純白のテーブルクロス、磨き上げられた銀の食器、そして美について語り合う友の声。


「朝をむさぼり、夜を吐き出し……」


その呟きは、誰に聞かせるためでもなかった。昨日までの輝かしい栄光、朝の光の中で享受したすべての文明的な生活を、彼は無理やり胃の腑に詰め込んだ。そして今は、この狂気に満ちた「夜」を吐き出しながら、生きてこの地獄を脱しなければならなかった。地位も、名誉も、学問も、芸術の価値を保証していた社会という「鎖」が、跡形もなく引き千切られたのだ。


「待て。この一箱だけは、地下へ運べ」


ニコライは、小さな石碑の断片が収められた木箱を指差した。それは、彼がかつて考古学の調査で北方の荒野から掘り起こした、文字以前の記号が刻まれた石だった。兵士たちの靴音がすぐそこまで迫る中、彼は執念深くその箱を地下の防空壕へと押しやった。直後、学長室の扉が激しく蹴破られた。

入ってきたのは、毛皮の帽子を深く被り、目に憎悪を宿した若い兵士だった。彼はニコライの顔をじろりと眺めると、机の上の銀のペン皿を無造作にポケットに入れ、壁に掛かった一枚の油彩画を銃剣で引き裂いた。キャンバスが裂ける悲鳴のような音が、ニコライの耳の奥で爆ぜた。


「これからは我々の時代だ。お前たちの『美』など、腹の足しにもならん。腹が減っている時にモナ・リザを見せて何になる?」


兵士が吐き捨てた言葉は、ニコライにとっての「世界の終わり」を告げる死刑宣告だった。私は黙って背を向け、裏階段へと向かった。サンクトペテルブルクを脱出する列車は、死神の吐息のような冷気を纏っていた。石炭の煙にまみれた車内には、家を焼かれ、未来を奪われた人々が、互いの体温だけを頼りに家畜のように詰め込まれていた。

私は、妻エレナの細い肩を引き寄せ、二人の息子、ユーリーとスヴャトスラフを外套の中に抱え込んだ。子供たちの小さな身体が震えている。エレナの瞳には、かつて見たことのないほどの深い悲しみと、それでも失われない強固な意志が宿っていた。


「ニコライ、あなたは熱があるわ。少し休んで。……大丈夫、私たちはここにいるから」


エレナの震える声が、絶望の淵で彼を繋ぎ止めていた。ニコライは激しい悪寒に震えながら、窓の外を流れる暗い森を見つめていた。時折、彼方で爆発の閃光が空を赤く染める。フィンランドへと続く線路の先には、何もない。祖国という「確かな世界」を失った自分たちは、これから地図にも載っていない、魂の荒野を彷徨うことになる。

列車が速度を落とすたび、ニコライは恐怖に襲われた。検問か、あるいは食料を求める暴徒か。かつて「学長」と呼ばれ、敬意を払われた男が、今は一斤のパンのために瞳を濁らせ、他人の視線から逃れるように身を潜めている。この屈辱こそが、彼が飲み込まねばならない「夜」の味だった。肺の中の空気までもが、革命の炎に焼かれて汚れているように感じられた。


 逃亡から数日、一行はラドガ湖の北、雪に埋もれた古い教会の廃墟に辿り着いた。吹雪は猛威を振るい、視界を白一色に染め上げていた。エレナと息子たちを崩れかけた礼拝堂の隅に座らせ、ニコライは焚き木を探すために、かつての祭壇付近へと足を踏み入れた。そこは、かつて多くの祈りが捧げられた場所だったが、今はただ風が吹き抜け、偶像の破片が床に散らばっているだけだった。

屋根の半分が落ちた天井から、針のような月光が差し込んでいた。その青白い光が、雪に半ば埋まった一本の古い石柱を照らしていた。

ニコライは、吸い寄せられるようにその石に近づいた。

それはキリスト教の建物でありながら、その根底にはもっと古い、異教の時代の記憶を宿しているように見えた。彼は手袋を脱ぎ、凍りついた指先で、石の表面にへばりついた苔と氷を掻き落とした。指先が裂け、鮮血が石の表面に滴った。

そこに現れたのは、磨り減りながらも力強く刻まれた、「三つの円を囲む一つの大きな輪」の紋章だった。

息が止まった。

脳裏に、学長室で見た略奪の光景がフラッシュバックする。燃え上がるキャンバス、破られた書物、無価値として捨てられた美。しかし、目の前にあるこの石の刻印はどうだ。

国家が興り、滅び、王が代わり、宗教がその形を変えても、この記号はここに在り続けている。千年前の石工が、あるいはそのもっと前の、まだ神話が生きていた時代の人間が、それを「定着」させようとした意志が指先に伝わってき。


「……これだ。これこそが、点と線だ」


ニコライの瞳に、かつての情熱とは異なる、冷徹で澄んだ光が宿った。

政治という、人間の都合で書き換えられる浅薄な原理ではない。文化、芸術、そして人類の根源的な記憶。この「石の記憶」こそが、バラバラになった世界を繋ぎ直すための、真になるのではないか。


三つの円。それは、過去、現在、未来。

あるいは、芸術、科学、宗教。

それらを包み込む一つの輪。


「鎖を断ち切って目覚める今、見るんだ、確かな世界を」


ニコライは、崩壊するロシアを「夜」として完全に吐き出した。その痛みと喪失を代償に、一人の画家、一人の亡命者という枠を突き抜け、世界の理を観測し、再構築する者へと変貌を遂げたのだ。


「ニコライ、どうしたの? そんなところで……」


エレナが不安げに彼を呼ぶ。ニコライはゆっくりと振り返った。その顔には、もはや病に怯える逃亡者の面影はなかった。月の光を背負った彼の姿は、まるで自らも石の彫像になったかのように厳かだった。


「新しい旅が始まるよ、エレナ。僕たちが守らなければならないのは、絵画という『モノ』じゃない。この石に刻まれたような、決して滅びることのない『人類の証』だ」


彼は教会の床に落ちていた炭を拾い上げ、ボロボロのノートの裏表紙に、その三つの円を描き込んだ。それは、後に世界を震撼させる「平和の旗」の原型であったが、この時の彼にとっては、自分たち家族が生きていくための唯一の海図であった。

教会の外では、ラドガ湖の厚い氷が、地鳴りのような音を立てて軋んでいた。それは、古い世界が完全に崩れ去り、新しい、そして過酷な流れが産声を上げる音だった。


ニコライは再び石の紋章に触れ、その永遠の冷たさを脳髄に刻み込んだ。

サンクトペテルブルクでの贅沢な朝は、もう二度と戻らない。

だが、この凍てつく夜の果てに、彼は自分にしか見えない「青い光」の兆しを、確かに捉えていた。


「さあ、行こう。東へ。光の生まれる場所へ」


彼は息子たちを抱き寄せ、吹雪の中へと再び歩み出した。背後の廃墟となった教会では、石の紋章が、変わらぬ静寂の中で月光を浴び続けていた。

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