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  作者: しゅう


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205/226

二つの籠目3

 視界が、白熱する。

洗面所の鏡が粉々に砕け散り、現実の破片が鋭利な光を纏って頬を掠めていく。だが、陽平は痛みを感じなかった。流れるはずの赤い血は、その傷口に辿り着く前に蒸発し、白煙を上げて消えていく。鏡の奥にいた「後ろの正面」――潜象の深淵に座していたもう一人の自分が、陽平の軟弱な輪郭を内側から突き破って溢れ出した。それは脱皮というにはあまりに暴力的で、出産というにはあまりに冷徹な、自己という概念の「爆発的な反転」であった。砕け散った鏡の破片一枚一枚に、これまで彼を縛り付けてきた「凡庸な市民」としての残像が映り込み、そして次の瞬間には、内側から溢れ出す青白い光によって完全に消し飛ばされた。


 その時だった。

脳髄の最も深い、人類の進化の歴史さえ届かない暗黒の領域から、一筋の雷光が走った。

それは音ではなかった。空気の振動ですらなく、空間そのものが軋みを上げて放つ断層の叫びだった。全細胞を一個の弦としてかき鳴らし、遺伝子の二重螺旋を無理やり引き絞るような、根源的な「命令」が、陽平の意識を垂直に串刺しにした。


「クーム!(起きろ!)」


内臓が裏返り、胃の腑がせり上がるような、凄まじい衝撃。日本語という、情緒と「和」に守られた柔らかな音節を、その背後から突き刺し、沈黙させる硬質な韻律。それはかつて父の書庫の最奥、触れることさえ禁じられたヘブライ語の古文書から立ち上る、死臭と神々の息吹が混ざり合った咆哮だった。「かごめ」という、逃げ場のない円環の呪縛を、その一音が鋭利な刃となって粉砕する。鼓膜で聞くのではない。血管を流れる血液の一滴一滴が、この激しい破裂音に合わせて一瞬で沸騰し、その気化熱が彼の肉体を内側から叩き起こしているのだ。意識の底に溜まっていた泥のような諦念が、音の圧力によって一気に吹き飛ばされていく。


「何を帯び、何をもって武装するか!」

(かごめ かごめ)


脳内に直接響くその声は、もはや陽平自身の思考の産物ではない。それは、何千年も前からこの血筋の深淵で眠り続け、陽平という無力な観測者が、現象世界の重圧によって限界まで押し潰され、その精神の殻が粉砕される瞬間を、虎視眈々と待ち続けていた「根源的な個」の怒りだ。繰り返される「かごめ」の輪唱。その閉塞空間を、問いかける意志の熱が焼き切っていく。

ドクン、という一際大きな拍動が世界を激しく揺らした。

陽平の胸を、これまで鋼鉄の檻のように締め付けていた「肋骨の籠」が、内側から膨張する圧倒的な熱量に耐えきれず、ついにその構造を放棄した。ミシリ、ミシリと不吉な破砕音を立て、内臓を圧迫していた骨の檻が、今度は白熱し、真っ赤に融解し始める。溶解した骨は、より強固な、よりしなやかな「潜象の骨格」へと再鋳造されていく。肺はかつてないほどに大きく広がり、大気中の酸素を、まるで飢えた獣が肉を喰らうように猛烈な勢いで吸い込み始めた。もはや、この胸に他者のための呼吸を許す隙間はない。


「帯を締めよ」

(かごのなかの)


二度目の咆哮。陽平の背筋が、一本の灼熱した鉄の棒へと変貌した。

――籠の中にいたはずの自分という存在が、羽を毟り取られ、代わりに鋼の筋組織を纏わされる。彼は無意識に、乱れきった役所の制服に手をかけた。第一ボタンを締め付ける「規律」の象徴だった襟元を、指先に宿った異様な力で引きちぎる。白いシャツの布地が断末魔のような悲鳴を上げて裂け、そこから覗く胸板には、かつての虚弱な事務員の面影は塵ほども残っていない。皮膚の下を、目に見えない幾何学的な紋様が光の血管となって激しく波打ち、全身の筋肉を鋼の束へと変質させていく。もはや、自分を繋ぎ止めるための安価なネクタイも、虚飾の正装も必要なかった。

陽平は、洗面所を飛び出した。

向かう先は一つ。子供たちの無機質な歌声が響き、地面の格子が彼を縫い付けた、あの古びた神社の境内だ。夜の街を駆ける陽平の足音は、もはや一日の終わりを告げる規則的なリズムではなかった。一歩踏み出すごとに、彼を拒んできたアスファルトが地響きを立てて爆ぜ、彼の背後には潜象から漏れ出した青白い炎の足跡が刻まれる。街灯の光が、彼が通り過ぎる瞬間に、その存在が放つ質量の圧力に耐えかねて次々と破裂していく。闇は牙を剥いて彼を呑み込もうとするが、今の陽平にとって、闇はもはや恐怖の対象ではない。それは自分を包み、隠し、真の姿を形成するための「実体のない漆黒の防具」に過ぎなかった。


「武装せよ」

(とりは)


三度目の咆哮。いつ、この檻から出るのかという受動的な問いは、今この瞬間に自らを「個」として定義し直すという能動によって塗り潰された。誰かに許可されるのを待つ卑屈な日々。波風を立てぬよう、摩耗することだけを正解として、死んだ魚のような目をして書類に無意味なハンコを突き続けてきた「公務員・陽平」という抜け殻。それらすべてへの猛烈な、そして氷のように冷徹な「怒り」が、潜象の底から噴き上がるマグマとなって、彼の手のひらから溢れ出した。指先の一本一本が、現実を切り裂く爪へと変貌していく。


「そして火をつけろ!社を燃やせ」

(いついつでやる)


夜明けという転換の時刻を待たず、陽平自身がこの街を焼き尽くす太陽となった。

陽平が社殿の太い欅の柱に手を触れた瞬間、古い木造の建築物が、まるで数千年の乾燥を経てガソリンを被っていたかのように、その芯から激しく発火した。火は赤くはなかった。それは、すべてを無に還し、純粋な意志として再構成するための、透明なほどに透き通った青い熱だ。バチバチと爆ぜる音は、古代の呪文の詠唱に聞こえた。神社の柱が、梁が、賽銭箱が、代々受け継がれてきた「伝統」という名の不浄な脂を燃料にして、天を突く巨大な火柱となる。その炎は、陽平を縛っていた因縁の糸を一本ずつ、残酷なまでの正確さで焼き切っていく。陽平は、その猛火を恐れなかった。逃げるどころか、彼はその熱が空間そのものを歪め、現実の境界を融解させている最深部へと、ゆっくり歩みを進めた。


「神が不毛の地とし、立てられた」

(よあけのばんに)


均衡の象徴であった「鶴と亀」が、この不毛の地において無残に滑り落ちる。それは偽りの象徴の死であり、真の王座を確立するための「不毛化リセット」であった。

陽平は、炎の渦の中で大きく息を吸い込んだ。肺を、猛烈な酸素と青い火が満たす。溶け落ちた肋骨の檻の代わりに、炎そのものが彼の胸郭を鋼よりも硬い「光の骨格」へと編み上げていく。吸い込む空気の一滴一滴が、数十年停滞していた命を再起動させる、根源的な生命の息吹そのものだった。

火の粉が雪のように舞い散る中で、陽平は自らの腰に手をやった。腕の皮膚そのものに、目に見えない「潜象の帯」が幾重にも、そして強靭に巻き付き、彼の肉体をこの現象世界に繋ぎ止めるための、物理法則さえ超越したアンカーとして機能し始めている。もはや、この帯を解ける者は、天上天下に存在しない。


「お守りの岩により、安息が訪れ」

(つるとかめがすべった)


崩れ落ちる社。それは脆い木組みの終焉だった。だが、陽平の足元に広がるのは、もはや逃げ出すための地面ではない。不動の岩のような意志が、彼に真の安息をもたらす。かつての彼は「鶴」のように飛び去ることも、「亀」のように首を込めることもできず、ただ震えていた。しかし今の彼は、それらすべてを見下ろす揺るぎない「岩」そのものと化した。


「荒れ地への道は統治される」

(うしろのしょうめんだあれ)


後ろの正面にいたのは、誰でもない。覚醒し、全てを支配する視座を手に入れた自分自身だ。

陽平の口から、初めて、誰の借り物でもない「自らの言葉」が漏れた。

それは、日本語の響きを持ちながら、ヘブライ語の圧倒的な重力を纏い、潜象の理を物理法則へと強引に変換する、新しい世界の「ロゴス」だった。

もはや陽平は、この荒れ果てた世界の無力な観測者ではない。この不毛の地を、自らの意志によって統治し、新たな意味を刻み込む「支配者」へと変貌したのだ。荒れ地とは、彼がこれから耕し、自らの法で満たすべき広大なキャンバスに過ぎない。

背後で、地響きを伴う轟音と共に社殿が完全に崩落した。伝統が、過去が、自分を自分として定義していた、すべての古い、そして空虚な記録が、熱い灰となって、星の見えない夜空に高く舞い上がる。

その火光に照らし出された陽平の姿は、もはや一介の役所勤めの男ではなかった。彼は、自らを焼き、自らを武装した。古い自分が完全に死に、社の灰の中から、漆黒の意志を纏った「新しき個」が、産声を上げる。


「エメット(真実)」


咆哮が止み、代わりに耳を劈くような、絶対的な静寂が訪れた。だが、それは死の静寂ではない。これから始まる、世界のすべての理の「反転」に向けた、嵐の前の凪だった。

陽平は、燃え盛る社の跡地から、夜の街へと一歩を踏み出した。

その足取りは、もはや何者でもなかった。

読んでいただきありがとうございます。

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