二つの籠目2
目を開けたとき、世界から「意味」という名の重力が完全に消失していた。
陽平は自分のデスクに座っていた。いつも通りの役所の風景。隣では同僚が電話で前例通りの謝罪を繰り返し、背後ではコピー機が規則的な駆動音を立てて、白い紙を次々と吐き出している。だが、それらすべてが、薄っぺらな背景画のように実在感を欠いていた。先ほど神社の境内で、脊髄を直接焼いたあの黄金の熱の残滓が、視神経の裏側でいまだに燻り続けている。その熱は、陽平の認識という名の膜を、内側からじりじりと焦がしていた。
陽平は、震える手で左手首の時計を視界に入れた。
安価な液晶の数字は、もはや時間を表示してはいなかった。見たこともない複雑な記号を高速で明滅させている。一秒を刻むはずの表示が、痙攣するように揺れ、ついには数字の表示をやめた。
ソーラー電波時計。太陽の光を喰らい、外界の電波という「他者の正しさ」に依存して規律を保ってきたその実用的な機械は、その機能を失っていた。
「陽平君、さっきからどうしたんだ。窓口に市民が待っているぞ」
上司の、聞き慣れたはずの粘りつくような声が届く。陽平はゆっくりと顔を上げた。だが、そこにいたのは、彼がこれまで「課長」という記号で認識していた男ではなかった。
上司の顔の皮が、一枚めくれたように見えた。その下にあるのは肉でも骨でもなく、夥しい数の螺旋と曲線が組み合わさった、無機質な図象の集積だった。それは、父の書庫の奥底、カビ臭い闇の中に秘匿されていた古い巻物――の欠片。この街の人々が、役所という檻が、家系という鎖が、必死に守り続けてきた「和」という名の秩序が、実はこの剥き出しの数理の上に、危うい均衡で張り付けられただけの薄い紙の仮面に過ぎなかったことを、陽平は悟った。
陽平が絞り出しそうとした言葉は、もはや言葉の体をなしていなかった。
それは喉の奥に溜まっていた「動かない空気」が、脊髄を焼く熱によって一瞬で気化し、噴出した鋭利な空気だった。
窓口に立つ市民の顔が、恐怖に歪む。いや、それは恐怖というよりは、自分たちの平穏なシステムの中に混じり込んだ「計算不能な異物」に対する、生物的な、根源的な嫌悪の表情だった。市民が差し出した申請書は、陽平が触れる寸前に、端から灰色の塵となって崩れていった。まるで、陽平の存在そのものが、この世界の「物質的な整合性」を汚染する劇薬に変わってしまったかのように。
その日の午後、事態は決定的な瓦解を見せた。
陽平の家系が代々管理し、街の歴史を物理的に担保してきた「記録蔵」から火が出た。
火事というにはあまりに静かだった。煙も上がらず、ただ古びた土蔵の隙間から、潜象の叫びのような青白い光が漏れ出していた。陽平が駆けつけたとき、そこにあったのは灰ですらなかった。幾世代にもわたって書き継がれてきた記録、土地の権利証、儀式の次第――陽平を「土地の楔」として繋ぎ止めていた数万枚の紙の束が、文字通り意味を喪失して分解されていた。文字だけが紙面を離脱し、空間に黒い雪のように舞い、そして質量を失って消えていく。
蔵の奥に安置されていた、家紋の刻まれた古い陶器は、触れてもいないのに自ら内側から爆ぜ、粉々に砕け散った。それは「亀」がその重厚な甲羅を無理やり剥がされ、「鶴」がその白い羽を根元から毟り取られたような、惨憺たる伝統の処刑だった。陽平はその破片を見つめながら、自分を縛り付けていた数百年分の「重力」が、一瞬にして消滅したことを知った。
「鶴と亀が滑った」
子供たちの歌が、冷たい断罪のように脳内でリフレインする。
亀――彼を支えていた重厚な家系の土台、物質的な安心。
鶴――彼を高く導き、社会的な役割を保証していた精神的な虚飾。
それらが同時に足を滑らせ、陽平は、誰の助けも届かない、そして誰の目にも止まらない「境界の外側」へと、音もなく放り出された。
職場の同僚たちは、翌日から陽平を「存在しないもの」として扱い始めた。
無視をしているのではない。彼らの瞳に、陽平の姿が結像しなくなっていたのだ。デスクに座っていても、誰も彼に声をかけない。電話も鳴らない。陽平が手に持つ書類は、彼の指が触れるそばから脱色され、真っ白な無意味な紙へと還っていく。日本語という「意味の籠」から、陽平という個体が完全に排除され、漂白されたのだ。彼は役所という組織の中にいながら、自分だけが真空の泡の中に閉じ込められたような、絶対的な孤独の中にいた。
世界から色彩が、急速に引き抜かれていった。
アスファルトの黒、街路樹の深い緑、信号の暴力的な赤。それらが一様に死者の肌のような灰色のグラデーションへと沈み込み、代わりに「輪郭」だけが、触れれば指が切れるカミソリの刃のように鋭利になっていく。音だけが異常なまでに透過し、数キロ先の街路の軋み、隣家の老人の浅い呼吸、地下深くを流れる水の奔流が、鼓膜を直接ナイフで削るような、逃げ場のない鮮明さで響いた。
夜。這うようにして辿り着いた自宅の洗面所。
照明の蛍光灯が、断末魔のような高周波を立てて点滅している。鏡に向き合った陽平は、そこに映る自分自身の姿に、生まれて初めて本当の恐怖を覚えた。
色彩の消えた死の世界で、鏡の中の男だけが、異様なまでの輪郭の鮮明さと、生命の圧力を保っている。陽平であって陽平ではない、石のように無機質で、それでいて内部に超新星のような熱を爆発的に溜め込んだ顔。
鏡の中の自分。その瞳の奥を覗き込んだとき、陽平は戦慄した。
暗い眼窩の奥深くに、もう一人の自分が座っていた。
それは役所の制服を着た陽平ではない。全裸の、あるいは原始の星屑で編んだ鎧を纏ったような、純粋な意志そのものの変体。その「他者」は、潜象の深淵で静かに正座し、微塵の揺らぎもない視線でこちらを――現象世界という泥濘で喘ぐ、かつての自分を――冷徹に凝視していた。
「後ろの正面……」
唇が動いた。だが、空気は振動せず、音は外には漏れない。その言葉は、言葉になる前に陽平の血肉に溶け込み、細胞の一つひとつを内側から書き換えていく。
背後に、圧倒的な質量を持った「何か」の気配が濃くなる。振り返る必要はなかった。鏡の中に、それははっきりと映り込んでいた。陽平の背後に立つ、巨大な社のように聳え立ち、あるいは虚空そのものを型取ったような、巨大な黒い影。
これまでの自分を支えていた「擬態」という名の安価な武装、樹脂製のベルトのように頼りない自己定義が、ひび割れた皮膚から黒い煤となって剥がれ落ちていく。その下から漏れ出すのは、もはや人間としての湿った感情ではない。それは、宇宙の理そのものを駆動させ、星々を回転させる、冷徹で巨大な「力」そのものだった。
世界からすべての雑音が完全に消え、ただ、自分の内側で何かが脈打つ地響きのような音だけが、全宇宙を支配した。ドクン、というその拍動が響くたび、洗面所の壁に亀裂が走り、現実という名の壁紙が剥がれていく。
時計の数字が、液晶を突き破って飛び散り、洗面所のタイル床にカランと乾いた音を立てて転がった。
もはや同期すべき外界の電波も、守るべき社会の規則も、彼を三十数年閉じ込めていた心も、どこにも存在しなかった。
陽平は、鏡の中の「後ろの正面」と完全に視線を重ね、その深淵を受け入れた。
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