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  作者: しゅう


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覚信尼3

登場人物紹介

覚信尼かくしんに

親鸞の末娘。京都・大谷おおたにの地で、亡き父の廟堂びょうどうを守る。母・恵信尼からの遺言ともいえる手紙を受け取り、一族の真実と「生命の継続」の理に触れていく。

恵信尼えしんに

親鸞の妻であり、覚信尼の母。越後えちごの荒野で泥にまみれ、家族の「生存」を支え抜いた強靭な女性。死の間際、娘へ向けて一族の慟哭と救済を綴った手紙を遺す。

親鸞しんらん

覚信尼の父。浄土真宗の宗祖。朝廷により僧籍を剥奪され、藤井善信ふじいのよしざねとして越後へ流される。極限の生活の中で「他力本願」の本質を見出すが、後に息子を義絶するという苦渋の決断を下す。

善鸞ぜんらん

覚信尼の兄(親鸞の長男)。父の名代として東国へ向かうが、独自の教えを説き混乱を招いたとして、父から「義絶ぎぜつ」を言い渡される。一族の「断絶」の象徴となる悲劇の息子。

蝋燭の炎が爆ぜ、一瞬、手元の文字が闇に飲まれた。

私は、母が手紙に記した「善鸞」の名を、疼くような痛みとともに見つめていた。兄、善鸞。かつて越後の寒空の下で、共に一つの粥を分け合い、母の体温に守られて育ったあの兄が、なぜ父の言葉を拒絶し、一族の「根」から引き裂かれるに至ったのか。

母の手紙は、これまで誰にも語られることのなかった、断絶の裏側にあった慟哭を綴り始めていた。


「覚信、あなたはまだ幼かったから、あの騒乱の真実を知らないかもしれません。父上が関東を去り、京都へ戻られた後、東国の多くの門弟たちを託された善鸞は、次第に自らの中に別の『声』を聴くようになりました。それは、父上の教えをより純粋に、より鋭く突き詰めようとしたがゆえの、孤独な迷走でした」

善鸞は、関東の地で「父から自分だけが秘密の教えを伝授された」と説き始め、門弟たちの間に深刻な混乱を巻き起こした。それは、父・親鸞が最も忌み嫌った「自分だけは特別である」という、生命の平等を否定する執着であった。

母の筆は、善鸞の変貌を、まるで昨日のことのように克明に写し出していく。

「善鸞は、父上の影を追うあまり、自分自身を見失っていったのです。父上が越後で泥にまみれ、百姓たちと同じ空気を吸って紡ぎ出した教えを、あの子は高価な絹織物のように飾り立て、自分だけの権威にしようとしました。同じ根から出たはずの呼吸が、いつしか独善という名の毒に侵され、生命の循環を止めてしまったのです。あの子が吐き出す言葉は、もはや人を救うための息吹ではなく、人を支配するための冷たい刃となっていました。あの子は、父という太陽になろうとして、自らの足元にある土を忘れてしまったのです」

京都にいた父上の元には、東国からの悲鳴のような訴えが次々と届いた。父上は、最愛の息子であり、自らの分身でもあった善鸞に対し、何度も厳しい言葉を尽くして、その誤りを正そうと翻意を促した。だが、善鸞の耳にはもう、父の声は届かなかった。

「父上にとって、善鸞を義絶するという決断は、自らの肉体を切り刻むよりも辛いことでした。私は越後の空の下で、その報せを受け取りました。父上が書いた義絶状の写しを読んだとき、私はそこに、墨の文字ではなく、父上の生々しい血が流れているのを見たのです。親が子を捨てる。それは生命の理に反する、世界が裂けるような悲鳴でした。父上は、教えという『公』の生命を守るために、自らの『私』としての生命の一部を、自ら殺したのです。その夜、父上が京都の闇の中でどれほど独り震えておられたか、私は越後の風の中にその震えを感じていました」

 

母、恵信尼は、その時どのような想いでいたのか。

手紙の文字は、この箇所だけ微かに乱れ、紙の繊維にまで悲しみが染み込んでいる。

「私は母として、善鸞の元へ駆けつけたいと何度も思いました。あの子の冷え切った心を、もう一度この手で温め直してあげたかった。ですが、私は動けませんでした。越後にはまだ、守らねばならない他の子供たちがおり、そして何より、父上が命懸けで守ろうとした『真実の言葉』という大きな循環を、私の私的な情愛で乱してはならないと、どこかで悟っていたのです。私は、一人の母であることを止め、この教えを次代へ繋ぐための『根』そのものにならねばならないと、自分に言い聞かせました。それは、自らの胸を刺し通すような、静かな自死にも似た決意でした」

母は、自分の愛する子を切り捨てるという残酷な「断絶」をも、生命の総体が継続するための不可欠な犠牲として受け入れようとしたのだ。


だが、母は、父が亡くなる直前、誰にも告げずに密かに善鸞と対峙していたという。

「父上が遷化される数ヶ月前、私は誰にも告げず、善鸞が身を隠していた庵を訪ねました。そこにあったのは、かつての知的な兄の面影を失い、孤独と後悔に焼き尽くされた一人の男の姿でした。あの子は、父を越えようとして、自分の居場所を失っていたのです。善鸞は、私の姿を見るなり、崩れ落ちるようにして泣き始めました。その声は、かつて越後の吹雪の夜に、私の胸の中で泣いていた幼子の声そのものでした」

母は、義絶された息子を抱きしめた。それは越後の凍える夜に、子供たちを抱きしめたあの時と同じ、湿り気を帯びた熱い呼吸だった。

「あなたは父上を否定した。だが、あなたの血の中には、今も父上が越後で吐き出したあの熱い呼気が流れている。それを忘れてはならない。義絶という言葉で形は断たれても、生命という根は、一度としてあなたを見放したことはないのだ。父上はあなたを捨てたのではない。あなたを、仏という大きな懐に返しただけなのだ。あなたは、父上の痛みそのものなのだから」

母のその言葉に、善鸞は子供のように声を上げて泣き続けたという。

母はさらに、善鸞のその後について記している。

「善鸞は、その後、自分の過ちの深さを噛み締めながら、名もなき旅の僧として東国を歩き続けました。誰にも名乗らず、ただ父上の教えを、一人の無力な人間として説き直す旅。それは、かつて父上が流人として越後を歩いた道のりの、孤独な追体験であったのかもしれません。あの子もまた、泥にまみれ、人々の蔑みに身を晒すことで、ようやく本当の呼吸を取り戻したのです。あの子は、最期まで父上の名を呼ぶことはありませんでしたが、その歩みそのものが、父上への生涯をかけた懺悔であり、祈りであったと私は信じています」

 

手紙を読み進める私の視界が、熱い涙で滲む。

父上は最後まで、善鸞を許すという言葉を公には口にしなかった。それは、教えという公共の呼吸を守るための、宗教家としての、そして「公」の器としての厳格な沈黙だった。だが、母はその沈黙の裏側に横たわる、言葉にならない膨大な「許し」を、自らの行動で補完したのだ。

父が「法」を守り、母が「生」を繋ぐ。

義絶という名の断絶さえも、母という「」の力によって、密かに、しかし確実に、和解という名の土壌へと還されていたのだ。


「覚信、善鸞はその後、静かにその生涯を閉じました。世間は彼を『父を裏切った大罪人』と呼ぶでしょう。ですが、私は知っています。あの子もまた、不器用ながらに、自らの生命の熱量を燃やしきろうとした一粒の種であったことを。私たちは皆、一つの大きな根から生まれ、それぞれが異なる方向へ風に流されていくだけの存在なのです。善鸞の過ちも、私の罪も、すべてはこの大地の循環の中に溶けて消えていくのです」

 

「そして今、私はこの越後の地で、最後の一息を吐き出そうとしています。覚信、あなたにこの最後の手紙を送るのは、私たちが経験した悲しみや断絶さえも、すべては『生命の継続』のための肥やしであったことを知ってほしかったからです。兄の過ちも、父の厳しさも、私のこのひび割れた手も、すべては一つに繋がっているのです。生命は、切れてもなお、地下で繋がっている。それを信じることこそが、私たちが越後で掴み取った本当の信仰なのです。見えるものだけが真実ではありません。見えない地下で、私たちの根は絡み合い、支え合っているのです」

 

私は、手紙を持つ手に力を込める。

京都の東山に吹く風は、夜を徹して冷たさを増していた。だが、私の心の中では、母が綴った「善鸞」という悲劇の粒子が、ようやく穏やかな眠りについていくのを感じていた。

生命は、ただ真っ直ぐに、美しく伸びるだけではない。

折れ、枯れ、時に断たれ、それでも地中の深い根を通じて、また別の場所で新しい芽を吹く。

私は、母の最期の瞬間、そして彼女が私に託した「真の役割」が記されているであろう、残りの数枚の紙へと手を伸ばした。


「覚信、最後に一つだけ、あなたの知らない『真実』を伝えさせてください。それは、あなたの父上が最期に漏らした、一言のことです」


その一行に、私は息を呑んだ。

母の呼吸は、死の間際まで、誰のために、何のために向けられていたのか。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

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