第三章:涙の叫び
「ユノア!ユノアーー!」
リャンに担がれてユノアが消えた先に向かって、ジュセノス兵が叫んだ。その兵士の顔を、グアヌイの警備兵が殴りつける。
「うるさい!…黙ってじっとしていろ。殺されたいか!」
兵士はきっと警備兵を睨みつけた。自分達が捕まっているから、ユノアは抵抗しなかったのだ。本気になれば、ユノアがリャンに負ける筈はない。
「ああ、殺せよ!死ぬなんて怖くない。人質を取って、女を無理やりに手籠めにしようとするリャンは最低の卑怯者だ。リャンの思惑通りになってたまるか!さあ、殺せ!!」
警備兵の顔が引きつった。
「こ、いつ…!甘い顔をしていれば、図にのりやがって…。…ああ。そうするさ。望み通り、殺してやる!」
警備兵が剣を振り上げた。兵士は怯むことなく、今にも頭上に振り下ろされようとしている剣を睨みつけた。
だが、思いがけない事態が起きた。
「うっ…」
そう呻いて、警備兵の動きが止まった。わけが分からずに見守るジュセノス兵の前で、白目を向いた警備兵が崩れ落ちた。
その背中には、一本の矢が刺さっている。
誰もが驚きの表情で、矢の飛んできた方向に目を向けた。
その瞳に映ったのは、こちらに向かってくる騎馬隊の姿だった。
(…どこの軍隊だ?)
誰もがあっけにとられた。誰一人として、その騎馬隊の正体を知る者はいなかった。
騎馬隊は、物凄い速さで近づいてくる。
火矢で燃える草原が、その先頭を走る人物の顔を浮かび上がらせた。その顔を見たジュセノス兵の一人が叫んだ。
「ヒ、ヒノト王…!?」
それは、ここにいる筈のない人の名前だった。
グアヌイ軍の警備兵達は、「まさか!」と笑おうとしたが、笑い顔はどんどん引きつっていった。
ジュセノス兵士達の周りを取り囲んでいた警備兵の、更にその周りを騎馬隊は囲んだ。
騎馬隊は、グアヌイ王国の警備兵に向かって剣を突き出した。
敵を威圧する、静かだがよく響く声を発したのは、紛れもなく、ジュセノス国王、ヒノトだった。
「グアヌイ王国の兵士達よ。武器を捨てよ。私は、ジュセノス国王、ヒノト王だ。刃向かえば、即座に切り捨てる」
ヒノトがそう言った瞬間、その両隣につき従っていたキベイとガイリが殺気を高めた。
その殺気だけで、警備兵達は震えあがった。手からこぼれ落ちるように、剣が地面に落ちた。
ヒノトは険しい表情を崩すことなく、改めてそこにいる一人一人の顔を確認していく。
「…ユノアはどこだ?」
すぐにジュセノス兵が答えた。
「向こうです!ユノアは、リャン将軍に連れ去られました!」
それを聞いたヒノトは、すぐにそちらへと馬を走らせた。
「ヒノト王!お待ちください!危のうございます!」
慌ててキベイが後を追うが、先に走り出したヒノトの後ろ姿は、既に遥か前に進んでしまっていた。
リャンの手は執拗にユノアの身体をまさぐり続けていたが、ユノアは抵抗を止めなかった。必死に身体を動かし、リャンの手を押し返そうとする。
「ユノア…。そんなに私が嫌いか。お前が私に見せた好意も、誘惑も、全て嘘だったというのか」
リャンの顔が悲しみに歪む。
はっとして、ユノアは抵抗を止めた。リャンに対する同情がこみ上げてくる。リャンに対して同情はすまいと心に決めていたのに…。もう止められなかった。
リャンはただ、ユノアを愛しただけなのだ。その一番美しい心を、ユノアは利用した。罪悪感が、ユノアに重くのしかかってくる。
動きの止まったユノアに、リャンが再びのしかかってくる。
もはや抵抗する気力も失せ、ユノアはリャンの動きに身を任せてしまった。
悲しくて、情けなくて…。様々な感情が心に吹き荒れる中、ユノアの目からは、涙が溢れ続けていた。
「ユノアーー!」
この世で一番大好きな人の声がする。今一番会いたい人の声がする。でも、きっと空耳だ。
「ユノアーっ!」
また、聞こえた。
ユノアは、強く瞑っていた目を開いた。そして、辺りに目を配った。
リャンも、ユノアから身体を離して、獣のような形相で辺りを窺っている。
二人の目に、こちらに向かって馬を走らせてくる、一人の男の姿が映った。
「ユノア!」
その声が本当にヒノトの声だったのだと知って、ユノアは思わず叫んでいた。
「ヒノト様ぁ!」
リャンの身体の下から這い出し、ヒノトに向かって手を伸ばす。
「ヒノト、王…?まさか…っ!」
信じられないという表情のリャンだが、自分から逃れようとしているユノアを引き留めるために、ユノアを抑えつけようとした。
ヒノトは剣を抜いた。
「リャン!その手を離せ!」
頭上目がけて振り下ろされる剣から逃れた拍子に、リャンの身体がユノアから離れた。
その隙にユノアは立ちあがろうとするが、膝が震えて立てない。
一度通り過ぎたヒノトが、馬を返して再び向かってきた。
リャンもユノアに向かって手を伸ばす。
だがリャンよりも早く、ヒノトの手がユノアの身体を抱え上げた。そのままユノアを馬の上へと乗せ、ヒノトは馬の速度を更にあげた。
リャンは茫然として、遠ざかるユノアとヒノトを見つめていた。
ようやく、ユノアを奪い取られたのだと気付き、よたよたと後を追い始めた。
「ユノア。ユノアーっ!」
だが、人の足で馬に追いつける筈がない。遂にユノアの姿は、リャンの視界から消え失せた。