第三章:亀裂
人気のない庭まで来て、リャンはようやく足をとめた。
リャンは一体、何を知っているのだろう。ユノアは気が気ではなかった。
(もし真実が知られてしまったのならば…)
いつでも逃げ出せるように、ユノアは身構えた。
だが、ユノアの手を離して振り返ったリャンの表情にはもはや、怒りはなかった。それどころか、ユノアの機嫌を窺っているような様子だ。
「ユノア…。すまない。王からお前を引き離すために、あんな嘘をつかなければならなかった」
ユノアはほっと胸を撫で下ろした。
「しょ、将軍様…。では、スパイの話は…」
「ああ。全くのでっちあげだ。あれしか、思いつかなかったのだ」
リャンの瞳が、ユノアへの欲望に燃え上がる。
「ああ、ユノア…!」
リャンは、ユノアを強く抱きしめてきた。
「どうして私との約束を破り、こんな所にいるのだ!」
「も、申し訳、ありません。将軍様…。王のご命令には逆らえず…」
「そうか…。そうだな。王の命令ならば、お前は逆らうことは出来なかったな。それならば、許してやろう…。もしこれが王相手でなければ、私はお前を殺しているところだった…」
リャンの腕の中で、ユノアは目を見開いた。
「お前が来なかったことで、私がどれほど苦しんだか分かるか?あんな想いをするくらいなら、いっそお前を殺して、ずっと私の側にいさせてやる!」
リャンの激しい感情に、ユノアの身体は、演技ではなく震え始めた。自分から仕掛けたこととはいえ、リャンが恐ろしくてたまらない。
一刻も早く、リャンの腕の中から逃れたい。そんなユノアの心とは裏腹に、リャンはますます強くユノアを抱きしめた。
「私が怖いか?だがこれ程までに私の心はお前に囚われてしまった。もう、お前を話す気はない。…さあ、一緒に屋敷に戻ろう」
本当にもう二度とリャンから逃れられないのではないか。ユノアは心の底から怯えた。
「リャン!何をしているか!」
突然、罵声がリャンに向かって浴びせられた。
ユノアを抱き締めてうっとりと自分の世界に浸っていたリャンは、はっと現実の世界に戻った。
リャンが振り返ると、そこには怒りに震えるリュガの姿があった。
リュガは、怒りに顔を引きつらせながらリャンに向かって叫んだ。
「…楽師達から聞いたぞ。お前は既にユノアに会い、熱烈に入れ込んでいるというではないか。何がスパイだ。この嘘つきめ!よくも王である私をないがしろにしたな。王に嘘をつくとは…。反逆者だ!誰か、リャンを捕らえろ!」
突然のリュガの登場に混乱していたらしく、リャンは易々と護衛兵に拘束されてしまった。
「ユノアをこちらに連れてこい!」
リュガがユノアを引き寄せたのを見て、ようやくリャンは暴れ始めた。
「ユノア!ユノアを返せぇぇー!」
警備兵は五人がかりで、リャンを押さえ込まなければならなかった。
リュガは押さえ込まれているリャンを見て、さも楽しそうな笑い声をあげた。
「その反逆者は、牢屋に放り込んでおけ!」
ユノアの肩を抱き、リュガが去っていく。その後ろ姿を見ながら、リャンは悔しそうに唇を噛み締めた。唇からは、大量の血が滴り落ちた。
「くっそぉぉー!ユノア!ユノアを返せぇ!」
暴れて自由になろうとするリャンの耳に、警備兵の一人が耳打ちした。
「将軍!将軍!どうか、落ち着いてください。私達は、将軍を牢屋に入れるつもりはありません。今夜は屋敷に戻って、どうか心を落ち着けてください」
兵士達は、自分勝手な王よりも、長年国を守ってきた将軍リャンを慕っていたのだ。
「悔しいお気持ちは分かりますが…。将軍、今夜はどうか、我慢してください」
兵士達が心配する声に、リャンの頭も冷えてきた。
リャンの身体から抵抗する力が抜けた。それを感じて、兵士達もリャンから手を離した。
「将軍…?」
「みんな、すまなかったな…。みっともないところを見せてしまった…」
「い、いえ…」
「私は、屋敷に戻る…」
「は、はい…」
兵士達が心配そうに見送る中、がっくりと肩を落として、リャンはその場から立ち去っていった。
リャンの手からユノアを引き離した勢いのままに、リュガはユノアを自分の部屋へと引き込んでいた。
ユノアをベッドに座らせると、自分もその隣に座り、ぴたりと身体を寄せてきた。
ユノアの手をとり、何度も撫でる。
「ユノア…。可哀想に。怖かっただろう。私もショックだった。リャンがあんな男だとは思わなかった。あんな奴を将軍にしていたとは…。いくら戦争をしても、負けるはずだ。もう二度とリャンを、お前に近づけないからな。私が守ってやるから、安心しなさい」
リュガは更にユノアに顔を近づけてくる。
ユノアは身の危険を感じた。リュガの顔を避け、とっさに両手で顔を覆った。
突如泣き始めたユノアを見て、リュガはうろたえた。
「ユ、ユノア。どうした?」
ユノアは激しく泣きじゃくりながら、切れ切れに言葉を振り絞った。
「ど、どうか、仲間に会わせてください」
それだけ言って再び泣き始めたユノアを前にして、リュガは途方にくれたようだ。そこで無理強いするほどの意思の強さは、リュガにはなかった。
「よほど恐ろしかったのだな。よしよし。可哀想に。今は慣れた仲間が恋しいのだな。では、お前と仲間の楽師に部屋を用意してやろう。今夜はそこで休むといい」
侍女に支えられながらリュガの部屋を出るまで、ユノアはずっと泣き続けていた。
楽師役の兵士は、部屋の中から注意深く外の様子を窺った。
「…よし。どうやら見張りはいないようだ」
それを聞いて、ようやくユノアは緊張を解いた。
疲れきってベッドに倒れこんだユノアに、兵士は心配そうに声をかけた。
「だ、大丈夫か…」
「うん…。それにしても、どうしよう…。何とかガイリ将軍に連絡を取りたいけど…」
「そうだな…。予想外の展開ではあったが、作戦は順調だ。リャンは間違いなく、リュガ王を憎んでいる。次にリャンがどんな行動を取るかは分からないが、リュガ王を殺してでも、ユノアを取り戻したいと思う筈だ」
今更ながら、ユノアはリャンを哀れに想った。
リャンがユノアを想う気持ちは本物だ。真剣に自分を想ってくれている男性を、こんなにも酷いやり方で騙している後ろめたさが、ユノアの心を重くしていた。
だが、敵の王宮の中にいるという緊迫した状況の中で泣き事をいうわけにはいかない。ユノアはぐっと自分の気持ちを押し殺した。
「疲れたわ…。眠っていい?」
「ああ。俺達が見張りをしよう。ユノアはゆっくり休め」
疲れきっていたユノアの身体は、あっという間に、眠りの中に引きずり込まれていった。