第三章:王妃の涙
一日中舞いの稽古を続けて、さすがのユノアも疲れきって、部屋に戻るために廊下を歩いていた。
暗い夜の闇に包まれた王宮内を、ところどころに置かれた松明の灯りが照らし出している。
ユノアは、廊下の前方から歩いてくる人物に気付いて立ち止まった。すぐに廊下の脇に避け、畏敬の礼をして待つ。
ユノアの前に来て、その人物も立ち止まった。それは、マカラだった。その後ろには、侍女のベチカが影のようにつき従っている。
頭を下げているユノアは対照的に、マカラは背筋を伸ばし、ユノアを見下ろすように見た。その態度には、自分は王であるヒノトの妻なのであるという誇示が現れている。
以前はユノアに対して好意的だったマカラの面影は、今はなかった。ユノアに対する敵対心が、全身から滲み出ている。
「あら、ユノア…。マティピに戻っていたとは、知らなかったわ」
「お久しぶりでございます。マカラ様…」
「その格好はなあに?また、舞いを始める気なの?」
その問いに、ユノアは答えなかった。例え王妃であろうとも、重要機密である作戦を教えるわけにはいかないと思ったからだ。
答えないユノアに、マカラはむっとしたようだった。
「あなたの噂はよく聞いているわ。ゴザで随分活躍しているそうね。今では、ガイリ将軍に負けずとも劣らぬ腕前だとか。大したものね。…その手で、一体何人の敵兵を殺したの?恐ろしいこと…」
マカラはまるで汚いものでも見るかのような素振りで、ユノアから顔を背けた。
「あなたをもう、女ではないわね。女とは、子を産み、育てるものでしょう。それがあろうことか、人を殺すなんて…。人を殺したことがあるものは、王宮内に立ち入ってはならないという決まりを作ってはどうかしら。そうでなくては、殺された者達の怨念が、王宮にいる私達にも悪影響を及ぼしそうだわ。ジュセノス王国の中枢である、この聖なる王宮が、悪霊の怨念に悩ませられるなど…。あってはならないことだもの」
マカラはユノアの反応を楽しむかのように横目でそっと窺っている。ベチカに至っては、笑いを噛み殺している。
じっと俯いていたユノアだったが、ふいに顔をあげ、マカラを見つめた。
「私は、ジュセノス王国の兵士であることに、誇りを持っています。私が殺してきた敵兵の命も、決して軽んじているわけではありません。私達は、国の威信をかけて殺しあっているのです。負ければ、国は滅ぶ…。国を愛し、ヒノト王を敬愛しているからこそ、私は戦うのです。…今のようなお言葉、決して他の兵士の前では言わないでください。王妃であるマカラ様にそのようなことを言われたら、どれだけ気落ちすることか。兵士は常に命がけで戦っていることを、どうか忘れないでください」
まさかユノアが反論するとは思っていなかったマカラの顔が、みるみる赤くなっていく。目の前にいるユノアは、マカラの知るユノアではなかった。子供だと思っていたのに、ユノアはしっかりした考えを持つ程に成長していたのだ。
ユノアから侮辱を受けたわけではないが、自分の過ちを諭されたことは、王妃としてのプライドを充分に傷つけられた。
ユノアが冷静に、マカラへの畏敬の礼を保ち続けていることも、また癪に障った。
マカラはユノアに背を向けると、さっさとその場から立ち去っていってしまった。
部屋に戻ったマカラは、ベチカに手伝ってもらいながら、寝着に着替えていた。髪の毛が長いので、一人では着替えることが出来ないのだ。
「全く、腹のたつ女子でございますね。王妃であるマカラ様に、あんな尊大な物言いをするなんて…。人を殺して成り上がったというだけで汚らわしいのに、まるで英雄きどりではありませんか」
マカラは黙ってベチカの言葉を聞いています。
「マカラ様。ヒノト様にお願いして、ユノアを罰していただいてはいかがですか?いくら優秀な兵士とはいえ、王妃であるマカラ様へのあのような無礼。ヒノト王とてお許しになる筈がありません!」
「そうかしら…。忘れたの?ベチカ。ヒノトとユノアは昔、一緒に暮らしていたのよ。ユノアのことを、大切に思っている筈だわ」
「まあ、何て気弱なことを!マカラ様と結婚されてからというもの、ヒノト様はユノアに近付こうともされないではないですか。マカラ様に比べれば、ユノアなど所詮、思い入れする相手ではなかったということです」
「そ、そうなのかしら…」
「そうですとも。もっと自信をお持ちくださいませ!」
着替えを済ませたマカラの髪の毛を、ベチカは丹念にといていく。
準備を済ませ、ベチカが部屋から出て行った。
ベッドに座り、マカラはふうっと息を吐いた。今晩はヒノトが部屋に来ることになっている。いつもならウキウキしているのだが、今日は気が重い。
(ユノアのせいだわ…)
このところ、ユノアが王宮にいなかったので、マカラの心は安定していた。だがユノアが戻ってきた途端、不安がマカラを襲う。
今夜だって、あんな嫌味が自分の口から出たことが信じられなかった。自己嫌悪の後悔が、マカラの心を暗く覆う。
ヒノトがもっと、ユノアのことを話してくれたらいいのに、と思う。ヒノトがあまりユノアとの過去について話したがらないのは、まだユノアに未練があるからなのではないかと、疑ってしまう。
確かに、ベチカが言うように、自分と結婚してから、ヒノトはユノアを近づけようとはしなかった。自分だけを大切にしてくれてきたのだと、それは分かっている。
だがそれは本当に、自分を愛してくれていたからなのだろうか?ユノアへの想いが強いからこそ、無理やりにその想いを押し殺そうとしていたのではないだろうか?
マカラの考えは、どんどん悪い方向へと向かっていった。
夜も更けた頃、ようやくヒノトがマカラの部屋へとやってきた。
「お疲れ様でございました」
マカラが出迎えると、ヒノトは疲れの隠せない笑顔をみせた。
「ああ、すまなかったな。遅くなった。先に休んでいても良かったのに…」
「夫であるあなたがまだ仕事をしているというのに、先に休むなんてこと、出来ませんわ…」
ヒノトの着替えを手伝いながら、マカラはそっとヒノトの様子を窺った。ヒノトが疲れているのはいつものことだが、今日はいつも以上に疲れているようだ。
「今日は、何かあったのですか?」
そんなマカラの問いかけを、ヒノトは曖昧に流した。
「いや…。マカラが心配するようなことは、何もないよ」
それ以上何も言わず、ヒノトはベッドに寝転がってしまった。身体を伸ばし、くつろぐ体勢に入っている。
マカラは悲しくなった。どうしていつも、何も話してくれないのだろう。
寂しさは苛立ちへと変わって、普段なら決して口にしないだろう発言を、マカラにさせた。
「今夜、ユノアに会いましたよ」
ヒノトは困惑の表情でマカラを見上げた。
「何故ユノアは、王宮に戻ってきたのですか?ゴザであんなに活躍していたというのに…。あなたが呼び戻したのですか?」
「…ああ、そうだ」
「一体ユノアに、何をさせようというのです?」
「何故今夜に限って、そんなことを聞く?いつもは政務に口出ししたりしないじゃないか。…疲れてるんだ。休ませてくれ」
マカラは更に口調を強めた。
「どうしてあなたは、ユノアのこととなると、話を逸らそうとするのですか?私とユノアの話をするのが、そんなにも嫌ですか!」
「マカラ…?」
「私は、ユノアがこの王宮にいるのが嫌です。まだあんなに幼く、しかも女の身でありながら、人をたくさん殺して、兵士として認められるなんて…。恐ろしいのです。普通の少女に、あんなことが出来ますか?…ユノアは、化け物です!」
ヒノトは立ち上がり、マカラに詰め寄った。
「酷いことを…!取り消すんだ、マカラ!」
だが、マカラも譲らない。
「やはりユノアを庇うのですね。あなたは私の言葉よりも、ユノアを…!」
ヒノトはマカラから離れ、部屋を出て行こうとした。
「まだ話は終わっていません!ユノアがこれからずっと王宮にいるというなら、その理由をきちんと私にも教えてください」
「…ユノアは大切な任務のため、王宮に戻ってきたんだ。その任務の内容を教えることはできない」
マカラの頬を、涙が伝った。
「私は…。あなたの、妻なのに…!」
だが、ヒノトはマカラを振り向かなかった。
「…もう二度と、ユノアの悪口を俺の前で言うな。俺はお前よりも、ユノアのことを知っている。何も知らないお前から、ユノアの悪口を聞かされるのは、耐えられない」
そしてヒノトは、部屋から出て行ってしまった。
失意の中、マカラは力なく、ベッドに腰を下ろした。
「知らないから、話してほしいのに…。どうしてそうしてくれないの?結局あなたは、私のことを信用してくれていないの?」
何も知ろうとしなければ、ヒノトとの関係は上手くいっていたのかもしれない。これまでのように、ただ疲れて帰ってくるヒノトに、心地いい寝床を準備していれば、それだけで妻として認めてもらえていたのかもしれない。
昨日までは、それで満足していた。今夜、ユノアを見るまでは…。
ユノアを見ると、マカラはいつも劣等感を感じてしまう。ユノアのあの美しさに、敵う女などいないのだから。
だが自分は、ヒノトの妻だ。そのことで自信を取り戻したかったのに…。
結局マカラは劣等感に苛まれたまま、寂しい夜を過ごさなければならなかった。