第三章:決戦の時
昇り始めたばかりの太陽が照らし出す平原を、ゴザの街から出発したジュセノス軍、総勢六万の兵士達が進んでいた。
その先頭に立つのは、ジュセノス王、ヒノト。物々しい甲冑に身を包んだその表情に、いつもの温和さは微塵も感じられない。戦争という非現実的な場所へ向かう緊張に耐えるため、歯を強く噛み締めている。
(絶対に、負けるわけにはいかない)
グアヌイ王国との戦争を決意したときから、ヒノトの胸の中を占領していたのは、その想いだけだった。
この戦いに負ければ、ジュセノス王国は滅亡の危機に立たされる。だが、ヒノトをここまで熱くさせているのは、そのことだけではなかった。
(父上…)
ハルゼ王の顔を思い描いて、ヒノトは唇を噛み締めた。
ハルゼ王のことを思い出すとき、ヒノトの心はいつも激しく揺さぶられた。それが、ジュセノス全軍を指揮する立場にあるヒノトにとって、どれ程危険なものかも、ヒノトは充分に分かっていた。
指揮官が冷静さを失えば、一気に軍全体が混乱に陥るだろう。それは最悪の結果を招きかねない。
自分の心を落ち着かせるために、ヒノトは大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
そんなヒノトの様子を、心配そうにキベイは見つめていた。
戦争を始めるのはまだ早い。レダがそう言ったのは、ジュセノス軍の兵士の訓練が不十分だからではなく、ヒノトが怒りに我を忘れ、冷静な判断ができなくなるのを恐れたからではないのか。
だが、今更後悔しても遅い。戦いはもう、始まろうとしている。
(ヒノト王の身の安全は、私が必ず守る!)
心の中で強く決意すると、キベイは剣を強く握った。
砂煙の中に、こちらへと近付いてくる巨大な影が見えてきた。それは、グアヌイ軍だった。
その先頭に立つ男の顔を見た途端、やっとの思いで落ち着かせていたヒノトの心が、再び燃え上がった。
「リュガ…!」
噛み締めた歯茎が、ギリリと鈍い悲鳴をあげる。
憎しみのこもった目を向けるヒノトとは対照的に、リュガは涼しげな表情だ。
そこにはやはり、相手を馬鹿にしたような、薄笑いが浮かんでいる。
嘘くさい笑みを浮かべたまま、リュガが口を開いた。
「ヒノト王よ。青二才のそなたが、この私から逃げ出さずに、この場に来たことだけでも、褒めてやろう」
だが、ヒノトはこの挑発には乗らなかった。
冷静な表情なまま、抑揚のない声で答える。
「…もはや、意味のない嘲りの言葉など、言い合うのは止めにしよう。リュガ王よ。我々はこれから、殺し合いを始めるのだから。そしてこの戦いの最後に、私は必ず勝利を掴んでみせる。長い間、両国がいがみ合うことで脅かされてきた国民に真の平和を。そして、…卑怯な手で貴様に殺された我が父、ハルゼ王の無念を、晴らしてみせる!」
ヒノトの言葉を聞き終えたリュガは、口を歪ませた。その顔に、もはや笑みはなかった。憎しみに満ちた目で、ヒノトを睨みつけてくる。
ヒノトは怯まずに、リュガを睨み返した。
平原に、怒号が響き渡る。剣を振りかざし、両軍の兵士達が、敵に向かって走っていく。
雑木林に身を隠して、息を詰めて平原の様子を窺っていたラピは、興奮した声を上げた。
「始まった…!遂に、始まったんだ!」
そこには、ラピとユノア以外にも、十人の歳若い兵士達がいた。ガイリには後方支援と言われてはいたが、まだ歳若い兵士に、今回は戦場を体験させるだけにしようという思惑は明らかだった。
戦争に参加しているとは決して言えない状況に、落胆していた年少兵たちも、いざ戦いが始まり、それを目の前にすると、一気に興奮し、両手をあげて歓声をあげると、ジュセノス軍を応援し始めた。
「頑張れ、ジュセノス軍!ヒノト王に栄光あれ!」
するとラピが、慌てて声を上げた。
「しーっ!みんな、静かにするんだ!俺達が騒いで敵に見つかりでもしたら、作戦が台無しだ!」
その言葉に、一同は慌てて声を噤み、再び草むらに身を隠した。
だが、目だけは爛々と燃えたぎって、戦場を見つめている。
(いつかあの中で、ヒノト王のために戦うんだ!)
そんな想いが聞こえてきそうだ。
何万という人間が入り乱れる戦場の中で、ユノアの視線は、ただ一人に向けられていた。それはヒノトだった。
前線の指揮はオタジに任せ、ヒノトは後方から戦を見守っている。
その表情から、今ヒノトが何を考えているのか、ユノアには読み取れなかった。感情を殺してしまったような、無表情のヒノト。そんなヒノトの顔を見るのは、初めてだった。
(ヒノト様…)
ユノアは心の中で名を呼んだ。
どうして今、側にいれないんだろう。大事な時にこそ、側にいて、ヒノトを助けたいのに。
ユノアは唇を噛み締めた。
平原は、まさに地獄と化していた。
いたる所で、剣や矢に身体を貫かれた兵士達が、無念の絶叫をあげながら絶命していく。その屍を踏みつけながら、新たな屍を作るために、兵士達は刃を交える。
その顔は、人間のものではなかった。兵士達は、鬼と化していた。
両軍の戦いは、全くの互角と言って良かった。
ジュセノス軍とグアヌイ軍では、甲冑の色が違うので、容易に見分けることが出来るが、まだ立って戦っている兵士の数は、ほぼ同じに見える。
だが、兵士の数が同じということに、違和感を覚えた者がいた。それは、ヒノトの側に待機していたキベイだった。
キベイはヒノトに進言した。
「王よ…。おかしくはありませんか。ここには、ガイリ率いる別働隊一万がいないのです。それなのに、グアヌイ軍と兵の数が同じように見えます。グアヌイ軍の残り一万の兵は、どこに行ったのでしょう?」
キベイの言葉を聞いて、ヒノトも眉をしかめた。
そして、驚愕の表情でキベイを見た。
「ま、まさか…!グアヌイ軍も、別働隊を作ったのか?」
キベイの顔は、今や蒼白になっていた。