第八話
薬や薬草が減って、だいぶすっきりとしてしまった作業場をぐるりと見渡して、ウェルチは苦笑を漏らした。
「……うーん。こう改めて見ると、やっぱり在庫が寂しいなぁ……」
チェック表は一応持っているけれど、ここまで在庫がないことが一目瞭然だと、いちいちチェックするのもなんだか億劫だ。
昨日の夕方に診療院から自宅に戻ったのだが、久しぶりの我が家に安心したのだろう。夕飯を食べて食器を片付けたら異様な睡魔を感じたので、早々に眠ってしまった。
今日は、数週間留守にしていた家の掃除をしつつのんびりしようと思っていたのだ。けれど、長年の間に身についた習慣とは恐ろしいもので、気が付いたら作業室にいて薬の在庫確認を始めていた。そして、あまりにも侘しい在庫状況に途方に暮れる事態に至っているわけである。
休むつもりだったが、この在庫状況を自覚してしまった以上、この状態を放置しておくのは、不安が残る。何だか休むに休めなくなってしまっているけれど、それは自業自得というものだろう。
「ええっと……とりあえず、今日は森の奥までハーブを取りに行こうかなぁ。……雪が深くなければいいけど」
そんなことを呟きつつ作業場から出たウェルチは、ウェルチの家の前でそわそわと佇む人影を目にし、数度瞬いた。――……一年くらい前にもこんなことがあった気がするのは、気のせいではない。
「……ティオさん?」
ウェルチの戸惑ったような呼びかけに、ティオがぱっと振り向く。その手には大きな紙袋が抱えられていた。
「ウェルチ! ……もうお仕事しているの? 昨日は、今日はお休みするっていってたよね?」
困惑したような表情で、ティオが尋ねる。作業場から出てくるのを見れば、仕事をしていると思われても無理はない。
「ええと、お休みのつもりだったんですけど……。つい、癖で薬の在庫確認をしてしまいまして……。そうしたら、かなり厳しいことが判明しまして……」
ティオは眉をしかめつつ、ウェルチが出てきた作業場に視線を向けた。
「うん、そうだよね。……予防の段階でかなりの量が必要だったもんね」
結局、ウェルチが持って行ったハーブティーやアロマオイルだけでは量が足りず、ティオが依頼をした商隊から色々と取り寄せることになったのだ。
「そうなんですよね。さすがに心許なくて安心して休めないので、少し作業しようかと思います」
「え、でも今回の件で使用した分は、当然だけど、ちゃんとうちで補填するよ? そのための費用もちゃんと予算に入ってるし」
緊急を要したため、ウェルチが持っていた在庫を使用することになったが、それらは本来、領主が町の税金を用いて用意するべきものだ。それを代わりに用意したウェルチに対して、現物での補填なり金銭での補填なりするのは当然のことである。
「はい、領主様からもそのように言っていただいています。ただ、今の在庫状況だとかなり不安なので、少しでもきちんとしておきたいんです」
ウェルチの言葉に、ティオは心配そうな表情をする。その表情の意味はちゃんと分かったので、ウェルチはティオに微笑んで見せた。
「大丈夫です。無理はしませんし、作業が終わったらちゃんとお休みします。……ところで、ティオさん。今日は何か御用ですか?」
そう問いかけつつ、レティシアの言葉が蘇る。レティシアには責任を取りなさいと言われたけれども、一体何をどうすればいいのだろう。
どう動けばいいのか分からないし、薬師として生きる決意とこの恋を諦めようと思った気持ちも変わっていない。
そして、今のティオとの関係も悪いものではないと感じている。むしろ、何かをしてこの関係が崩れてしまうのも怖くて、このままでもいいような気さえしてしまう。
けれど、そんなことを言ったらジーナとレティシアに叱られそうだ。
「あ、うん。渡したいものがあって……あの、これ」
そう言って差し出されたのは、ティオが持っていた紙袋だ。
「え、これ……? わたしに?」
ウェルチの問いにティオは頷く。受け取ってみると、思っていたよりもずしりと重い。
「ウェルチ、開けてみて?」
ティオにそう促されたウェルチは小さく頷くと、紙袋の中に手を入れた。指先に触れたものを掴んで、取り出す。
「……え」
紙袋から出てきたのは、一冊の本だった。
「これ、わたしが欲しかった薬学書! え、でもこれ高いし、すごく稀少で! ……え、え?」
ウェルチは戸惑いつつ、本とティオを見比べた。
「この間、レティシア嬢に付き添って都に行った時、偶然見つけたんだ。ウェルチ欲しがってたのは知ってたし貴重な本だって言ってたでしょ? この機会を逃したら手に入らないかもしれないと思って。本当は帰ってきたらすぐに渡そうと思ったんだけど……」
流行り病のことがありばたばたしているうちにタイミングを失ってしまい、渡すに渡せなかったらしい。ウェルチは顔を輝かせた。
「そうだったんですね、ありがとうございます! ええっと、おいくらですか?」
今回の件でかかった経費については、町の経費で賄われることになっているのはもちろん、町からそれ以外に報奨金のようなものが出ている。
さらに、診療院に詰めていた間は診療院の手伝いもしていたのでそのバイト代も貰っている。なので、懐具合はかなり温かい。この時期に渡してもらえてよかったと思う。だが、ティオは首を横に振った。
「プレゼントするよ」
「え? でも、そんなの……悪いです! 払います!」
貴族のティオからすれば大したことのない額なのかもしれない。
けれどウェルチにとっては高価なもので、それをプレゼントで貰うのは抵抗がある。少なくともウェルチにとってのプレゼントの範疇を越えている。
そう必死に訴えると、ティオは少しだけ緊張した面持ちで、微笑んだ。
「……じゃあ、ひとつお願い聞いてくれるかな?」
「お願い、ですか……?」
ティオはこくんと頷く。ウェルチは首を傾げた。ティオは何故、そんな顔をしているのだろう。
「ええと……内容にもよりますが、わたしに出来ることなら」
「う、うん。……じゃあ……」
ティオの顔つきはとても真剣で、銅褐色の瞳は熱を帯びている。その表情に、ウェルチはどきりとして息を呑んだ。ティオが、口を開く。
「……僕をウェルチの弟子にしてくださいっ!!」
ウェルチの予想の斜め上を行く意表を突いた言葉に、思わず紺色の瞳を数度瞬かせてしまった。
「……でし?」
「そうっ! 弟子! 薬師の!!」
「……はい?」
ぼんやりと問い返せば力一杯肯定されて、どう反応すればいいのかさっぱり分からない。先程恋愛めいた空気を感じたような気がしたのだが、思い違いだったのだろうか。
ジーナにも散々鈍いと言われていたし、気のせいかもしれない。いや、そもそもティオの気持ちは待たせている間に変わってしまったのかもしれない。そんな考えがウェルチの頭の中でぐるぐるとしている。
そんなウェルチの状態にティオは全く気付いていない。口早にまくしたてる。
「今回のウェルチの働きを見て、改めてウェルチはすごいって思ったんだ。それに比べて、僕はどうだろうって。領主の三男坊だから色々と任されているけど、僕自身が努力して得たものじゃない。……じゃあ、僕自身に出来ることはなんだろうって思ったんだ」
そう言って、ティオは仄かな苦笑を浮かべる。
「……ティオさん」
「……自分に自信がなくて、僕じゃウェルチと向き合えないって思った。でも、それで諦めちゃだめだと思ったんだ。……力になりたいと思うなら、そう出来る方法を探さなきゃって……」
「それで、何で弟子なんですか?」
そう尋ねると、ティオが照れくさそうに笑う。
「ウェルチに憧れたっていうのもあるけど……。薬師っていう仕事をきちんと理解していない人が、多いなって思ってて。もし、僕が薬師になれば……一応貴族の肩書はあるんだし、もしかしたら偏見の目を少しは変えられるんじゃないかって思ったんだ」
その言葉に、ウェルチは目を見開いた。
「……え」
「それに……ずっと待ってたけど、待ってるだけじゃだめだよね。振り向いてもらう努力をしなきゃとも思ったんだ。……僕は、ウェルチの力になりたい。ウェルチを支えられるような人になりたい。だから……」
そこでティオは言葉を切ると、ウェルチに頭を下げた。
「僕を、弟子にしてください! 雑用でもなんでもする! 泊まり込みが必要なら寝袋持って来て軒下で寝てもいいし! 大きなミノムシがいるとでも思ってくれればいいから!」
それはさすがにちょっとどうだろうと思う。雪が深くなれば、確実に凍死する。だが、ティオの真剣な思いは伝わってきた。
そして、ティオがウェルチの想いには気づいていないことも今の言葉でよく分かった。
何だか、ジーナが呆れる理由が分かった気がする。
そんなことを考えつつ、ウェルチはティオを見つめる。ウェルチの予想の斜め上を行く発言をしたティオは、まだ深く頭を下げている。
ウェルチは柔らかく微笑んだ。ティオの言葉が嬉しかったのだ。
自分の仕事は貴族であるティオに迷惑をかけるだろうと思った。けれど自分には薬師として生きるしか道がないから、ティオへの想いは諦めようと思った。
けれど、ティオは違った。貴族という身分のまま薬師になることで、貴族である自分に出来ることを見つけているしウェルチを支えられる人になりたいという願いもかなえようとしている。
そんなティオを、ウェルチは心の底からすごいと思う。
ウェルチは逃げたのに、ティオは逃げずに向き合った。その結果なのだろう。
「だ、だめ……かな?」
ずっと黙ったままのウェルチに、ティオが不安の滲んだ声音でそう言った。
ジーナがいれば情けないと一言で切り捨てるような表情なのだけれど、それさえもウェルチにとっては愛おしい。
ティオのいう偏見をなくすことは簡単ではないだろう。それをティオが分かっていないはずがない。それでも、勇気を出してこの道を選んでくれた。ウェルチと寄り添うことが出来る、この道を。
わたしでいいのかなという考えは、頭の片隅にある。これでいいのか迷う気持ちもある。
けれど、少しずれてはいるけれど真摯なティオの言葉に、諦めようとしていた仄かな想いが暖かな熱を持っているのも分かっているから。
だから、勇気をもって。
「……よろしくお願いします。……これからも、ずっと」
ぱっと上げたティオの顔が、しばし沈黙した後、頬に朱を帯びる。
「ず、ずっと!? ずっとって、えぇっ!?」
妙に上擦ったティオの声に、ウェルチは思わず噴き出す。冬の静かな森に、その楽しげな笑い声が響いていた。
ある小さな国の辺境にある森に、腕利きの薬師夫婦がいる。都までそんな評判が広がるのは、そう遠くない未来のお話。




