第一章 最弱スキルの救助隊長
「異世界でも人命救助ですか!?」
肺胞の奥まで焼き尽くすような高熱と、視界を塞ぐ黒煙。
鉄骨が軋み、コンクリートが爆ぜる轟音の中、相澤直樹は崩落する天井から幼い少女を庇い、抱きしめていた。
「――大丈夫だ。絶対に、助ける」
それが、直樹が消防救助隊員として三十四年の人生で口にした、最後の言葉だった。背中に途方もない衝撃と熱塊が叩きつけられ、骨が砕ける鈍い音が響いた。無線機から叫ぶ隊長の声が、急速に遠ざかる。意識が暗転し、直樹の命の火は静かに消え去った――はずだった。
「はい、お疲れさん。いやー、見事な殉職っぷりだったわねぇ。現場の安全確認、ちょっと甘かったんじゃないの?」
突拍子もない軽薄な声に、直樹はハッと目を開けた。
そこは病院の集中治療室でも、焼けた建物の残骸でもなかった。どこまでも広がる白い空間の真ん中に、なぜか古びたコタツが置かれ、小豆色の芋ジャージを着た金髪の少女が、行儀悪くあぐらをかいてみかんの皮を剥いていた。
「……ここは?」
「天界の出張所。で、アタシはアナステシア世界の管理神、女神ルチアナ様よ。アンタは死んだの。まあ、子供を庇ってぺしゃんこ。立派立派、ゴッドチューブのショート動画なら百面相サムネでバズるレベルの自己犠牲ね」
ルチアナと名乗る神は、剥いたみかんを放り込みながらペラペラと喋り続ける。
「アンタの魂、まだピチピチしてて勿体ないからさ。アタシが作った異世界に再雇用――ゲフン、転生させてあげようと思って。どう? 剣と魔法のファンタジー世界で第二の人生。魔王を一撃で消し飛ばす聖剣とか、全属性の極大魔法とか、なんでも好きなチート能力を一個あげるわよ?」
直樹は呆気に取られ、自らの両手を見つめた。
煤にまみれて皮膚がただれていたはずの手は、傷一つなく綺麗に戻っていた。痛みもない。三十四歳相応の、救助道具を握り続けて硬くなった掌の感触だけがそのまま残されている。
チート能力。異世界転生。
非番の日に読んだ漫画のような単語が並ぶが、直樹の心は微動だにしなかった。魔王を倒したいとも、無双して美女に囲まれたいとも思わない。十二年間、特別救助隊のオレンジ色の服を着て、ただ目の前の命を拾い上げることだけに生きてきた男だ。
「……強い力は、いりません」
「はあ? 何言ってんのアンタ。ドラゴンとか魔獣とかうじゃうじゃいる世界よ?」
「強い力があったって、使い方が乱暴なら人は死にます。崩れる建物の中で大砲を撃っても、誰も助かりません」
直樹はルチアナの目をまっすぐに見据えて言った。
「もし何かいただけるなら――強い力より、助けられる力が欲しい。それだけです」
ルチアナはみかんを咀嚼する手を止め、丸い目をパチクリとさせた。やがて、心底面白そうに口角を吊り上げる。
「ふーん……。変わったオッサン。ま、いいわ。戦闘力ゼロだけど、アンタが一番欲しがりそうなユニークスキルを投げてあげる。はい、決定! 転生手続き完了!」
「え、ちょっと待――」
「あっちの世界、今ちょっと人手不足だからさ! しっかり働いて数字稼いでよねー!」
ルチアナが健康サンダルを履いた足をパチンと鳴らした瞬間、直樹の足元が抜け、猛烈な浮遊感とともに白い光の渦へ吸い込まれていった。
*
「――っ、ゴホッ、ウッ……!」
湿った土と、濃密な青葉の匂いが鼻腔を突いた。
直樹は勢いよく上半身を起こし、荒い息を吐いた。
木漏れ日が揺れている。見上げれば、地球では見たこともないほど巨大な樹木が生い茂り、抜けるような青空が広がっていた。
自分の身体を確かめる。着ていた防火服はなく、厚手の麻のシャツと機能的な作業ズボン、履き慣れた質感の革靴。肉体は確かに三十四歳の健康な状態だったが、身体の奥に特別な魔力や超常のパワーが漲っているような感覚は微塵もない。
「本当に……異世界なのか」
立ち上がり、砂利の浮いた山道を歩き出す。
静かな森だった。鳥のさえずりと、遠くを流れるせせらぎの音。
これなら、小さな畑でも耕しながら、静かに誰かの役に立つ仕事を探して暮らせるかもしれない――そう息を抜いた、まさにその時だった。
ズズズ……ドォォォォンッ!
大地を揺るがす地響きが、鼓膜を激しく震わせた。
直樹の背筋が凍りつく。山鳴りだ。それも、土砂が斜面を削り取りながら滑落していく、極めて大規模な破壊の音。
間髪を入れず、風に乗って人の悲鳴が届いた。
「助けてくれぇっ!」
「落石だ! 逃げろ、早く荷を捨てろ!」
「馬が暴れて動かねぇ! 誰か、誰か助けてくれ!」
悲鳴を聞いた瞬間、直樹の思考は完全に切り替わった。
第二の人生だとか、異世界の平穏だとか、そんなものは全て吹き飛んだ。十二年間、骨の髄まで叩き込まれたレスキュー隊員の反射が、考えるより先に直樹の脚を前へと蹴り出させていた。
「現場は……あっちか!」
息を乱しながら山道を駆け抜け、直樹は崖の縁へと飛び出した。
眼下に広がる光景を視界に収めた瞬間、直樹の脳内で冷徹な現場評価が猛スピードで回転を始めた。
『状況把握』
場所は、切り立った崖の下を通る旧街道。
昨晩までの雨のせいか、崖の上部から幅三十メートルにわたって表層崩壊が発生していた。赤茶けた土砂と砕けた岩塊が街道を完全に覆い尽くし、前後を寸断している。
要救助者は、荷馬車を連ねた行商人の一団。
人数は七名。成人男性四名、成人女性二名、そして十歳前後の少年が一名。
馬車二台のうち、先頭の一台は土砂の直撃を受けて横倒しになり、引き裂かれた帆布から積み荷が散乱している。もう一台の馬車は無事だが、パニックを起こした大型の馬が狂ったように暴れて手綱を引きちぎり、御者台を激しく打ち据えていた。
「おい、そっちの岩を登れ!」
「駄目だ、滑る! 足が埋まる!」
人々は完全にパニックに陥り、崩れたばかりの軟弱な土砂の斜面に爪を立てて這い上がろうとしては、ズルズルと滑り落ちていた。
直樹の目が、斜面の上部を鋭く捉える。
「――まずい!」
崩落現場の真上、高さ十五メートルほどの崖際で、乗用車ほどもある巨大な巨岩が、土台を削られて今にも落ちそうな状態で傾いていた。
パラパラと、小石と砂が断続的に崖下へ降り注いでいる。
二次災害の兆候だ。
あの巨岩が落ちれば、崖下に溜まっている土砂全体が再び流動化し、七人全員がひとたまりもなく飲み込まれる。猶予は、長くて二、三分。
「装備は……何もない」
直樹は己の腰元を見た。
ロープもない。カラビナもない。油圧スプレッダーも、要救助者を引き上げる滑車も、ヘルメットすらない。
そして何より、自分には異世界の魔物と戦うような超人的な膂力も闘気も与えられていないのだ。ただの、三十四歳の生身の男。崖を飛び降りれば、自分が骨折して救助対象に成り下がる。
だが――指をくわえて見殺しにすることなど、消防士にできるはずがなかった。
「おい! 崖下の人たち! 聞こえるか!!」
直樹は両手を口元に当て、腹の底から声を張り上げた。
通信指令室での勤務経験と、喧噪の災害現場で鍛え上げられた、よく通る重厚な怒声が谷間に木霊する。
パニックに陥っていた行商人たちが、弾かれたように顔を上げた。
「え……? 崖の上に、誰かいる!?」
「助けてくれ! 道が塞がれたんだ! 引き上げてくれ!」
「全員、動くな! 私の指示を聞け!」
直樹は鋭く制止の号令を飛ばした。
「土砂の斜面を登ろうとするな! そこは一番脆い! 足を動かせば地盤が崩れて下から埋まるぞ! 馬から手を離せ、荷物も全部捨てろ! 身一つになるんだ!」
「で、でも、積み荷は全財産なんだ!」
「命より重い荷物があるか! 上を見ろ!」
直樹が一喝し、指を突きつける。
行商人たちが恐る恐る見上げた先で、傾いた巨岩がきしみ、ズズ……と数センチ沈み込んだ。バラバラと大きな石が落ち、馬車のすぐ脇に突き刺さる。
「ひっ……!?」
「岩が落ちてくるぞ! もうおしまいだ!」
「取り乱すな! まだ道はある!」
叫びながら、直樹は冷や汗を流していた。
(嘘だ。どこに道がある……!?)
街道の前後五十メートルは完全に土砂で埋没している。崖下は袋小路。崩落面を登るのは自殺行為。反対側の谷底へ飛び降りれば転落死する。
巨岩が落ちてくるまでのわずかな時間で、重傷者を抱え、パニックを起こした七人の一般人が、自力で辿り着ける安全地帯など――。
(探せ、相澤直樹! 観察しろ、状況を読め! 必ず、どこかに綻びがあるはずだ!)
崖下の地形、岩盤の露出具合、土砂の厚み、斜面の傾斜角。
七人の体力、負傷の有無。年配の男が右足を庇っている。女性の一人が腰を抜かしている。子供を抱える母親。
情報が頭の中で乱高下するが、決定的な「解」が導き出せない。
パキ、と崖の上の岩盤に亀裂が走る音が響いた。
あと一分も持たない。
「くそっ……! 逃げ道はどこだ!? あいつらを助けられる道は――!!」
直樹が祈るように叫び、意識を行商人たちへ極限まで集中させた、その瞬間だった。
――カチリ。
脳の奥底で、精密な歯車が噛み合うような冷徹な音が鳴り響いた。
直樹の視界から、余計な色彩がフッと抜け落ちる。
世界の明度が一段落ちたような静寂の中、崖下の光景が一変した。
「……な、んだ……これ……?」
淡く、だが吸い込まれるほどに鮮やかな光が、闇を払うように立ち上っていた。
エメラルドグリーンの燐光。
それは、崖下で立ち尽くす七人の足元から、それぞれ一本ずつの帯となって地面を這うように伸びていた。
光の帯は、崩れた軟弱な土砂を避け、硬い岩盤の露出したわずかな足場を縫うようにジグザグに進んでいる。倒壊した馬車の下をくぐり、崖の亀裂を跨ぎ、落石の直撃を受けないオーバーハング状の突き出た岩棚の真下へと、七本の線が綺麗に収束していた。
光の表面には、進行方向を示す矢印滅が、規則正しく前へ前へと流れている。
通行可能。
現時点で物理的に通過でき、かつ落石の軌道から外れた唯一の「安全地帯」への経路。
『ユニークスキル【避難経路】――認証』
ルチアナの暢気な声が、記憶の底から蘇る。
『戦闘力ゼロだけど、アンタが一番欲しがりそうなユニークスキル』
治療はできない。
敵を倒すこともできない。
巨大な岩を持ち上げる力も、瞬間移動する魔法もない。
だが――直樹の瞳には今、絶望の瓦礫の中で、誰もが見失っていた「命を繋ぐ道」が、誰よりも鮮明に見えていた。
「……見える」
直樹の唇から、震えるような確信が零れ落ちた。
恐怖は消えていた。心拍数は正常に戻り、瞳の奥にレスキュー隊員の冷徹な火が灯る。
「道はある! 全員、私の声の通りに一歩ずつ動け! 絶対に、一人も死なせない!!」
緑の光に導かれた、元消防士の最初の救助活動が、今始まろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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