427話 民間交通革命 トラック汎用シャーシ
物流革命の幕開け
運送用トラック、そして「自動運転物流網」の誕生
1630年代、日本の産業はこれまでにない速度で拡大を続けていた。
鉄鋼業、機械工業、食品工業、繊維産業、家具産業、家電産業、宇宙産業。
国内各地に巨大な工場が建設され、都市の人口も急速に増加していた。
工場では毎日のように大量の商品が生産される。
食品工場では冷凍食品や缶詰が作られ、家電工場では大量の電化製品が組み立てられる。
鉄鋼工場からは鋼材が出荷され、機械工場からは工作機械や建設機械が送り出される。
さらに海外や新大陸、南大陸との輸送量も増え続けていた。
鉄道は大量輸送に向いている。
船舶はさらに大量の貨物を運べる。
しかし、工場から鉄道駅まで。
港から物流センターまで。
物流センターからスーパーまで。
最後の数kmを運ぶためには、どうしても道路輸送が必要だった。
そこで政府は判断した。
鉄道だけでは足りない。
船だけでも足りない。
鉄道・船舶・道路を一体化した巨大物流網が必要だ。
そして、その道路物流網の中心となる機械として開発されたのが、
「運送用トラック」だった。
国家物流五十年計画
政府は1630年代後半、今後五十年間を見据えた大規模な物流計画を策定した。
目標は単純だった。
「日本国内のどこで生産された物資でも、必要な場所へ、必要な時に、必要な量を安全かつ迅速に届けられる国家物流網を構築する」
そのためには、単純にトラックを作るだけでは不十分だった。
必要だったのは、
高性能エンジン
高耐久車体
高速道路
物流センター
港湾施設
鉄道貨物駅
コンテナ規格
自動運転技術
交通管制システム
衛星通信
高精度地図
整備拠点
燃料供給網
をすべて一体化することだった。
政府はこれを単なる「自動車産業政策」とは考えなかった。
これは、国家そのものの血管を作る事業だった。
ディーゼルエンジン開発計画
最初に取り組まれたのは、トラックの心臓部であるエンジンだった。
トラックは乗用車とは違う。
人間を数人乗せるだけなら、ある程度の出力があればいい。
しかしトラックは数t、場合によっては十数tもの荷物を積む。
しかも毎日、何百km、何千kmという距離を走らなければならない。
さらに新大陸や南大陸では、舗装されていない道路や長大な坂道、砂漠地帯などを走ることも想定された。
そこで必要になったのが、高トルク・長寿命・低燃費を兼ね備えたディーゼルエンジンだった。
帝国大学を中心とした共同開発
開発には国内のあらゆる研究機関が参加した。
中心となったのは帝国大学機械工学部。
そこへ、
陸軍工廠化学工学部
九州電子研究所
新大陸の機械工場
鉄鋼メーカー
精密加工企業
燃料研究所
などが加わった。
機械工学者はエンジン構造を研究し、化学工学者は燃料と燃焼を研究する。
鉄鋼メーカーは高温・高圧に耐える材料を作る。
電子研究所は燃料噴射やエンジン制御を担当する。
この巨大な共同研究体制によって、ディーゼルエンジンの性能は短期間で飛躍的に向上していった。
次々と20リットル級のトラック用エンジンが開発されていくようになる。
初期開発で達成された技術
研究チームが最初に重点を置いたのは、燃焼効率と耐久性だった。
超高圧燃料噴射装置
燃料をより細かく噴霧し、燃焼室内で効率よく燃焼させる。
これによって燃費と出力を同時に改善することが可能になった。
ターボチャージャー
排気エネルギーを利用して吸気量を増やす。
大型トラックでも低速域から強いトルクを発生させることができるようになった。
鍛造クランクシャフト
大量の荷物を積んで長距離を走るトラックでは、エンジン内部に非常に大きな負荷がかかる。
そこでクランクシャフトには高強度の鍛造部品が採用された。
高耐久アルミ合金ピストン
軽量化と耐熱性を両立するため、高性能アルミ合金が開発された。
電子制御式燃料噴射
そして最も重要だったのが電子制御だった。
センサーからエンジンの状態を読み取り、「今どれだけ燃料を噴射するべきか」をコンピュータが判断する。
これにより、エンジンは単純な機械から、電子制御された高度な機械へ変化していった。
日本のディーゼル技術は、前世の21世紀に匹敵する水準へ一気に跳躍していったのである。
トラックは「長距離を走る機械」へ
エンジンが完成すると、次は車体の開発が始まった。
トラックは毎日酷使される。
朝に工場を出て、数百km走り、物流センターで荷物を降ろす。
そこから別の荷物を積み、また別の都市へ向かう。
これを何年も繰り返す。
そのため、日本の技術者はトラックを、「乗用車よりもはるかに頑丈な産業機械」として設計した。
フレームは強化され、サスペンションも重量物輸送を前提として設計された。
ブレーキも圧搾空気を使う方式となり大型化され、長い下り坂でも安定して停止できるようにされた。
さらにタイヤも大型化され、長距離走行に耐える高耐久ゴムが使われた。
自動運転技術の研究開始
しかし、トラック産業が発展すると別の問題が出てくる。
運転手不足である。
工場が増える。
物流量が増える。
トラックの台数も増える。
しかし、それらすべてに人間の運転手を乗せ続ける必要がある。
日本の人口が増えていたとしても、物流量の増加速度はそれを上回っていた。
そこで明賢は、前世の知識をもとに一つの方向性を示した。
自動運転である。
明賢が持ち込んだ論文群には、
ニューラルネットワーク
画像処理アルゴリズム
自律走行制御
パターン認識
センサー融合
経路計画
などに関する情報が存在していた。
これらをそのまま使うのではなく、日本独自のコンピュータ技術と組み合わせて研究が進められた。
複合センサーによる自律走行
トラックには複数のセンサーが搭載された。
カメラ
レーダー
ミリ波センサー
赤外線センサー
距離センサー
車輪速度センサー
慣性計測装置
などである。
一つのセンサーに頼るのではない。
カメラが道路を認識する。
レーダーが前方の物体との距離を測る。
ミリ波センサーが悪天候時の周囲を監視する。
赤外線センサーが夜間の障害物を検出する。
それらをコンピュータが統合する。
これによってトラックは、「自分が道路のどこにいて、周囲に何があり、どこへ向かうべきなのか」を判断できるようになった。
いきなり公道で完全自動運転を行ったわけではない。
最初の実験場所は、工場敷地内だった。
広大な工場の中を、人間が乗っていないトラックが走る。
指定された場所で停止する。
荷物を受け取る。
別の倉庫まで移動する。
停止して荷物を降ろす。
そして再び自動で戻ってくる。
これを何千回、何万回と繰り返した。
1640年代には、工場敷地内での完全自動走行が実用化された。
作業員たちは最初こそ不思議そうに眺めていた。
しかし次第に、「人が乗っていないトラックが普通に荷物を運んでいる」という光景が当たり前になっていった。
港湾でも自動運転化
次に導入されたのが港湾だった。
港では大量のコンテナを短距離で移動させる必要がある。
コンテナ船から降ろされた荷物を、港湾ヤードへ運ぶ。
そこから鉄道貨物駅へ。
あるいはトラックターミナルへ。
この作業を自動運転トラックに担当させた。
港湾内では走行ルートが比較的限定されている。
そのため自動運転技術との相性が非常に良かった。
やがて夜間の港でも、無人トラックが一定間隔で列を作って走る光景が見られるようになった。
港湾作業員は、「トラックを運転する仕事」から、「物流システムを監視する仕事」へと役割を変えていった。
衛星時代を見据えた自動運転物流網
さらに日本は、将来的に人工衛星を利用した全国物流網を構想した。
高精度の地図。
衛星測位。
高速通信。
交通管制。
自動運転AI。
これらを組み合わせる。
すると、トラックは単独で走る機械ではなくなる。
巨大なネットワークの一部
になる。
物流センターから、「次の配送地点」が送信される。
トラックは最適経路を計算する。
道路の混雑状況を受け取る。
前方の事故情報を取得する。
天候情報も取得する。
必要なら自動的に経路を変更する。
最終的には、「人間が運転しなくても、日本全土の物流が流れ続ける」という世界が構想された。
トラック区分の完全規格化
日本は自転車やバイクと同じように、トラックについても徹底的な規格統一を行った。
メーカーごとに勝手なサイズを作るのではない。
道路。
物流センター。
港湾。
鉄道貨物駅。
コンテナ。
すべてが連携できるように設計する。
その結果、トラックは大きく以下の区分に整理された。
コンテナ輸送トラック
最も大型の輸送機械の一つ。
巨大なトルクを持つ専用牽引車で、重量コンテナを大量に輸送する。
最大4連結に対応。
港湾都市と巨大物流センター。
鉄道貨物駅と港。
そして新大陸の都市間幹線道路。
こうした長距離物流の主役となった。
小型トラック
2トン
都市内配送の基本となる車両。
大型スーパー。
商業セル。
学校。
病院。
工場。
飲食店。
さまざまな場所へ荷物を届ける。
特に食品物流では重要だった。
冷凍食品や生鮮食品を冷蔵・冷凍仕様の荷室に積み込み、毎日決まった時間に商業セルへ配送する。
4トン
2トン車より大量の荷物を運ぶ。
複数の商業セルをまとめて巡回する配送にも使われた。
中型トラック
6トン
都市間輸送の主力。
食品工場から都市の大型物流センターへ。
製造工場から販売拠点へ。
比較的長距離の輸送に対応した。
8トン
さらに大量の貨物を運ぶ。
都市間高速道路を利用し、主要都市を結ぶ。
東京、大阪、名古屋、札幌、山番市などの大都市圏では、毎日大量の8トントラックが走るようになった。
大型トラック
10トン
巨大物流センターを結ぶ幹線輸送用。
工場から地域物流センターへ。
港から内陸部へ。
鉄道貨物駅から都市圏へ。
といった大量輸送を担当した。
12トン
さらに長距離・大量輸送を担う。
長距離高速道路では、一定間隔で12トントラックが走る姿が見られるようになった。
超大型トラック 14トン
そして新大陸・南大陸で特に人気となったのが14トン級だった。
広大な大陸では、都市と都市の間が非常に遠い。
そこで最初から大陸横断を前提として設計された。
エンジン寿命は、60万km超を目標とした。
車体も頑丈で、長時間運転を想定した冷却装置や燃料タンクを搭載。
補給拠点の少ない地域でも長距離を走れるように設計された。
やがて大陸横断物流では、14トン級トラック+自動運転という組み合わせが標準となっていく。
汎用トラックシャーシの開発
そして、日本のトラック産業を特徴づける最大の技術の一つが、汎用トラックシャーシだった。
日本は、用途ごとに完全に別の車両を作る方式を採用しなかった。
基本となるシャーシを共通化したのである。
エンジン。
駆動系。
フレーム。
サスペンション。
ブレーキ。
電装。
これらの基本構造を規格化する。
その上に、
冷凍車
冷蔵車
コンテナ車
タンク車
救急車
消防車
移動工場車
建設資材運搬車
ごみ収集車
軍用輸送車
などのボディを載せる。
「モジュール式トラック」の誕生
この方式によって、トラックは一種の組み立て式産業機械となった。
例えば食品会社が冷凍トラックを必要とした場合、基本シャーシは既存のものを使用。
そこに冷凍用ボディを取り付ける。
物流会社が一般貨物車を必要とすれば、別の荷台を取り付ける。
消防隊が必要とすれば消防用装備を載せる。
つまり、車両の基本部分を共通化し、用途に応じて上部構造を交換する。
これによって、
部品共有
整備性向上
製造時間短縮
生産コスト低下
部品在庫削減
派生型の開発高速化
が一気に実現した。
一台のトラックを作るために必要な部品種類そのものも減少する。
メーカーにとっても大きなメリットだった。
全国どこでも修理できる物流機械
規格統一の恩恵は物流会社にも及んだ。
東京で故障したトラックを、大阪の部品で修理できる。
新大陸で故障しても、標準部品を現地で交換できる。
南大陸でも同じ。
つまり、「日本中どこへ行っても修理できる」という安心感が生まれた。
これは大陸横断輸送において極めて重要だった。
トラック運送会社は大量の特殊部品を保管する必要がなくなり、主要部品だけを全国の整備拠点へ配置すればよくなった。
結果として整備ネットワークそのものが一つの巨大産業へ成長していった。
物流の流れそのものが変わる
しかも将来的には、そのほとんどをコンピュータが管理する。
どの工場から何を運ぶのか。
どの物流センターに何個必要なのか。
どのトラックが空いているのか。
どの道路が混雑しているのか。
どこで燃料を補給するのか。
それらをリアルタイムで管理する。
物流は単なる「物を運ぶ仕事」から、巨大な情報処理産業へ変わり始めていた。
そして、この物流網が完成したことで、日本の工場はついに、「作りさえすれば、必要な場所へ届く」という時代へ突入することになる。




