386話 新ブランドAOI
こうして、日本映画の先駆者であった葵は、新たに服飾デザイナーとしての人生を歩み始めるため、本土への帰路につくのであった。
そこからの行動は驚くほど早かった。
帰国すると葵は、自ら蓄えてきた資金を惜しみなく投じ、新たな会社の設立準備に取り掛かる。
映画会社とは別に、服だけを専門に扱う会社が必要だと判断したのである。
会社名は、極めてシンプルだった。
「Aoi」
自身の名を冠した、日本初の本格的なファッションブランドである。
創業理念は、映画制作の頃と何一つ変わらなかった。
流行を追うためではない。
誰かの真似をするためでもない。
機能性。
美しさ。
耐久性。
そして長く愛される品質。
そのすべてを兼ね備えた服だけを世に送り出す。
それが、Aoiというブランドの理念だった。
すでに葵の名は、日本中へ知れ渡っていた。
映画監督として数々の名作を生み出し、
日本映画界の礎を築いた人物。
さらに新聞では、「趣味で社員全員の服を作る会長」として全国的な話題となっていた。
そのため、新ブランド設立の知らせは瞬く間に全国へ広がる。
「ついに、あの服が買える。」
その一言だけで十分だった。
開業前から各地の新聞は大きく報じ、百貨店や商店街でも「Aoiはいつ開店するのか」という話題でもちきりになった。
第一号店は東京に開店した。
開店前日の夜には、すでに店の前へ並ぶ者が現れ、夜明けを迎える頃には通りを埋め尽くすほどの長蛇の列ができていた。
開店と同時に客が店内へ流れ込み、
上着。
鞄。
靴。
帽子。
革小物。
並べられた商品は次々と手に取られ、夕方を迎える頃には棚のほとんどが空になっていた。
店員たちは倉庫との間を何度も往復し、補充を続けても追いつかない。
工房では職人たちが昼夜を問わず制作を続け、新しい商品が完成すると、そのまま店頭へ運び込まれた。
それでも需要には到底追いつかなかった。
誰もが予想していた以上の人気だったのである。
勢いは止まらなかった。
第二号店を山番市。
第三号店をシドニー。
第四号店をケープタウン。
さらに札幌、仙台、名古屋、大阪、福岡など主要都市へ次々と出店。
映画会社で培った物流網と知名度を活かしたことで、新店舗は開業直後から安定した集客を実現した。
創業から、わずか一年。
店舗数は二十店舗を突破。
新店舗が完成するたびに開店前から長蛇の列ができていた。
成長速度は、まさに破竹の勢いだった。
やがて、Aoiの名は日本国内だけでは収まらなくなっていく。
当時、日本は鎖国政策を維持しており、海外との民間貿易は認められていなかった。
そのため、Aoiの服が海外へ流通することは本来ほとんどあり得なかった。
しかし、一つだけ例外があった。
海外へ赴任する日本大使館の外交官たちである。
彼らは帰国するたびに、東京や山番市のAoi本店へ立ち寄り、自らの衣服を新調していた。
さらに、特別に仕立てられた数着を外交用の贈答品として持ち帰ることもあった。
贈られる相手は各国の王侯貴族や有力貴族、大商人など、その国を代表する人物ばかりである。
最高級の毛皮。
一流の縫製技術。
そして、それまで世界のどこにも存在しなかった洗練された意匠。
Aoiの服は、受け取った者たちをことごとく魅了した。
「これほど軽く、美しい服が存在するのか。」
「着心地がまるで違う。」
「これこそ王侯が身にまとうにふさわしい衣だ。」
その評判は宮廷から宮廷へと広がり、やがてヨーロッパや新大陸の王家でも、Aoiの服は憧れの品となっていった。
やがて各国の王家や貴族たちは、日本大使館へ直接申し入れを行うようになる。
「ぜひAoiの服を譲っていただきたい。」
「どのような条件でも構わない。」
「正式に取引をお願いできないだろうか。」
しかし、日本政府の回答は一貫していた。
「日本は鎖国政策を採っており、商業取引は認められません。」
その原則が覆されることはなかった。
とはいえ、日本政府も外交上の価値を理解していなかったわけではない。
Aoiの服は、単なる高級衣料ではなく、日本の技術力と文化を象徴する外交資産となっていたのである。
そのため、ごく限られた場合に限り、「売買」ではなく国家間の対価交換という形で提供されることがあった。
交換条件は金銀財宝ではない。
日本が必要とする国家的利益であった。
ある国とは、古代遺跡の発掘・学術調査を自由に行う権利。
ある国とは、日本主導での地下資源の採掘ができる権利。
またある国とは、日本国の船舶に対して海峡の安全な自由航行を保証する協定。
さらに、学術資料の提供や測量・地図作成への協力なども交換条件として盛り込まれた。
各国の王侯貴族は、それほどまでにAoiの服を望んでいたのである。
こうしてAoiは、単なる一流ブランドではなく、日本の外交を支える「文化外交」の象徴としても世界にその名を知られる存在となっていった。




