254話 陽動は続く
スペイン軍、全戦線でパニックに陥る
陸・海・本土いずれも指揮不能へ
日本の開戦初週に実施された多重作戦は、スペイン軍の想定を完全に上回っていた。
敵は国境を突破してこない。
敵主力艦隊も姿を見せない。
しかし各地の軍港と補給拠点だけが、次々と炎に包まれていく。
スペイン軍の戦略中枢は、開戦からわずか数日で深刻な混乱へと陥った。
南米陸軍司令部
「なぜ攻めてこない?」
メキシコ北部。
乾いた風が吹くスペイン陸軍前線司令部では、将校たちが疲れ切った顔で地図を見つめていた。
本来であれば、開戦と同時に日本軍が国境を突破し、大軍で雪崩れ込んでくる。
誰もがそう考えていた。
そのためスペイン軍は、大量の兵士と砲兵を国境へ集中させ、要塞を築き、昼夜を問わず警戒を続けていた。
しかし、日本軍は来ない。
遠方から散発的な砲撃があるだけで、大規模な進軍は一切確認されなかった。
兵士たちは次第に不安を募らせていく。
昼間は照りつける太陽の下で身を潜め、夜になると、暗闇の向こうから時折聞こえてくる重低音に耳を澄ませる。
だが何も起きない。
何も見えない。
それが、かえって恐怖を増幅させていた。
司令官たちは地図を囲みながら声を荒らげた。
「おかしい! 日本軍は国境に大兵力を集結させていたはずだ!」
「なぜ動かん!? 陽動なのか!?」
「国境の砦は砲撃されている!」
「しかし歩兵が来ない!」
「攻められてもいないのに、何の情報も来ない!」
「まさか、別の場所にいるのか?」
誰も答えられなかった。
偵察隊を送り出しても、戻ってくる情報は曖昧なものばかりだった。
「日本軍の活動を確認。」
「ただし兵力不明。」
「砲声あり。」
「進軍の兆候なし。」
それだけだった。
前線の兵士たちの間では、奇妙な噂まで広まり始める。
「日本軍は地下を掘っているらしい。」
「夜だけ移動するらしい。」
「実はもう背後に回り込んでいる。」
誰も真実を知らない。
わからないからこそ、恐怖だけが膨れ上がっていった。
海軍司令部
「敵艦隊がいない、幽霊艦しか!」
スペイン海軍は、陸軍以上の混乱に陥っていた。
海図の上には何本もの航跡が描かれている。
しかし、そのどれもが奇妙だった。
日本の偵察艦が突然現れる。
遠距離から砲撃を加える。
そしてスペイン艦隊が追撃を開始すると、驚くべき速度で離脱してしまう。
それが何度も繰り返された。
艦隊司令官は机を叩いた。
「本隊はどこだ!」
参謀が叫ぶ。
「必ず近くにいます!」
「囮です!」
「主力艦隊が潜んでいるはずです!」
しかし、いくら探しても主力艦隊は見つからない。
海図の前で海軍参謀たちが怒号を飛ばした。
「おかしい!」
「日本の主力艦隊が見えない!」
「この速度と旋回性能、我々の艦では追いつけん!」
「各艦の砲門はどうした!」
「当たらないのか!」
「射程が違いすぎる!」
「我々の大砲では届かない!」
「どこに本隊がいるんだ!?」
怒声と罵声が飛び交う。
だが答えは誰にもわからない。
その間にも、日本の偵察艦は一定の距離を保ちながら砲撃を続けていた。
まるでこちらの動きを見透かしているかのようだった。
追えば逃げる。
止まれば現れる。
右へ向かえば左に現れ、左へ向かえば別方向から砲撃が飛んでくる。
いつしか兵士たちは、その船をこう呼び始めた。
「幽霊船」
姿は見える。
しかし捕まえられない。
近づくこともできない。
そして本当の敵は、どこにも見えない。
その間、日本の主力艦隊はレーダーによってスペイン艦隊の位置を完全に把握し、常に射程外から監視を続けていた。
スペイン艦隊が右へ動けば、それを見ながら別の海域へ。
左へ動けば、また別の目標へ。
静かに、そして確実に次の攻撃地点へ移動していた。
本土司令部
そして最も深刻な混乱は、マドリードにある中央司令部で起きていた。
次々と伝令が駆け込んでくる。
「カディス軍港より急報!」
「リスボン補給基地より救援要請!」
「カナリア諸島より被害報告!」
「セウタの倉庫群が炎上!」
机の上には報告書が山のように積み上がった。
しかし内容は、どれも断片的だった。
『敵艦数、不明。』
『攻撃方向、不明。』
『接近経路、不明。』
『現在位置、不明。』
評議会の一人が青ざめた。
「敵が見えない。」
誰も返事をしなかった。
別の将軍が言う。
「我々は、何と戦っているのだ?」
沈黙が落ちた。
国境には大軍を置いた。
艦隊も出した。
植民地にも独立指揮権を与えた。
できる限りの準備を整えた。
それなのに、日本軍はそのすべてを避けるように動いている。
正面に現れない。
しかし確実に打撃だけを与えてくる。
その戦い方は、スペイン軍がこれまで経験してきたどの戦争とも違っていた。
そして誰もまだ気付いていなかった。
日本軍の本命が、依然として一度も姿を現していないことに。




